毛沢東選集 第一巻

毛沢東

毛沢東選集 第一巻

外文出版社 北京(1968年初版を電子化)

本選集の出版について

本題集には、中国革命の各時糊における毛沢東同志の重要な著作がおさめられている。数年前、各地方ではいくつかのちがった版の『毛沢東選集』を出版したか、いずれも著者の検閲をうけていず、体裁もかなりまちまちで、字句にもあやまりがあり、さらに一部の重要な著作もおさめられていなかった。現在のこの選集は、中国共産党成立ののち経過したそれぞれの歴史的時期にしたがい、また、著作の年月順にしたがって編集されたものである。この選集には、各地方でこれまでに出版された選集にはふくまれていなかった重要著作をできるだけあつめた。この選集におさめた著作は、すべて著者の校閲をへており、そのうち、一部のところには著者が字句のうえで多少の修正をくわえ、また、いくつかの文章については内容上多少の補足と改正をくわえている。

つぎに、出版実務上のいくつかの点についてのべる。

第一に、こんど出版されるこの選集は、まだ完全なものとはいえない。国民党反動派が革命文献をいん滅したために、また長いあいだの戦争のなかで革命文献が散逸したために、毛沢東同志の全著作、とくに毛沢東同志が書いた多くの書簡や電報(これらは毛沢東同志の著作のなかで大きな部分をしめている)は、いまでもまださがしだせないでいる。

第二に、これまでずいぶん読まれた一部の著作、たとえば『農村調査』は、著者の意見にしたがって、ここにはおさめていないし、また、『経済問題と財政問題』も、著者の意見にしたがって、そのなかの第一章(すなわち「過去の活動についての基本的総括」)をおさめただけである。

第三に、この選集には多少の注釈をくわえた。その一部分は解題的なもので、本文の標題のあとにおいた。他の部分は、政治的性質のものと技術的性質のもので、これは本文の末尾においた。

第四に、この選集には二種類の装丁本がある。その一つは、各時期の著作を合冊にした一巻本であり、他は四巻本である。四巻本の第一巻には第一次国内革命戦争の時期と第二次国内革命戦争の時期の著作がおさめられ、第二巻と第三巻には抗日戦争の時期の著作がおさめられ、第四巻には第三次国内革命戦争の時期の著作がおさめちれている。

中国共産党中央委員会毛沢東選集出版委員会

一九五一年八月二十五日

電子版凡例(原版の凡例相当部分を適宜変更)

一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。一 傍点のある部分は” #“と”# “で囲み、電子版では太字の部分は” ##“と”## “で囲んだ。一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。

中国社会各階級の分析

(一九二六年三月)

毛沢東同志のこの論文は、当時、党内にあった三つの偏向に反対するために書かれたものである。当時、党内にあった第一の偏向は、陳独秀に代表されるもので、国民党との協力にだけ目をむけ、農民のことを忘れていた。これは右翼日和見主義である。第二の偏向は、張国燾に代表されるもので、労働運動にだけ目をむけ、やはり農民のことを忘れていた。これは「左」翼日和見主義である。この二つの日和見主義は、どちらも自分の力の不足を感じていながら、どこにその力をさがし求めるのか、どこで広範な同盟軍をかちとるのかがわかっていなかった。毛沢東同志は、中国のプロレタリア階級のもっとも広範な、もっとも忠実な同盟軍は農民であると指摘し、それによって、中国革命におけるもっとも主要な同盟軍の問題を解決した。毛沢東同志は、また、当時の民族ブルジョア階級が動揺する階級であること、革命の高揚期にはかれらが分化し、その右翼は帝国主義の側にはしるであろうことを予見した。一九二七年におこった事変は、このことを立証している。

だれがわれわれの敵か。だれがわれわれの友か。この問題は革命のいちばん重要な問題である。中国のこれまでの革命闘争はすべて成果が非常にすくなかったが、その根本原因は、真の友と団結して真の敵を攻撃することができなかったことにある。革命の党は大衆の道案内であり、革命のなかで革命の党が道案内をあやまったばあい革命が失敗しなかったためしはない。われわれの革命が道案内をあやまらず、きっと成功するという確信をもつためには、われわれの真の友と団結して真の敵を攻撃することに心をそそがなければならない。真の敵と真の友を見わけるためには、中国社会各階級の経済的地位とその革命にたいする態度について、おおよその分析をしなければならない。

中国社会の各階級はどのような状態にあるだろうか。

地主階級と買弁階級①。経済的におくれている半植民地の中国では、地主階級と買弁階級は完全に国際ブルジョア階級の従属物であり、その生存と発展は帝国主義に依存している。これらの階級は、中国のもっともおくれた、もっとも反動的な生産関係を代表しており、中国の生産力の発展をさまたげている。かれらは中国革命の目的とはまったくあいいれない。とりわけ、大地主階級と大買弁階級は、一貫して帝国主義の側にたっており、極端な反革命派である。その政治的代表は国家主義派〔1〕と国民党右派である。

中産階級。この階級は、中国の都市と農村における資本主義的生産関係を代表している。中産階級とは主として民族ブルジョア階級②のことであり、かれらは中国革命にたいして矛盾した態度をとっている。つまり、外国資本の打撃と軍閥の圧迫をうけて苦痛を感じるときには、革命を必要とし、帝国主義反対、軍閥反対の革命運動に賛成する。ところが、その革命に、国内では自国のプロレタリア階級がはげしい勢いで参加し、国外では国際プロレタリア階級が積極的な援助をあたえて、そのため、大ブルジョア階級の地位にのしあがろうとするかれらの階級的な発展が脅威を感じるようになると、こんどは革命に疑いをもつのである。かれらの政治的主張は、民族ブルジョア階級一階級の支配する国家を実現することである。戴季陶タイチータオ〔2〕の「真の信奉者」と自称するある男が、北京ペイチンの『晨報』〔3〕紙上で、「左手をふりあげて帝国主義をうちたおし、右手をふりあげて共産党をうちたおせ」ととなえている。このことばは、この階級の矛盾と狼狽ろうばいぶりをうきぼりにしたものである。かれらは、国民党の民生主義③を階級闘争の学説で解釈することに反対し、国民党がソ連と連合し共産党や左派の人びとをうけいれる〔4〕ことに反対している。しかし、この階級のくわだて――民族ブルジョア階級の支配する国家を実現することは、まったく不可能である。なぜなら、現在の世界は革命と反革命の二大勢力が最後の闘争をおこなっている局面にあるからである。この二大勢力は二つの大きな旗をかかげている。一つは革命の赤い大きな顔であり、第三インターナショナルがそれを高くかかげて、全世界のあらゆる被抑圧階級に、その旗のもとに集まるよう呼びかけている。もう一つは反革命の白い大きな旗であり、国際連盟がそれを高くかかげて、全世界のあらゆる反革命分子に、その旗のもとに集まるよう呼びかけている。中間的な諸階級は、かならず急速に分化して、あるいは左へはしって革命派につき、あるいは右へはしって反革命派につくのであり、かれらには「独立」の余地はない。したがって、中国の中産階級が自分の階級を主体として、「独立」して革命をやるという思想は、たんなる幻想にすぎない。

小ブルジョア階級。たとえば自作農〔5〕、手工業主、下層の知識層(学生、小中学校教員、下級官公吏、下級事務員、下層の弁護士)、小商人などはみなこの部類にふくまれる。この階級は、数のうえでも、階級性のうえでも、大いに注目する必要がある。自作農と手工業主がいとなんでいるのはいずれも小生産的経済である。この小ブルジョア階級のなかのそれぞれの階層は、ともに小ブルジョア階級の経済的地位におかれてはいるが、三つのちがった部分にわかれている。第一の部分は、金にも食糧にも余裕があるもの、つまり、その肉体労働または頭脳労働による収入で自分の生活をまかなえるだけでなく、毎年、余剰が出るものである。こういう人びとは、金もうけの考えが非常につよく、趙公さま〔6〕をたいへん熱心におがみ、大もうけをしようとまでは妄想しなくても、なんとかして中産階級の地位にのしあがろうとする。かれらは羽振りのよい小金持ちをみると、いつもよだれが出るほどうらやましくてたまらない。こういう人びとは、きもっ玉が小さくて、役人をおそれ、革命をもいくらかおそれる。かれらは経済的地位がかなり中産階級に近いので、中産階級の宣伝をかなり信じており、革命にたいして懐疑的な態度をとる。この部分の人びとは、小ブルジョア階級のなかでは少数であり、小ブルジョア階級の右翼である。第二の部分は、経済的にはだいたい自分の生活をまかなえる人びとである。この部分の人びとは、第一の部分の人びととは大いにちがう。かれらも金もうけはしたいが、趙公さまがどうしてももうけさせてくれない。そればかりか、近年らい、帝国主義、軍閥、封建地主、買弁大ブルジョア階級の抑圧と搾取によって、かれらはいまの世の中がもはや昔の世の中ではないと感じている。そして、いまでは、これまでどおりに働いていただけでは、生活が維持できなくなると感じている。生活を維持するためには、働く時間をのばして、まいにちはやくおき、おそくまで働き、仕事にいっそう心をそそがなければならない。かれらも、いくらか人をののしるようになり、外国人を「洋鬼ヤンクイ」とののしり、軍閥を「強盗司令官」とののしり、土豪劣紳④を「血も涙もない業突張りしとののしる。帝国主義反対、軍閥反対の運動にたいしては、ただ成功するとはかぎらないという疑いから(外国人や軍閥の勢力がとても大きいという理由で)、おいそれとは参加せず、中立的な態度をとる。だが、けっして革命に反対はしない。この部分の人びとは数が非常に多く、だいたい、小ブルジョア階級の半数をしめる。第三の部分は、暮らしが落ちめになっていく人びとである。この部分の人びとの多くは、だいたいにおいて、もとはいわゆる裕福な家であったが、だんだんもちこたえるのがやっとになり、しだいに暮らしが落ちめになってきた。かれらは年の暮れの決算ごとに、「ああ、また赤字だ」とおどろく。こうした人びとは、以前はよい暮らしをしていたのが、その後、年ごとに落ちめになり、借金がしだいにかさみ、だんだんみじめな暮らしになってくるので、「行く末を考えると、ぞっとする」のである。こうした人びとが精神的に感ずる苦痛は大きい。というのは、昔といまの相反した対比があるからである。こうした人びとは革命運動のなかではかなり重要であって、数もすくなくない大衆であり、小ブルジョア階級の左翼である。以上にのべた小ブルジョア階級の三つの部分は、その革命にたいする態度が、平時にはそれぞれちがう。だが、戦時になると、つまり、革命の波が高まって勝利のきざしがみえてくると、小ブルジョア階級の左派が革命に参加するばかりでなく、中間派も革命に参加するだろうし、右派の人びとまでがプロレタリア階級と小ブルジョア階級左派の革命の大波にまきこまれて、革命についていくほかなくなる。一九二五年の五・三〇運動〔7〕や各地の農民運動の経験からみて、この断定はまちがっていない。

半プロレタリア階級。ここでいう半プロレタリア階級には、(一)半自作農の圧倒的多数〔8〕、(ニ)貧農、(三)小手工業者、(四)店員〔9〕、(五)行商人の五種類がふくまれる。半自作農の圧倒的多数と貧農は、農村できわめて数の多い大衆である。農民問題とは、主としてかれらの問題である。半自作農、貧農および小手工業者がいとなんでいるのは、いずれもいっそう零細な小生産的経済である。半自作農の圧倒的多数と貧農は、ともに、半プロレタリア階級にふくまれるが、その経済状態はやはり上、中、下の三つに細分される。半自作農は、その生活が自作農よりも苦しい。毎年、食糧のほぼ半分がたりなくなるので、それをおぎなうために、人の土地を小作するか、労働力の一部を売るか、小商売をやるかしなければならない。春から夏にかけての端境はざかい期には、高い利息で人から金を借りたり、高い値段で人から食糧を買ったりするため、人にたよらなくてすむ自作農にくらべて、境遇はもちろん苦しいにはちがいないが、貧農よりはましである。なぜなら、貧農は土地をもたないので、毎年耕作しても、収穫の半分か、それ以下しか自分のものにならないが、半自作農なら、人から借りている土地では収穫の半分か、それ以下しか自分のものにならなくても、自分の所有する土地では、全部を自分のものにすることができるからである。したがって、半自作農の革命性は自作農にまさっているが、貧農にはおよばない。貧農は農村の小作農であり、地主の搾取をうけている。その経済的地位は、さらに二つの部分にわかれる。一つの部分の貧農は、わりあい十分な農具といくらかの資金をもっている。こうした農民は、毎年の労働の結果として、収穫の半分を自分のものにすることができる。たりない部分は、雑穀を植え、魚やえびをとり、鶏や豚を飼い、あるいは労働力の一部を売って、なんとか生活を維持していき、苦労と貧乏のなかでも、どうにか年だけは越していこうとおもっている。したがって、その生活は半自作農よりも苦しいが、もう一つの部分の貧農よりはましである。その革命性は半自作農にまさっているが、もう一つの部分の貧農にはおよばない。もう一つの部分の貧農は、十分な農具もなければ、資金もなく、肥料もたりず、土地の収穫もすくなくて、小作料をおさめてしまえば、いくらも残らないから労働力の一部を売ることがいっそう必要である。凶作にみまわれたときには、親戚や友人に泣きついて助けをもとめ、同斗何升⑤かの穀物を借りて、やっと三日、四日と食いつなぐが、借金がかさんで、重荷を負った牛のようにあえいでいる。かれらは農民のなかではもっとも苦しんでおり、革命の宣伝をもっともよくうけいれる。小手工業者が半プロレタリア階級とよばれるのは、自分が簡単な生産手段をもっていて、しかも自由職業ではあるが、かれらもつねに労働力の一部を売ることを余儀なくされており、その経済的地位がほぼ農村の貧農にあたるからである。家庭の負担が重くて、収入と生活費がつりあわないため、しばしば貧困の圧迫と失業の脅威にさらされており、その点でもだいたい貧農とおなじである。店員は商店のやとい人で、わずかな給料を家庭の費用にあてているが、物価は年々あがるのに、とかく給料は数年に一回しかあがらない。たまたま、こうした人たちとうちとけて話しあってみると、しきりにその苦しさを訴える。その地位は貧農や小手工業者と似たりよったりで、革命の宣伝をもっともよくうけいれる。行商人は、かつぎ売りにしても、露天あきないにしても、ともかく、元手がすくなく、もうけもわずかで、衣食にこと欠いている。その地位は貧農と似たりよったりで、現状をあらためる革命を必要としている点でも貧農とおなじである。

プロレタリア階級。近代工業プロレタリア階級はほぼ二百万人である。中国は経済的におくれているので、近代工業プロレタリア階級の数は多くない。二百万前後の産業労働者のうち、おもなものは鉄道、鉱山、海運、紡績、造船の五つの産業の労働者であり、そのうち非常に多くのものが外国資本の産業で奴隷のようにつかわれている。工業プロレタリア階級は、数こそ多くないが、中国の新しい生産力の代表者であり、近代中国のもっとも進歩的な階級であって、革命運動の指導勢力となっている。ここ四年らいのストライキ運動、たとえば海員スト〔10〕、鉄道スト〔11〕、開[シ+欒]カイロワン炭鉱のストと焦作チァオツォ炭鉱のスト〔12〕、沙面シャーミェンのスト〔13〕ならびに「五・三〇」以後の上海シャンハイ、香港シャンカン両地の大ストライキ〔14〕がしめした力をみれば、工業プロレタリア階級が中国革命でしめている地位の重要性がわかる。かれらがそうなりうる第一の原因は、集中していることである。他のどの部分の人びともかれらのようには集中していない。第二の原因は、経済的地位の低いことである。かれらは生産手段をうしない、二本の手が残るだけで、金もうけの望みをたたれ、そのうえ帝国主義、軍閥、ブルジョア階級からきわめて残酷なあつかいをうけているので、とくに戦闘的である。都市の苦力クーリー労働者の力も大いに注目すべきである。波戸場の荷役人夫と人力車夫がその多数をしめ、汲みとり人夫、道路掃除夫などもこの部類にふくまれる。かれらは二本の手のほかには、なに一つもたず、その経済的地位は産業労働者に似ているが、ただ産業労働者ほどの集中性も、生産上の重要性もない。中国には、新しい資本主義的農業はまだすくない。農村プロレタリア階級とは、年ぎめ、月ぎめ、日やといなどの雇農をさす。これらの雇農は、土地も農具もないばかりか、びた一文の資金さえなく、ただ労働力を売ってその日その日を送るほかはない。労働時間の長いこと、貸金のすくないこと、待遇のわるいこと、職業の不安定なことでは、他の労働者よりもひどい。こうした人びとは農村でもっとも困難を感じており、農民運動では貧農とおなじように重要な地位にある。

このほかにもなお、数のすくなくないルンペン・プロレタリアがいる。土地をうしなった農民や仕事にありつけない手工業労働者がそれである。かれらは、世の中でいちばん不安定な生活をしている。かれらは各地に秘密組織をもっており、たとえば、福建フーチェン、広東コワントン両省の「三合会」、湖南フーナン、湖北フーペイ、貴州コイチョウ、四川スーチョワンの諸省の「哥老コーラオ会」、安徽アンホイ、河南ホーナン、山東シャントンなどの諸省の「大刀会」、直隷チーリー省⑥および東北三省の「在理会」、上海などの「青幇チンパン〔15〕は、みなかれらの政治的経済的闘争の相互援助団体であった。これらの人びとをどうあつかうかは、中国のむずかしい問題の一つである。これらの人びとは非常に勇敢にたたかえるが、破壊性をもっている。うまくみちびけば、革命の力になりうる。

以上にのべたことをまとめてみると、つぎのことがわかる。帝国主義と結託したすべての軍閥、官僚、買弁階級、大地主階級およびかれらに従属する反動的な一部の知識人は、われわれの敵である。工業プロレタリア階級はわれわれの革命の指導勢力である。すべての半プロレタリア階級、小ブルジョア階級は、われわれにもっとも近い友である。たえず動揺している中産階級は、その右翼がわれわれの敵になりうるだろうし、その左翼がわれわれの友になりうるだろう。だが、われわれは、かれらにわれわれの陣営をかきみださせないよう、つねに警戒する必要がある。

注

〔1〕  国家主義派とは、当時「中国国家主義青年団」を組織し、のちに「中国青年党」と名をあらためた、ひとにぎりのファッショ的な恥しらずな政客をさす。かれらは、政権の座にあるいろいろな反動派および帝国主義から手当をうけて、反ソ、反共をおこなうことを反革命的な職業としていた。

〔2〕 戴季陶は、若いころから国民党に参加し、蒋介石といっしょに証券取引所の投機商売を経営したことがある。一九二五年、孫中山が逝去したのち、反共の扇動活動に従事し、蒋介石が一九二七年に反革命クーデターをおこすための精神的準備をした。かれは長いあいだ蒋介石の反革命の忠実な手先をつとめた。一九四九年三月、かれは蒋介石の支配が崩壊にひんし、前途がもはや絶望となったのをみて自殺した。

〔3〕 北京『晨報』は、当時政治的に北洋軍閥の支配を支持していた政治団体の一つ――研究系の機関紙であった。

〔4〕 一九二三年、孫中山は、中国共産党の援助のもとに、国民党を改組し、国共合作をおこない、共産党員の国民党への参加をうけいれることをきめた。また、一九二四年一月、広州で国民党第一回全国代表大会をひらき、連ソ、連共、農労援助という三大政策を確立した。当時、毛沢東同志は李大釗、林伯渠、瞿秋白らの諸同志とともにこの大会に参加し、国民党を革命の道へすすませるよう援助するうえで重要な役割をはたした。これらの同志は、それぞれ当時の国民党中央執行委員会の委員または委員候補にえらばれた。

〔5〕 毛沢東同志は、ここでは中農をさしている。

〔6〕 趙公さまは、中国の民間に語りつたえられている金もうけの神さまで、名は趙公明という。

〔7〕 一九二五年五月三十日、上海のイギリス警官の中国人民殺害事件に全国人民が抗議した反帝国主義運動をさす。一九二五年五月、青島、上海などの日本の紡績工場で、あいついで大規模なストライキ闘争がおこったが、日本帝国主義とその手先北洋軍閥の弾圧にあった。五月十五日、上海の日本の紡績工場の資本家は労働者顧正紅を射殺し、労働者十余人を傷つけた。二十八日、青島の労働者八人が反動政府に殺害された。三十日、上海の学生二千余人が租界内で労働者声援を宣伝し、租界の接収をよびかけ、ついで大衆一万余人を集めて、イギリス租界警察署の門前で「帝国主義を打倒せよ」、「全中国人民は団結せよ」などのスローガンを叫んだ。イギリス帝国主義の警官は、ただちに発砲、虐殺の挙に出、多くの学生を殺傷した。これが有名な「五・三〇虐殺事件」である。この大虐殺事件は、ただちに全国人民の憤激をまきおこし、いたるところでデモ行進やストライキ、授業スト、開店ストがわこなわれ、きわめて大規模な反帝国主義運動となった。

〔8〕 毛沢東同志は、ここでは半自作、半小作の貧しい農民をさしている。

〔9〕 中国の店員にはいろいろな層があった。毛沢東同志がここでさしているのは、店員のうち比較的多数をしめる人びとのことで、このほかに、一部の下層店員はプロレタリア階級の生活をしていた。

〔10〕 一九二二年はじめの香港の海員ストと長江の船員ストをさす。香港の海員は、八週間にわたってストライキを堅持し、はげしい流血の闘争をへて、最後に、香港のイギリス帝国主義当局に、賃金の増額、もとの労働組合の復活、逮捕された労働者の釈放、殺害された労働者の慰謝を承諾させた。つづいて長江船員労働者もストライキにはいり、二週間堅持して、これも勝利をおさめた。

〔11〕 中国共産党は、一九二一年に創立されると、すぐ鉄道労働者のあいだで組織活動をおこなった。一九二二年と一九二三年には、各主要鉄道で、共産党の指導のもとにストライキ闘争がおこなわれた。もっとも有名なのは、一九二三年二月四日、京漢鉄道(すなわち北京から漢□までの鉄道)の労働者が総工会を組織する自由をかちとるためおこなったゼネストである。イギリス帝国主義に支持された北洋軍閥の呉佩孚、蕭輝南は、二月七日、ストライキ労働者にたいして残酷な虐殺をおこなった。これが歴史上有名な「二・七虐殺事件」である。

〔12〕 開[シ+欒]炭鉱は開平・[シ+欒]洲両炭鉱区の総称で、中国の河北省にある。互いにつらなっている大炭鉱区で、五万余人の炭鉱労働者がいた。一九〇〇年の義和団運動のとき、イギリス帝国主義が開平炭鉱を略奪したので、中国人は別に[シ+欒]州炭鉱公司を設立した。だが、のちにこれも開[シ+欒]鉱務総局に合併され、両鉱区はついにイギリス帝国主義に独占されてしまった。開[シ+欒]ストとは一九二二年十月のストライキをさす。焦作炭鉱は、河南省の北部にある中国の有名な炭鉱区である。焦作ストは、一九二五年七月一日から八月九日までのストライキをさす。

〔13〕 沙面は当時広州にあったイギリス帝国主義の租界である。一九二四年七月、沙面を支配していたイギリス帝国主義者は沙面の中国人が租界に出入するには本人の写真をはった通行証を携帯しなければならないこと、ただし、外国人の出入は自由であることを規定した新しい警察官職務執行規則を公布した。沙面の労働者はこの不法な措置に抗議して、七月十五日にストライキを宣言した。その結果、イギリス帝国主義者はこの新しい警察官職務執行規則の廃止をよぎなくされた。

〔14〕 一九二五年五月三十日の上海事件ののち、六月一日に上海のゼネストがはじまり、六月十九日に香港のゼネストがはじまった。ストライキに参加した労働者は、前者が二十余万、後者が二十五万であった。香港の大ストライキは全国人民の支援のもとに、一年四ヵ月も堅持され、世界の労働運動史上もっとも長いストライキとなった。

〔15〕 三合会、哥老会、大刀会、在理会、青幇は、民間にあった原始的な形の秘密結社で、その参加者はおもに破産した農民、失業した手工業者およびルンペン・プロレタリアであった。中国の封建時代には、これらの人びとは、たいてい宗教、迷信をその結束の道具とし、家父長制の組織形態をとって、さまざまの名目の結社をつくり、なかには武装組織をもっているものもあった。 かれらは、このような組織によって社会生活のなかで相互援助をはかり、また、ある時期には闘争をおこしてかれらを抑圧する官僚や地主に反抗したこともあった。だが、農民や手工業者がこのようなおくれた組織から活路をみいだせないことはきわめてあきらかであった。このようなおくれた組織は、また、とかく地主や顔役にあやつられ、利用されやすく、そのうえ、盲目的な破壊性をおびていたので、なかには反動勢力に変わってしまったものもある。一九二七年、蒋介石が反革命クーテターをおこした時には、かれはこうしたれくれた組織を勤労人民の団結を破壊し、革命を破壊する道具として利用した。近代工業プロレタリア階級の力が大きくもり上がってからは、農民は労働者階級の指導をうけて、まったく新しい組織をしだいにうちたてていったので、このような原始的なおくれた組織はその存在価値をうしなってしまった。

訳注

① ふるい中国では、外国の資本家は、一部の中国人をやとって、経済侵略をやるための代理人にしていた。これらの代理人は「買弁」とよばれていた。買弁階級は、直接帝国主義に奉仕し、それに養われているブルジョア階級であり、かれらは、封建勢力とありとあらゆる線でつながりをもっていた。

② 民族ブルジョア階級は、主として中層ブルジョア階級のことをいう。かれらは、帝国主義とつながりをもっていないか、あるいは、つながりのわりあいすくない一部のブルジョア階級のことで、帝国主義につよく依存していた一部の買弁的なブルジョア階級と区別される。この階級は二面性をもっていて、一方では革命に参加する可能性があるが、また一方では革命の敵にたいして妥協性をもっている。

③ 民生主義は、孫中山(名は文、字あざなは逸仙)が中国ブルジョア民主主義革命の時期に提起した三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)の構成部分の一つである。一九二四年、孫中山は中国共産党の提案をうけいれて、三民主義についてあらたな解釈をくだし、民生主義で提起した「地権の平均、資本の節制」というスローガンをつぎのように解釈した。つまり、私的資本が国家の経済と人民の生活を左右することに反対し、少数の人が土地を独占することに反対し、耕すものがその土地をもつことを主張することである。これちの主張は、依然としてブルジョア民主主義革命のわく内にぞくするものである。蒋介石が革命を裏切ったのち、これらの主張は国民党によって完全に放棄されてしまった。

④ 土豪劣紳は、地方での地主階級の政治的代表者で(富農のなかにも、しばしば比較的小さい土豪がいる)、権力機構をあやつり、裁判権を一手ににぎり、腐敗しきって、汚職や悪事のかぎりをつくし、人民をしいたげていた。

⑤ 中国の一升は、日本の約五合(〇・五五三升)に相当し、中国の一斗は日本の約五升にあたる。十升が一斗で、十斗が一石である。

⑥ 直隷省は、清朝と中華民国初年の一つの省名で、一九二八年に河北省と改称された。

湖南省農民運動の視察報告

(一九二七年三月)

毛沢東同志のこの論文は、当時、党内外にあった農民の革命闘争にたいする非難にこたえるために書かれたものである。これらの非難にこたえるために、毛沢東同志は湖南省にいって、三十二日間の視察活動をおこない、この報告を書いた。当時、党内では陳独秀をはじめとする右翼日和見主義者が、毛沢東同志の意見をうけいれようとせず、自分たちのあやまった見解を固持していた。かれらのあやまりは、主として国民党の反動的潮流にきもをつぶし、すでにおこり、またおこりつつあった偉大な農民の革命闘争を支持しようとしなかったことにある。国民党に迎合するために、かれらは、農民というもっとも主要な同盟軍をすてまでして、労働者階級および共産党を孤立無援の状態におとしいれた。一九二七年の夏、国民党が革命を裏切り、「清党運動」や反人民的な戦争をひきおこすことまでしたのは、主として、共産党のこの弱点に乗じたからである。

農民問題の重大性

わたしは、こんど湖南フーナン省〔1〕にいって、湘潭シァンタン、湘郷シァンシァン、衡山ホンシャン、醴陵リーリン、長沙チャンシャーの五県の状況を実地に視察した。一月四日から二月五日までの三十二日間に、農村でも県都でも、経験のある農民や農民運動にたずさわっている同志をあつめて調査会をひらき、かれらからくわしく報告をきいて、資料をたくさんあつめた。農民運動についての多くのいい分は、漢□ハンコウや長沙で顔役衆の層からきいたいい分と、まったく逆なものであった。これまでに見たことも聞いたこともないようなめずらしいことがたくさんあった。こうした事情は多くの地方でも見られるとおもう。農民運動に反対するさまざまな論議は、みなすみやかにただされなければならない。農民運動にたいする革命当局のさまざまなあやまった措置は、すみやかにあらためなければならない。こうしてこそ革命の将来に役立つのである。というのは、当面の農民運動のもりあがりは、きわめて大きな問題だからである。ごく短期間に、何億という農民が中国の中部、南部および北部の各省から立ちあがろうとしており、その勢いはあらしのようにはやくて、猛烈で、どんな大きな力も、それをおさえつけることはできないであろう。かれらは、自分たちをがんじがらめにしているすべての網をつきやぶり、解放への道をまっしぐらにつきすすむであろう。すべての帝国主義、軍閥、汚職官吏、土豪劣紳どもは、みなかれらによって墓場にほうむりさられるであろう。すべての革命的な政党、革命的な同志は、みなかれらの前で、その審査をうけ、取捨がきめられるであろう。かれらの先頭に立ってかれらを指導するか。それとも、かれらのうしろに立ってかれらをあれこれと批判するか。それとも、かれらの向かい側に立ってかれらに反対するか。すべての中国人には、この三つの点について選択の自由はあるが、ただ、情勢はすみやかな選択をせまるであろう。

組織せよ

湖南省の農民運動は、運動がすすんでいる湖南省中部と南部の各県についていうと、だいたい二つの時期にわけられる。昨年一月から九月までが第一の時期、すなわち組織化の時期であった。この時期のうち、一月から六月までは秘密活動の時期であり、七月から九月までは革命軍が趙恒[小+易]チャオホンティー〔2〕を追いはらい、公然と活動した時期であった。この時期には、農会①の会員数は、総計三、四十万にすぎず、直接指導できる大衆も百万人あまりしかなく、農村にはまだなんの闘争もおきていなかったため、各界からは農会にたいしてこれといった批判もおきなかった。農会の会員は、道案内をしたり、偵察をしたり、運搬人夫になったりするので、北伐軍②の将校のなかには、まだこれをほめたりするものもいた。十月からことしの一月までが第二の時期、すなわち革命の時期である。農会の会員は二百万に激増し、直接指導できる大衆は一千万人に増加した。農民が農会にはいるばあい、大部分は、一家で一人の名まえしか書かないので、会員が二百万なら、大衆はだいたい一千万人いることになる。湖南省の全農民のうち、ほとんど半分が組織された。たとえば、湘潭、湘郷、瀏陽リウヤン、長沙、醴陵、寧郷ニンシァン、平江ピンチァン、湘陰シァンイン、衡山、衡陽ホンヤン、耒陽レイヤン、[林+おおざと]チェン県、安化アンホワなどの各県では、ほとんど全部の農民が農会の組織に結集しており、農会の指導のもとにある。農民は、広大な組織をもっと、ただちに行動をはじめた。そこで、四ヵ月のあいだに、かつて見たこともないような農村の大革命がまきおこされたのである。

土豪劣紳を打倒し、すべての権力を農会へ

農民の主要な攻撃目標は、土豪劣紳と不法地主であるが、さらにさまざまな同族支配体系の思想と制度③、都市の汚職官吏、農村の悪い習慣にまでおよんでいる。その攻撃の勢いは、まったくあらしのようで、したがうものは生き、さからうものは滅びるというふうだ。その結果、封建地主の何千年来の特権は、こっぱみじんに打ちくだかれた。地主の体面と威光は、すっかり地をはらった。地主の権力がたおれると、農会は唯一の権力機関となり、「すべての権力を農会へ」ということがほんとうに実現した。夫婦げんかのようなささいなことまで、農民協会にもちこんで解決してもらう。どんなことも、農会の人が立ちあわなければ解決できない。農会は、農村でまったくすべてを独裁し、ほんとうに「なんでも言い、なんでもやりとげた」のであった。外部の人は、農会をほめることはできても、悪口はいえなかった。土豪劣紳や不法地主は、まったく発言権をうばわれ、だれひとりとして不服のフの字もいえない。農会の威力におされて、土豪劣紳どもの一流どころは上海シャンハイに逃げ、三流どころは漢□に逃げ、三流どころは長沙に逃げ、四流どころは県都に逃げ、五流以下の小物は郷④で農会に降参した。

「十元⑤だすから、どうかみなさん、わたしを農民協会にいれてください」と小劣紳はいう。

「ふん! そんなけがらわしい銭などいるもんか!」農民はこう答える。

多くの中小地主や富農、それに中農まで、以前には農会に反対していたものが、いまでは農会にはいりたくてもはいれないでいる。わたしは、いくさきざきで、よくこのような人に出会って、「省からおいでの委員さま、どうか保証人になってください」と、泣きつかれた。

清朝時代には、地方の役所が戸籍簿をつくるのに、正冊と別冊の二種類にわけ、良民は正冊に書きこみ、盗賊などの悪人は別冊に書きこんだ。いま、農民がこれにならって、「あいつらを別冊に書きこめ!」と、これまで農会に反対していた人たちをおどしつけているところもある。

別冊に書きこまれるのをこわがる人たちは、自分たちの名まえを農会の名簿にのせてもらって安心したいばかりに、なんとかして農会にはいろうとしている。ところが、かれらは、農会から手きびしくことわられることがよくあるので、いつもびくびくしながら日をすごしている。農会からしめだされ、まるで宿なしといった格好だが、田舎のことばではこれを「打零ターリン」という。要するに、四ヵ月まえまでは、一般の人からみくびられていた「農民会」なるものが、いまでは、もっとも羽振りのよいものに変わったのである。まえには顔役衆の権力のもとにひれふしていたものが、いまでは農民の権力のもとにひれふしている。どんな人でも、昨年十月以前と十月以後とがまったくちがった世の中であることをみとめている。

「むちゃくちゃだ」と「すばらしい」

農民が農村でむほんをおこして、顔役衆の甘い夢をうちやぶった。農村のできごとが町につたわると、町の顔役衆は、たちまち大さわぎをはじめた。わたしは、長沙についたばかりのとき、各方面の人に会い、いろいろな取りざたをきいた。中流社会以上の人から国民党右派までのものは、だれもかも、「むちゃくちゃだ」という一言できめつけていた。たとえ非常に革命的な人でも、「むちゃくちゃだ」という連中のてんやわんやの論議に圧倒され、目をとじて農村のありさまを思いうかべろと、つい弱気になって、この「むちゃ」ということばを否定できないでいた。非常に進歩的な人でも、「これは革命の過程にはとうぜんあることだ、むちゃにはむちゃだが」というだけであった。要するに、だれも、この「むちゃ」ということばを完全には否定できなかったのである。だが、実際はどうだろうか。まえにものべたように、これは、広範な農民大衆がかれらの歴史的使命の達成に立ちあがったのであり、農村の民主勢力が農村の封建勢力の打倒に立ちあがったのである。同族支配体系の封建的な土豪劣紳と不法地主階級は、何千年来の専制政治の基礎であり、帝国主義、軍閥、汚職官吏の足場である。この封建勢力をくつがえすことこそ、国民革命の真の目標である。孫中山スンチョンシャン先生が、四十年も国民革命に力をつくして、やろうとしてやれなかったことを、農民は数ヵ月のうちにやりとげた。これは四十年はおろか、何千年ものあいだ、かつてなしとげることのできなかった大きな功績である。これはすばらしいことだ。「むちゃ」なことは少しもなく、「むちゃくちゃだ」などとはとんでもない。「むちゃくちゃだ」、これは、あきらかに、地主の利益の側に立って農民の立ちあがりに打撃をくわえる理論であり、あきらかに、封建的なふるい秩序を維持し、民主的な新しい秩序の確立を妨害しようとする地主階級の理論であり、あきらかに、反革命的な理論である。革命的な同志なら、だれひとりこんなでたらめを口まねすべきではない。もし、革命的観点がしっかりしており、しかも一度でも農村にいって見てきた人であるならば、きっとこれまでになかった痛快さを感ずるにちがいない。そこでは、何万何十万の数かぎりない奴隷の群れ――農民が自分たちの生き血をすする敵をうちたおしつつある。農民のやっていることは完全に正しく、かれらのやっていることはまったくすばらしい! 「すばらしい」、これは、農民やその他の革命派の理論である。革命の同志はすべて、国民革命には農村の大きな変動が必要であることを知らなければならない。辛亥シンハイ革命〔3〕は、こうした変動がなかったから失敗したのである。いまこうした変動があることは、革命の達成にとっての重要な要素である。革命の同志はすべて、この変動を支持しなければならない。さもなければ、反革命の立場に立つことになる。

いわゆる「ゆきすぎ」の問題

このほかに、「農会はつくるべきだが、いまの農会のやっていることは、あまりにもゆきすぎのようだ」という人もいる。これは中間派の論議である。実際はどうか。たしかに、農民は農村でいささか「はめをはずし」ているところがある。農会の権力は至上のもので、地主にはくちばしをいれさせず、地主の威光を一掃してしまった。このことは、地主を地べたにたたきつけて、そのうえ足でふみつけたようなものだ。「おまえを別冊に書きこむぞ!」といっては、土豪劣紳に罰金や寄付金をださせ、その駕籠かごをおそう。農会に反対した土豪劣紳の家には、おおぜいのものがおしかけ、豚をつぶさせ、米をださせる。土豪劣紳のお嬢さんや若奥さまの豪華な寝台にさえ、土足のまま上がって、寝ころがってみることもできる。なにかというと土豪劣紳をつかまえてきて、三角帽子をかぶせて村をひきまわし、「劣紳め! きょうこそ思い知ったか!」といって、したいほうだいのことをやり、なにもかも常軌をはずし、農村に一種の恐怖現象さえつくりだしている。これが一部の人たちのいう「ゆきすぎ」であり、「あやまりをただすのに、度をこした」ことであり、「まったくなっていない」ことである。この連中のいいぐさにも一理あるようだが、じつは、やはりまちがっている。第一に、さきにのべたようなことは、いずれも土豪劣紳や不法地主自身がそのようにおいつめたのである。土豪劣紳や不法地主が、いままでその勢力をたのみにしてのさばり、農民をふみつけてきたからこそ、農民は、このように大きな反抗をするのである。反抗がもっともはげしく、騒ぎがもっとも大きかったところは、みな土豪劣紳や不法地主の悪事がもっともひどかったところである。農民の目には、少しのくるいもない。だれが悪らつで、だれが悪らつでないか、だれがもっともひどく、だれがそれほどでもないか、だれはきびしく処罰し、だれは軽くてよいか、それを農民は非常にはっきり計算しており、不当な処罰をするようなことはめったにない。第二に、革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である。農村革命は、農民階級が封建地主階級の権力をうちたおす革命である。農民が最大の力をそそがなければ、何千年ものあいだ深く根をはってきた地主の権力はけっしてくつがえせない。何千何万の大衆をふるいたたせて、これを大きな力にしていくには、農村に大きな革命の激流がなければならない。さきにのべたような、いわゆる「ゆきすぎ」の行動は、すべて農村で大きな革命の激流によってふるいたった農民の力がうみだしたものである。こうした行動は、農民運動の第二の時期(革命の時期)には、大いに必要なことである。第二の時期には、農民の絶対的な権力がうちたてられなければならない。農会にたいする悪意をもった批判を、けっしてゆるしてはならない。すべての顔役衆の権力をうちたおし、顔役衆を地べたにたたきつけ、そのうえ足でふみつけることまでしなければならない。すべてのいわゆる「ゆきすぎ」の行動も、第二の時期には、革命的意義をもっている。率直にいえば、どの農村でも、短期間の恐怖現象をつくりださなければならない。そうしなければ、けっして、農村での反革命分子の活動を弾圧することはできないし、顔役衆の権力をうちたおすこともできない。あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせないのである〔4〕。中間派の論議は、さきの一派の論議とは表面上ちがっているが、実質的には、さきの一派とおなじ観点に立っているのであって、やはり特権階級の利益をまもる地主の理論である。このような理論は、農民運動のもり上がりをさまたげ、結局は、革命を破壊するものであって、われわれはこれに断固として反対しないではいられない。

いわゆる「ごろつきの運動」

国民党の右派は、「農民運動は、ごろつきの運動であり、なまけ百姓の運動だ」といっている。このような論議が、長沙ではかなりさかんであった。わたしが農村にいったとき、顔役衆が、「農民協会をつくるのはよいが、現在の役員連中はだめだ。人を換えなければいけない」といっているのをきいた。このような論議は、右派のいっているのとおなじ意味であり、どちらも、農民運動はやってもよい(農民運動はすでにおこっているので、それをやってはいけないとはだれもいえない)が、いま農民運動をやっている人がだめだ、というのである。とくに、農民協会の末端組織の役員をひどくうらみ、かれらはみな「ごろつき」だというのである。要するに、いままで、顔役衆から見くだされていたもの、顔役衆によってどぶのなかにぶちこまれ、社会的にはものの数にもはいらず、発言権もなかったものが、いまや、なんとみんな頭をもたげてきたのである。頭をもたげただけでなく、権力までにぎったのである。かれらは郷農民協会(農民協会の末端組織)の王さまとなり、郷農民協会は、かれらの手によって、おそろしいものに変わったのである。かれらは、そのふしくれだった手で、顔役衆の頭をおさえつけた。かれらは、なわで劣紳をしばりあげ、その頭に三角帽子をかぶせ、村をひきまわした(湘潭県、湘郷県ではそれを遊団ヨウトワンといい、醴陵県では遊[土+龍]ヨウロンといった)。かれらのあらっぽい情け容赦のないどなり声は、毎日のように顔役衆の耳にはいってくる。かれらは、命令をくだし、すべてを指揮している。かれらはあらゆる人の上に立っている。――以前にはあらゆる人の下にいたのに。だから、常軌をはずしたというのである。

革命の前衛

あることがら、あるいはある人間について、正反対の二つの見方があれば、正反対の二つの論議がうまれる。「むちゃくちゃだ」と「すばらしい」、「ごろつき」と「革命の前衛」、これらがそのよい例である。

農民が、長いあいだやりとげろことのできなかった革命事業をやりとげ、国民革命にとって重要な仕事をしたことについてはさきにのべた。だが、このような革命の大事業、革命の重要な仕事を、農民の全部がやったのだろうか。そうではない。農民には、富農、中農、貧農の三種類がある。かれらの状態はそれぞれちがっており、革命にたいするうけとめ方もそれぞれちがっている。第一の時期に、富農の耳にはいったものは、つぎのようなことであった。すなわち、江西チァンシー省では革命が惨敗し、蒋介石チァンチェシーは足に負傷して〔5〕、飛行機で広東コワントン省〔6〕にかえってしまった。呉佩孚ウーペイフー〔7〕はふたたび岳州ユエチョウを占領した。農民協会はけっして長つづきしないだろう、三民主義〔8〕もはやるまい、なぜなら、そんなものはいままでなかったから、ということであった。郷農民協会の役員(多くは、いわゆる「ごろつき」の部類)が、農会の名簿をもって富農の玄関にやってきて、富農に、「どうか農民協会にはいってくれませんか」というと、富農はどう答えただろうか。

「農民協会だって? わしはここに何十年も住んでいて、何十年も百姓をしているが、農民協会なんてお目にかかったこともない、それでも、けっこう飯は食っている。おまえさんたち、そんなものはやめたほうがいい。」これが富農のなかの態度の少しましなもののいい方であった。「なにが農民協会だ、首をはねられる会じゃないか。人をまきぞえにするな!」これが、富農のなかの態度のわるいもののいい方であった。ところが、まったく不思議なことに、なんと農民協会は何ヵ月もつづいており、しかも顔役衆にさえ反対している。近隣の顔役が、アヘンのきせるを差しださなかったので、農民協会につかまえられて、村をひきまわきれた。また、県都では、大顔役たち、たとえは湘潭の晏容秋イェンロンチウとか、寧郷の楊致沢ヤンチーツオとかが殺された。十月革命の記念大会や反英大会や北伐勝利大祝賀会には、どの村でも、万をこえる農民が天秤棒やくわまでまじえ、大小の顔をおしたてて、威風堂々と隊伍をくんでデモ行進をした。こうなると、富農はうろたえはじめた。北伐勝利大祝賀会でかれらがきいたことは、九江チゥチァンも占領された、蒋介石は足に負傷しなかった、呉佩孚は結局負けたのだ、ということであった。しかも「三民主義万歳」「農民協会万歳」「農民万歳」などといったことが、はっきりと、「赤や青の告示」(ビラ)に書かれている。「農民万歳だって? この連中も陛下といえるのか。」富農はひどいうろたえぶりをしめした。そこで、農会はすっかり鼻いきがあらくなった。農会の人は富農にむかって、「おまえたちを別冊に書きこむぞ!」とか、「これから一ヵ月して入会するものは、一人あたり入会金十元だぞ!」とかいった。このような情勢のもとで、富農はぼつぼつ農会にはいるようになった〔9〕。あるものは五角、あるいは一元を入会費としておさめた(もともとはただの百文)。またあるものは、人に口をきいてもらって、やっと農会への入会がゆるされた。だが、いまでもまだ農会にはいっていない頑迷派もかなりいる。富農が入会するときは、たいていその家族のなかの六、七十歳のじいさんを農会にやって、その名まえを登録させた。それは、かれらがいつも「壮丁としてとられる」ことをおそれているからである。かれらは、入会しても、農会の仕事には熱心でない。かれらの態度はいつも消極的である。

中農はどうか。かれらの態度はぐらついている。かれらは、革命が自分にとって大して利益にならないとおもっている。かれらの米びつには米があるし、夜中に借金とりにたたきおこされるようなこともない。そこでかれらはいままでにそういうことがあったかどうかということを理屈でおしていって、「農民協会ははたしてなり立っていくだろうか」「三民主義ははたしてはやるだろうか」とひとり眉をひそめて考える。「そうはいくまい!」というのがかれらの結論である。かれらは、こうしたこともすべて天意によってきまるものなので、「農民会をつくることが、天意にかなっているかどうか」と考えていた。第一の時期に、農会のものが名簿をもって中農の家にいき、「どうか農民協会にはいってください」というと、中農は、「そうせかしなさるな」と答えていた。中農が農会にはいるようになったのは第二の時期になり、農会の力が強大になってからである。農会でのかれらの態度は、富農よりはましであるが、いまのところあまり積極的ではなく、もう少しようすを見ようとしている。農会は、中農に入会するようはたらきかけ、かれらにいろいろ説明してやることがぜひとも必要である。

村のなかで、ずっと悪戦苦闘してきた主要な勢力は貧農である。秘密の時期から公然化した時期まで、貧農は積極的にたたかってきた。かれらは共産党の指導をもっともよくうけいれる。かれらは、土豪劣紳とは食うか食われるかのあいだがらなので、なんのためらいもなく土豪劣紳の陣営に進撃する。かれらは富農にむかっていう、「おれたちはとっくに農会にはいっているのに、おまえたちは、なんだってまだぐずぐずしているのか。」富農はこばかにした口調でこういう、「きみたちには雨露をしのぐ小屋さえなく、猫のひたいほどの土地もないのだから、農会にはいるのはあたりまえさ。」たしかに、貧農にはなにもうしなう心配はない。かれらのうちの多くのものは、たしかに「雨露をしのぐ小屋さえなく、猫のひたいほどの土地もない」のだから、農会にはいるのはあたりまえである。長沙での調査によれば、農村人口のうち、貧農は七〇パーセントをしめ、中農は二〇パーセント、地主と富農は一〇パーセントをしめている。七〇パーセントをしめる貧農はまた、赤貧と次貧との二種類にわかれる。完全に無資産のもの、すなわち土地もなければ、資金もなく、完全に生活のよりどころをうしない、よそへいって兵隊になるか、人にやとわれてはたらくか、あるいはこじきになってさまよう以外にはどうにもしようがないものは、みな「赤貧」〔10〕であり、それは二〇パーセントをしめている。半無資産のもの、すなわちほんのすこしばかりの土地か、またはほんのすこしばかりの資金をもってはいるが、養う人数のわりには収入がすくなく、一年じゅう苦労と心配にあけくれているもの、たとえば、手工業労働者、小作農(富裕な小作農をのぞく)、半自作農などは、みな「次貧」〔11〕であり、それは五〇パーセントをしめている。このような貧農大衆は、あわせて農村人口の七〇パーセントをしめていて、農民協会の中堅であり、封建勢力打倒の前衛であり、長い年月なしとげられなかった革命の大事業をなしとげた大功労者である。貧農階級がなければ(顔役衆のことばでいうと「ごろつき」がなければ)、現在のような農村の革命情勢はけっしてつくりだせないし、土豪劣紳を打倒して、民主主義革命をなしとげることもけっしてできはしない。貧農がもっとも革命的であるからこそ、農会の指導権をかちとったのである。すべての末端の農民協会の委員長や委員は、第一、第二の時期とも、ほとんど全部が貧農であった(衡山県の郷農民協会の役員についてみると、赤貧層が五〇パーセント、次貧層が四〇パーセント、貧しい知識分子が一〇パーセントをしめている)。こうした貧農の指導は、非常に必要なものである。貧農がなければ、革命はない。かれらを否定することは、革命を否定することになる。かれらに打撃をあたえることは、革命に打撃をあたえることになる。かれらの革命の大きな方向は、終始一貫まちがっていない。かれらは土豪劣紳の体面を傷つけた。かれらは大小の土豪劣紳を地べたにたたきふせ、そのうえ足でふみつけた。かれらが革命の時期にやった多くの「ゆきすぎ」といわれる行動こそは、本当に革命が必要としていることなのである。湖南省のいくつかの県の県政府や国民党県党部〔12〕、県農会は、すでにいくつかのあやまりをおかした。かれらは地主の要請のままに、兵隊をさしむけて下級の農会の役員を逮捕することさえした。衡山、湘郷二県の監獄には、郷農民協会の委員長や委員がたくさんぶちこまれている。このあやまりは非常に大きなものであり、反動派の鼻息をあらくさせた。農民協会の委員長や委員がつかまると、その土地の不法地主たちが大いによろこび、反動的空気が非常につよまっているのを見ただけでも、それがあやまりかどうかを知ることができる。われわれは、「ごろつきの運動」とか、「なまけ百姓の運動」とかいう反革命のそしりに反対しなければならない。とくに、土豪劣紳をたすけて貧農階級に打撃をくわえるようなまちがった行動をとらないように注意しなければならない。事実、貧農の指導者のなかには、以前はたしかに欠点をもったものもいたが、現在では大部分がよくなっている。かれらは、みずからばくちの禁止や盗賊の一掃に努力している。農会が強くなったので、ばくちは跡をたち、盗賊は影をひそめている。ところによっては、それこそ、拾いものも着服せず、夜も戸じまりしない、というようになった。衡山県の調査によると、貧農の指導者百人のうち八十五人は、非常にりっぱになり、仕事がよくでき、非常に努力している。ただ一五パーセントのものだけに、まだいくらかよくない習慣がのこっている。これは「少数のよくない分子」とはいえても、けっして土豪劣紳の口まねをして、全部を見さかいなく「ごろつき」とののしってはならない。この「少数のよくない分子」の問題を解決するにも、規律をひきしめようという農会のスローガンのもとで、大衆にたいしては宣伝し、本人にたいしては訓練をほどこして、農会の規律をひきしめるよりほかはない。勝手に兵隊をさしむけて人をとらえ、貧農階級の威信を傷つけ、土豪劣紳の気勢を助長するようなことをけっしてしてはならない。この点には、よくよく注意しなければならない。

十四の大きなことがら

一般に農会を非難するものは、農会がたくさん悪いことをしたといっている。わたしがさきに指摘したように、農民が土豪劣紳をやっつけることは、完全に革命的な行為であって、非難されるようなことはなにもない。しかし、農民がやったことはたくさんあるので、人びとの非難に答えるために、われわれは、農民のやったすべての行動についてこまかく点検し、かれらがいったいどういうことをやったのかを一つ一つ見ていかなければならない。わたしは、この数ヵ月来の農民の行動を分類し、まとめてみたが、農民は、農民協会の指導のもとで、あわせて十四の大きなことがらをやっている。それはつぎのとおりである。

第一 農民を農会に組織したこと

これは農民のやった第一の大きなことがらである。湘潭、湘郷、衡山のような県では、ほとんどすべての農民が組織され、どんな「片すみ」にいる農民でも、立ちあがらないものはほとんどいない、これが第一級。いくつかの県では、農民の大部分は組織されているが、まだ一部分が組織されていない。益陽イーヤン、華容ホワロンなどの県、これが第二級。いくつかの県では、農民の小部分が組織されていて、大部分はまだ組織されていない。城歩チョンプー、零陵リンリンなどの県、これが第三級。湖南省西部一帯は、袁祖銘ユァンツーミン〔13〕の勢力下にあり、農会の宣伝がまだはいっていないので、多くの県の農民はまだぜんぜん組織されていない、これが第四級。だいたい、長沙を中心とする湖南省中部の各県がもっとも発展しており、湖南省南部の各県がそれにつぎ、湖南省西部では組織しはじめたばかりである。昨年十一月の省農民協会の統計によると、全省七十五県のうち、三十七県には組織があり、会員数は百三十六万七千七百二十七人である。この数字のうち、約百万人は、農会の勢力が非常にさかんになった昨年十、十一月の二ヵ月間に組織されたものであって、九月以前にはまだ三、四十万人にすぎなかった。いまはまた、十二月、一月の二ヵ月をへており、農民運動は大きく発展しつつある。一月末までに、会員数は、すくなくとも二百万にはたっしたであろう。入会するとき、たいてい一戸で一人しか登録しないから、一戸あたり五人家族とみても、大衆はおよそ一千万人いる。このようなおどろくばかりの加速度的発展が、すべての土豪劣紳、汚職官吏を孤立させ、以前といまとではまるで別の世界だと世間をおどろかせ、農村で大革命をつくりだした原因になっている。これは、農民が農民協会の指導のもとでおこなった第一の大きなことがらである。

第二 政治的に地主に打撃をあたえたこと

農民が組織をもつようになってからとった最初の行動は、政治的に、地主階級、とくに土豪劣紳の威光をたたきおとすこと、すなわち、農村の社会的地位から地主の権力をたたきおとし、農民の権力をおしあげることであった。これは、きわめて重大な、重要な闘争である。この闘争は、第二の時期、すなわち革命の時期の中心的な闘争である。この闘争に勝利しなければ、小作料や利子の引きさげ、土地やその他の生産手段の要求などのいっさいの経済闘争も、けっして勝利するみこみはない。湖南省の多くの地方、たとえば湘郷、衡山、湘潭などの県では、地主の権力が完全にくつがえされ、農民による唯一の権力が形成されているから、もちろん問題はない。ところが、醴陵などの県の、まだ一部の地区(たとえば醴陵の西部と南部の二区)では、表面的には地主の権力が農民の権力よりもよわいが、実際には、政治闘争がはげしくないために、地主の権力がまだひそかに農民の権力に対抗している。こうしたところでは、まだ農民が政治的勝利をおさめたとはいえず、地主の権力が農民によって完全にうちたおされてしまうまで、政治闘争にもっと力をそそがなければならない。農民が政治的に地主に打撃をくわえる方法をまとめてみると、つぎのようないくつかのものがある。

清算――土豪劣紳は地方の公金をとりあつかっていたが、たいていのものがそれを横領し、帳簿はでたらめである。こんど農民は、清算という問題をもちだして、多くの土豪劣紳をたたきふせた。多くの地方は清算委員会をつくり、もっぱら土豪劣紳にたいして勘定のかたをつけさせた。土豪劣紳は、このような機構をみるとふるえあがった。このような清算運動は、農民運動のおこっている県では、いたるところでやられているが、その意義は、金をとりかえすことよりも、土豪劣紳の罪状を公表して、土豪劣紳の政治的地位と社会的地位をたたきおとすことにある。

罰金――清算の結果、不正行為とか、かつて農民を食いものにした悪行があったとか、げんに農会を破壊する行為があるとか、ばくちの禁止にそむいているとか、アヘンのきせるを差しださないとかいうようなことが摘発された。こうした罪名のもとで、農民は、土豪のだれには罰金いくら、劣紳のだれには罰金いくら、というぐあいに、数十元から数千元までの罰金を課することを決議する。農民から罰せられたものは、もちろん面目まるつぶれである。

寄付金――金のためには血も涙もない地主から寄付金をとって、貧民の救済、協同組合の設立、農民資金貸付所の設立、その他の費用にあてる。寄付金も一種の懲罰であって、罰金より軽いだけである。地主のなかには、難をのがれるために、自分の方から農会に寄付金を出すものもすくなくない。

軽い詰問――農会を破壊するような言動があったもので、その罪状がわりに軽いものにたいしては、おおぜいの人をあつめてその家におしかけ、あまりきつくない詰問をする。さいごは、多くのばあい、「始末書」を書かせ、こんご農会の名誉を傷つけるような言動はしない、とはっきり書かせて、ことをすませる。

大デモ――大衆をひきつれて、農会をかたきにしている土豪劣紳にデモをかけ、かならず豚をつぶさせ、米をださせ、その家で飯を食う。このようなことはすくなくない。最近、湘潭県馬家河マーチァホーでは、一万五千の大衆をひきつれて、六人の劣紳を糾弾し、それが四日間もつづき、豚百三十余頭をつぶさせたことがあった。デモのあとでは、たいてい罰金をとる。

三角帽子をかぶせて村をひきまわす――このようなことは、各地でさかんにやられている。土豪劣紳に紙でつくった三角帽子をかぶせる。その帽子には、土豪なにがし、あるいは劣紳なにがし、というように書きつけてある。なわでひっぱりながら、前後をおおぜいの人がとりまいていく。なかにはドラを鳴らしたり、のぼりをおし立てたりして、人目をひくようにするのもある。このような処罰は、土豪劣紳をいちばんふるえあがらせる。いちど三角帽子をかぶせられると、体面はまるつぶれになり、人まえに出られなくなる。だから、金持ちの多くは三角帽子をかぶるより罰金のほうをのぞむ。しかし、農民がききいれないときは、やはりかぶらなければならない。ある郷農会のやり方はなかなかうまかった。ひとりの劣紳をつかまえてきて、きょう三角帽子をかぶせるといいわたす。すると劣紳はすっかりおびえて青くなる。ところが、農会では、きょうは三角帽子をかぶせないと決議する。きょう帽子をかぶせてしまうと、その劣紳は観念して、処罰をおそれなくなるので、むしろ後日かぶせることにして、釈放したほうがよいからである。すると、その劣紳は、いつ三角帽子をかぶせられるかわからないので、まいにち家にいても気が気でなく、いても立ってもいられなくなる。

県の監獄にいれる――これは三角帽子をかぶせるのよりもっと重い処罰である。土豪劣紳をつかまえ、県庁の監獄につれていって拘留し、知事に処罰させる。いま監獄に拘留しているものはまえとちがう。まえには顔役が農民をつれていって拘留したが、いまでは農民が顔役をつれていって拘留している。

追放――土豪劣紳のうち罪悪のめだっているものにたいしては、農民はかれらを追放するどころか、つかまえたり、殺したりしようとする。かれらは、つかまえられたり、殺されたりするのをおそれて逃げだす。おもだった土豪劣紳は、農民運動のすすんでいる県では、ほとんどみな逃げてしまったので、追放されたのとおなじ結果になっている。かれらのうち、一流どころは上海に逃げ、二流どころは漢□に逃げ、三流どころは長沙に逃げ、四流どころは県都に逃げた。これらの逃げた土豪劣紳のうちでも、上海に逃げたものがいちばん安全である。漢□に逃げたものは、華容県の三人の劣紳のように、結局、つかまってつれもどされる。長沙に逃げたものは、なおさら、各県からここに勉強にきている学生たちにいつつかまえられるかわからない。げんに、わたしは長沙で二人つかまったのをこの目で見た。県都に逃げたものは、格からいっても四流であり、農民には目や耳がたくさんあるからみつかりやすい。湖南省政府は財政難をきたしたが、財政当局は、それを農民が金持ちを追放したため、金あつめがむずかしくなったことのせいにしている。このことからも、土豪劣紳がどれほど郷里にいられなくなっているかの一端がわかる。

銃殺――これはかならず大土豪劣紳にかぎられ、農民が各界の民衆と共同してやるものである。たとえば、寧郷県の楊致沢、岳陽ユエヤン県の周嘉淦チョウチアカン、華容県の傳道南フータオナン、孫伯助スンポーチューらは、農民と各界の人民が政府を督促して銃殺させた。湘潭県の晏容秋については、農民と各界の人民が、監獄からだすことをむりやりに県長に同意させ、農民自身の手で銃殺にした。寧郷県の劉昭リウチャオは、農民が直接に殺した。醴陵県の彭志蕃ポンチーファン、益陽県の周天爵チョウティエンチュエ、曹雲ツァオユインは、いま「土豪劣紳裁判特別法廷」の判決と死刑執行をまつばかりとなっている。このような大劣紳、大土豪は、そのひとりを銃殺するだけで、全県を震かんさせ、封建制の余毒を一掃するうえできわめてききめがある。このような大土豪劣紳は、各県に多いところで数十人、すくないところでも数人はいる。各県ですくなくとも何人かの、罪のもっとも重い、極悪のものを死刑にすることこそ、反動派を弾圧する効果的な方法である。土豪劣紳は勢いがさかんなときには、農民を殺すことなどまったくなんともおもっていなかった。長沙県新康シンカン鎮の団防局⑥長何邁泉ホーマイチュアンは、団の仕事を十年やっているあいだに、「匪賊ひぞく処決」という美名のもとで貧しい農民を千人ちかく殺した。わたしの郷里、湘潭県銀田インティエン鎮の団防局長湯峻岩タンチュインイェン、羅叔林ルオチューリンの二人は、一九一三年いらい十四年間に五十余人を殺し、四人を生きうめにした。殺された五十余人のうち、最初に殺された二人はなんの罪もないこじきであった。湯峻岩は、「こじき二人を殺して店びらきにしよう!」といった。この二人のこじきは、こうして一命をたたれた。これまで、土豪劣紳の残忍さや、かれらが農村でやった白色テロはこのようであったのに、いま農民が立ちあがって土豪劣紳の何人かを銃殺し、反革命分子を弾圧するほんのわずかな恐怖現象をつくりだしたからといって、これを不当だという理由がどこにあろうか。

第三 経済的に地主に打撃をあたえたこと

米穀の県外持ちだし禁止、米価のつりあげ禁止、買いだめ投機の禁止 これはここ数ヵ月来湖南省の農民がやった経済闘争での大きなことの一つであった。昨年十月から現在まで、貧農は、地主や富農が米穀を県外に持ちだすのを阻止するとともに、米価のつりあげや米の買いだめ投機を禁じている。その結果、貧農の目的は完全にたっせられ、米の持ちだしは、水ももらさぬほどきびしく阻止され、米価は大幅にさがり、買いだめ投機はあとを絶った。

小作料と小作保証金の増額禁止、小作料と小作保証金引きさげの宣伝――昨年七、八月ごろ、農会の勢力がまだよわかった時期には、地主たちは、依然としてしぼれるだけしぼるという昔からのしきたりにしたがって、小作料と小作保証金をどうしても増額すると、どれもこれも小作人に通知してきた。ところが、十月になると、農会の勢力が大きくなり、小作料と小作保証金の増額にこぞって反対するようになったので、地主は、もう小作料と小作保証金の増額についてはなにもいいだせなくなった。十一月以後になると、農民の勢力が地主の勢力を圧倒するようになったので、農民は、さらにすすんで、小作料と小作保証金の引きさげを宣伝しだした。農民は、昨年の秋、小作料をおさめるころには残念ながら農会がまだよわかった、でなかったら、昨年の秋にはもう小作料引きさげができたのに、といっている。ことしの秋の小作料引きさげについて、農民はいまさかんに宣伝しており、地主たちもまた、小作料引きさげの方法についてききにきている。小作保証金の引きさげの方は、いま衡山などの県ですでにおこなわれている。

土地取りあげの禁止――昨年の七、八月ごろにはまだ、地主は小作人いれかえのための土地取りあげをさかんにやった。十月以後になると、もう土地取りあげをやれるものはいなくなった。いまでは、小作人いれかえのための土地取りあげは、ぜんぜん問題にならなくなったが、すこし問題になるのは、自作のための土地取りあげだけである。ところによっては、地主が自作のために土地を取りあげようとしても、農民はゆるさない。またところによっては、地主が自作するばあいは、土地の取りあげをゆるしているが、しかし、同時に小作人の失業の問題がおきている。この問題には、まだ一致した解決策がない。

利子の引きさげ――利子引きさげは安化県では全県にわたっておこなわれているが、ほかの県でも利子引きさげがみられる。ところが、農会の勢力がさかんなところでは、地主が「共産」をおそれて、完全に、「貸借ごめん」をやっているので、農村には、ほとんど貸しつけがなくなっている。このばあい、利子の引きさげというのは、旧債にかぎられている。旧債については、利子を引きさげるばかりでなく、元金でさえ、貸し主のむりなとりたてをゆるさない。貧農はこういっている。「まあそういうな、不作だから、来年にしてくれ。」

第四 土嚢劣紳の封建的支配をくつがえした

――都、団〔14〕をうちたおしたこと

ふるい型の都、団(すなわち区、郷)の政権機関は、とくに都、すなわち県にちかい段階では、ほとんど完全に土豪劣紳ににぎられていた。「都」が管轄している人口は一万から五、六万で、団防局のような独立した武装組織をもち、土地付加税〔15〕などのような独立した財政徴収権や、勝手に農民を逮捕、監禁、訊問、処罰する独立した司法権をもっていた。このような機関にいる劣紳は、まったく村の王さまであった。農民は、政府、たとえば総統や督軍〔16〕や県長⑦らにたいしては、わりに無関心であったが、こうした村の王さま連中こそ、ほんとうにかれらの「目上」であり、かれらが鼻先でふんといっただけでも、これはよほど気をつけなければならないことだと知っていた。こんど農村でむほんがおこった結果、地主階級の威光はいたるところでたたきおとされ、土豪劣紳の牛耳っていた郷の政権機関は、それにつれて自然につぶれてしまった。都や団の長官はひっこんで表面には出なくなり、地方のことの処理はすべて農民協会の方へおしやった。かれらの逃げ口上はこうである。

「よけいなことには手をださない!」

農民たちはいろいろと取りざたしていて、はなしが都や団の長官のことになると腹をたてていう。

「あんなものは、無用の長物だ!」

「無用の長物だ」ということばは、革命の波に洗われた地方のふるい型の郷の政権機関を的確に描きだしている。

第五 地主の武装組織をくつがえし、最民の武装組織をうちたてたこと

湖南省の地主階級の武装組織は、中部にはわりあいすくなく、西部と南部にはわりあい多かった。一県平均六百ちょうの銃をもっているとすれば、七十五県で合計四万五千ちょうの銃をもっていることになるが、実際にはそれより多いかもしれない。農民運動の発展している中部と南部の地域では、農民の立ちあがりかたが非常にはげしかったので、地主階級は、たちうちできなくなり、その武装勢力は、大部分が農会に降伏して、農民の利益の側に立っている。たとえば、寧郷、平江、瀏陽、長沙、醴陵、湘潭、湘郷、安化、衡山、衡陽などの県がそうである。小部分は中立的な立場に立っているが、それも降伏に傾いている。たとえば宝慶パオチン県などがそれである。他の小部分は農会と敵対する立場にたっている。たとえば宜章イーチャン、臨武リンウー、嘉禾チアホーなどの県がそうである。しかし、農民がいまそれに打撃をくわえているので、まもなく、その勢力を一掃することができるであろう。このようにして反動的な地主の手からうばいとった武装組織は、すべて「挨戸団アイホートワン常備隊」〔17〕にあらためられ、新しい農村自治機関――農民政権としての農村自治機関の管理のもとにおかれる。このようなふるい武装組織をうばいとることは、農民の武装組織を建設する一つの面である。農民の武装組織を建設するには、もう一つの新しい面がある。すなわち農会のほこ隊がそれである。ほこ――これは長い柄のさきにもろ刃の剣をつけたもので、湘郷一県だけで十万本もある。その他の各県、たとえば湘潭、衡山、醴陵、長沙などでも、それぞれ七、八万本、五、六万本、三、四万本はもっている。農民運動がおこっている各県では、どこでもほこ隊が急速に発展している。このようなほこをもっている農民は、「挨戸団非常備隊」となる。こうした広範なほこ隊の勢力は、さきにのべたふるい武装勢力よりも大きく、すべての土豪劣紳を一目でふるえあがらせる新興の武装力である。湖南省の革命当局は、七十五県二千余万の農民のあいだにこのような武装力を、いたるところで確実にうちたて、青壮年の農民一人びとりに一本ずつほこをもたせるべきで、人がこわがるからといって、制限するようなことがあってはならない。もし、このほこ隊にきもをつぶすものがあれば、それこそ腰ぬけというものだ。それを見てこわがるのは土豪劣紳だけで、革命派はけっしてこわがるべきではない。

第六 県のお偉方から木端役人までの政権をくつがえしたこと

県の政治は、農民が立ちあがることによってはじめて浄化されることが、すでに広東省海豊ハイフォン県で証明された。こんどは湖南省で、とくに十分に証明されている。土豪劣紳が権力をにぎっている県では、だれが知事になっても、ほとんどが汚職官吏になる。農民がすでに立ちあがった県では、だれがなろうと、みな廉潔な政府になる。わたしがいったいくつかの県では、知事はことあるごとに、まず農民協会の意見をきく。農民の勢力が非常にさかんな県では、農民協会のいうことは、じつに「霊験あらたか」である。農民協会が土豪劣紳を朝のうちにつかまえるといえば、知事はそれを正午までひきのばしきれないし、正午につかまえるといえば、午後までのばしきれない。農民の権力が村でもりあがりはじめたころは、知事は土豪劣紳とぐるになって、いっしょに農民に立ちむかった。農民の権力がもりあがって地主の権力と肩をならべるようになると、知事は、地主と農民のどちらにたいしても、ばつをあわせるような態度をとり、農民協会のいうことも、一部はこばみ、一部はうけいれるようになった。さきに、農会のいうことが霊験あらたかだとのべたが、それは地主の権力が農民の権力によって完全にうちたおされてからのことである。現在、湘郷、湘潭、醴陵、衡山などの県の政治状況はつぎのとおりである。

(一) すべてのことが県長と革命的な民衆団体との合同会議できまる。このような会議は、県長が招集し、県庁でひらかれる。いくつかの県ではそれを「官民団体合同会議」とよび、県によってはそれを「県務会議」とよんでいる。出席する人は、県長のほかに県農民協会、県労働組合連合、県商業協会、県婦人連合会、県教職員連合会、県学生連合会および国民党県党部〔18〕の代表たちである。このような会議では、各民衆団体の意見が県長を左右し、県長は万事いわれたとおりにするだけである。だから、湖南省で民主的な委員制の県政治組織を採用しても、問題はないはずだ。現在の県政府は、形式も実質も、すでに相当民主的になっている。このような情勢になったのは、最近二、三ヵ月のことで、つまり、農民が四方の村から立ちあがって、土豪劣紳の権力をうちたおしてからのことである。知事は、これまでのうしろだてがたおれたのを見て、官職を保つために別のうしろだてをさがさなければならなくなり、そこで、民衆団体のご機嫌をうかがいはじめ、さきにのべたような局面に変わったのである。

(二) 担当判事のあつかう事件がなくなった。湖南省の司法制度では、まだ知事が司法を兼掌し、担当判事が知事をたすけて事件を審理している。知事とその補佐役がふところをこやすのは、もっぱら、公租のとりたてや公課の割りあて、軍隊のための壮丁や糧秣りょうまつのかりあつめ、それに民・刑事訴訟のうえで日を黒としてのゆすりなどのやり方によっている。とくにあとのものは、恒常的な確実な財源である。ここ数ヵ月らい、土豪劣紳がたおれたので、三百代言もなくなった。また、農民のことは、大小にかかわりなく、すべて、各段階の農会で処理される。だから、県庁の担当判事は、まったくやることがなくなった。湘郷県の担当判事はわたしにいった。「農民協会がなかったころ、県庁は一日平均六十件の民・刑事訴状を受けつけていたが、農会ができてからは、一日平均四、五件しかない」これでは、知事とその補佐役どものさいふも、からっぽになるほかはない。

(三)警備隊、警察、下役人はみんななりをひそめ、村にいってゆすりやたかりをやれなくなった。以前は田舎の人が町の人をこわがっていたが、いまは町の人が田舎の人をこわがっている。とくに、県政府が飼っていた警察、警備隊、下役人などの犬どもは、村にいくのをこわがり、村にいっても、もうゆすりやたかりをやれなくなった。かれらは農民のほこを見るとふるえあがる。

第七 祖先廟・族長の族権、県と村の守り神の神権および夫の男権をくつがえしたこと

中国の男子は、ふつう三つの体系的な権力の支配をうけている。それは(一)国から省、県、郷にいたるまでの国家の体系(政権)、(二)本家の祖先廟、分家の祖先廟びょうから家長にいたるまでの同族の体系(族権)、(三)閻魔えんま大王、県の守り神から村の守り神にいたるまでの冥界めいかいの体系および玉皇上帝⑧からよろずの神と精霊にいたるまでの神仙の体系――これを総称した神冥しんみょうの体系(神権)である。婦人となると、以上のべた三つの権力の支配のほかに、なお男子からの支配(夫権)をうけている。この四種類の権力――政権、族権、神権、夫権は、封建的同族支配体系の思想と制度のすべてを代表しており、中国人民、とくに農民をしばりつけているふとい四本の綱である。農民が農村でどのように地主の政権をくつがえしたかについては、まえにのべたとおりである。地主の政権はすべての権力の根幹である。地主の政権がうちたおされたので、族権、神権、夫権もみなそれにつれてぐらつきだした。農会の勢いがさかんなところでは、族長や祖先廟の公金の管理人は、もう二度と同族の末流のものを圧迫したり、祖先廟の公金を横領したりしなくなった。悪質な族長や管理人は、すでに土豪劣紳としてたたきのめされた。以前祖先廟のなかでやられた「しりたたき」「溺殺できさつ」「生きうめ」といった残酷な体刑や死刑は、もう二度とやれなくなった。婦人や貧乏人は祖先廟の祭りの酒盛りにでられないという昔からのしきたりも、うちやぶられた。衡山県の白果パイクオというところの婦人たちは、隊をくんで祖先廟におしいり、どっかりとすわりこんで酒盛りをしたが、一族の長老たちも、かの女たちのするままにさせておくほかなかった。またあるところでは、貧農は祖先廟の酒盛りにくわわることを禁止されたので、一群の貧農たちがおしかけていって、さかんに飲んだり食ったりした。土豪劣紳やお羽織の先生方はびっくりして逃げてしまった。神権の動揺も、農民運動がすすむにつれてひろがっていった。多くのところでは、農民協会が神をまつる廟をとりあげて事務所にしている。どこの農民協会も、「迷信公金」という名目で廟の財産を引きだして農民学校をつくったり、農会の費用にあてたりすることを主張している。醴陵県では、迷信を禁止し、神仏の像をたたきこわすことがさかんにやられている。醴陵県北部各区の農民は、家の守り神(厄病はらいの神)をかついでねりあるくことを禁止した。[シ+碌のつくり]口ルーコウの伏波嶺フーポーリンの廟内には神仏の像がたくさんあった。国民党の区党部をつくるのに部屋がたりないので、大小の神仏の像を片すみに積みあげたが、農民からはなんの苦情もでなかった。それからのちは、人が死んでも、神さまにおそなえをしたり、法事をしたり、灯明をあげたりするものは、ほとんどいなくなった。これは、農会の委員長孫小山スンシャオシャンがさきだちでやったので、その土地の道教の法師たちは孫小山をひどくうらんでいる。北三区の竜鳳庵ロンフォンアンの農民と小学校の教員は、神仏の木像をたたきわりそれで肉を煮てたべた。南区の東富寺トンフースーの三十何体かの神仏の像は、学生と農民がいっしょになって、みんな焼きすててしまった。ただ、そのうち「包公パオコンさま」⑨という二つの小さな像だけは、ひとりの年とった農民にうばいさられた。「ばちあたりのことをするものではない!」とかれはいった。農民の勢力が支配的な地位をしめているところでは、神を信じるものは年とった農民と婦人だけで、青年や壮年の農民はだれも信じなくなった。農民協会は、青年と壮年の農民が権力をにぎっているので、神権の打倒や迷信の打破が、いたるところですすめられている。夫権というものは、もともと貧農のあいだでは、わりあいよわかった。貧農の婦人は、経済的な必要から裕福な階級の婦人よりもよけい労働に参加しなければならないので、家庭についての発言権ないし決定権をもつものがわりあいに多かった。近年になって、農村経済がますます破産するにつれて、男子が女子を支配する基本的な条件はくずれた。最近では、農民運動がおこると、それにともなって多くのところで、婦人たちが農村婦人連合会を組織し、婦人たちが頭をもたげる機会がやってきたので、夫権は日一日とぐらつきだした。要するに、ありとあらゆる封建的同族支配体系の思想と制度は、農民の権力がつよまるにつれてぐらついている。しかし、いまの時期では、農民は地主の政治権力をうちこわすという一点にその精根をうちこんでいる。地主の政治権力がすっかりうちこわされてしまったところになると、農民は、同族、神仏、男女関係というこの三つにたいする攻撃をはじめる。だが、このような攻撃は、いまのところは、なんといっても「序の口」で、この三つを完全にくつがえすには、農民の経済闘争がすべて勝利するのをまたなければならない。したがって、いまのところ、われわれは農民が地主の権力を徹底的にくつがえすために、全力をあげて政治闘争をやり、それにつづいて、貧農の土地およびその他の経済問題を根本的に解決するために、ただちに経済闘争をはじめるよう指導しなければならない。同族主義、迷信的な考え、不平等な男女関係の破壊は、政治闘争と経済闘争が勝利したのちにおのずからえられる結果である。もしあまり大きな力を入れて、強引に、むりにこうしたものを破壊すると、土豪劣紳はかならずそれを口実にして、「農民協会は祖先をうやまわない」とか、「農民協会は神仏をふみにじっている」とか、「農民協会は共妻を主張している」とか、といった反革命的な宣伝スローガンをもちだして、農民運動を破壊するにちがいない。湖南省の湘郷県や湖北フーペイ省の陽新ヤンシン県で、最近、神仏の像のうちこわしにたいする農民の反対を地主が利用するということがおきたのは、そのあきらかな証拠である。神仏の像は農民がまつったものだから、その時期がくれば、農民は自分たちの手で神仏の像をとりはらうだろう。はたのものがかわって、せっかちにとりはらう必要はない。こうしたことにたいする共産党の宣伝政策は、「引いて発せず、躍如たり」〔19〕でなければならない。神仏の像は農民自身にとりのぞかせるべきであり、烈女や貞女をまつった祠ほこらや碑も農民自身にうちこわさせるべきである。はたのものがかわってやるのは、まちがいである。

わたしも村で農民に迷信を打破するように宣伝したことがある。わたしはこんなふうに話した。

「生まれた時の干支えとによる運勢を信じて好運がやってくるのをねがい、地相を信じて墓地に瑞気ずいきのたちこめるのをねがうというが、ことしの数ヵ月のあいだに、土豪劣紳や汚職官吏がいっせいにたおれてしまった。まさか数ヵ月まえまでは、土豪劣紳や汚職官吏はみんな好運で、墓地にも瑞気がたちこめていたのに、この数ヵ月のあいだに、突然全部が悪運にみまわれ、墓地からもいっせいに瑞気が消えたというわけでもあるまい。土豪劣紳は諸君の農会のことをこういうようにいっている。『よくしたもんだ。いまは委員の世の中だよ。どうだい、便所にいっても委員にぶつかる』たしかにそのとおり。町でも村でも、労働組合でも農会でも、国民党でも共産党でも、一つとして執行委員のいないところはない。たしかに委員の世の中である。だが、これも干支や地相のおかげだろうか。よくしたもんだ! 村のすかんぴんの干支が、いっぺんにみんなよくなった! 墓地にもいっぺんに端気がたちこめた! 神さまだって? それはありがたいものだろう。だが、農民会がなくて、ただ関帝さまや、観音さまだけで、土豪劣紳をたおすことができるだろうか。あの関帝さまや観音さまたちもあわれなもので、何百年もおがまれてきながら、諸君のために一人の土豪劣紳だってたおしてくれなかった。いま諸君は小作料の引きさげをのぞんでいるが、諸君はどんな方法でやるのかきかせてもらいたい。神さまを信じるか、それとも農民会を信じるか。」

わたしがこういう話をしたら、農民はみな笑いだした。

第八 政治宣伝の普及

一万の政治法律学校をつくったからといって、現在農会がやっている政治教育のように、こうも短期間に貧しい片田舎の老若男女にまで、政治教育を普及させることができるだろうか。わたしはできないとおもう。帝国主義をうちたおせ、軍閥をうちたおせ、汚職官吏をうちたおせ、土豪劣紳をうちたおせ、こうしたいくつかの政治的スローガンが、ほんとうに羽根がはえたように、数かぎりない農村の青年、壮年、老人、子ども、婦人たちのところにとんでいき、そのまま頭のなかにはいりこみ、そして、頭から口にながれでる。たとえば、一群の子どもたちがそこらであそんでいるとする。そのなかの一人の子どもが他の子どもにむかって、目をむき、足をふんばり、おこってこぶしをふりあげたとき、こういう鋭い叫び声をきくであろう。「帝国主義をうちたおせ!」

湘潭一帯の子どもたちが牛の番をしていて、戦争ごっこをはじめると、一人は唐生智タンションチーになり、一人は葉開[金を森のように三つ並べる]イエカイシンになる〔20〕。しばらくすると、一人が負け、もう一人が追いかける。追っているのが唐生智で、追われているのが葉開[金を森のように三つ並べる]である。「列強をうちたおせ……」という歌は、町の子どもならもちろんほとんどのものがうたえるが、村の子どもでもうたえるものが多くなった。

孫中山先生のあの遺言は、村の農民にも暗唱できるものがいる。かれらは、あの遺言のなかから「自由」「平等」「三民主義」「不平等条約」といったことばをとりだし、それを日常生活のなかで生のままつかっている。農民が顔役ふうの男に道で出会い、その男が身分をかさにきて道をゆずろうとしないと、農民はおこっていう。「土豪劣紳め! 三民主義を知らないのか。」長沙の近郊で野菜つくりをしている農民が、町に野菜を売りにいくと、いつも巡査にいじめられていた。いまでは、農民はやっつける手を知った。その手とは三民主義である。巡査が野菜売りの農民をなぐったり、どなりつけたりすると、農民はすぐに三民主義をもちだしてやりかえすので、巡査もだまってしまう。湘潭県のある区の農民協会は、あることで、ある郷の農民協会と仲たがいした。すると、その郷の農民協会の委員長は宣言した。「区の農民協会の不平等条約に反対だ!」

政治宣伝が農村に普及したのは、まったく共産党と農民協会の功績である。ごく簡単なビラやポスターや講演でも、農民の一人びとりを政治学校にいれたとおなじような、非常に広い、また速い効果をもたらした。農村で活動している同志の報告によると、政治宣伝は、反英デモ、十月革命記念、それに北伐勝利大祝賀会という三回の大衆的な大集会のときにひろくおこなわれた。これらの集会にさいしては、農会のあるところではどこでも政治宣伝がおこなわれて、全農村をゆりうごかし、効果が大きかった。こんご注意しなければならないことは、いろいろな機会を利用して、さきにのべたような簡単なスローガンの内容をしだいに充実させ、その意義をしだいにはっきりさせていくことである。

第九 農民のいろいろな禁止事項

共産党の指導によって農会が農村で権威を確立すると、農民は、自分らにとってこのましくないことを禁止したり、制限しだした。いちばんきびしく禁止したのは、牌パイあそび、ばくち、アヘンの三つである。

牌あそび――農会の勢いがさかんなところでは、マージャン、かるた、花札などはすべてあとを絶った。

湘郷県の第十四区の区農会は、ひとかつぎほどのマージャン牌を焼きすてた。

村にいってみると、どんな種類の牌あそびもやられていない。禁をおかしたものは、すぐに処罰され、すこしも容赦されない。

ばくち――以前の「ばくち打ち」が、いまでは自分からばくちを禁止している。農会の勢いがさかんなところでは、牌あそびとおなじように、この悪弊はあとを絶ち、風気が一新した。

アヘン――非常にきびしく禁止している。農会がアヘンのきせるを差しだすよう命令すると、これに少しでもさからって差しださないものはいなかった。醴陵県ではひとりの劣紳がアヘンのきせるを差しださなかったので、つかまえられて村中をひきまわされた。

農民のこの「きせる取りあげ運動」のすさまじさは、北伐軍が呉佩孚、孫伝芳スンチョワンファン〔21〕の軍隊にたいしておこなった鉄砲取りあげにもおとらなかった。革命軍の将校たちの家庭には、ひどいアヘン中毒にかかっていて、一本の「きせる」で命をつないでいるご隠居さまがたくさんいたが、それもみな「陛下」 (劣紳が農民をこほかにした呼びかた)たちに取りあげられてしまった。「陛下」たちは、アヘンの栽培、吸引を禁止したばかりでなく、そのもち運びも禁止した。貴州省から宝慶県、湘郷県、{[イ+|+攵]|ヨウ}県、醴陵県をへて江西省にはこばれるアヘンは、途中で押さえられて、焼きすてられるものが多かった。こうなると、政府の財政と衝突することになった。その結果、ついに省の農会は、北伐軍の軍費の都合を考えて、下級の農会にたいし、「もち運び禁止の一時延期」を命令した。だが、農民たちは不平満々であった。

この三つのもののほかにも、農民が禁止あるいは制限したものは、まだたくさんある。いくつかの例をあげればつぎのとおりである。

花鼓ホワクー――田舎芝居のひとつで、多くのところでその上演を禁止している。

駕籠――多くの県で駕籠をおそうことがおき、湘郷県がとくにはげしかった。農民は駕籠にのるものをもっともにくみ、どうしてもおそおうとしたが、農会がそれを禁止した。農会の役員は農民にむかってこういった。「駕籠をおそうと、かえって金持ちに金を節約させることになる。駕籠かきも失業するし、自分たちの損ではないか。」農民たちは納得すると新しい手を考えだした。それは、金持ちをこらしめるために駕籠代をうんとつりあげることであった。

酒の醸造と飴あめの製造――米で酒をつくったり、飴をつくったりするのをどこでも禁止したので、酒屋や飴屋は悲鳴をあげている。衡山県の福田舖フーティエンプーというところでは、酒をつくることは禁止しないが、酒の値段を非常に低く釘づけしたために、酒屋はもうからなくなり、つくるのをやめるほかなかった。

豚――豚も穀物をたべるので、一軒で飼育する数を制限した。

鶏、あひる――湘郷県では鶏とあひるを飼うことを禁止したが、婦人たちが反対した。衡山県の洋塘ヤンタンというところでは、一軒に三羽というふうに制限し、福田舖というところでは五羽に制限している。あひるは鶏よりもたちがわるく、穀物を食うばかりでなく、稲をつつきあらすので、多くのところでは飼うのを完全に禁止した。

宴会――ごちそうの多い宴会はどこでも禁止されている。湘潭県の韶山シャオシャンというところでは、客があっても三通りの肉類、つまり鶏と魚と豚しか食わないことを決議している。たけのこ、昆布、はるさめもたべることを禁じている。衡山県では、料理八品で、それ以上は一品もゆるさないと決議した。醴陵県の東三区では、料理五品までとし、北二区では、肉類三品と野菜類三品しかゆるさないし、西三区では、正月のふるまいを禁止した。湘郷県では「たまご菓子づき一卓料理」というそれほどごちそうでもない会席まで禁止した。湘郷県の二区では、ある家で嫁とりのとき、たまご菓子づきの一卓料理をだしたので、農民は禁令にしたがわないといって、おおぜいでおしかけ、会席をめちゃくちゃにした。湘郷県の嘉謨チアモー鎮では、ごちそうを食わないことを実行し、祖先への供物も菓子類ですませている。

牛――これは農民の宝である。「牛を殺したものは牛に生まれかわる」といって、まったく一種の信仰となっており、したがって、牛は殺してはならないものとされている。農民がまだ権力をにぎっていなかったときには、牛の屠殺とさつにただ宗教的な観念による反対しかできず、それを禁止する実力はもっていなかった。農会ができてから、その権力は牛にまでおよぶようになり、町で牛を屠殺することを禁止した。湘潭県の県都には以前牛肉屋が六軒あったが、いまでは五軒がたおれ、のこった一軒は病牛や廃牛をつぶしている。衡山県では、牛の屠殺を全県にわたって禁止した。ある農民は、足を折った牛を殺すのさえ、農会にうかがいをたてなければならなかった。株州チューチョウ商業会議所が軽率に牛一頭を殺したので、農民が町にやってきて罪をなじり、罰金をださせたうえ、謝罪のしるしに爆竹をあげさせた。

ならず者の生活――醴陵県では正月のご祝儀たかり、土地神を讃たたえての銭もらい、流し芸人などを禁止する決議をした。県によっては、禁止しているところもあれば、自然にあとを絶って、そんなことをする人がなくなったところもある。「ゆすりこじき」または「流民」といわれているものは、これまでは非常に凶暴であったが、いまでは農会に屈服するほかなくなっている。湘潭県の韶山というところには雨神廟があって、ふだん流民があつまり、こわいもの知らすであったが、農会ができると、みなこそこそ逃げてしまった。同地の湖堤フーティー郷の農会は、三人の流民をつかまえて、れんが焼きをさせている。年始まわりの悪いしきたりも、禁止することを決議した。

このほかにも、各地の小さな禁令はたくさんある。たとえば、醴陵県では、厄病よけの神をかつぎまわることを禁止し、ぜいたくな食品や供物の贈答、お盆の精霊しょうりょう流し、正月のお飾りなどを禁止した。湘郷県の殻水クーショイというところでは、水ぎせるも禁止した。二区では爆竹や花火を禁止し、爆竹をならしたものには罰金一元二角、花火をあげたものには罰金二元四角をかけた。七区と二十区では法事をすることを禁止し、十八区では香典を贈ることを禁止した。こうしたものをいちいち数えあげるときりがないが、すべてこれらを農民のいろいろな禁止事項という。

これらの禁令には、二つの重要な意義がふくまれている。第一は社会の悪習にたいする反抗であって、牌あそび、ばくち、アヘンなどの禁止がそれである。これらのものは地主階級の悪い政治的環境からうまれたものであり、地主の権力がたおれてしまえば、それといっしょに一掃されるものである。第二は都市商人の搾取にたいする自衛であって、宴会の禁止、ぜいたくな食品や供物の贈答の禁止などがそれである。工業製品は途方もなく高く、農産物は途方もなく安く、農民は非常に貧乏で、商人からひどい搾取をうけているので、自衛のために節約を提唱せずにはおれないのである。さきにのべたように、農民が米穀の県外持ちだしを禁止したのは、貧農が自分の飯米にも不足していて、買いいれなければならないので、米価の値上がりをゆるさないようにするためである。これらはいずれも、農民の貧困および都市と農村との矛盾によるものであって、なにも農民が工業製品や都市と農村との取りひきを拒絶して、いわゆる東方文化主義〔22〕を実行しようというのではない。農民は経済上の自衛のために、共同購入して消費する協同組合を組織しなければならない。また、政府は農民協会が信用(貸付)協同組合を組織できるように援助しなければならない。そうすれば、当然農民は米価をおさえる方法として、米穀の持ちだし禁止をしなくてもよくなり、経済上自衛の方法として、一部の工業製品が農村にはいってくるのを拒絶することもなくなる。

第十 盗賊の一掃

禹、湯、文王、武王の昔から、ずっと清朝の皇帝、民国の総統にいたるまで、どの時代の支配者も、現在の農民協会のように、盗賊を一掃する威力をもったものはひとりもなかった、とわたしはおもう。農会の勢いがさかんなところでは、盗賊など影さえ見せなくなった。よくしたもので、多くの地方では、野菜をぬすむコソ泥さえいなくなった。一部には、まだコソ泥のいるところもあるが、匪賊になると、わたしのまわってきた各県では、たとえ以前匪賊のたくさんいたところでさえ、まったくあとを絶っている。その原因はつぎのとおりである。一つは、農会の会員がどこにでもいて、ひと声かけると、ほこや棍棒をもって、わっとあつまり、匪賊はかくれようもない。二つは、農民運動がおこってから、もみの値段がさがり、昨年の春は一担⑩六元であったものが、昨年の冬はわずか二元になり、人民の食糧問題は以前のように深刻なものではなくなった。三つは、会党〔23〕のものが農会にはいり、農会で公然と合法的に豪傑ぶりを発揮し、うらみをはらすことができるので、「山、堂、香、水」〔24〕といった秘密結社は、存在の必要がなくなった。かれらを抑圧していた土豪劣紳階級にたいし、豚や羊をつぶさせ、重税をおわせ、重罰に処したりして、うっぷんも晴らしたいだけはらした。四つは、各地の軍隊が大量に兵隊を募集したので、「不逞ふていの輩やから」がおおぜいいってしまった。こうしたことから、農民運動がおこると、盗賊の害はあとを絶ってしまった。この点については、顔役や金持ちの側でも農会に賛意をしめしている。かれらのいい方はこうである。「農民協会かね。ほんとうのことをいえば、少しはよいところもある。」

牌あそび、ばくち、アヘンの禁止と盗賊の一掃について、農民協会は一般の人の賛意を得ている。

第十一 苛酷な税金の廃止

全国がまだ統一されず、帝国主義と軍閥の勢力がまだくつがえされていないので、政府に税金を納める農民の重い負担、率直にいえば、革命軍の車費の負担であるが、これはまだとりのぞくてだてがつかない。しかし、土豪劣紳が村政を牛耳っていたとき農民にかけていた苛酷な税金、たとえば地租付加税などは、農民運動がおきて土豪劣紳がたおれたので、廃止されたか、すくなくとも軽減された。これもまた、農民協会の功績の一つといえよう。

第十二 文化運動

中国ではこれまで、地主だけが文化をもち、農民には文化がなかった。しかし、地主の文化は農民がつくりあげたものである。なぜなら、地主の文化は、ほかでもなく、農民からしぼりとった血と汗でつくりあげられたものだからである。中国では文化教育をうけたことのない人民が九〇パーセントをしめているが、そのうちの大多数は農民である。農村で地主の勢力がたおれると、農民の文化運動がはじまった。どうだろう、農民はいままで学校をひどく憎んでいたのに、いまでは夜学校の開設に力をいれている。「洋式学校」は、これまで農民の気にくわぬものであった。わたしは以前、学生のころ郷里にかえり、農民が「洋式学校」に反対するのを見ると、やはり一般の「洋式学生」や「洋式教師」に同調して、洋式学校の利益の側にたち、どうも農民のほうが少しまちがっているような気がしていた。一九二五年に、わたしは農村で半年ばかりくらしたが、このときには共産党員であり、マルクス主義の観点をもっていたので、わたしのほうがまちがっていて、農民のほうがすじのとおっていることがはじめてわかった。村の小学校の教材は、町のことばかりとりあげ、農村の役にはたたない。小学校教師の農民にたいする態度も、非常にわるい。かれらは、農民のたすけにならないばかりか、逆に農民のきらわれものになっていた。だから、農民は学校(かれらは「洋学」といった)よりも寺小屋(かれらは「漢学」といった)の方を歓迎し、小学校の教員よりも寺小屋の先生を歓迎した。ところが、いま、かれらはさかんに農民学校とよばれる夜学校をつくっている。もうすでに開設されたところもあり、いま準備中のところもあるが、平均して一郷ごとに一校ある。かれらは、このような学校の開設に非常に熱心で、このような学校こそ自分たちのものだと考えている。夜学校の経費は、迷信公金、祖先廟の公金、その他あそばせている公共の財産からとっている。これらの公金を、県の教育局は、国民学校、つまり農民には役にたたないあの「洋式学校」の開設につかおうとし、農民はそれを農民学校の開設につかおうとして、もんだあげく、いくらかずつわけあったが、農民が全部獲得したところもある。農民運動が発展した結果、農民の文化水準は急速にたかまった。ほどなく、何万という学校が全省の農村にぞくぞくあらわれてくるだろう。これは、知識階級やいわゆる「教育家」の連中が、口先で「教育の普及」をとなえ、騒ぎまわってみたが、結局口先だけに終わってしまったのとはわけがちがう。

第十三 協同組合運動

協同組合、とくに消費、販売、信用の三種類の協同組合は、たしかに農民にとって必要なものである。かれらは、物を買えば商人に搾取され、農産物を売れば商人に買いたたかれ、金や米を借りると高利貸しに搾取される。かれらは、この三つの問題の解決をさしせまって求めている。 昨年の冬、長江チャンチァンで戦争がおこり、商人の行き来がとだえ、湖南省では塩がたかくなったので、多くの農民は塩を手にいれるために協同組合をつくった。地主が「貸借ごめん」をしたので、金を借りるために「資金貸付所」をつくろうとしている農民もいたるところにいる。大きな問題は、詳細な正規の組織法がないことである。各地の農民が自発的に組織したもののなかには、とかく協同組合の原則にそぐわないものがあるので、農民活動にたずさわっている同志は、「規約」の問題について、いつも熱心に問いあわせてくる。適切な指導があれば、協同組合運動は農会の発展にともなって、各地に発展させていくことができる。

第十四 道つくり、堤つくり

これもまた農会の功績の一つである。農会がなかったころは、農村の道路は非常に悪かった。道をなおすには金がいるが、金をもっているものは金をだそうとしないので、こわれたままにしておくよりほかなかった。多少なおしたとしても、それは、一部の「陰徳を積もうとする」人から報徳事業としていくらかの金をつのって、狭くて粗末な道をつくるだけであった。農会が立ちあがると、命令をくだし、道路のつかいみちに応じて三尺、五尺、七尺、一丈⑪といったぐあいに、道幅の等級をわけ、沿道の地主に命じて、それぞれひとくぎりずつつくらせた。命令が出たからには、だれがさからえよう。まもなく、たくさんのよい道ができあがった。これは、報徳事業ではなく、強制によるものであるが、これくらいの強制は本当に結構なことといえる。堤もまた同様である。強欲な地主は、いつも小作人からものをとりたてるだけで、堤をなおすのには、はした金もだし惜しみ、たとえため池がひあがろうと、小作人が飢え死にしようと、かれらは小作料をとりたてることしか知らなかった。農会ができてからは、地主に堤をなおすよう強制する命令を遠慮なくだせるようになった。地主がなおさないと、農会はおだやかな口調で地主にこういうのである。「よろしい。おまえさんたちがなおさないなら、もみをだしなさい。一人の日当は一斗だ!」地主は、一人の日当がもみ一斗ではとてもひきあわないので、自分でいそいでなおす。こうして、たくさんのこわれた堤がみんなよくなった。

以上の十四のことがらは、いずれも農民が農会の指導のもとでなしとげたものである。その基本的な精神からいって、またその革命的意義からいって、読者諸君、考えてもみたまえ、どれ一つ悪いものがあるだろうか。こういうことを悪いというものは、土裏劣紳だけだと、わたしはおもう。まことに不思議なことに、南昌ナンチャン方面〔25〕からの消息によると、蒋介石、張静江チャンチンチァン〔26〕などの諸先生は、湖南省の農民のやったことにはどうも承服できないという。湖南省の劉嶽峙リウユエチー〔27〕といったたぐいの右派指導者は、蒋、張などの諸公とおなじ意見で、かれらはみな「これはまったく赤化だ!」といっている。これくらいの赤化もなくて、どうして国民革命といえようか。口先では、毎日「民衆をよびおこす」といっていながら、いざ民衆が立ちあがると、すっかりたまげてしまう。これでは、葉公ショーコンが竜をこのんだ物語〔28〕とどれほどの違いがあろう!

注

〔1〕 湖南省は、当時全国の農民運動の中心であった。

〔2〕 趙恒[小+易]は、当時湖南省を支配していた北洋軍閥の代理人である。一九二六年、北伐軍はかれの支配をくつがえした。

〔3〕 辛亥革命とは、一九一一年、専制的な清の王朝をくつがえした革命のことである。この年の十月十日、一部の新式軍隊が、当時のブルジョア階級と小ブルジョア階級の革命団体にうごかされて武昌で蜂起した。これにつづいて各省でもあいついで蜂起したので、清朝の支配はまたたくまにくずれさった。一九一二年一月一日、南京に中華民国臨時政府がつくちれ、孫中山が臨時大総統に選出された。この革命は、ブルジョア階級が農民、労働者および都市小ブルジョア階級との同盟によって勝利をかちとったものである。ところが、この革命はまた、革命の指導者集団がもっていた妥協性によって、農民にほんとうの利益をあたえず、さらに、帝国主義と封建勢力の圧力をうけ、このため政権が北洋軍閥の袁世凱の手におちてしまい、革命はついに失敗した。

〔4〕 「あやまりをただすのに、度をこした」というのは熟語で、本来、あやまりをなおすのに、まもるべき限度をこえたという意味である。しかし、昔は人の行動を束縛し、ふるい秩序を改良する範囲内で行動することだけをゆろして、ふるい秩序を完全に破壊するのをゆるさないために一部の人がよくこのことばをつかった。ふるい秩序を改良する範囲内で行動することが「度」にかなったもので、ふるい秩序を完全に破壊するのは「度をこした」というのである。これはほかでもなく、改良主義者や革命陣営内の日和見主義者の理論でもある。毛沢東同志は、ここでこうした改良主義者の理論を論駁している。「あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせない」とは、ふるい封建的秩序を終結させるには、修正的な――改良的な方法ではなく、大衆の革命的な方法によらなければならない、という意味である。

〔4〕 一九二六年冬から一九二七年の春にかけて北伐軍が長江流域まで進撃したころは、まだ蒋介石の反革命的な正体が十分に暴露されていなかったので、農民大衆はまだかれが革命的だとおもっていた。地主と富農は、蒋介石をきらい、北伐軍は負けた、蒋介石は足に負傷した、というデマをとばした。一九二七年四月十二日、蒋介石は上海などの各地で反革命のクーデターをおこし、労働者を虐殺し、農民を弾圧し、共産党に打撃をくわえ、ここにその反革命的な正体は完全に暴露された。そのときから、地主や富農はかれを支持する態度に変わった。

〔6〕 広東省は、第一次国内革命戦争の時期の最初の革命根拠地であった。

〔7〕 呉佩孚は、北洋軍閥の有名な代表の一人である。かれは有名な買収選挙によって一九二三年に総統になった曹[金+昆]とおなじく、北洋軍閥の直系(つまり直隷省派)であると同時に、曹[金+昆]を首領としていたので、世間ではこれをいっしょにして「曹呉」といっていた。一九二〇年、安徽系軍閥の段祺端をうちやぶってから、かれは北洋軍閥政府の政局を左右するようになり、英米帝国主義の代理人になり、一九二三年二月七日には、京漢鉄道のストライキ労働者を大虐殺した。一九二四年、張作霖との戦争(一般には「直奉戦争」とよばれている)で失敗すると、呉佩孚は北京政権から失脚した。だが、一九二六年、日英帝国主義の策動で、かれはまた張作霖と提携することによって再起した。一九二六年、広東省を出発した北伐軍が最初にうちたおした敵はこの呉佩孚である。

〔8〕 三民主義というのは、孫中山が中国のブルジョア民主主義革命について提起した民族、民権、民生の三つの問題の原則と綱領である。一九三四年、孫中山は「国民党第一回全国代表大会の宣言」のなかで、三民主義にあらたな解釈をくだし、民族主義を帝国主義反対と解釈するとともに労働者・農民の運動にたいして積極的な支持の意をしめし、それによって旧三民主義を連ソ、連共、農労援助の三大政策を内容とする新三民主義に発展させた。この三大政策を内容とする新三民主義は、第一次国内革命戦争の時期における中国共産党と国民党との合作の政治的基礎となった。本選集第二巻の『新民主主義論』の第十節を参照。

〔9〕 富農か農民協会へ加入するのをゆるすべきではなかったが、一九二七年当時、農民大衆はまだこのことを知らなかった。

〔10〕 毛沢東同志がここでいっている「赤貧」には、作男(農村プロレタリア)および農村のルンペン・プロレタリアがふくまれる。

〔11〕 農村の半プロレタリア階級をさす。

〔12〕 当時の国民党県党部をさす。

〔13〕 袁祖銘は、当時、湖南省西部一帯に根をはっていた貴州省の軍閥である。

〔14〕 湖南省の都と団は区と郷にあたる。旧式の都と団の郷政機関は、地主が農民を支配する道具であった。都、団の首長を「都総」「団総」といった。

〔15〕 土地付加税とは、当時の豪紳政権が、もとからとりたてていた地租のほかに、田畑の面積に応じて農民にわりあてた苛酷な税金である。

〔16〕 督軍とは、北洋軍閥の支配権力が各省においた軍事首脳の称号である。督軍は実際上、全省の軍事、政治の大権を一手ににぎり、その省内の独裁者であった。かれらは帝国主義者と結託し、地方で封建的、軍事的割拠をおこなった。

〔17〕 挨戸団常備隊とは、当時の農村の武装組織の一種である。「挨戸」とは、ほとんど各戸ごとに人をだすという意味である。一九二七年、革命が失敗したあと、多くの地方の「挨戸団」は地主にのっとられ、反革命の武装組織に変わった。

〔18〕 当時、武漢の国民党中央執行委員会の指導下にあった各地の国民党県党部の多くは、連ソ、連共、農労援助という孫中山の三大赦策を実行する組織であり、共産党員、国民党左派およびその他の革命的な人びとの革命的同盟体であった。

〔19〕 このことばは『孟子』から引用したもので、だいたいの意味は、人に弓をおしえることの上手な人は、弓をいっぱいにひきしぼりながら、矢をはなたず、いまにもはなとうとする姿勢をとるということである。ここでは、共産党が、農民にたいして迷信その他のよくない風俗習慣をとりのぞくよう命令したり、農民にかわってそれをとりのぞいたりするのではなく、政治的自覚を十分にもつように農民を導いてから、農民の自発的意志でみずからそのようにするのを待たなければならないということをたとえているのである。

〔20〕 唐生智は、当時革命の側にたって北伐戦争にくわわった将軍である。葉開[金を森のように三つ並べる]は、当時北洋軍閥の側にたって革命に反対した将軍である。

〔21〕 孫伝芳は、当時長江以南の五省を支配していた軍閥であり、上海労働者の蜂起を弾圧した下手人である。かれの軍隊の主力は、一九二六年の冬、江西省の南昌、九江一帯で北伐軍に撃破された。

〔22〕 東方文化主義とは、東方のたちおくれた農業生産と封建的文化を保存することに満足して、近代的な科学文明を排斥する一種の反動的思想である。

〔23〕 『中国社会各階級の分析』の注〔15〕を参照。

〔24〕 山、堂、香、水とは、原始的秘密結社の派の名称である。

〔25〕 北伐軍は、一九二六年十一月に南昌を占領すると、蒋介石は機に乗じて、かれの総司令部をここにもうけた。かれは当時の革命的な武漢に対抗するため、国民党右派や北洋軍閥系の一部の政客をよびあつめ、帝国主義と結託して、反革命の陰謀をすすめた。一九二七年四月十二日、蒋介石はついに上海で革命を裏切る大虐殺のクーデターをおこした。

〔26〕 張静江は、当時の国民党右派の頭目のひとりで、蒋介石のためにあれこれ画策した人物である。

〔27〕 劉嶽峙は、当時、湖南省の重要な反共団体「左社」の獺目である。

〔28〕 葉公竜をこのむとは、漠代の劉向があらわした書物『新序』のなかのつぎの故事にもとづく。

「葉公子高は竜をこのんだ。かれは鉤かぎ(武器)にも竜をほりつけ、鑿のみ(用具)にも竜をほりつけ、居室の飾り模様にも竜をほりつけた。天の竜がこれを聞いて降りてきて、窓から頭をのぞかせ、母屋に尾をのはした。葉公はそれをみるや、魂も消しとび、いろをうしない、一目散ににげだした。葉公は竜をこのんだのではなく、竜に似て竜でないものをこのんだのである。」毛沢東同志はここでは、蒋介石のやからが口では革命をとなえなから、実際には革命をおそれ、革命に反対したことにたとえたのである。

訳注

① 農民協会(略称は農会)とは、第一次国内革命戦争の時期に、広範な農民が中国共産党の指導のもとに、地主・豪紳階級と闘争するためにつくった大衆的な組織である。

② 一九二五年七月、中国共産党の指導と支持によって、広州の革命政府は国民政府に改組され、つづいて黄埔軍官学校の学生を中核とする国民革命軍が創設された。当時、この部隊の政治工作は、大部分、共産党員がうけもっていた。一九二六年七月、北京を中心とする全国的な反動支配をくつがえすために、国民政府は「北伐宣言」を発表し、国民革命軍が三路にわかれて北伐の征途についた。この軍隊を一般に北伐軍とよぶ。

③ 中国古代の貴族支配を維持する一種の制度。父系家長制から転化したもので、周代にしだいに完全なものとなり、何千年もつづいた。この制度では長男が家父長の地位、財産、爵位をうけつぐことになっており、そこから一定の同族関係が構成された。その後、同族支配体系の制度は、さらに、封建的な身分制度、「天命」の思想、鬼神をうやまう宗教や迷信と結びついて、封建的同族支配体系の思想、制度全体を構成していた。

④ 省、県、郷は、いずれも中国の行政区画の単位である。省と県のあいだに専署が設けられているところもあり、県と郷のあいだに区が設けられているところもある。郷とはいくつかの自然村をあわせたもの、村とは一般に農家の集落をさす。一九五八年、政社合一の人民公社ができてから、それが郷にとってかわった。

⑤ 元は貨幣の単位で、一元は十角、一角は十分にあたる。一分は、銅貨若干文に相当する。一元の銀貨はふつう純銀約二四グラムをふくんでいた。

⑥ 団防局とは、当時の湖南省の「都」(すなわち区)の行政機関がもっていた、独立した反動的な武装組織のことである。本文の「第四、土豪劣紳の封建的支配をくつがえした――都、団をうちたおしたこと」を参照。

⑦ 知事と県長はどちらも県行政の最高責任者である。北洋軍閥の支配した時期には知事とよんだが、のちに北伐軍が到達して、県の行政組織を改組したところでは県長とよんだ。毛沢東同志がこの論文を書いたころ、湖南省では北伐軍の勢力と北洋軍閥の勢力が同時に存在していたため、一部のところではすでに県長と改称したが、一部ではまだ知事とよんでいた。

⑧ 玉皇上帝とは、道教があがめる神のなかで、地位のもっとも高く、職権のもっとも大きい神である。

⑨ 包公(包拯)は、北宋(西紀九六〇~一二一七年)の都、開封府の府知事であった。旧社会では、封建的支配階級の欺瞞的な宣伝によって、「廉直な」役人で、「正しい」裁きをした、と信じられていた。

⑩ 担とは重量の単位で、旧制では一担は百斤、一斤は十六両で、普通一担は六十キログラムであるが、地方によって重さがまちまちで六十キロをこえたところもめった。いまの新しい制度では一坦は百斤、一斤は十両で、一担は五十キログラムである。

⑪ 中国の三尺は一メートルに相当する。なお、一丈は十尺、一尺は十寸にあたる。

第二次国内革命戦争の時期

第二次国内革命戦争の時期

中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか

(一九二八年十月五日)

これは、毛沢東同志が党の湖南・江西辺区第二回代表大会のために書いた決議の一部分で、もとの題名は「政治問題と省境地区の党の任務」であった。

一 国内の政治情勢

現在の国民党新軍閥の支配は、依然として都市の買弁階級と農村の豪紳階級の支配であって、対外的には帝国主義に投降し、対内的には新車閥が旧軍閥にとってかわり、労農階級にたいする経済的搾取と政治的抑圧は、まえよりもいっそうひどくなっている。広東省からはじまったブルジョア民主主義革命は、中途で買弁・一家紬階級に指導権をさらわれて、たちまち反革命の方向にむけられてしまい、全国の労・農・平民からブルジョア階級〔1〕までが、依然として反革命の支配下におかれており、政治的にも経済的にも、少しも解放されていない。

国民党新軍閥の蒋チァン、桂コイ、馮フォン、閻イェンの四派〔2〕は、北京ペイチン、天津ティエンチンを攻めおとすまでは、張作霖〔3〕に対抗して一時的に結束していた。北京、天津を攻めおとしてしまうと、この結束はたちまちくずれて、局面は四派の内部のはげしい闘争に変わり、しかも蒋派と桂派とのあいだには戦争がはらまれている。中国内部の軍閥各派の矛盾と闘争は、帝国主義諸国の矛盾と闘争を反映している。したがって、帝国主義諸国が中国を分割している状態が存在するかぎり、軍閥各派はどうしても妥協できるものではなく、どのような妥協も一時的なものである。今日の一時的な妥協は、明日のもっと大きな戦争をはらんでいる。

中国はブルジョア民主主義革命をさしせまって必要としているが、この革命をなしとげるにはプロレタリア階級が指導しなければならない。広東省からはじまり、長江にむかって発展した一九二六年から一九二七年にかけての革命は、プロレタリア階級が自己の指導権を断固として行使しなかったために、指導権を買弁・豪紳階級にうばいとちれ、反革命が革命にとってかわった。ブルジョア民主主義革命はこうして一時的失敗をなめた。中国のプロレタリア階級と農民は、この失敗で、大きな打撃をうけ、中国のブルジョア階級(買弁・豪紳階級でない)もまた打撃をうけた。だが、最近数ヵ月のあいだに、共産党に指導された労農階級による組織的な都市のストライキと農村の暴動は、南北各地で発展している。軍閥の軍隊の内部では兵士たちのあいだに、飢えと寒さから大きな不安がうまれている。他方、ブルジョア階級も汪精衛ワンチンウェイ、陳公博チェンコンポー一派にあおられて、沿海および長江流域の各地にかなり大きな改良主義運動〔4〕を発展させている。この運動の発展は新しい事実である。

中国の民主主義革命の内容は、コミンテルンおよび党中央の指示によると、帝国主義およびその手先である軍閥の中国での支配をくつがえし、民族革命を達成することと、土地革命を実行し、農民にたいする豪紳階級の封建的搾取をなくすことである。このような革命の実際の運動は、一九二八年五月の済南チーナン虐殺事件〔5〕以後、日一日と発展している。

二 中国赤色政権〔6〕の発生と存在の原因

一国のなかで、一つの小さな、あるいはいくつかの小さな赤色政権の地域が、周囲を白色政権にとりかこまれながら、長期にわたって存在することは、いままで世界のどの国にもなかったことである。このような不思議なことがおこるには、それなりの特有の原因がある。またその存在と発展にも、かならずそれに相応した条件がある。第一に、こうしたことは、どの帝国主義国にも、また帝国主義が直接に支配しているどの植民地にもおこりえない〔7〕が、帝国主義が間接に支配している、経済的におくれた半植民地の中国では、必然的におこるのである。なぜなら、このような不思議な現象は、かならず白色政権のあいだの戦争というもう一つの不思議な現象とむすびついているからである。帝国主義と国内の買弁・豪紳階級の支持している新旧軍閥の各派は、民国元年いらい、たがいにたえまのない戦争をつづけている。これが半植民地中国の特徴の一つである。全世界の帝国主義国のどの国にも、このような現象がないばかりでなく、帝国主義が直接に支配している植民地のどこにも、このような現象はない。このような現象があるのは、帝国主義が間接に支配している中国のような国だけである。このような現象のうまれた原因は二つある。すなわち、地方的な農業経済(統一された資本主義経済ではない)および勢力範囲を分割する帝国主義の分裂と搾取の政策である。白色政権のあいだに長期にわたる分裂と戦争があるので、共産党の指導する一つの小さな、あるいはいくつかの小さな赤色地域が、周囲を白色政権にとりかこまれながら発生し、もちこたえていける一つの条件がうまれている。湖南フーナン・江西チァンシー省境地区①での割拠も、こうしたたくさんの小さな地域のうちの一つである。一部の同志は、困難なとき、危険がせまっているときには、とかくこのような赤色政権の存在に疑いをもち、悲観的な気持ちをおこす。それは、このような赤色政権が発生し存在する理由について、正しい解釈をみいだしていないからである。われわれは、中国における白色政権の分裂と戦争がたえまなくつづくということを知りさえすれば、赤色政権が発生し、存在し、しかもそれが日ましに発展していくことには、疑いをもたなくなる。第二に、中国で赤色政権がさいしょに発生し、長期にわたって存在することのできる地方は、四川スーチョワン省や貴州コイチョウ省や雲南ユインナン省および北方各省のような、民主主義革命の影響をうけたことのない地方ではなく、湖南、広東、湖北フーペイ、江西の各省のように、一九二六年と一九二七年の二年にわたるブルジョア民主主義革命の過程で、労農兵大衆が、かつて大きく立ちあがったことのある地方である。これらの省の多くの地方では、かつて労働組合と農民協会がひじょうに広範に組織されたことがあり、地主・豪紳階級とブルジョア階級にたいして労農階級が多くの経済的、政治的闘争をおこなったことがある。だから、広州コワンチョウでは、三日にわたる都市の民衆政権がつくられたことがあり、海豊ハイフォン・陸豊ルーフォン県、湖南省東部、湖南省南部、湖南・江西省境地区、湖北省の黄安ホワンアン県などでは、農民による割拠がおこなわれたことがある〔8〕。いまの赤軍についていえば、やはり民主的な政治訓練をうけ、労農大衆の影響をうけた国民革命軍のなかから分化してきたものである。民主的な政治訓練を少しも受けたことがなく、労働者、農民の影響を少しも受けたことのない軍隊、たとえば閻錫山イェンシーシャンや張作霖の軍隊から赤軍を構成できる部分が分化してくることは、いまのところけっしてありえない。第三に、小地域の民衆政権が長期にわたって存在することができるかどうかは、全国の革命情勢が発展するかどうかという条件によってきまる。全国の革命情勢が発展していくのであれば、小さな赤色地域が長期にわたって存在することは疑う余地がないばかりでなく、またそれは必然的に、全国的な政権をかちとるための多くの力のなかの一つとなる。もし全国の革命情勢がひきつづき発展するのではなく、比較的長期にわたる停滞がおこるとすれば、小さな赤色地域が長期にわたって存在することは不可能である。現在の中国の革命情勢は、国内の買弁・豪紳階級および国際ブルジョア階級のたえまない分裂と戦争にともない、ひきつづき発展している。したがって、小さな赤色地域が長期にわたって存在することには疑う余地がないはかりでなく、これらの赤色地域は発展をつづけ、しだいに全国的な政権の獲得にちかづいていくであろう。第四に、相当の力をもつ正規の赤軍の存在は、赤色政権の存在にとって欠くことのできない条件である。もし地方的性格の赤衛隊〔9〕だけで、正規の赤軍がないとすれば、挨戸団アイホートワンにはたちむかうことができても、正規の白色軍隊にたちむかうことはできない。だから、優秀な労農大衆がいても、相当の力をもつ正規の武装組織がなければ、けっして割拠の局面をつくりだすことはできないし、まして、長期にわたって日ましに発展していく割拠の局面をつくりだすことなどはできない。だから、「労農武装割拠」という思想は、共産党や割拠地区の労農大衆が十分にのみこんでおかなければならない重要な思想である。第五に、赤色政権が長期にわたって存在し、しかも発展するには、以上にのべた条件のほかに、もう一つ重要な条件がなければならない。それは、共産党の組織が強力であること、その政策にあやまりがないことである。

三 湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗

軍閥のあいだの分裂と戦争は、白色政権の支配力をよわめた。だから、小地域の赤色政権がその機に乗じてうまれることができたのである。だが、軍閥のあいだの戦争は、毎日つづいているわけではない。一つの省あるいはいくつかの省の白色政権が、一時的な安定をたもっているばあいには、その一つの省の支配階級またはいくつかの省の支配階級は、かならず連合し、全力をあげてこの赤色政権を消滅しようとする。赤色政権を樹立しもちこたえていくのに必要な各種の条件がまだ十分にそなわっていないところでは、敵にうちたおされる危険性がある。ことしの四月以前に、機に乗じてつくられた多くの赤色政権、たとえば広州、海豊・陸豊県、湖南・江西省境地区、湖南省南部、醴陵リーリン県、黄安県の各地の赤色政権が、前後して白色政権によって破壊されたのも、こうした理由からである。四月以降の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された軍隊はいつも八、九コ連隊以上の兵力をもち、多いときには十八コ連隊にもたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらずの兵力で四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆政権の組織を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日とつよめたが、その原因は、湖南・江西省境地区の共産党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、党の省境地区特別委員会と軍事委員会②のとった政策は、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄ルオシァオ山脈〔10〕の中部地域に政権を樹立すること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、正規の軍隊は地方の武装組織の発展をたすけること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵にたちむかうこと、割拠地区の拡大は暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることであった。これらの戦術が適切であったうえに、地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったため、四月から七月までの四ヵ月間に、何回も勝利をおさめたのである。敵はわれわれに数倍する軍隊をもちながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、この割拠がますます拡大していくのを阻止することもできなかった。しかも、この割拠が湖南、江西両省にあたえている影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志が、そのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解せず、逆に、支配階級が政治的に分裂している時期にとる戦略をとり、兵力をわけて暴進したためであり、それで、省境地区と湖南省南部はどちらも失敗したのである。湖南省委員会代表の杜修経トウシウチン同志は、当時の情勢をみきわめず、省境地区特別委員会、軍事委員会および永新ヨンシン県委員会の合同会議の決議を無視し、湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らす、闘争からのがれて郷里にかえりたがっている赤軍第三十九連隊の意見に追随した。そのあやまりは実に大きかった。このような失敗の情勢は、九月以後になって、省境地区特別委員会と軍事委員会があやまりをただす措置をとったので、もちなおされたのである。

四 湖南・江西省境地区での割拠の局面が湖南、湖北、江西三省ではたす役割

寧岡ニンカン県を中心とする湖南・江西省境地区での労農武装割拠の意義は、けっして省境地区の数県にかぎられるものではない。このような割拠は、湖南、湖北、江西三省の労働者、農民が暴動によって三省の政権をうばいとる過程で、大きな意義をもっている。省境地区での土地革命と民衆政権の影響を、とおく湖南、江西両省の湘江シァンチァンと[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江カンチァンの下流地帯、さらには湖北省にまでおよぼすこと、赤軍が闘争のなかでますますその数をふやし、質をたかめ、将来、三省における全面的な暴動のさいに、そのはたすべき使命をはたすくとができるようにすること、各県の地方武装組織、すなわち赤衛隊や労農暴動隊の数をふやし、質をたかめて、当面は挨戸団や少数の軍隊とたたかい、将来は省境地区の政権をまもることのできるものにすること、赤軍からの派遣にたよることをだんだんすくなくして、地方の要員が完全に自立できるようにし、省境地区の活動にはその地区の要員をあて、さらにすすんで赤軍にも、拡大された割拠地域にも要員をおくりこむことができるようにすること――これらは、いずれも、省境地区の党が湖南、湖北、江西三省の暴動の発展のなかでになう、きわめて重要な任務である。

五 経済問題

周囲を白色勢力にとりかこまれているので、軍隊や人民の日用必需品や現金の欠乏は、きわめて大きな問題になっている。この一年来、省境地区政権が割拠している地区では、敵のきびしい封鎖によって、食塩、綿布、薬品などの日用必需品がいつもひどく欠乏しており、価格もひどくたかいので、労働者、農民、小ブルジョア階級〔11〕の大衆や赤軍兵士大衆の生活は困難をきたし、ときには、まったく極点にたっした。赤軍は戦争をしながら、給養をまかなわなければならない。毎日、主食をのぞいた五分③の副食費にさえこと欠き、栄養は不足し、病人は続出し、入院中の負傷兵の状態はいっそう苦しい。このような困難は、全国的な政権をかちとるまでは、もちろんさけられないことではあるが、このような困難をいくらかでも解決し、生活をいくらかでもよくすること、とくに赤軍の給養をいくらかでも充実させることが、さしせまって必要となっている。省境地区の党が経済問題にたいする適切な措置をとることができなければ、敵の勢力がなおも比較的長期間にわたって安定するであろう条件のもとでは、割拠は大きな困難にぶつかるであろう。この経済問題をある程度解決することは、たしかに、一人ひとりの党員が心がけなければならないことである。

六 軍事根拠地の問題

省境地区の党には、もう一つの任務がある。すなわち大・小の五井〔12〕と九隴との二つの軍事根拠地をかためることである。水新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]リン県、寧岡、遂川スイチョワンの四県の境にある大・小の五井山区と、水新、寧岡、茶陵チャーリン、蓮花リェンホワの四児の境にある九隴川区のこの地形の有利な一つの他方、とりわけ民衆からの支持もあり、地形もきわめて険要な大・小の五川は、現在、省境地区での重要な軍事根拠地であるばかりでなく、湖南、湘北、江西三省で暴動が発展する将来においても、やはり重要な軍事根拠地になる。この根拠地をかためる方法は、第一に、完備した陣地をきずくこと、第二に、十分な食糧をたくわえること、第三に、比較的よい赤軍病院をつくることである。この三つのことを着実になしとげることが、省境地区の党の努力しなければならない点である。

注

〔1〕 毛沢東同志かここでさしているのは、民族ブルジョア階級のことである。毛沢東同志は、一九三五年十二月に書いた『日本帝国主義に反対する戦術について』および、一九三九年十一月に書いた『中国革命と中国共産党』という論文のなかで、買弁ブルジョア階級と民族ブルジョア階級の区別についてくわしく説明している。

〔2〕 蒋派とは蒋介石派をさす。桂派とは広西省軍閥の李宗仁、白崇禧派をさす。馮派とは馮玉祥派をさす。閻派とは山西省軍閥の閻錫山脈をさす。かれらは連合して張作霖と戦い、一九二八年六月、北京と大和を占領した。

〔3〕 張作霖は奉天系軍閥の首領である。一九二四年、呉佩孚が第二次直奉戦争でやぶれてからは、張作霖が中国北部でもっとも勢力のある軍閥になった。一九二八年、かれは呉佩孚と連合して北京を占拠した。一九二八年六月、北京から東北地方に退去する途中、これまでかれを道具として利用してきた日本帝国主義者によって爆死させられた。

〔4〕 一九二八年五月三日、日本侵略者が済南を占領し、蒋介石が恥しらずにもおおっぴらに日本と妥協すると、かつて一九二七年の反革命クーデターに追随した民族ブルジョア階級の一部は、自分たちの利益のため、したいに蒋介石政権にたいする在野反対派を形成するようになった。当時、汪精衛、陳公博らの投機的な反革命の政派は、この運動のなかでうごきまわり、国民党内のいわゆる「改組派」を形成した。

〔5〕 一九二八年、蒋介石は日本帝国主義の支持のもとに、北上して張作霖を攻撃した。日本帝国主義は、英米勢力の北部にのびるのをはばむため出兵して、山東省の省都済南を占領し、津浦鉄道(天津―浦口)をたちきった。五月三日、日本侵略軍は済南で数多くの中国人を虐殺した。これを「済南虐殺事件」という。

〔6〕 中国赤色政権の組織形態は、ソビエト政権に似ている。ソビエトとは代表者会議のことで、ロシアの労働者階級が一九〇五年の革命のときにつくりだした一種の政治制度である。レーニンとスターリンはマルクス主義の理論から出発して、ソビエトの共和国が、資本主義から社会主義への過渡期におけるもっとも適切な社会政治組織形態だという結論をひきだした。一九一七年、ロシアの十月社会主義革命は、レーニンとスターリンのボリシェビキ党の指導のもとに、世界ではじめてプロレタリア独裁の社会主義のソビエト共和国をうちたてた。中国では、一九二七年に革命が失敗したのち、中国共産党が毛沢東同志を先頭として指導した各地の人民大衆の革命蜂起は、代表者会議をもって民衆政権の形態とした。しかし、中国のこの革命段階では、こうした政権の性質は、プロレタリア階級の指導する反帝、反封建の新民主主義革命の人民民主主義独裁であり、ソ連のプロレタリア独裁の政治権力とは区別される。

〔7〕 第二次世界大戦中、もとイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義の支配下にあった東方の多くの植民地は、日本帝国主義者に占領された。それらの植民地の労働者、農民、都市小ブルジョア階級の大衆と民族ブルジョア分子は、共産党の指導のもとに、イギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義と日本帝国主義との矛盾を利用して、ファシストの侵略に反対する広範な統一戦線を結成し、抗日根拠地をうちたて、苦難にみちた抗日遊撃戦争をすすめて、第二次世界大戦前の政治情勢を転換させはじめていた。第二次世界大戦が終わって、日本帝国主義が追いだされると、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの帝国主義は、もとの植民地支配をつづけようとしたが、各植民地の人民は、すでに抗日戦争のなかで、相当な力をもつ武装勢力をきたえあげていて、これまでのような状態には甘んじなくなった。しかも、ソ連が強大になっていたこと、アメリカをのぞくすべての帝国主義国が、戦争中あるものはうちたおされ、あるものはよわめられていたこと、さらに中国革命の勝利が中国における帝国主義の戦線をつきやぶったこと、こうしたことによって、帝国主義制度全体はすでに世界的に大きくゆらいでいた。こうして、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの各植民地、および半植民地の人民も、だいたい中国とおなじように、大小さまざまの革命根拠地と革命政権をもちこたえることができ、農村をもって都市を包囲する革命戦争を長期にわたって堅持することができ、さらにそこから一歩一歩おしすすめて、都市をうばい、その植民地と半植民地で全国的な範囲での勝利をかちとることができるようになった。こうした新しい情勢にもとづいて、帝国主義の直接支配する植民地の条件のもとでという、この問題についての毛沢東同志の一九二八年の観察は、すでにあらためられている。

〔8〕 これは、一九二七年、蒋介石、汪精衛があいついで革命を裏切ったのち、各地の人民が共産党の指導のもとで最初におこした反革命勢力にたいする反撃行動をさす。広州では、一九二七年十二月十一日、労働者と革命的な兵士が連合して蜂起し、人民の政権をうちたてて、帝国主義の直接援助のもとにあった反革命軍隊にたいして、はげしい戦闘をおこなったが、力の差があまりに大きかったため、この人民の蜂起は失敗した。広東省東部沿海の海豊・陸豊県などの農民は、一九二三年から一九二五年にかけて、共産党員彭湃同志の指導のもとで、強大な運動をおこし、反革命派陳炯明にたいする広州国民革命軍の二回にわたる東征の勝利に、大きな援助をあたえた。一九二七年四月十二日、蒋介石が革命を裏切ると、この地方の農民は、四月、九月、十月の前後三回にわたって蜂起し、海豊、陸豊一帯に革命政権をうちたて、一九二八年四月までもちこたえていた。湖南省東部では、一九二七年九月、蜂起した農民が瀏陽、平江、醴陵、株州の各県一帯を占拠したことがある。それとおなじときに、湖北省東北部の孝感、麻城、黄安などの県でも、数万の農民が武装蜂起し、三十数日間黄安県の県郡を占領した。湖南省南部では、一九二八年一月、宣章、[林+”おおざと”]州、耒陽、永興、資興などの諸県で蜂起した農民が、三ヵ月ものあいだ、革命政権をうちたてたことがある。

〔9〕 赤衛隊とは革命根拠地の大衆の武装組織のことである。赤衛隊の隊員は平常、生産に従事している。

〔10〕 羅霄山脈は、江西省と湖南省の省境にある大きな山脈で、井岡山はその中部にある。

〔11〕 毛沢東同志がここでいっている小ブルジョア階級は、農民以外の手工業者、小商人、さまざまな自由職業者および小ブルジョア階級出身の知識層のことである。中国では、これらの社会構成要素はおもに町にあるが、農村でもかなりの数をしめている。『中国社会各階級の分析』を参照。

〔12〕 大・小の五井山区というのは、江西省西部の永新、寧岡、遂川、湖南省東部の[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の四県にまたがる井岡山のことをさす。井岡山には、大井、小井、上井、中井、下井というところがあるからである。

訳注

① 湖南・江西省境地区とは、一九二七年十月、毛沢東同志が秋収蜂起の部隊をひきいて井岡山についてからうちたてた、中国最初の農村革命根拠地である。こうした革命根拠地は、プロレタリア階級の指導のもとに、労農同盟に依拠し、革命武装組織によってうちたてられたため、「労農武装割拠」ともよばれた。これらの革命根拠地は、最初はいずれも、いくつかの省の境界地区につくられたので、「省境地区」とよばれ、のちには「辺区」とよばれた。抗日戦争の時期には、共産党の指導する軍隊がうちたてたこのような革命根拠地は、「抗日根拠地」とよばれ、「辺区」ともよばれ、「解放区」ともよはれた。第三次国内革命戦争の時期になると、こうした革命根拠地は、一般に「解放区」とよばれた。

② 省境地区特別委員会とは、中国共産党湖南・江西省境地区特別委員会をさし、当時、省委員会と県委員会の中間段階にある党機関であった。軍事委員会とは、湖南・江西省境地区労農赤軍第四軍の党の軍事委員会のことで、軍隊内の党の最高指導機関であり、同時に、省境地図軍事委員会として、省境地区赤軍および地方武装組織を指揮した。

③ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』訳注⑤を参照。

井岡山の闘争

(一九二八年十一月二十五日)

これは、毛沢東同志が中国共産党中央に送った報告である。

湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗

一国のなかに、周囲を白色政権にとりかこまれながら、一つの小さなあるいはいくつかの小さな赤色政権地域かうまれるのは、いまの世界では、ただ中国だけにみられることである。それがうまれた原因を分析してみると、その一つは、中国では買弁・豪紳階級の内部にたえず分裂と戦争があることである。買弁・豪紳階級の内部の分裂と戦争がつづくかぎり、労働者・農民の武装割拠もまたひきつづき存在し、発展することができるであろう。そのほかに、労働者・農民の武装割拠が存在し、発展するためには、なおつぎの条件がそなわっていなければならない。(1)優秀な大衆がいること、(2)優秀な党があること、(3)相当の力をもつ赤軍があること、(4)作戦に有利な地形があること、(5)給養をまかなえるだけの経済力があること、である。

支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期とでは、割拠地区は、周囲の支配階級にたいしてちがった戦略をとらなければならない。支配階級の内部に分裂がおきた時期、たとえば湖南フーナン、湖北フーペイ両省でいうと李宗仁リーツォンレン、唐生智タンションチーが戦争をした時期〔1〕、広東コワントンでいうと張発奎チャンファーコイ、李済深リーチーシェンが戦争をした時期〔2〕には、われわれの戦略は、やや暴進してもよく、軍事力によって割拠を発展させる地方はやや広くしてもよい。だが、白色テロがおそってきたときに、びくともしないそなえをしておくためには、やはり中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそぐ必要がある。支配階級の政権が比較的安定している時期、たとえば今年四月以後の南方各省のばあいには、われわれの戦略は逐次前進するというものでなければならない。この時期に、軍事の面でもっとも禁物とすることは、兵力をわけて暴進することであり、地方活動の面(土地の分配、政権の樹立、党の拡大、地方の武装組織の建設)でもっとも禁物とすることは、中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそがないで、人力をばらばらに分散することである。各地で多くの小さな赤色地域が失敗したのは、客観的に条件がそなわっていなかったからか、あるいは主観的に戦術があやまっていたからである。戦術にあやまりがあったのは、もっぱら、支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期というこの二つの異なった時期をはっきり区別しなかったためである。支配階級の政権が一時的に安定しているときでも、一部の同志は、敵の側から挨戸団アイホートワンのほかに、集中的に正規の軍隊が攻撃してくるということをまったく知らないかのように、兵力をわけて暴進することを主張し、赤衛隊だけでひろい地方を防衛することさえ主張した。地方活動の面では、中心区域にしっかりした基礎をつくることにまったく心をそそがず、主体的な力の可能性を考えないで、ただ無制限に拡大しようとするだけである。もしだれかが、自己を不敗の地におこうとして、軍事の面で一歩一歩拡大する政策をとることを主張し、地方活動の面で力を集中して中心区域にしっかりした基礎をつくることを主張するならば、それに「保守主義」というレッテルをはった。かれらのこのようなあやまった意見こそ、ことしの八月に湖南・江西チァンシー省境地区でなめた失敗と、そのころ赤軍第四軍が湖南省南部でなめた失敗の根本原因である。

湖南・江西省境地区での活動は、昨年の十月からはじまった。最初は、各県ともぜんぜん党の組織がなくなっていて、地方の武装組織としても、ただ袁文才ユァンウェンツァイ、王佐ワンツォがそれぞれ六十ちょうのぼろ銃をもって井岡山チンカンシャン付近にいただけで、永新ヨンシン、蓮花リェンホワ、茶陵チャーリン、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]リン県の四県の農民自衛軍の武装は全部豪紳階級に解除されてしまい、大衆の革命的な情熱はすでにおしひしがれていた。ことしの二月になると寧岡ニンカン、永新、茶陵、遂川スイチョワンにはいずれも党の県委員会ができ、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県には特別区委員会ができ、蓮花にも党の組織ができはじめ、万安ワンアン県委員会とも連絡がついた。地方の武装組織は、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県をのぞいて、各県にみな少しずつできた。寧岡、茶陵、遂川、永新、とくに遂川、永新の二県では、何回となく豪紳打倒、大衆動員のための遊撃的暴動をおこし、成果はみなよい方であった。この時期には、土地革命はふかまっていなかった。政権機関は労農兵政府とよばれた。軍隊内には兵士委員会〔3〕が組織された。部隊が分散して行動するときには、行動委員会が組織されて指揮にあたった。この時の党の高級指導機関は、秋収蜂起のさいに湖南省委員会が任命した前敵委員会①(書記は毛沢東マオツォートン)であった。三月上旬、前敵委員会は湖南省南部特別委員会の要求によって解消され、師団委員会(何挺穎ホーティンインが書記)に組織がえされ、軍隊内の党だけを統轄する機関にかわり、地方の党にたいしては口出しできなくなった。同時に、毛沢東の部隊もまた、湖南省南部特別委員会の要求によって湖南省南部に移動させられ、そのため、この省境地区は一ヵ月余にわたって敵に占領された。三月末、湖南省南部で失敗し、四月に朱徳チュートー、毛沢東の両部隊と湖南省南部の農民軍は寧岡まで撤退してふたたび省境地区の割拠をはじめた。

四月以後の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された反動軍隊は、少ないときでも八、九コ連隊、多いときには十八コ連隊にたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらすの兵力で、四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆の政権を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日と拡大した。その原因は省境地区の党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、省境地区特別委員会(毛沢東が書記)と軍事委員会(陳毅チェンイーが書記)の政策はつぎのとおりである。すなわち、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄ルオシァオ山脈の中部地域に政権をつくること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、軍隊の武装組織は地方の武装組織の発展をたすけること、敵の支配勢力の比較的つよい湖南省にたいしては守勢をとり、支配勢力の比較的よわい江西省にたいしては攻勢をとること、氷新県の発展に大きな力をそそぎ、大衆的割拠をつくりだし、長期闘争の体勢をととのえること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵を迎えうつこと、割拠地区の拡大については、暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることである。これらの戦術が適切であったうえに、省境地区の地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったために、四月から七月までの四ヵ月間の何回もの軍事的勝利と大衆的割拠の発展がえられた。敵はわが軍に数倍しながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、割拠の発展を阻止することもできなかった。この割拠が湖南、江西両省にあたえる影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志がそのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解しないで、逆に支配階級が分裂している時期にとる政策をとり、兵力をわけて湖南省南部に暴進したためであり、それで省境地区と湖南省南部はどちらも失敗してしまった。湖南省委員会代表杜修経トウシウチンと省委員会から省境地区特別委員会書記として派遣されてきた楊開明ヤンカイミンは、反対意見を堅持していた毛沢東、宛希先ワンシーシェンらが遠く氷新にいっているすきに、当時の環境をみきわめず、湖南省委員会の主張には同意しないという軍事委員会、省境地区特別委員会、永新県委員会の合同会議の決議を無視し、ただ湖南省南部にいけという湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らず、赤軍第二十九連隊(その成員は宜章イーチャン県の農民)が闘争から逃避して郷里に帰りたがっている気分に追随したので、省境地区と湖南省南部の両方面での失敗をまねいた。

もともと、七月中旬には、湖南省の敵第八軍呉尚ウーシャン部隊が寧岡県に侵入し、さらに永新県に進出してきたが、戦いにならず(わが軍は間道から出撃したが遭遇せず)、わが方の大衆をおそれ、あわただしく蓮花県をとおって茶陵県にひきかえしていった。このとき、赤軍の大部隊はちょうど寧岡県から卸県、茶陵県にむかって進撃し、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県で計画を変更して湖南省南部の方に向きをかえた。一万、江西省の敵の第三軍王均ワンチュイン・金漢鼎チンハイティン部隊の五コ連隊、第六軍胡文斗ホーウェントウの六コ連隊が、協力してまた氷新県を攻撃してきた。このとき永新県にいたわが軍は一コ連隊にすぎなかったが、広範な大衆にまもられて、四方八方から遊撃するやりかたで、この十一コ連隊の敵軍を永新県の県都付近三十華里②のなかに、二十五日ものあいだ封じこめた。最後に敵の猛攻撃で、永新県をうしない、ついでまた蓮花県、寧岡県をうしなった。このとき、江西省の敵に突然内部紛争がおこり、胡文斗の第六軍はあたふたと退却し、そしてすぐに樟樹チャンシュー鎮で王均の第三軍と戦争になった。残りの江西省部隊の五コ連隊も、またあたふたと永新に退却していった。もし、わが大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、この敵を撃破して、割拠地区を吉安チーアン、安福アンフー、萍郷ピンシァンの各県にまでおしひろめ、平江ピンチァン県、瀏陽リウヤン県と一つにつなぐこともまったく可能であった。大部隊はすでにおらず、わが一コ連隊の兵士も疲れはてていたので、一部の部隊を残して袁・王両部隊とともに井岡山を守らせ、わたしが一部の兵をひきいて桂東コイトンの方向にすすみ、大部隊の帰りをむかえることにきめた。このとき、大部隊はすでに湖南省南部から桂東にむけて撤退しており、八月二十三日にわれわれは桂東で合流することができた。

赤軍の大部隊が七月中旬、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県についたばかりのとき、第二十九連隊の将兵たちは、政治的に動揺して、湖南省南部の郷里に帰りたがり、いうことをきかなくなっていた。第二十八連隊は湖南省南部にいくことに反対し、江西省南部にいきたがっていたが、といって永新県に帰ることはのぞまなかった。杜修経が第二十九連隊のまちがった意見を助長し、軍事委員会もこれを阻止することができなかったので、大部隊はついに七月十七日に都県を出発して[林+”おおざと”]県にむかい、七月二十四日には敵の范石生ファンシーションと[林+”おおざと”]県で戦って、はじめは勝ったがのちには敗れ、戦闘から兵をひいた。そこで、第二十九連隊はすぐ勝手な行動をとり、郷里の宜章県へむかって逃亡した。その結果は、一部は楽昌ローチャン県で匪賊ひぞく胡鳳章ホーフォンチャンに消滅され、他の一部は[林+”おおざと”]県、宜章県の各地にちらばって、ゆくえがわからず、その日に収容したものは百人たらずであった。さいわいに、主力の第二十八連隊は損失がすくなく、八月十八日に桂東を占領した。二十三日、井岡山からきた部隊と合流し、崇義チョンイー県、上猶シャンヨウ県をへて、ふたたび井岡山に帰ることを決議した。崇義県についたとき、大隊長袁祟全ユァンチョンチュアンが歩兵一コ中隊と砲兵一コ中隊をひきつれて裏切った。この二コ中隊は追いかけてつれもどしはしたが、連隊長王爾琢ワンアルチュオはその犠牲になった。八月三十日、敵の湖南、江西両軍のそれぞれの一部隊は、わが軍が帰る途中にあるとき、井岡山に攻撃をくわえてきた。わが守備部隊は一コ大隊にもたちなかったが、要害によって抵抗し、敵を撃破して、この根拠地を保持した。

このたびの失敗の原因はつぎの点にある。(1)一部の将兵が動揺し、郷里に帰りたがって、戦闘力をうしなったこと。また一部の将兵が湖南省南部にいきたがらず、積極性を欠いていたこと。(2)真夏の遠征で兵が疲れきっていたこと。(3)[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県から数百華里も暴進して、省境地区との連絡をうしない、孤立におちいったこと。(4)湖南省南部の大衆がまだ立ちあがっておらず、単純な軍事的冒険となったこと。(5)敵情が不明であったこと。(6)準備がわるくて、将兵が作戦の意義を理解していなかったこと。

割拠地区の現勢

ことしの四月いらい、赤色地域はしだいにひろげられた。六月二十三日の竜源口ロンユァンコウ(永新県と寧岡県との県境)の一戦で、四回目に江西省の敵軍を撃破したのち、われわれの地区は、寧岡、永新、蓮花の三つの県全体、吉安、安福の各県の一小部分、遂川県の北部、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の東南部をもつようになり、省境地区の全盛期をつくった。赤色地域では、土地の大部分が分配され、一部分がいま分配中である。区や郷にはみな政権がうちたてられた。寧岡、永新、蓮花、遂川にはみな県政府ができ、また省境地区政府もつくられた。郷や村にはいたるところに労農暴動隊が組織され、区と県には赤衛隊がつくられた。七月には江西省の敵が攻めてき、八月には湖南、江西両省の敵軍が共同して井岡山を攻めてきて、省境地区の各県の県都、および平原地帯はすっかり敵軍に占拠された。敵の手先である保安隊、挨戸団はなにはばかるところなく横行し、白色テロが町でも村でもあれくるった。党の組織と政権の組織は大部分崩壊した。富農や党内の投機分子がぞくぞく裏切った。八月三十日の井岡山の一戦で、湖南省の敵軍はやっと[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に退却したが、江西省の敵軍はなおも各県の県都および大部分の農村にのさばっていた。しかし山岳地帯はどうしても敵の奪取することのできないものであった。そのようなところとして、寧岡県には西と北の二つの地区があり、永新県には北の天竜ティエンロン区、西の小西江シァオシーチァン区、南の万年山ワンニェンシャン区があり、蓮花県には上西シァンシー区があり、遂川県には井岡山区があり、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県には青石岡チンシーカンと大院区ターユァンがあった。七、八の二ヵ月間に、赤軍の一コ連隊は各県の赤衛隊と協力して大小数十回の戦闘をまじえたが、銃三十ちょうをうしなっただけで、最後に山岳地帯に退いた。

わが軍が崇義県、上猶県をへて井岡山にもどるとき、江西省南部の敵軍独立第七師団劉士毅リゥシーイー部隊が遂川まで追撃してきた。九月十三日、わが軍は劉士毅をうちやぶって、銃数百ちょうをぶんどり、遂川を占領した。九月二十六日に井岡山にかえった。十月一日には、敵の熊式輝シゥンシーホイ部隊の周渾元チョウホンユァン旅団と寧岡で戦って勝ち、寧岡全県をとりかえした。このとき、桂東県に駐屯していた湖南省の敵軍閻仲儒イェンチョンルー部隊の百二十六名がわが軍に帰順して、車本部付大隊に編成され、畢占雲ピーチャンユィンが大隊長になった。十一月九日、わが軍はまた周旅団の一コ連隊を寧岡と竜源口とで撃破した。翌日は氷新に進撃してこれを占領し、すぐに寧岡にもどった。いまのところわが地区は、南は遂川県の井岡山の南麓なんろくから、北は蓮花県の県境まで、寧岡県の全部、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、永新の各県の一部分をふくみ、南北に細長い一つにまとまった地区になっている。蓮花県の上西区、永新県の天竜区、万年山区は、このまとまった地区とよくつながってはいない。敵は軍事的進攻と経済的封鎖によってわれわれの根拠地を消滅しようとしているが、われわれはいま敵の進攻をうちやぶる用意をしている。

軍事問題

省境地区の闘争は、まったく軍事的な闘争であり、党も大衆も軍事化しないわけにはいかない。どのように敵にたちむかい、どのように戦うかが、日常生活の中心問題となっている。割拠というものは武装されたものでなければならない。武装されていなかったり、武装が十分でなかったり、あるいは敵にたちむかう戦術にあやまりがあったりしたところは、すぐ敵に占領されてしまう。このような闘争は、日一日とはげしくなり、問題もまた非常に複雑できびしい。

省境地区の赤軍はつぎのところからきている。(一)潮州チャオチョウ、汕頭シャントウの葉挺イエティン、賀竜ホーロンの旧部隊〔4〕、(二)もとの武昌ウーチャン国民政府警備連隊〔5〕、(三)平江県、瀏陽県の農民〔6〕、(四)湖南省南部の農民〔7〕と水口山ショイコウシャンの労働者〔8〕、(五)許克祥シュイコーシァン、唐生智、白崇禧パイチョンシー、朱培徳チュペイトー、呉尚、熊式輝らの部隊から捕虜にした兵士、(六)省境地区各県の農民。しかし、葉挺・賀竜の旧部隊、警備連隊および平江県、瀏陽県の農民は、一年あまりの戦闘をへて、三分の一しか残っていない。湖南省南部の農民も多くの死傷者をだしている。したがって、まえの四つの部分はいまなお赤軍第四軍の中核ではあるが、数のうえであとの二つの部分にははるかにおよばない。あとの二つの部分でも敵軍の捕虜の方が多いが、もしこの方面からの補充がなければ、兵員の問題は重大なことになるであろう。それにしても、銃はめったに失わないが、兵士は負傷、死亡、疾病しっぺい、逃亡があってずっと損失しやすいので、兵士の増加と銃の増加とはやはりつりあいがとれない。湖南省委員会は、安源アンユァンの労働者〔9〕をこちらに送ると約束されたが、すみやかに実行していただきたい。

赤軍の構成要素は、一部分が労働者、農民で、一部分がルンペン・プロレタリアである。ルンペンの要素が多すぎることは、もちろんこのましくない。しかし、ルンペン分子には戦闘力がある。毎日戦闘がおこなわれ、死傷者も多いなかで、そのルンペンをみつけてきて補充することもすでに容易ではなくなっている。このような状況のもとでは、政治的訓練を強化する以外に方法はない。

赤軍兵士の大部分はやとい兵部隊からきているが、赤軍にはいるとすぐに質が変わる。まず第一に、赤軍がやとい兵制度を廃止したことは、兵士に、他人のために戦争するのではなくて自分のため人民のために戦争するのだと感じさせている。赤軍にはいまでも正規の給与制というものはなく、食糧と食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用、それにわずかばかりのこづかい銭を支給するだけである。赤軍将兵のうち、他の地方の出身者にまで土地を分配することはかなり困難であるが、この省境地区の出身者にはそれぞれ土地が分配されている。

政治教育をつうじて、赤軍兵士はみな階級的自覚をもち、みな土地の分配、政権の樹立、および労働者・農民の武装化などの常識を身につけるようになり、自分のため、また労農階級のために戦うのだということを知るようになった。だから、かれらは苦しい闘争のなかでも不平をいわない。中隊、大隊、連隊には兵士委員会ができて、兵士の利益を代表し、また政治工作③や民衆工作をやっている。

党代表制度〔10〕は、経験が証明しているように、廃止してはならない。党細胞が中隊に組織されているので、とくに中隊段階では、党代表はいっそう重要になる。党代表は、兵士委員会が政治訓練をおこなうよう督促し、民衆運動工作を指導すると同時に、党細胞の書記をも担当しなければならない。事実が証明しているように、中隊の党代表がわりあいしっかりしていれば、その中隊はわりあい健全なものになるが、中隊長では政治的にそのような大きな役割をはたすことはむずかしい。なぜなら、下級幹部の死傷があまりに多いので、敵軍の捕虜の兵士で編入されてまもないのに、すぐ中隊長や小隊長になることがよくあるからである。ことしの二、三月ころの捕虜の兵士で、いま大隊長になっているものもいる。表面的にみれば、赤軍といわれる以上、党代表はなくてもよいようであるが、それは実に大きなまちがいである。第二十八連隊は湖南省南部にいたときに、党代表を廃したことがあったが、のちにまたこれを復活した。指導員と改称すれば、国民党の指導員と混同されて、捕虜出身の兵士はこれをいやがる。それに、名称を変えることは、制度の本質にかかわることではない。だから、われわれは変えないことにさめた。党代表には死傷者が非常に多いので、訓練班を自分でもうけて訓練し、補充はするが、そのほかに、党中央および両省委員会から党代表になれる同志をすくなくとも三十名は派遣してもらいたい。

一般の兵士は半年か一年訓練しなければ戦争をやれないが、われわれの兵士は、きのう入隊すれば、きょうはもう戦争をしなければならないので、まったく訓練というものがない。軍事技術はあまりに劣っていて、戦いは勇敢さだけにたよっている。長期間の休息と訓練は不可能なので、なんとかして一部の戦闘をさけ、時間をつくって訓練するほかはない。それができるかどうかやってみることにする。下級将校を訓練するため、現在、百五十人からなる教導隊を設けており、これを恒常的にやっていくつもりでいる。党中央および両省委員会は、中隊長、小隊長以上の将校を多く送ってもらいたい。

湖南省委員会は、兵士の物質生活をすくなくとも一般の労働者、農民の生活よりはいくらかよくすることに気をくばるよう、われわれにいってきている。だが、現在はその反対で、主食のほかは、食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用として毎日一人あたりただの五分フェン④しかあてておらず、それさえ続けることは困難である。食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用を支給するだけでも、毎月一万元以上の銀貨が必要であり、それはすべて土豪からの徴発で支給している〔11〕。現在、全軍五千人の冬服についていうと、綿はあるが、綿布がない。こんなに寒いのに、多くの兵士はまだ夏服を二枚重ね着しているだけである。さいわいに苦しい生活にはなれている。しかも、その苦しさは誰もがおなじで、軍長から炊事兵にいたるまで、主食以外は一触に五分ぶんの食事しかとっていない。こづかい銭を支給するにも二角なら一律に二角にし、四角なら一律に四角にしている〔12〕。だから、兵士はだれにも不平をいわない。

戦闘のあるたびに負傷兵がでる。栄養不足や寒さやその他の原因で、病気する将兵が多い。病院は山に設けられており、漢方と洋式の二つの方法で治療しているが、医者も薬も欠乏している。現在、入院中のものは八百余人である。湖南省委員会は薬を買ってくれるといったが、いまになってもまだとどいていない。何人かの医師といくらかのヨード剤を送られるよう、あらためて党中央および両省委員会にお願いする。

赤軍の物質生活がこのように粗末であり、戦闘がこのように頻繁ひんぱんにやられているにもかかわらず、赤軍が依然としてくずれず維持できているのは、党のはたしている役割のほかに、軍隊内で民主主義が実行されているからである。上官は兵士をなぐちず、将兵は平等に待遇されており、兵士には会議をひらき意見をのべる自由があり、わずらわしい儀礼は廃止され、会計は公開されている。兵士はまかないを管理し、鯨日五分の食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用のなかから少しばかり節約してこづかい銭にあてている。これを「食費の余り」とよんで、一人あたり毎日六、七十文ウェンもらっている。こうしたやり方に、兵士は満足している。とくに、新しくはいってきた捕虜の兵士は、国民党の部隊とわれわれの軍隊とではまったくちがった世界であることを感じている。かれらは、赤軍の物質生活が白軍より劣ってはいても、精神的には解放されたと感じている。おなじ兵士で、きのうは敵軍内で勇敢でなかったものが、きょうは赤軍内で非常に勇敢になるのは、民主主義の影響である。赤軍はるつぼのようなもので、捕虜の兵士がはいってくると、たちまちとかしてしまう。中国では人民が民主主義を必要としているばかりでなく、軍隊もまた民主主義を必要としている。軍隊内の民主主義制度は、封建的なやとい兵部隊をうちこわす重要な武器となるであろう〔13〕。

党の組織は、現在、中隊細胞、大隊委員会、連隊委員会、軍委員会の四段階にわかれている。中隊には細胞があり、分隊には細胞班がある。赤軍が苦難のなかで奮戦しながらも崩壊しない重要な原因の一つは、「細胞が中隊に組織されている」ことにある。二年前には、国民党軍隊内のわが党の組織は、葉挺の部隊〔14〕でさえ、まだ各連隊ごとに一つの細胞しかなかったように、まったく兵士をつかんでおらず、そのためにきびしい試練にたえきれなかったのである。いまでは、赤軍内の党員と非党員の比率は、だいたい一対三、すなわち平均して四人のうちに一人の党員がいる。最近、党員と非党員を半々にするという目標を達成するため、戦闘員兵士のあいだに、党員数をふやすことにきめた〔15〕。現在、中隊細胞にはすぐれた書記がすくないので、各地でそこにおれなくなった活動家のなかから多数のものを送られるよう、党中央にお願いする。湖南省南部からきた活動家は、そのほとんどが軍隊内で党の仕事をしている。だが、八月に湖南省南部で一部のものがちりぢりになったので、いまのところ人をだすことはできない。

地方の武装組織には赤衛隊と労農暴動隊がある。暴動隊はほこや先込め銃を武器にしており、郷を単位にし、各郷に一隊ずつあり、人数は郷の大小に比例している。その任務は反革命を弾圧し、郷の政権をまもり、敵がくれば、赤軍あるいは赤衛隊の戦闘に協力することである。暴動隊はさいしょ永新にでき、もとは秘密のものであったが、県全体を奪取してから公然化した。こうした制度はいま省境地区の各県にひろがっているが、名まえはそのままである。赤衛隊の武器は主として五発銃であるが、九発銃も単発銃もある。各県の銃の数は、寧岡に百四十、永新に二百二十、蓮花に四十三、茶陵に五十、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に九十、遂川に百三十、万安に十、合計六百八十三ちょうである。大部分は赤軍が支給したものであるが、一部分は自分で敵から奪いとったものである。各県の赤衛隊はほとんどすべてが、たえず豪紳の保安隊、挨戸団と戦っており、戦闘力は日ましに増大している。馬日事変〔16〕のまえには、各県に農民自衛軍があった。 その銃の数は、{[イ+|+攵]|ヨウ}県に三百、茶陵に三百、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に六十、遂川に五十、永新に八十、蓮花に六十、寧岡(袁文才部隊)に六十、井岡山(王佐部隊)に六十、合計九百七十ちょうであった。馬日事変以後、袁、王両部隊は損失をうけなかったが、そのほかわずかに遂川県で六ちょう、蓮花県で一ちょう保存されただけで、あとはすっかり豪紳にとられてしまった。農民自衛軍にこれほど銃を確保する能力がなかったのは、日和見主義路線のせいである。現在も各県の赤衛隊の銃はまだまだ不足しており、豪紳ほど多くはもっていない。赤軍は、武器の点で赤衛隊にひきつづき援助をあたえなければならない。赤軍の戦闘力を低下させないことを条件にして、人民が武装するのをできるかぎり援助しなければならない。われわれはすでに、赤軍の各大隊を四コ中隊編成とし、各中隊の歩兵銃を七十五ちょうにして、これに連隊本部付中隊、機関銃中隊、追撃砲中隊、連隊本部および三つの大隊本部をくわえて、各連隊は歩兵銃千七十五ちょうをもつことにきめている。戦闘でぶんどった銃は、できるだけ地方の武装にあてる。赤衛隊の指揮官には、各県から赤軍の教導隊に送られて訓練をうけたものをあてる。赤軍からその地方の出身でないものを派遣して地元の隊長の職につかせることは、しだいに少なくしていかなければならない。朱培徳もかれの保安隊や挨戸団の武装をつよめ、省境地区各県の豪紳の武装組織の数や戦闘力は相当のものである。だからこそ、われわれ赤色地方武装組織の拡大は、一刻もゆるがせにできない。

赤軍は集中を原則とし、赤衛隊は分散を原則とする。反動政権が一時的に安定しているこの時期には、敵は大量の軍事力を集中して赤軍を攻撃することができるので、赤軍が分散することは不利である。われわれの経験では、兵力を分散させたときに失敗しなかったことはほとんどないが、兵力を集中して、わが兵力よりも小さいか、わが兵力に等しいか、または、わが兵力よりもいくらか大きい数を攻撃したときには、よく勝利をおさめている。党中央がわれわれに指示している遊撃地域の拡大は、たてよこ数千華里におよび、広すぎるきらいがある。これはおそらく、われわれの力を過大に評価しているためであろう。赤衛隊は分散したほうが有利なので、現在各県の赤衛隊はみな分散して戦う方法をとっている。

敵軍にたいする宣伝で、もっとも効果的な方法は、捕虜を釈放したり負傷兵を治療してやったりすることである。敵軍の兵士や大隊長、中隊長、小隊長がわが軍の捕虜になれば、すぐかれらに宣伝をおこない、残りたいものと、帰りたいものとにわけ、帰りたいものには旅費をあたえて釈放する。このようにすれば、「共産匪は手あたりしだいに人を殺す」といった敵の欺瞞ぎまんは、たちどころにうちやぶられてしまう。楊池生ヤンテーションの「九師団旬刊』は、われわれのこのようなやり方について「悪辣あくらつなるかな」と驚嘆している。赤軍兵士たちは、とらえてきた捕虜にたいして非常に親切にいたわったりあたたかく見送ったりするので、「新しい兄弟の歓送集会」があるたびに、捕虜たちはその演説で、われわれに心からの感謝をもってこたえている。敵の負傷兵を治療してやることも、大きな効果がある。李文彬リーウェンピンのようなりこうな敵は、ちかごろ、われわれのやり方を見ならい、捕虜を殺さず、捕虜となった負傷兵を治療している。それでも、われわれの兵士には、つぎの戦いのときに銃をさげて帰ってくるものがある。このようなことがすでに二回もあった。このほかに、文字による宣伝、たとえば、標語を書くことなども、できるだけやっている。いく先ざきで、スローガンを壁いっぱいにかいている。ただ絵のかけるものがいないので、党中央および両省委員会から何人か送ってもらいたい。

軍事根拠地――第一の根拠地は井岡山であり、寧岡、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川、永新の四県の県境にまたがっている。北麓は鰹岡県の茅坪マオピン、南麓は遂川県の黄[土+凹]ホワンアオで、両地のあいだは九十華里ある。東麓は永新県の拿山ナーシャン、西麓は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の水口ショイコウで、両地のあいだは八十華里ある。周囲は拿山からはじまり、竜源口(以上は永新県)、新城シンチョン、茅坪、大竜ターロン(以上は寧岡県)、十都シートウ、水口、下村シァツン(以上は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県)、営盤[土+于]インパンユイ、戴家埔タイチァプー、大汾ターフェン、堆子前トイツーチェン、黄[土+凹]、五斗江ウートウチァン、車[土+凹]チョーアオ(以上は遂川県)をへて拿山まで、合計五百五十華里である。山上の大井ターチン、小井シァオチン、上井シャンチン、中井チョンチン、下井シァチン、茨坪ツーピン、下荘シァチョワン、行州ハンチョウ、草坪ツァオピン、白泥湖パイニーフー、羅浮ルオフーの各地には、みな水田と村落があり、もともと匪賊や敗残兵の巣窟となっていたところであるが、いまでは、われわれの根拠地となっている。しかし、人口は二千にも満たず、もみの生産は一万担⑤たらずで、軍の糧秣りょうまつはすべて寧岡、永新、遂川の三県からの輸送に依存している。山の要所要所には防御工事がほどこされている。病院、被服廠ひふくしょう、兵器部、各連隊の留守本部はみなここにある。いま寧岡から食糧を山に運搬中である。もし十分の給養さえあれば、敵は攻めこめない。第二の根拠地は寧岡、永新、蓮花、茶陵の四県の県境にある九隴山チウロンシャンで、その重要性は井岡山ほどではないが、四つの県の地方武装組織の最後の根拠地であって、ここにも防御工事がほどこされている。周囲を白色政権にとりかこまれている赤色割拠地では、山の険要を利用することが必要である。

土地問題

省境地区の土地状況――大まかにいえば、土地の六〇パーセント以上が地主ににぎられ、農民の手にあるものは四〇パーセント以下である。江西省方面では、土地がもっとも集中しているのは遂川県で、約八〇パーセントが地主のものである。永新県がそれにつぎ、約七〇パーセントが地主のものである。万安県、寧岡県、蓮花県では自作農が比較的多いが、やはり地主の土地が多くて、約六〇パーセントをしめ、農民の土地は四〇パーセントしかない。湖南省方面では、茶陵、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の両県とも約七〇パーセントの土地が地主の手中にある。

中間階級の問題――さきにのべたような土地状況のもとでは、すべての土地を没収して再分配する〔17〕ことが、大多数の人びとの支持をうける。しかし、農村のなかは大体三つの階級、すなわち大・中地主階級、小地主・富農の中間階級、中農・貧農階級にわかれている。富農はたいてい小地主と利害が結びついている。富農の土地は、総土地面積のうちではすくない方であるが、小地主の土地とあわせると、かなり多いものになる。このような状態は、おそらく全国的にみても大差ないであろう。省境地区では、土地を全部没収し、徹底的に分配する政策をとっている。したがって、赤色地域では、豪紳階級も中間階級も、おなじように打撃をこうむる。政策はそうであるが、実際にそれを実施したら、中間階級からひどく妨害をうけた。革命の初期には、中間階級は表面的には貧農階級に屈服するが、実際には、以前からの社会的地位や同族主義を利用して、貧農をおどし、土地分配の時期をひきのばす。どうしてもひきのばせなくなると、土地の実際の面積をごまかしたり、自分が肥えた土地をとって、人にはやせた土地をやる。貧農は長いあいだうちひしがれてきたし、また革命の勝利もたしかでないような気がして、この時期には、しばしば中間階級の意見をいれ、積極的な行動にふみきれない。県全体、さらには数県にわたって政権を手に入れ、反動軍隊を何回かうちやぶり、赤軍が何回か威力を発揮するような革命の高まりがこなければ、農村で中間階級にたいする積極的な行動はおこらない。たとえば、永新県の南部は、中間階級のもっとも多い地方で、土地分配のひきのばしや土地のごまかしがもっともひどかった。ここでは、六月二十三日に竜源口で赤軍が大勝利をおさめたのち、さらに区政府が土地分配のひきのばしをやった人を何人か処分したので、やっと実際に分配がおこなわれるようになった。しかし、どこの県でも、封建的な同族組織が非常に普遍的で、一村一姓、あるいは数村一姓のところが多く、比較的長い期間をかけなければ、村内の階級分化は完成されないし、同族主義も克服されない。

白色テロ下の中間階級の寝がえり――中間階級は革命の高揚期に打撃をうけたので、白色テロがひとたびやってくると、たちまち寝がえりをうつ。反動軍隊を手びきして永新県、寧岡県の革命的な農民の家をさかんに焼きはらったのは、この両県の小地主と富農であった。かれらは反動派の指示にしたがって、家を焼きはらい、人をつかまえたりして、なかなか勇ましかった。赤軍が二度目に寧岡、新城、古城クーチョン、[”龍”の下に”石”]市ロンシー一帯にやってきたとき、数千の農民は、共産党がかれらを殺すという反動派の宣伝を真にうけて、反動派について永新に逃げていった。われわれが「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民が刈り入れに帰ってくるのを歓迎する」と宣伝したので、やっと一部の農民がそろそろ帰ってきた。

革命の全国的退潮期に、割拠地区のもっとも困難な問題は、中間階級をつかめないことである。中間階級が裏切るのは、革命によってあまりにもひどい打撃をうけたことがおもな原因である。しかし、革命が全国的に高揚していれば、貧農階級はよりどころができて勇気づけられ、中間階級もまたおそれをなして、勝手なふるまいができなくなる。李宗仁と唐生智との戦争が湖南省へ発展してくると、茶陵県の小地主は農民に和解をもとめ、お歳暮に豚肉を贈ったものもいた(このとき赤軍はすでに茶陵県から撤退して遂川県にむかっていた)。李・唐間の戦争が終わると、もうそんなことは見られなくなった。現在、全国的に反革命が高まっている時期なので、打撃をうけた中間階級は、白色地域内ではほとんど完全に豪紳階級についてしまい、貧農階級は孤立してしまった。この問題はきわめて重大である〔18〕。

日常生活の圧迫による中間階級の寝がえり――赤色地区と白色地区とが敵対し、二つの敵対国ができている。敵の厳重な封鎖と、小ブルジョア階級にたいするわれわれの扱いかたの不手ぎわという、この二つの原因によって、二つの地区の貿易はほとんど完全にとだえ、食塩、綿布、くすりなどの日用必需品は欠乏し、値段が高くなり、木材、茶、油類などの農産物は輸出できず、農民には現金収入の道が絶たれて、その影響は一般人民にまでおよんでいる。貧農階級はそれでもまだ、この苦しみにたえることができるが、中間階級はたえられなくなると、豪紳階級に屈服する。もし、中国で豪紳・軍閥の分裂と戦争がつづけられていず、また全国的革命情勢が発展していないとすれば、小地区での赤色割拠は、経済的にきわめて大きな圧迫をうけ、割拠の長期的な存在は問題になってくるであろう。なぜなら、このような経済的圧迫には、中間階級がたえられないばかりでなく、労働者、貧農および赤軍もたえられなくなるときがくるかもしれないからである。永新、寧岡両県では塩がなくなり、綿布、くすりは完全にこなくなり、その他のものはいうまでもない。現在、塩は買えるようになったが、値段はひどく高い。綿布、くすりは依然としてない。寧岡県、永新県の西部、遂川県の北部(以上はいずれもいまの割拠地)の最大の産物である木材や茶や油類は、依然として運びだせないでいる〔19〕。

土地分配の基準――郷を土地分配の単位としている。山が多く、農地が少ない地方、たとえば永新県の小江シァオチァン区では、三つか四つの郷を一つの単位として分配したところもあるが、そういうところはきわめて少ない。農村では老若男女の別なくすべてに、均等に分配された。現在は党中央の規定にしたがい、労働力を基準とすることにあらため、労働できるものには労働できないものの二倍分を分配するようにした〔20〕。

自作農に譲歩する問題――これはまだ詳細には討議されていない。自作農中の富農は、生産力を基準にしてもらいたい、つまり働き手と資本(農具など)の多いものには、多く土地を分配してもらいたい、という要求をだしてきている。富農は、均等分配の方法も、労働力に応じた分配の方法も、どちらも自分たちに不利だと考えている。かれらとしては、働き手の面では、いっそう努力するつもりがあり、それに資本の力がくわわると、自分たちはより多くの収穫をあげることができる、と考えている。もし一般の人とおなじように分配されるならば、かれらの特別の努力と余分の資本とが無視される(なおざりにされる)ことになるので、かれらはそれをのぞまない。ここでは、やはり党中央の規定にしたがって実施している。しかし、この問題はなお討議する必要があり、結論をえてからあらためて報告する。

土地税――寧岡県では二〇パーセント徴収しており、党中央の規定より五パーセント多いが、いま徴収中なので変更するわけにもいかず、明年あらためて引きさげることにする。このほか、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、永新各県の一部は割拠地域内にあるが、いずれも山地で農民はあまりにも貧しいので、徴税するわけにはいかない。政府や赤衛隊の経費は、白色地域の土豪からの徴発に依存している。赤軍の給養については、米はいまのところ、寧岡県の土地税のうちからとっているが、現金はやはり全部土豪からの徴発に依存している。十月には遂川県を遊撃して、一万余元を調達した。これで一時はまにあうので、つかってしまったときにまた方法を考えよう。

政権の問題

県、区、郷の各級の民衆政権はどこにも組織されているが、名実あいともなっていない。多くの地方には労農兵代表者会議といわれるものもない。郷、区ないし県の政府の執行委員会は、いずれも大衆集会の形式で選出されたものである。にわか集めの大衆集会では、問題を討議することもできず、大衆に政治的訓練をほどこすこともできず、そのうえ知識分子や投機分子にもっともあやつられやすい。一部の地方には代表者会議がつくられたが、それもまたたんに執行委員会を選出する臨時の機関としか考えられていず、選挙が終われば、実権は委員会ににぎられてしまい、代表者会議はそれ以上口にもされなくなっている。名実ともにそなわった労農兵代表者会議の組織がないわけではないが、ただ非常にすくない。このようになっているのは、代表者会議という新しい政治制度についての宣伝と教育が欠けているからである。封建時代の独断専制の悪い習慣が、大衆から一般党員まで頭のなかにしみこんでいて、すぐにはとりのぞくことができず、ことごとに安易な道をとり、わずらわしい民主主義制度をこのまないのである。民主集中主義の制度は、それがもっとも大衆の力を動員することができ、もっとも闘争に有利なものであることを大衆に理解させるように、革命闘争のなかでその効力を発揮しなければ、普遍的に、実際に、大衆組織に適用されることにはならない。われわれは以前のあやまりをしだいにただしていくように、いま各級代表者会議の詳細な組織法(中央委員会の大綱にもとづいて)をつくっている。赤軍内でも、兵士委員会だけあって兵士代表者会議のなかった従来のあやまりをただしていくように、いま各級兵士代表者会議を恒常的なものとして確立しつつある。

現在民衆にひろく知られている「労農兵政府」とは、委員会のことである。というのは、かれらはまだ代表者会議の権力について知らず、ほんとうの権力機関は委員会だとおもっているからである。代表者会議をよりどころとしない執行委員会がことがらを処理すると、とかく大衆の意見から遊離しがちで、土地の没収や分配をためらったり、妥協したり、経費を乱用したり、汚職をしたり、また白色勢力をおそれたり、あるいはそれと断固たたかおうとしなかったりすることが、いたるところにあらわれる。委員会もまた、全体会議を開くことはまれで、問題があれば常任委員会で処理する。区や郷の政府になると、常任委員会もあまり開かず、問題があれば、委員会に常勤している議長、秘書、財務委員、または赤衛隊長(暴動隊長)の四人が、それぞれ自分で処理し決定する。だから、民主集中主義は、政府の活動のなかでもまだ板についていない。

初期の政府委員会では、とくに郷の政府では、小地手、富農がきそって役職につこうとする。かれらは赤い腕章をつけ、さも熱心なふうをよそおい、ごまかしの手をつかって政府委員会にもぐりこみ、すべてを一手ににぎり、貧農の委員をたんなるわき役にしてしまう。闘争のなかでかれらの仮面がはぎとられ、貧農階級が立ちあがったのちでなければ、かれらを追いだすことはできない。このような現象がどこにでもあるわけではないが、かなり多くの地方でみられた。

党は大衆のあいだできわめて大きな権威をもっているが、政府の権威はそれよりもずっとひくい。これは手間をはぶくために、党が多くのことがらを直接に処理し、政権機関をそっちのけにしておくからである。このような状況はかなり多い。政権機関内の党グループは、地方によってはないところもあり、あっても、うまく運用されていない。今後、党は政府を指導する任務を遂行しなければならす、党の主張と措置は、宣伝を別として、実施のさいは政府の組織を通さなければならない。国民党のように、直接政府に命令するまちがったやり方は避けなければならない。

党の組織問題

日和見主義との闘争の経過――馬日事変前後には、省境地区の各県の党は、日和見主義に牛耳られていたといえる。反革命がやってきたとき、断固としてたたかうことはまれであった。昨年十月、赤軍(労農革命軍第一軍第一師団第一連隊)が省境地区の各県にきたときには、身をかくし避難していた若干の党員が残っていただけで、党の組織はぜんぶ敵に破壊されていた。十一月からことしの四月までは、党を再建した時期であり、五月以後は党を大いに拡大した時期である。この一年来、党内の日和見主義的現象は依然としていたるところにみられ、一部の党員には闘争する決意がなく、敵がやってくると山奥にかくれて、それを「伏兵」と称した。一部の党員は積極性にとんではいたが、盲目的な暴動にながれた。これらはみな小ブルジョア思想のあらわれである。このような状況は、長期の闘争による鍛練と党内の教育によって、しだいに減少してきた。同時に赤軍内にもこのような小ブルジョア的な思想が存在していた。敵がやってくると、向こうみずにぶつかることを主張するか、さもなければ逃げようとする。この二つの考えが、作戦討議のさいにおなじ人の口からでることがよくある。長期にわたる党内の闘争と客観的な事実による教訓をつうじて、たとえば向こうみずにぶつかって損害をこうむったり、逃げだして失敗したりしたすえ、しだいにあらためられた。

地方主義――省境地区の経済は農業経済であり、一部の地方はまだ、きね・うすの時代に停滞している(山地ではほとんど、きねとうすとで米をつき、ふみうすは、平地でなければ多くはみられない)。社会組織はどこでも一つの姓を単位とした同族組織である。村落内の党組織は、居住の関係から、多くは一つの姓の党員で一つの細胞をつくっており、細胞会議は同時に同族会議のようなものである。このような状態では、「戦闘的ボリシェビキ党」を建設することは、非常にむずかしい。共産党は国境や省境を問題にしないといっても、かれらにはよくわからないし、県や区や郷の境を問題にしないといっても、かれらにはやはりよくわからない。各県のあいだには地方主義がひどく、一つの県内の各区ないしは各郷のあいだにも根づよい地方主義がある。このような地方主義をあらためるには、道理をはなしたところでいくぶん効果のあがるのが関の山で、多くのばあいは、白色勢力の非地方主義的な圧迫にまたなければならない。たとえば、二つの省の反革命の「共同討伐」によって、人民が闘争のなかで共通の利害をもつようになったとき、はじめてかれらの地方主義がしだいにうちやぶられていく。地方主義は、多くのこうした教訓をつうじて減少した。

土着民と移住民との問題――省境地区の各県には、もう一つ特別のことがある。それは土着民と移住民とのあいだにみぞがあることである。ここの土着民と数百年前北方から移住してきた移住民とのあいだには大きなみぞがあり、歴史的にその反日は非常に深く、ときには激しい争いがひきおこされる。このような移住民は、福建と広東との省境から、湖南、江西両省の省境にそって、湖北省南部にいたるまでのあいだに、およそ数百万人はいる。移住民は山地を占有しており、平地を占有している土着民に圧迫され、日ごろ政治的には無権利であった。一昨年と昨年の国民革命にたいして、移圧民はこれを歓迎し、これで日の目をみるときが近づいたと考えた。ところが、革命が失敗したので、移住民はあいかわらず土着民から圧迫をうけている。われわれの地域内の寧岡、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、茶陵の各県にはみな土着民と移住民の問題があり、寧岡県での問題がもっとも重大である。一昨年から昨年にかけて、寧岡県の土着民の革命派は移住民と結びつき、共産党の指導をうけて、土着の豪紳の政権をくつがえし、全県をにぎった。昨年六月、江西省の朱培徳政府が反革命化し、九月には、豪紳が朱培徳の軍隊の手びきをして寧岡を「討伐」し、ふたたび土着民と移住民とのあいだの争いに火をつけた。このような土着民と移住民とのみぞは、道理からいえば、搾取されている労農階級の内部にもちこまれるべきではないし、まして共産党内にもちこまれるべきではない。しかし、実際には、多年にわたって残されてきた習慣なので、このようなみぞは依然として存在している。たとえば、省境地区の八月の失敗のとき、土着の豪紳は反動軍隊を手びきして寧岡県に帰り、移住民が土着民を殺すといいふらしたので、土着農民の大部分が寝がえりをうち、白い腕章をつけ、白軍を手びきして家屋を焼きはらったり、山狩りをしたりした。十月、十一月に赤軍が白軍をうちやぶると、土着農民たちは反動派について逃げさり、移圧農民たちはまた、土着農民の財産を没収した。このような事情が党内に反映して、ときどき無意味の争いがおこる。われわれのやり方は、「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民も帰ってくれば同じように土地がもらえる」と宣伝して、かれらを豪紳の影響から切りはなし、安心して家に帰るようにさせる一方、県政府からは、移住農民に没収した財産をもとの所有者にかえすよう命令するとともに、土着農民を保護する旨の布告をだすことである。党内では、この二つの部分の党員がかならず一致団結するよう、教育をつよめることである。

投機分子の寝がえり――革命の高揚期 (六月)に、公然と党員を募集した機会に乗じて多くの投機分子が党内にもぐりこみ、省境地区の党員数は一時一万以上にふえた。細胞や区委員会の責任者の多くが新しい党員なので、よい党内教育のできるはずはなかった。白色テロがやってくると、投機分子は寝がえりをうち、反動派を手びきして同志たちをつかまえ、白色地区の党組織は大半がつぶれた。九月以後、党内の清掃を徹底的におこない、党員の出身階級について厳格な制限をくわえた。永新、寧岡両県の党組織は全部解散し、再登録をおこなった。党員数は大幅に減少したが、戦闘力はかえって増大した。それまで党の組織は全部公然化していたが、九月以後は、秘密の組織をつくり、反動派がやってきても活動できるように準備した。同時に、あらゆる手をつくして白色地区にはいりこみ、敵の陣営内で活動した。しかし、付近の各町にはまだ党の基盤がなかった。その原因は、一つには、町での敵の勢力が比較的大きいこと、二つには、わが軍がこれらの町を占領したときに、ブルジョア階級の利益をひどくそこねたので、党員がそこにおれなくなったことである。現在ではあやまりをあらため、町にわれわれの組織を建設することにつとめているが、成果はまだそれほどみられない。

党の指導機関――細胞幹事会は委員会と改称した。細胞の上は区委員会で、区委員会の上は県委員会である。区委員会と県委員会とのあいだには、特別の事情によって、永新県の北郷ペイシァン特別区および東南特別区のように、特別区委員会を組織しているところもある。省境地区には、寧岡、永新、蓮花、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の五つの県委員会がある。茶陵にはまえに県委員会があったが、活動が根をおろせなかったので、昨年の冬からことしの春にかけてつくられた多くの組織が大部分白色勢力のためにこわされてしまい、この半年来は、寧岡、永新に近い一帯の山地でしか活動できなかった。そのため、県委員会を特別区委員会にあらためた。[イ+|+攵]県、安仁県はいずれも茶陵県をとおっていかなければならす、人を派遣してみたが、成果があがらずもどってきた。万安県委員会は一月にわれわれと遂川で合同会議を一回ひらいたが、半年以上も白色勢力のために連絡をたたれ、九月に赤軍が万安県に遊撃していってやっとまた一度連絡がついた。八十名の革命的農民が赤軍について井岡山にやってきて、万安赤衛隊を組織した。安福県には党の組織はない。吉安県は永新県と隣合っているのに、吉安県委員会はわれわれとたった二回連絡をとっただけで、少しも援助をあたえてくれないのは、不思議でならない。桂東県の沙田シャーティエン一帯では、三月と八月の二回土地を分配し、党の組織がつくられ、竜渓ロンシー県十二洞シーアルトンを中心とする湖南省南部特別委員会の管轄下におかれている。各県の県委員会の上は湖南・江西省境地区特別委員会である。五月二十日、党の省境地区第一回代表大会が寧岡県茅坪でひらかれ、第一期特別委員会委員二十三名を選出し、毛沢東を書記とした。七月、湖南省委員会から楊開明が派遣されてきて、書記を代理した。九月、楊が病気になり、譚震林タンチェンリンが書記を代理した。八月、赤軍の大部隊が湖南省南部にいき、白色勢力が省境地区に強い圧力をくわえてきたとき、われわれは永新県で緊急会議を一回ひらいた。十月、赤軍が寧岡県にもどり、また茅坪で党の省境地区第二回代表大会を招集した。会議は十月十四日から三日間ひらかれ、「政治問題と省境地区党の任務」などの決議が採択され、譚震林、朱徳、陳毅、竜超清ロンチャオチン、朱昌偕チューチャンシェ、劉天千リウティエンチェン、円盤珠ユァンパンチュー、譚思聡タンスーツォン、譚兵タンピン、李郤非リーシーフェイ、宋亦岳ソンイーユエ、袁文才、王佐農ワンツォノン、陳正人チェンチョンレン、毛沢東、宛希先、王佐、楊開明、同挺穎の十九名が第二期特別委員会の委員に選出された。うち五人が常任委員となり、譚震林(労働者)が書記、陳正人(知識人)が副書記になった。十一月十四日、赤軍第六回全軍大会をひらき、ニ十三名を選出して軍事委員会を組織し、うち五人を常任委員とし、朱徳を書記とした。特別委員会と軍事委員会は前敵委員会によって統轄される。前敵委員会は十一月六日に再組織されたものであり、党中央の指名によって、毛沢東、朱徳、地方党組織の書記(譚震林)、労働者の同志一名(宋喬生ソンチャオソン)、農民の同志一名(毛料文マオコーウェン)の五人で構成され、毛沢東が書記となった。前敵委員会には、暫定的に総務部、宣伝部、組織部および労働運動委員会、軍事委員会を設けた。前敵委員会は地方の党を統轄する。前敵委員会は、時には軍と行動をともにしなければならないので、特別委員会はやはり存在させる必要がある。われわれは、プロレタリア思想による指導の問題は非常に重要な問題であると考える。省境地区各県の党は、ほとんど完全に農民出身者によって構成されている党であり、もし、プロレタリア思想による指導がなければ、その方向をあやまるにちがいない。各県の県都や主要な町の労働運動に積極的に気をくばるとともに、政権機関のなかにも労働者の代表をふやすべきである。党の各段階の指導機関も労働者と貧農の要素をふやすべきである。

革命の性質の問題

われわれはコミンテルンの中国問題にかんする決議に完全に同意する。中国は現在たしかにまだブルジョア民権革命の段階にある。中国の徹底した民権主義革命の綱領は、対外的には、帝国主義を倒して徹底的な民族解放をかちとること、対内的には、都市における買弁階級の勢力を一掃し、土地革命を完成し、農村の封建関係を消滅し、軍閥政府をくつがえすことをふくんでいる。社会主義に移行するほんとうの基礎をつくりだすには、かならずこのような民権主義革命をへなければならない。われわれは、この一年来、各地を転戦してみて、革命の全国的退潮を深く感じている。一方、少数の小地域の赤色政権はあるが、他方、全国の人民はまだ普通の民主的権利さえもたず、労働者、農民から民権派のブルジョア階級までが、すべて言論、集会の権利をもたず、共産党に加入することは最大の犯罪とされている。赤軍のいったところではどこでも、大衆はひっそりとしていて、宣伝がおこなわれたすえに、ようやく立ちあがってくる。敵軍とたたかうばあい、それが第何軍であろうと、敵軍の内部に寝がえりがおこったり反乱がおこったりすることはないので、力ずくのたたかいをしなければならない。馬日事変以後に「暴徒」をもっとも多く募集した第六軍でさえもそうである。われわれは深い寂莫せきばくを感じ、このような寂莫の生活が終わることを願わないときはない。わきたつような、全国的に高揚した革命に移っていくために、どうしてもとおらなければならない道は、都市の小ブルジョア階級をもふくめた政治上、経済上の民権主義闘争をひきおこすことである。

われわれは、小ブルジョア階級にたいする政策を、ことしの二月までは、わりあいによく遂行してきた。三月に湖南省南部特別委員会の代表が寧岡県にやってきて、われわれがあまりにも右よりで、焼きはらったり、殺したりすることが少なすぎる、「小ブルジョアをプロレタリアに変えたうえで、かれらに革命を強制する」政策といったものを実行していない、とわれわれを批判した。そこで前の前敵委員会の指導者がかえられ、政策が一変した。四月に全軍が省境地区にやってきてからも、焼きはらったり、殺したりすることはやはり多くはなかったが、町の中ぐらいの商人にたいする没収や、農村の小地主、富農からの現金調達は、たいへんひどかった。湖南省南部特別委員会の提起した「すべての工場を労働者へ」というスローガンも、ひろく宣伝された。小ブルジョア階級に打撃をあたえるこのような極左的な政策は、小プルジョア階級の大部分を豪紳の側に追いやり、白い腕章をつけてわれわれに反対するようにさせてしまった。近頃になってこのような政策はしだいにあらためられ、事態はしだいに好転してきた。遂川県では、とくによい成果をおさめ、県部や町の商人はわれわれをおそれなくなり、赤軍のことをよくいうものもかなり出てきた。草林[土+于]ツァオリンユイの市の日(三日に一回、日中ひらかれる)には二万人も集まるが、こんなことは今までになかったことである。このことは、われわれの政策の正しかったことを証明している。豪紳の人民にかける税金は非常に重く、遂川県の靖衛団〔21〕は、黄[土+凹]から草林までの七十華里の路上で五回も税金をとり、どんな農産物も課税をまぬがれることはできなかった。われわれは靖衛団をたたきつぶし、これらの税金を廃止して、農民や中小商人全体の支持をかちとった。

党中央は、われわれに小ブルジョア階級の利益をふくむ政治要綱を公布せよと要求しているが、われわれとしては、党中央が、各地方のしたがうべき基準として、労働者の利益、土地革命および民族解放をふくむ民権革命全般にわたる政治要綱を制定されろよう提案する。

農業を主要経済とする中国の革命では、軍事によって暴動を発展させるのが特徴である。われわれは党中央が軍事運動に大いに力を入れるよう提案する。

割拠地区の問題

広東省北部から湖南、江西両省の省境地区にそって湖北省南部にいたるまでは、羅霄山脈地域にはいっている。羅霄山脈の全域をわれわれはくまなく歩きまわった。その各部分を比較してみると、寧岡県を中心とする羅霄山脈の中部地域が、われわれの軍事的割拠にもっとも有利である。北部は、地勢としては攻めるにも守るにも中部ほど有利ではなく、それに大きな政治的中心都市に近づきすぎており、長沙チャンシャーあるいは武漢ウーハンを急速に奪取する計画がないかぎり、大部分の兵力を瀏陽県、醴陵リーリン県、萍郷県、銅鼓トンクー県一帯におくことは非常に危険である。南部は、地勢としては北部よりましであるが、大衆の基盤は中部よりおとり、政治的に湖南、江西両省におよぼす影響もいくぶん小さく、中部地域のようにその一挙一動が両省の湘江、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江カンチァンの下流地帯にすぐ影響をおよぼすといったようなことはない。中部地域の長所はつぎの点にある。(1)一年あまりもかけてきずいた大衆の基盤があること、(2)党の組織が相当の基礎をもっていること、(3)一年あまりの時間をかけて、闘争経験にとむ地方武装組織をつくったこと、これはなかなかえがたいものである。この地方武装組織の力は、それに赤軍第四軍の力をくわえると、どんな敵からも消滅されることはない。(4)すぐれた軍事根拠地――井岡山をもっており、地方武装組織の根拠地も各県にあること、(5)湖南省南部や江西省南部などの地方がたんにそれぞれの省にだけ、しかもその省のなかの上流地帯やへんぴな地方にだけ影響をあたえているのにくらべて、両省、なかでも、両省の下流地帯にも影響をおよぼすことができ、その政治的意義も大いに異なっていることである。中部地域の欠点は、すでに長いあいだ割拠しているために、「包囲討伐」軍が多くなり、経済問題、とくに現金の問題がたいへん困難になっていることである。

湖南省委員会は、ここでの行動計画について、六月から七月にかけての数週間に、三回もその主張をかえている。一回目には袁徳生ユァントーションがきて、羅霄山脈中部地域政権の計画に賛成した。二回目には、杜修経、楊開明がやってきて、赤軍はちゅうちょせずに、湖南省南部にむかって伸展し、あとに銃二百ちょうの兵力だけを残して赤衛隊といっしょに省境地区を防衛せよと主張し、しかもこれが「絶対に正しい」方針であるといった。三回目には、袁徳生がまたやってきて、十日しかたっていないのに、こんどの手紙ではさんざんわれわれをしかりつけたうえ、赤軍は湖南省東部にいけと主張し、またこれが「絶対に正しい」方針だといい、そのうえ、「ちゅうちょしてはならない」といっている。われわれは、このような融通のきかない指示をうけて、したがわなければそむくことになり、したがえば失敗することがわかりきっているので、まことにやりにくい。二回目の手紙がとどいたとき、軍事委員会、特別委員会、永新県委員会は合同会議をひらき、湖南省南部にいくことは危険であると考え、省委員会の意見を実行しないことにきめた。ところが、その数日後には杜修経、楊開明が省委員会の意見を固持してゆずらず、第二十九連隊の郷土観念を利用して赤軍を[林+”おおざと”]県攻撃にひっぱっていったため、省境地区と赤軍を両方とも失敗させた。赤軍は数のうえでは約半分をうしなった。省境地区では、焼かれた家、殺された人はかぞえきれないほどあり、各県はあいついで敵の手におちいり、いまになってもまだ完全に回復できないでいる。湖南省東部への進出も、湖南、湖北、江西三省の豪紳政権が分裂しないうちは、だんじて赤軍の主力をあてるべきではない。もし、七月に湖南省南部への進出ということがなかったならば、省境地区の八月の失敗はまぬがれることができたばかりか、国民党の第六軍と王均とが江西省の樟樹鎮で戦った機会に乗じて、永新県の敵軍を撃破し、吉安県、安福県を攻めとって、その前衛部隊は萍郷県にたっし、北部の赤軍第五軍と連絡をつけることもできたであろう。そのようなばあいでも、寧岡県を大本営とすべきであって、湖南省東部へは遊撃部隊しかおくれない。豪紳のあいだに戦争がおこっていず、湖南省省境の萍郷、茶陵、[イ+|+攵]県の各県にはまだ敵の大部隊がいるので、主力が北にむかえば、かならず、かれらに乗ぜられる。党中央はわれわれに湖南省東部か、あるいは湘南省南部へ進出することを考えるようにといってきているが、これを実行するのは、どちらも非常に危険で、湖南省東部ゆきの案は実現していないが、湖南省南部ゆきはすでに実証ずみである。このような苦い経験は、われわれがつねに銘記しておく必要がある。

現在は豪紳階級の支配がまだ分裂していない時期であり、省境地区をとりまいて「討伐」をすすめている敵軍は、なお十コ連隊あまりもある。しかし、もし、われわれがひきつづき現金の問題を解決できれば(食糧や衣服はもはや大した問題ではない)、省境地区という基礎に依存して、これぐらいの敵あるいはもっと多くの敵にもあたることができる。省境地区のためを考えると、もし赤軍が立ちさるようなことをすれば、たちどころに、八月のときのようにふたたび踏みあらされるにちがいない。赤衛隊が完全に消滅されることはないにしても、党と大衆の基盤は非常に大きな破壊をうけるであろうし、八、九月のころとおなじように、山地の割拠地が一部保存できるにしても、平地はすべて秘密状態にはいるであろう。赤軍がここを立ちさらなければ、現在の基礎をもとにして、しだいに周囲に拡大していくことができ、前途には大いに希望がもてる。赤軍のためを考えると、その拡大をはかるには、湖南省の敵と江西省の敵の利害が一致せず、四方を守っているので集中できないという状況を利用して、大衆的基盤をもつ井岡山の周囲、すなわち寧岡、永新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川の四県で、敵と長期の闘争をおこなう以外にはない。正しい戦術をとって、戦わないならともかく、戦う以上はかならず勝ち、かならず捕虜や戦利品を獲得するというようにすれば、赤軍をしだいに拡大することができる。四月から七月の当時の省境地区の大衆の準備状態からみると、赤軍の大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、八月には赤軍は疑いもなく拡大していたであろう。一度はあやまりを犯したが、赤軍はふたたび地の利と人の和のあるこの省境地区に帰ってきており、今後の見通しはそう悪くない。赤軍は、省境地区のこれらの地方で闘争する決意をかため、ねばり強く戦う勇気をもたなければならず、そうでなければ、武器をふやし、兵士をりっぱにきたえることはできない。省境地区の赤旗は、すでに一年ものあいだかかげつづけられた。それは、一方で、湖南、湖北、江西の三省ないし全国の豪紳階級のはげしいにくしみをひきおこしてはいるが、他方では、しだいに付近の各省の労働者、農民、兵士大衆の希望をよびおこしている。兵士についていえば、軍閥どもが省境地区の「匪賊討伐」を大仕事としており、「匪職討伐に年を重ね、出費すること百万元にたっす」(魯滌平ルーテイピン)、「赤軍は兵二万、銃五千と号す」(王均)などといっているので、しだいに敵軍の兵士や活路をうしなった下級将校たちの、われわれにたいする注目をひいており、脱出してわれわれの側に帰順するものは日ましに多くなるであろう。赤軍には拡充の道がもう一つふえるわけである。そのうえ、省境地区の赤旗が終始倒れなかったことは、共産党の力をしめしたばかりでなく、また支配階級の破産をもしめしており、政治上、全国的に重大な意義をもっている。だから、われわれは、羅霄山脈中部地域の政権をつくり、これを拡大することは、ぜったいに必要で、まったく正しいことであるとつねに考えている。

注

〔1〕 この戦争は一九二七年十月におこった。

〔2〕 この戦争は一九二七年十一月から十二月にかけておこった。

〔3〕 赤軍の兵士代表者会議と兵士委員会の制度は、のちに廃止された。一九四七年になって、また幹部の指導する軍人会議と兵士委員会の制度が採用された。

〔4〕 これは、一九二七年八月一日、南員で蜂起した葉挺、賀竜両同志の旧部隊のことである(葉挺部隊については本文の注〔14〕にみられる)。これらの部隊は潮州、汕頭に進軍して失敗したのち、その一部は朱徳、林彪、陳毅らの諸同志にひきいられて広東省から撤退し、江西省をとおって湖南省南部にはいり、遊撃戦争をおこなった。一九二八年四月、井岡山に到着し、毛沢東同志と合流した。

〔5〕 一九二七年の革命の時期の武昌国民政府警備連隊は、幹部に共産党員が多かった。汪精衛らが革命を裏切ったのち、この警備連隊は、七月末、武昌をはなれ、南昌にいって蜂起軍に参加しようとした。その途中、南昌の蜂起軍がすでに南下したと聞いて、修水県にいき、平江県、瀏陽県の農民軍と合流した。

〔6〕 湖南省の平江県、瀏陽県一帯では、一九二七年の春には、相当有力な農民武装組織がつくられていた。五月二十一日、許克祥が長沙で反革命事変(つまり「馬日事変」)をおこし、革命的大衆を虐殺した。五月三十一日、平江県、瀏陽県一帯の農民軍は、長沙にむかってすすみ、反革命勢力に反撃をくわえようとしたが、日和見主義の陳独秀に阻止されて撤退した。そのうちの一部の農民部隊は、ただちに独立連隊をつくり、遊撃戦争をおこなった。八月一日の南昌蜂起ののち、平江県、瀏陽県の農民軍は、修水、銅鼓、平江、瀏陽一帯で、もとの武昌国民政府警備連隊と合流し、萍郷炭鉱労働者の武装組織と協力して、秋収蜂起をおこなった。蜂起部隊は十月、毛沢東同志にひきいられて井岡山にいった。

〔7〕 一九二八年のはじめ、朱徳同志は湖南省南部で革命遊撃戦争をおこなった。もともと農民運動の基盤のあった宜章、[林+”おおざと”]県、耒陽、永興、資興の五つの県では、このとき農民軍が組織された。のちに、これらの農民軍は、朱徳同志にひきいられて井岡山にいき、毛沢東同志と合流した。

〔8〕 湖南省常寧県の水口山は、鉛鉱石の重要な産地である。ここの鉱山労働者は、すでに一九二二年には共産党の指導のもとで労働組合を組織し、毎年のように反革命勢力と闘争してきた。一九二七年の秋収蜂起ののち、多くの労働者が赤軍に参加した。

〔9〕 安源炭鉱は漢冶萍公司の一部で、江西省萍郷県内にある。当時、そこには炭鉱労働者が一万二千人いた。中国共産党湖南省委員会は、一九二一年から安源に人を送って活動させ、党と労働組合の組織をつくった。

〔10〕 赤軍内の党代表は一九二九年から政治委員と改称し、中隊の政治委員は一九三一年から政治指導員と改称した。

〔11〕 「土豪からの徴発」という方法による軍費の調達は、一時的な、部分的なものでしかない。軍隊が大きくなり、地域がひろくなれば、徴税の方法で軍費を調達しなければならないし、またそれができるようになる。

〔12〕 このやり方は赤軍内で長いあいだ実行され、当時はそれが必要であったが、あとになると、等級に応じて多少差のあるようにあらためられた。

〔13〕 毛沢東同志はここで、革命軍隊の内部では一定の民主主義的生活が必要であることを、とくに強調して指摘している。それは、当時、赤軍かつくられたばかりであったので、民主主義を強調しなければ、新しく入隊した農民や捕虜になって編入された白軍出身の兵士の革命的積極性を十分鼓舞することができなかったし、また幹部のあいだにある、反動軍隊から伝わった軍閥主義の悪習を完全に一掃することができなかったからである。もちろん、部隊内の民主主義的生活は、軍事規律のゆるす範囲内のものでなければならないし、規律をよわめるものではなくて、規律をつよめるためのものでなければならない。したがって、部隊内で必要な民主主義を提唱するばあいには、同時に、極端な民主主義を要求する無規律の現象とたたかわなければならない。ところが、初期の赤軍のなかには一時、このような現象がひどく存在したことがある。毛沢東同志が軍隊内の極端な民主化に反対しておこなった闘争については、本巻の『党内のあやまった思想の是正について』という論文をみられたい。

〔14〕 一九二六年の北伐のさい、葉挺同志の部隊は共産党員を中核とした独立連隊で、北伐における有名な戦闘部隊であった。革命軍が武昌を占領したのち、拡大して第二十四師団になり、南昌蜂起ののち、さちに拡大して第十一軍になった。

〔15〕 実際には、赤軍内の党員の数は全軍の三分の一前後をしめていればよいのであり、その後、赤軍や人民解放軍のなかでは、だいたいそうなっている。

〔16〕 一九二七年五月二十一日、蒋介石、汪精衛らは湖南省の国民党反革命軍の将校許克祥、何鍵らをそそのかして、長沙で湖南の省労働組合、省農民協会およびその他すべての革命的な組織を包囲襲撃させ、共産党員や革命的な労農大衆を逮捕、殺害させた。中国の詩の韻についてのべた本では、「馬」の字および「馬」とおなじ韻の字を上声の第二十一韻にならべ、「馬」をその韻の韻目としているので、以前は二十一日のことを略して「馬日」とよんだ。したがって、五月二十一日におこった湖南事変も略して「馬日事変」とよんだ。この事変は、汪精衛をかしらとする武漢国民党反革命派と蒋介石をかしらとする南京国民党反革命派とが公然と合流する合図であった。

〔17〕 これは、一九二八年、湖南・江西辺区のきめた土地法のなかの一ヵ条である。あとになって、毛沢東同志は、地主の土地だけを没収するのではなくてすべての土地を没収するのはあやまりであり、このあやまりは、当時、土地闘争の経験に欠けていたことからきたものである、と指摘した。一九二九年四月にだされた興国県の土地法では、「すべての土地を没収する」を「公有地と地主階級の土地を没収する」にあらためている。

〔18〕 農村の中間階級を獲得することの重要性にかんがみ、毛沢東同志は、このあと、すぐ、中間階級にゆきすぎた打撃をあたえるあやまった政策を是正した。毛沢東同志の中間階級にたいする政策・主張は、この論文のほか、さらに、一九二八年十一月の赤軍第六回代表大会への提案(そのなかには「盲目的な焼き払い、殺害の禁止」、「中小商人の利益の保護」などの項目がある)、一九二九年一月の赤軍第四軍布告(そのなかには「都市の商人は零細なる利潤をかせぐものゆえ、服従するかぎり、他のことは問題にせず」などのことばがある)、一九二九年四月の興国県の土地法(本文の注〔17〕を参照)などにもみられる。

〔19〕 このような状態は、革命戦争の発展、根拠地の拡大および革命政府の工商業保護政策によってあらためることができるものであり、事実、のちにはあらためられた。そのばあい、断固、民族工商業を保護し、極左的な政策に反対することが鍵である。

〔20〕 労働力を基準にして土地を分配する方法は妥当でない。事実、赤色地域では人口に応じて均等に土地を分配する原則を長期にわたって実行していた。

〔21〕 靖衛団は反革命的な地方武装組織である。

訳注

① 前敵委員会とは、第二次国内革命戦争の時期に、敵にたいする作戦の必要から、一定の期間、前線の部隊と地方の党組織を統一的に指導して、作戦をおこなう党の臨時的な機構であり、その委員は党省委員会または党中央より任命された。ここでいう前敵委員会は一九二七年秋に成立し、一九二八年三月に解消したものである。その後、一九二八年十一月六日、井岡山で前敵委員会があらたに組織された。本文「党の組織問題」の節を参照。

② 一華里は約五百メートル、八華里が日本の約一里にあたる。華里は原文では里であるが、日本の里と混同しないために華里とした。

③ 原文の「工作」は「活動」と訳してもよいが、原文の「政治工作」を「政治活動」と訳すと誤解されやすいので、ここでは中国籍の「政治工作」をそのままつかった。ここでは人民の軍隊における政治工作のことをさしている。毛沢東同志は、中国共産党に指導されるさいしょの労農赤軍を創設するにあたって、人民の軍隊の建設が政治を先行させなければならないことを強調し、政治が統帥であり魂であり、政治が軍事を統率するということを強調した。これによって、労農赤軍のなかには、人民戦争に必要な一連の政治工作が確立された。政治工作の基本的な任務は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想によって軍隊を教育し、全軍のプロレタリア階級としての革命的自覚をたかめ、党の綱領、路線、政策および人民政府の法令を実行、貫徹し、軍隊にたいする党の絶対的指導を強化し、軍隊の高度な統一ときびしい規律をまもり、将兵間の団結、軍民間の団結と友軍間の団結をはかり、敵軍を瓦解させ、戦闘の勝利を保障することである。したがって、政治工作は人民の軍隊の生命線である。げんざい、政治工作の制度は、すでに経済建設、文化教育、科学研究などあらゆる分野と部門におしひろめられ、社会主義革命と社会主義建設を発展させる力づよい保障となっている。

④ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑤を参照。

⑤ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑩を参照。

党内のあやまった思想の是正について

(一九二九年十二月)

これは、毛沢東同志が赤軍第四軍の覚の第九回代表大会のために書いた決議文である。中国の人民軍隊の建設は、苦難な道をへてきた。中願赤軍(抗日戦争の時期には八路軍、新四軍であり、現在は人民解放軍である)が一九二七年八月一日の南昌蜂起のときに創立されてから、一九二九年十二月までに、二年あまりの時間がたっていた。この期間に、赤軍内の共産党はいろいろのあやまった思想とたたかい、多くのものを学びとり、相当豊富な経験をつんだ。毛沢東同志の書いたこの決議文は、これらの経験の総括である。この決議によって、赤軍はふるい型の軍隊の影響をすべて一掃し、完全にマルクス・レーニン主義を基礎としてうちたてられた。この決議は、赤軍第四軍で実行されたばかりでなく、のちには、赤軍の各部隊でも前後して、そのとおり実行した。こうして中国の全赤軍が完全にほんとうの人民の軍隊になった。二十数年らい、中国の人民軍隊内の党の活動と政治工作には大きな発展と創造があり、現在の姿は過去とは大いにちがっているが、基本的な路線はやはりこの決議の路線である。

赤軍第四軍の共産党組織内にはざまざまな非プロレタリア思想が存在しており、党の正しい路線を遂行するうえできわめて大きな障害となっている。これを徹底的に是正しなければ、中国の偉大な革命闘争が赤軍第四軍にあたえている任務はになえなくなるにちがいない。第四軍の党内のさまざまな正しくない思想の根源は、もちろん、党の組織的基礎のもっとも大きな部分が農民とその他の小ブルジョア階級の出身者によって構成されていることにある。しかし、党の指導機関がこれらの正しくない思想にたいして、一致した断固たる闘争をおこなわず、党員にたいして正しい路線の教育をおこなわなかったことも、これらの正しくない思想を存在させ、はびこらせている重要な原因である。大会は党中央の九月の書簡の精神にもとづいて、第四軍の党内のさまざまな非プロレタリア思想のあらわれ、その根源およびそれを是正する方法を指摘し、同志諸君がこれを徹底的に一掃するために立ちあがるようよびかける。

軍事一点ばりの観点について

軍事一点ばりの観点が赤軍の一部の同志のあいだに、非常にはびこっている。それはつぎのような点にあらわれている。

(一)軍事と政治は対立するものだと考え、軍事は政治的任務を完遂する道具の一つにすぎないということを認めない。それどころか、「軍事がよければ、政治は自然によくなる、軍事がわるければ、政治もわるいはずだ」というものさえいるが、これはさらに一歩すすんで、軍事が政治を指導すると考えるものである。

(二)赤軍の任務も白軍のそれと似たようなもので、ただたんに戦争をするだけだとおもっている。中国の赤軍は革命の政治的任務を遂行する武装集団であることを知らない。とくに現在では、赤軍は、けっしてたんに戦争をするだけではなく、戦争で敵の軍事力を消滅するほかに、なお大衆に宣伝し、大衆を組織し、大衆を武装化し、大衆の革命政権の樹立をたすけることから、共産党の組織をうちたてることまでのさまざまの重大な任務をになっている。赤軍が戦争するのは、たんに戦争のために戦争するのではなくて、大衆に宣伝し、大衆を組織し、大衆を武装化し、また大衆の革命政権の樹立をたすけるために戦争するのであり、大衆にたいする宣伝、組織、武装化および革命政権樹立などの目標をはなれては、戦争することの意義がうしなわれ、また赤軍存在の意義もうしなわれるのである。

(三)したがって、組織のうえでは、赤軍の政治機関を軍事機関に従属させ、「軍外活動も司令部で」というスローガンをもちだしている。このような思想が発展していけば、国民党軍隊が軍閥主義の道をたどっているのとおなじように、大衆からはなれ、軍隊で政権を制御し、プロレタリア階級の指導からはなれる危険な道を歩むことになる。

(四)同時に、宣伝活動のうえでは、宣伝隊の重要性を無視している。大衆を組織するうえでは、軍隊内の兵士委員会の組織を無視し、また地方の労農大衆を組織することを無視している。その結果、宣伝活動と組織活動が、すべて解消された状態になっている。

(五)戦いに勝てばいばりかえり、戦いに負ければしょげかえる。

(六)本位主義、すなわち地方の大衆を武装化することが赤軍の重要な任務の一つであることを知らず、あらゆることを、ただ第四軍のためだけから考える。これは拡大された小集団主義である。

(七)少数の同志たちは、第四軍の局部的な環境にとらわれ、ここ以外には、ほかに革命勢力はないもののように考えている。そのために、実力を保存し、闘争をさけようとする思想が非常に濃厚である。これは日和見主義の残りかすである。

(八)主体的、客観的条件を無視し、革命のせっかち病にかかり、労苦にたえて、きめのこまかい、地味な大衆活動をやろうとせず、はでにやることばかり考え、幻想でいっぱいになっている。これは盲動主義の残りかす〔1〕である。

軍事一点ばりの観点の根源

(一)政治的水準が低い。したがって、軍隊内の政治指導の役割を知らず、赤軍は白軍と根本的にちがったものであることを知らない。

(二)やとい兵の思想。たびたびの戦いで捕虜が非常に多く、こうしたものが赤軍にくわわり、濃厚なやとい兵の思想をもちこんできたので、軍事一点ばりの観点は下層において基盤をもつようになった。

(三)以上の二つの原因によって、第三の原因がうまれている。すなわち軍事力を信じすぎて、人民大衆の力を信じないことである。

(四)党が軍事活動にたいして積極的に心をそそがず、討議をおこなわなかったことも、一部の同志が軍事一点ばりの観点をもつようになった原因である。

是正の方法

(一)教育をつうじて、党内の政治的水準を高め、軍事一点ばりの観点の理論的根源を一掃し、赤軍と白軍との根本的なちがいをはっきり理解させる。同時に、日和見主義と盲動主義の残りかすを一掃し、第四軍の本位主義をうちやぶる。

(二)将兵の政治的訓練を強化し、とくに捕虜出身者にたいする教育を強化する。同時に、組織の面から、軍事一点ばりの観点の根源をよわめ、とりのぞくために、できるかぎり地方政権機関が闘争経験をもった労働者や農民をえらんで赤軍に参加させるようにする。

(三)赤軍内の党組織や赤軍将兵に影響をあたえるために、赤軍内の党組織にたいする地方の党組織の批判や、赤軍にたいする大衆政権機関の批判をおこさせていく。

(四)党は軍事活動にたいして積極的に心をそそぎ、討議をおこなう。すべての活動は、党が討議し、決定したのち、大衆をつうじて実行にうつす。

(五)赤軍にかんする法規を制定し、赤軍の任務、軍事の系統と政治の系統との関係、赤軍と人民大衆との関係、兵士委員会の権限・機能およびそれと軍事・政治機関との関係をはっきり規定する。

極端な民主化について

赤軍第四軍が党中央の指示をうけてから、極端な民主化の現象はだいぶすくなくなった。たとえば、党の決議はわりあいよく実行されるようになった。赤軍内でいわゆる「下から上への民主集権制」とか、「まず下級に討議させ、それから上級で決議せよ」とかいったことの実行を要求するあやまった主張をもちだすものは、もういなくなった。だが、実際には、このような減少も一時的な、表面的な現象にすぎず、極端な民主化の思想が一掃されたのではない。つまり、極端な民主化の根が多くの同志の思想のなかにまだ深く食いこんでいる。たとえば、決議の実行にあたって示されるさまざまなふしょうぶしょうの態度は、その証拠である。

是正の方法

(一)理論のうえで極端な民主化の根をとりのぞく。まず第一に、極端な民主化の危険は、党の組織を傷つけ、さらにそれを完全に破壊し、党の戦闘力を弱め、さらにそれを完全に壊滅させて、党が闘争の責任をおえないようにし、それによって革命の失敗をまねく、という点にあることを指摘しなければならない。そのつぎには、極端な民主化の根源が小ブルジョア階級の自由放漫性にあることを指摘しなければならない。このような自由放漫性が党内にもちこまれると、政治上、組織上の極端な民主化の思想になる。このような思想はプロレタリア階級の闘争任務と根本的に相いれないものである。

(二)組織のうえでは、集中的指導のもとでの民主的生活を厳格におこなう。その路線はつぎのとおりである。

1 党の指導機関は正しい指導路線をもち、問題があれば解決策をうちだす。こうすることによって、指導の中核を確立していく。

2 上級機関は下級機関の状況や大衆生活の状況をはっきりつかみ、それを正しい指導の客観的基礎とする。

3 党の各級機関は、問題を解決するにあたって、軽はずみにやってはならない。いったん決議となった以上は、断固として実行する。

4 上級機関の決議のうち、すこしでも重要なものは、すみやかに下級機関と党員大衆につたえなければならない。そのやりかたとしては、活動者会議をひらくか、細胞会議ないし縦隊①の党員総会をひらくかして(条件がゆるすかどうかを見たうえで)、それに人をおくり、説明させることである。

5 党の下級機関や党員大衆は、上級機関の指示の意義を徹底的に理解し、その実行方法を決定するために、指示をくわしく討議する。

非組織的な観点について

第四軍の党内に存在している非組織的な観点は、つぎのような点にあらわれている。

イ 少数が多数にしたがわない。たとえば、少数者はその提案が否決されると、心をうちこんで党の決議を実行しようとしない。

是正の方法

(一)会議では、出席者にできるかぎり意見をのべさせる。論争になった問題については、調停したり、いいかげんにすませたりするのではなく、是非をはっきりさせる。一回で解決できない問題は、はっきりした結論をひきだすよう、もういちど討議する(仕事をさまたげないことを条件として)。

(二)党の規律の一つは少数が多数にしたがうことである。少数者は自分たちの意見が否決されたばあいには、多数で採択した決議をまもらなければならない。必要があれば、つぎの会議で再討議を提案することはゆるされるが、それ以外に、行動のうえではどのような反対の態度をも示してはならない。

ロ 非組織的な批判

(一)党内批判は党の組織を強固にし、党の戦闘力をつよめる武器である。だが、赤軍の党内の批判は一部がそうではなく、個人攻撃になっている。その結果は、個人をそこなうだけでなく、党の組織をもこわしている。これは小ブルジョア個人主義のあらわれである。これを是正する方法は、党員に、批判の目的は階級闘争の勝利を達成するために党の戦闘力をつよめることにあるのであって、批判を個人攻撃の道具に利用してはならないということを、はっきり理解させることである。

(二)多くの党員は党内では批判せずに、党外で批判している。これは、一般党員がまだ党の組織(会議など)の重要性を理解していず、批判は組織の内部でやっても組織の外部でやっても、なんらちがいはないものと考えているからである。これを是正する方法は、党員に、党の組織の重要性を理解させ、党委員会または同志にたいして批判することがあれば、党の会議でだすべきだということを理解させるように教育することである。

絶対的均等主義について

赤軍内で絶対的均等主義がひどくはびこった時期がある。たとえば、負傷兵に手当を支給するにも、軽傷か重傷かによって区別をつけることに反対し、均等に支給することを要求する。上官が馬に乗るのは、職務の必要からだとは考えず、不平等な制度だと考える。物を支給するにも極端な均等割りを要求し、特別の事情のあるところにすこし多く支給してやることも喜ばない。米をはこぶにしても、大人も子供も、体が強くても弱くても、均等にもたせようとする。宿営するにも部屋は均等にわりあてるよう要求し、司令部がすこしばかり大きな部屋にはいっても、すぐに文句をいう。勤務のわりあても同等であることを要求し、すこしでもよけいにやることは承知しない。そればかりか、担架が一合で負傷兵が二人いるといったばあい、一人しかはこべないようなら、いっそ二人ともはこばせない。これらはみな赤軍将兵のあいだの絶対的均等主義がなおひどいものであることを証明している。

絶対的均等主義の根源は、政治上の極端な民主化とおなじように、手工業と小農経済にあり、ただ一方は政治生活の面にあらわれ、一方は物質生活の面にあらわれただけである。

是正の方法。絶対的均等主義は、資本主義がまだ消滅しない時期には、たんに農民や小所有者の幻想にすぎないばかりでなく、社会主義の時期でも、物資の分配は「各人は能力におうじてはたらき、労働におうじて報酬をうける」という原則と仕事の必要におうじておこなわれるのであって、けっして絶対的な均等といったものではないことを、指摘しなければならない。赤軍内の物資の支給は、将兵の給与を平等にしているように、だいたいにおいて均等にすべきである。というのは、現在の闘争の条件がそう要求しているからである。しかし、すべての理由をぬきにした絶対的均等主義には反対しなければならない。なぜなら、これは闘争に必要なくこではなく、まさにその反対に、闘争をさまたげるものだからである。

主観主義について

主観主義は、一部の党員のあいだに濃厚に存在しているが、これは政治情勢の分析にとっても活動の指導にとっても、非常に不利である。なぜなら、政治情勢にたいする主観主義的な分析や活動にたいする主観主義的な指導は、必然的に日和見主義か、さもなければ盲動主義の結果をうむからである。党内の主観主義的な批判、根拠のないおしゃべり、あるいはおたがいの邪推は、とかく党内の無原則的な紛糾をかもしだし、党の組織を破壊する。

党内批判の問題についてもう一つふれなければならない点は、一部の同志の批判が小さなところにだけ目をむけ、大きなところには目をむけないことである。かれらには、批判の主要な任務が政治上のあやまりと組織上のあやまりの指摘にあることがわからない。個人的な欠点については、それが政治的なあやまりや組織的なあやまりとかかわりがなければ、同志たちをどうしてよいかわからなくさせるほど多く指摘する必要はない。そのうえ、このような批判が高じてくると、党内の注意力は完全に小さな欠点に集中され、人びとは小心翼々とした君子に変わってしまい、党の政治的任務を忘れることになる。これは大きな危険である。

是正の方法。主として、党員の思想や党内の牛沽を政治的にし、科学的にするように党員を教育することである。この目的を達成するためには、つぎのことが必要である。(一)主観主義的な方法によって政治情勢の分析や階級勢力の評価をおこなうのではなくて、マルクス・レーニン主義の方法によって分析や評価をおこなうように党員を教育する。(二)党員に、社会・経済の調査や研究に目をむけさせ、それによって闘争の戦術や活動の方法をきめさせ、同志たちに実際状況の調査をはなれると空想や盲動のどろぬまにはまりこんでしまうことをわからせる。(三)党内批判にあたっては、主観的な独断や批判の卑俗化を防がなければならず、発言するにはよりどころを重んじ、批判するには政治的な面に目をむけなければならない。

個人主義について

赤軍の党内の個人主義的偏向は、つぎのようないろいろな点にあらわれている。

(一)報復主義。党内で兵士の同志から批判されると、党外で機会をとらえて報復する。なぐったり、どなりつけたりするのが、報復の一つの手段である。党内でも、この会議でおれを批判したからつぎの会議ではおまえのあらをさがして仕返ししてやるというように、報復をはかる。このような報復主義は、まったく個人的見地からでたもので、階級の利益や全党の利益がぜんぜん念頭にない。その目標は敵階級にあるのではなくて、自分の陣営内の他の個人にある。これは組織を弱め、戦闘力を弱める腐食剤である。

(二)小集団主義。全体の利益には目をむけず、自分の所属する小集団の利益に目をむけるだけである。表面的には、個人のためということではないが、実際にはきわめてせまい個人主義をふくんでおり、おなじように、大きな腐食作用と遠心作用をもっている。赤軍内には、これまで小集団的な気風がひどかったが、批判がおこなわれて、いまは多少よくなってきた。しかし、その残りかすは依然として存在しており、さらにその克服につとめなければならない。

(三)やとわれ人的思想。党も赤軍も革命の任務を遂行する道具であり、自分はそのうちの一員であることを理解しない。自分が革命の主体であることを理解せず、ただ上官個人に責任をおうだけで、革命にたいして責任をおうのではないと考える。やとわれて革命をやるという、こうした消極的な思想は、やはり一種の個人主義のあらわれである。やとわれて革命をやるという思想は、無条件に努力する積極的な活動家のあまり多くないことの原因になっている。やとわれ人的思想を一掃しなければ、積極的な活動家をふやすことはできず、革命の重責はいつでも少数のものの肩にかかり、闘争にとってきわめて不利である。

(四)享楽主義。これは個人主義が享楽面にあらわれたもので、赤軍内にもそういう人がすくなくない。かれらはつねに部隊が大きい都市にいくことを望んでいる。かれらが大きい都市へいきたがるのは活動のためではなく、享楽のためである。かれらがもっとも好まないのは生活の苦しい赤色地域内で活動することである。

(五)消極的で、なまけること。すこしでも思うようにいかないと、すぐ消極的になり、仕事をしなくなる。その原因はおもに教育の欠けていることにあるが、また、指導者の問題の処理や仕事の配分や規律の執行が妥当でないことにもよる。

(六)部隊をはなれたがる思想。赤軍のなかには、部隊をはなれて地方の仕事にまわることを要求するものが日ましにふえている。その原因はすべて個人的にあるのではない。そのほか、一、赤軍の物質生活がわるすぎること、二、長いあいだのたたかいで疲れを感じていること、三、指導者の問題の処理や仕事の配分や規律の執行が妥当でないことなども原因になっている。

是正の方法。主として思想の面から個人主義を是正するよう教育を強化する。つぎに問題の処理、仕事の配分、規律の執行を適切にすることである。そして、赤軍の物質生活を改善するよう方法を講じなければならない。それには、あらゆる可能な機会を利用して休息、整備することによって物的条件を改善することである。個人主義の社会的根源は、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の思想が党内に反映していることにあり、教育をおこなうにあたっては、この点を説明しなければならない。

流賊的思想について

赤軍内にルンペン出身者が大きな数をしめていることや、全国、とくに南部の各省に広範なルンペン大衆がいることから、赤軍内に流賊主義的な政治思想がうまれている。この思想はつぎの点にあらわれている。一、骨のおれる活動をつうじて根拠地を創設し、人民大衆の政権を樹立し、またそれによって政治的影響を拡大しようとせず、ただ流動的な、遊撃的な方法によって政治的影響を拡大しようと考えるだけである。二、赤軍を拡大するのに、地方赤衛隊や地方赤軍の拡大をつうじて主力赤軍を拡大させるという路線をとろうとせず、「兵馬をつのり」、「寝返り兵、投降兵をかかえこむ」②路線を歩もうとする。三、大衆といっしょに困難なたたかいをする辛抱づよさがなく、大きな都市にいって大いに食ったり飲んだりすることばかり考えている。すべてこうした流賊的思想のあらわれは、赤軍の正しい任務の遂行をひどくさまたげており、したがって、流賊的思想を一掃することは、じつに赤軍の党内の思想闘争の重要な目標の一つである。歴史上の黄巣〔2〕、李闖りちん〔3〕式の流賊主義は、もはやこんにちの環境ではゆるされないことを知るべきである。

是正の方法

(一)教育を強化して、正しくない思想を批判し、流賊主義を一掃する。

(二)現在の赤軍の基本部隊とあらたに参加した捕虜出身の兵士にたいして、ルンペン意識とたたかうための教育を強化する。

(三)闘争経験をもった労働者、農民の活動家を赤軍部隊に参加させて、赤軍の階級構成を変える。

(四)たたかう労農大衆のなかから新しい赤軍部隊をつくりだす。

盲動主義の残りかすについて

赤軍の党組織では、これまで盲動主義にたいして闘争がおこなわれてきたが、まだ不十分である。したがって、赤軍内にはまだ盲動主義思想の残りかすがある。それはつぎの点にあらわれている。一、主体的条件および客観的条件を無視して、めくらめっぽうに行動する。二、都市政策が十分に、断固として実行されていない。三、軍紀がゆるんでおり、とくに戦いにやぶれたときがそうである。四、一部の部隊にはまだ家屋を焼き払う行為がある。五、逃亡兵を銃殺する制度や体刑制度も、盲動主義の性質をおびている。盲動主義の社会的根源はルンペン・プロレタリアの思想と小ブルジョア階級の思想との総合にある。

是正の方法

(一)思想の面から盲動主義を一掃する。

(二)制度と政策の面から盲動的な行為を是正する。

注

〔1〕 一九二七年、革命が失敗したのちの短い期間、共産党内に極左盲動主義の偏向があらわれた。極左盲動主義者たちは、中国革命の性質はいわゆる「連続革命」であり、中国革命の情勢はいわゆる「たえざる高揚」にあると考えているので、秩序のある退却を組織しようとはせずに、少数の党員と少数の大衆に依拠して、全国で、なんら勝つ見込みのない多くの地方的蜂起を、命令主義というあやまった方法で組織しようとした。こうした盲動主義の行動は、一九二七年末にはさかんであったが、一九二八年のはじめになると次第にやんでいった。しかし、一部の党員には、なおそうした気分がのこっていた。盲動主義とは冒険主義のことである。

〔2〕 黄巣は、唐代末年の農民蜂起の首領で、曹州冤句(今の山東省[”くさかんむり”の下に”河”]沢県――訳者)の生まれである。西紀八七五年、すなわち唐の僖宗乾符二年、黄巣は民衆を糾合し、王仙芝の指導する蜂起に呼応した。王仙芝が殺されてから、黄巣は王仙芝の残した部隊をあつめ、「衝天大将軍」と名のった。黄巣のひきいる蜂起部隊は、二回、山東省をでて流動しながら戦った。一回目は山東省から河南省にいき、転じて安徽省と湖北省にはいり、湖北省から山東省にもどった。二回目は、また山東省から河南省にいき、転じて江西省にいき、淅江省東部をへて福建省と広東省にはいり、広西省に転じ、湖南省をへて湖北省にいき、さらに湖北省から東にすすんで安徽、淅江などの省にはいり、それから淮河を渡って河南省にはいり、洛陽をおとしいれ、潼関を攻めおとし、長安を占拠した。黄巣は長安にはいったのち、斉国をたて皇帝と称した。のちに、内部分裂(大将朱温が唐にくだった)がおこりーまた沙陀さた族の酋長しゅうちょう李克用の軍隊の攻撃にあったため、黄巣は長安を失い、ふたたび河南省にいき、河南省から山東省にかえり、ついに失敗して自殺した。黄巣の戦争は十年間もつづき、中国史上有名な農民戦争の一つである。旧支配階級の史書には、当時「重い収奪に苦しんでいた人民は争ってこれに身を投じた」と書かれている。しかし、かれはただたんに流動的な戦争をするだけで、比較的強固な根拠地をつくったことがなかったので、「流賊」とよばれた。

〔3〕 李闖、すなわち李自成は、明朝末年の農民蜂起の首領で、陝西省米脂県の生まれである。西紀一六二八年、すなわち明の思宗祟[示+貞]元年に、陝西省北部に農民蜂起のあらしがまき起こった。李自成は高迎祥の蜂起部隊にくわわり、陝西省から河南省にはいり、安徽省にいき、陝西省にひきかえした。一六三六年、高迎祥が死に、李自成はおされて闖王になった。李自成が大衆のあいだでかかげたおもなスローガンは「闖王を迎えれば、年貢ねんぐはいらぬ」であった。かれが部隊を拘束する規律のなかには、「人ひとりを殺すは、わが父を殺すに等しく、女ひとりをはずかしむるは、わが母をはずかしむるに等し」というスローガンがあった。このため、かれを支持するものは非常に多く、当時の農民蜂起の主流となった。しかし、かれもまた比較的強固な根拠地をつくったことがなく、たえずほうぼうに流動していた。かれはおされて闖王になったあと、部隊をひきいて四川省にはいり、陝西省南部にひきかえし、湖北省をへてまた河南省にはいり、まもなく湖北省の襄陽を占領し、ふたたび河南省をへて陝西省に攻めいり、西安を占領し、一六四四年、山西省をへて北京に攻めいった。その後まもなく、清の軍隊とそれを手引きした明の将軍呉三桂との連合攻撃にあって失敗した。

訳注

① 縦隊とは、赤軍(その後の八路軍、新四軍、解放軍)の編制単位の一つである。それは正規編制の部隊にくらべて、かなり機動性があり、その兵員数は革命の時期や地区によって異なるが、だいたい正規編制の一コ連隊、一コ師団あるいは一コ軍団に相当する。ここでの赤軍第四軍の縦隊は歩兵一コ連隊に相当する。

② これは、中国の歴史上、一部の蜂起勢力が自分の軍隊を拡充するときにとった方法である。この方法では、さまざまな人びとや投降部隊を無差別に自分の軍隊にかかえこみ、軍隊の質を無視しがちで、量にだけ注意をはらうことになる。

小さな火花も広野を焼きつくす

(一九三〇年一月五日)

これは、毛沢東同志の通信文であって、当時党内にあった悲観的な思想を批判するために書かれたものである。

時局にたいする見通しと、それにともなうわれわれの行動の問題について、わが党内の一部の同志にはまだ正しい認識が欠けている。かれらは、革命の高まりが不可避的にやってくることを信じてはいるが、革命の高まりが急速にやってくる可能性については信じていない。したがって、かれらは、江西チァンシー省をたたかいとる計画には賛成しないで、ただ福建フーチェン省、広東コヮントン省、江西省のあいだの三つの省境地城で流動的な遊撃をおこなうことに賛成するだけであり、同時に、遊撃地域で赤色政権を樹立するというふかい考えももっていず、したがってまた、このような赤色政権をかため、拡大することによって、全国的な革命の高まりをうながすというふかい考えももっていない。かれらは、革命の高まりがまだほど遠い時期に政権を樹立するという困難な仕事をするのは、むだぼねおりだと考えているようで、わりあい簡便な流動的遊撃方式で政治的影響を拡大し、そして、全国各地で大衆を獲得する活動をやりおえるか、あるいはそれがある程度までやられてから、そこで全国的武装蜂起をおこし、その時に、赤軍の力をくわえて、全国的範囲の大革命になることを望んでいる。このような、すべての地方をふくむ全国的範囲で、まず大衆を獲得し、そのあとで政権をうちたてようとするかれらの理論は、中国革命の実情にそぐわないものである。かれらのこのような理論は、主として、中国が多くの帝国主義国のたがいに奪いあっている半値民地であるということを、はっきり認識していないところからきている。中国が多くの帝国主義国のたがいに奪いあっている半値民地であるということをはっきり認識するならば、第一に、全世界で、なぜ中国だけに、支配階級内部の長期にわたる相互混戦というこのような不思議なことがおきているのか、しかも、なぜその混戦が日一日と激しくなり、日一日と拡大しているのか、なぜ、いつまでも統一された政権をもつことができないのか、ということがわかるであろう。第二に、農民問題の重大さがわかり、したがって、農村での蜂起が、なぜ現在のように全国的規模で発展しているのかもわかるであろう。第三に、労農民主政権というこのスローガンの正しさがわかるであろう。第四に、全世界で中国だけにしかない支配階級内部の長期の混戦という不思議なことに応じてうまれたもう一つの不思議なこと、すなわち赤軍と遊撃隊の存在と発展、および赤軍と遊撃隊にともなってうまれた、周囲を白色政権にとりかこまれているなかで成長している小さな赤色地域の存在と発展(こんな不思議なことは中国にしかない)がわかるであろう。第五に、赤軍、遊撃隊および赤色地域の創設と発展が、プロレタリア階級の指導のもとでの半植民地中国の農民闘争の最高の形態であり、また半植民地の農民闘争の発展の必然的な結果であること、しかもそれは、疑いもなく、全国的な革命の高まりをうながすもっとも重要な要素であることもわかるであろう。第六に、たんなる流動的遊撃の政策では、全国的な革命の高まりをうながす任務を達成することはできず、朱徳チュートー・毛沢東マオツォートン式の、方志敏ファンチーミン〔1〕式の政策、すなわち根拠地をもつこと、計画的に政権をつくりあげること、土地革命をふかめること、人民の武装組織を拡大する路線として、郷赤衛隊から区赤衛大隊、県赤衛総隊、地方赤軍、正規の赤軍へと発展させるという一連の方法をとること、政権の発展は波状的に拡大する方法をとること、などの政策が、疑いもなく正しいものであることもわかるであろう。こうしなければ、ソ連が全世界で信望をあつめたように、全国の革命的な大衆のあいだで信望をあつめることはできない。こうしなければ、反動支配階級に非常に大きな困難をあたえ、その基礎をゆりうごかして、その内部の分解をうながすことはできない。またこうしなければ、将来の大革命の主要な道具となる赤軍をほんとうにつくりだすこともできない。要するに、こうしなければ、革命の高まりをうながすことはできないのである。

革命のせっかち病にかかっている同志たちは、革命の主体的な力〔2〕を不当に大きく見、反革命の力を小さく見すぎている。このような評価は、その大半が主観主義からきている。その結果は、疑いもなく盲動主義の道に走ることになる。他方、もし革命の主体的な力を小さく見すぎ、反革命の力を大きく見すぎるならば、これも不当な評価であって、また必然的に別の面の悪い結果をうむことになる。したがって、中国の政治情勢を判断するばあい、つぎのようないくつかの重要な点を認識する必要がある。

(一)現在、中国革命の主体的な力は弱いものであるが、中国のおくれた弱い社会経済構造を基盤にしている反動支配階級のすべての組織(政権、武装組織、政党など)もやはり弱いものである。だから、つぎのことを説明することができる。現在の西欧諸国の革命の主体的な力は現在の中国革命の主体的な力よりもいくらか強いかもしれないが、それらの国々の反動支配階級の力も中国の反動支配階級の力よりさらに何倍か強大であるため、やはり革命はすぐにはおきない。いまの中国革命の主体的な力は弱いものであるが、反革命の力も相対的に弱いので、中国革命が高まりにむかうのは、かならず西欧よりもはやいにちがいない。

(二)一九二七年に革命が失敗してのち、革命の主体的な力はたしかに大いに弱まった。残ったわずかな力を、いくつかの現象だけからみると、とうぜん同志たち(このような見方をする同志たち)に悲観的な考えをおこさせるであろう。しかし、実質の面からみれば、けっしてそんなものではない。ここでは中国のふるくからのことば「小さな火花も広野を焼きつくす」というのがよくあてはまる。つまり、いまはほんのわずかな力しかないが、その発展は非常にはやいにちがいない。中国のような環境では、それは、たんに発展の可能性をもっているだけでなく、たしかに発展の必然性をもっている。このことは五・三〇運動①およびその後の大革命運動が、すでに十分立証している。われわれがものごとを見るばあいには、その実質を見るべきであって、その現象はただ入門のための手引きとみなし、ひとたび門内にはいったならば、その実質をつかまなければならない。これこそがたしかな科学的な分析方法である。

(三)反革命の力を評価するにもそうであって、けっしてその現象だけをみてはならず、その実質をみなければならない。湖南フーナン・江西省境地区割拠の初期には、一部の同志は、当時の湖南省委員会の正しくない評価をほんとうに信用し、階級の敵をまったくとるに足りないものだと考えた。いまでも笑いぐさになっている「ひどい動揺」とか「極度の狼狽ろうばい」といったことばは、その当時(一九二八年五そ六月)湖南省委員会が湖南省の支配者魯[シ+篠]平ルーテイピン〔3〕を評価した形容詞であった。このような評価のもとでは、必然的に政治上の盲動主義がうまれる。ところが、同年十一月から昨年二月(蒋桂チァンコイ戦争〔4〕がまだはじまらない前)にかけての約四ヵ月間、敵の三回目の「合同討伐」〔5〕が井岡山にまで迫ったとき、一部の同志は、こんどは「赤旗ははたしていつまでかかげるれるであろうか」といった疑問をだしてきた。だが、実際には、当時中国におけるイギリス、アメリカ、日本のあらそいはきわめて露骨なところにまできており、蒋介石チァンチェシー派、広西コヮンシー派、馮玉祥フォンユイシァン派の混戦情勢もすでに形成されていたので、実質上は、反革命の波が退きはじめ、革命の波がふたたび高まりはじめていた時期であった。ところが、そうしたときに、赤軍や地方の党内に悲観的な思想があっただけでなく、党中央さえも、当時、そのような表面的な状況にまどわされて、悲観的な論調のうまれるのをさけられなかった。党中央がよこした二月の書簡〔6〕こそ、当時の党内の悲観的な分析を代表するものとしての証拠である。

(四)いまの客観的情勢は、やはり、当面している表面的な現象だけをみて、実質をみない同志たちをまどわせやすい。とくに、われわれのように赤軍のなかで活動しているものは、ひとたび負けいくさをしたり、四方から包囲されたり、強敵に追いかけられたりすると、とかくこのような一時的な、特殊な、小さな環境を無意識のうちに一般化し拡大化して、あたかも全国、全世界の情勢がすべて楽観をゆるさず、革命の勝利の見通しも、なんだかきわめて影のうすいもののようにおもえてくる。このように表面だけをとらえ、実質をすてた見方をするのは、かれらが一般情勢の実質について、なんら科学的に分析をおこなっていないからである。中国革命の高まりが近いうちにやってくるかどうかについては、革命の高まりをひきおこすさまざまな矛盾がほんとうに発展しているかどうかを、くわしく調べてみなければきめられない。国際的に、帝国主義相互のあいだの、帝国主義と植民地とのあいだの、また帝国主義と自国のプロレタリア階級とのあいだの矛盾が発展している以上、帝国主義の中国争奪の必要はいっそう切迫してくる。帝国主義の中国争奪が切迫してくると、中国の国内で、帝国主義と全中国とのあいだの矛盾、帝国主義者相互のあいだの矛盾が同時に発展してくるし、したがって、中国の反動支配者各派のあいだの、日ごとに拡大し、日ごとに激化する混戦がうまれ、中国の反動支配者各派のあいだの矛盾もますます発展してくる。反動支配者各派のあいだの矛盾――軍閥の混戦にともなってくるものは租税の加重であり、そうなれば広範な租税負担者と反動支配者とのあいだの矛盾をますます発展させるであろう。帝国主義と中国民族工業とのあいだの矛盾にともなってくるものは、中国民族工業が帝国主義からの譲歩をえられなくなるということであり、それによって、中国のブルジョア階級と中国の労働者階級とのあいだの矛盾も発展し、中国の資本家は必死になって労働者を搾取することによって活路を見いだそうとし、中国の労働者はそれに抵抗する。帝国主義の商品による侵略や、中国商業資本の搾取や政府の税金加重などの事情にともなって、地主階級と農民とのあいだの矛盾もさらに深刻化する。すなわち小作料と高利貸しによる搾取がいっそうひどくなり、農民はいっそう地主を憎むようになる。外国商品による圧迫、広範な労農大衆の購買力の枯渇および政府の租税の加重によって、国産品をとりあつかう商人や独立生産者はますます破産の道においやられる。反動政府が糧秣りょうまつ軍費の不足している条件のもとで、軍隊を無制限にふやし、またそれによって戦争をますます頻繁ひんぱんにしているので、兵士大衆はいつも苦しい状態におかれる。国家の租税の加重、地主の小作料と利子の加重、戦災の日ごとの拡大によって、凶作と匪賊ひぞくの害が全国にひろがり、広範な農民と都市の貧民は生きるにも生きられない道においやられる。経費がなくて学校がはじまらないために、多くの在校生には勉学がつづけられなくなる心配がうまれ、生産がおくれているために、多くの卒業生には就職ののぞみがたたれる。われわれが以上のような矛盾を理解すれば、中国はどんなにあすもわからない不安な状態におかれているか、どんなに混乱した状態におかれているかがわかる。そして帝国主義反対、軍閥反対、地主反対の革命の高まりは、いかにさけることのできないものであり、しかもそれがもうすぐやってくるものであることもわかる。中国はその全土がかわききったたきぎでおおわれており、またたくまに猛火となって燃えあがるであろう。「小さな火花も広野を焼きつくす」ということばは、まさにこうした情勢の発展を適切にいいあらわしたものである。多くの地方での労働者のストライキや、農民の暴動や、兵士の反乱や、学生のストライキなどの発展をみただけでも、疑いもなくこの「小さな火花」が「広野を焼きつくす」時期の遠くないことがわかる。

以上のべたことの要旨は、昨年四月五日、前敵委員会が党中央へ送った書簡のなかにも書いてある。その書簡ではつぎのようにのべている。

「党中央のこの書簡(一九二九年二月九日付)は、客観情勢と主体的な力にたいする評価が、あまりにも悲観的である。国民党の三回にわたる井岡山『討伐』は、反革命の最高潮をしめした。ところが、そこまでで、それからは、反革命の波はしだいに退き、革命の波がしだいに高まっている。党の戦闘力、組織力は党中央のいっているほどまで弱まっているが、反革命の波がしだいに退いている情勢のもとでは、かならず急速に回復し、党内の幹部たちの消極的な態度も急速になくなるであろう。大衆はかならずわれわれの側につく。虐殺主義〔7〕はもとより魚を深みに追いこむ②ものであるが、改良主義ももはや大衆にうったえる力をうしなっている。国民党にたいする大衆の幻想も急速に消えさるにちがいない。きたるべき情勢のもとでは、どんな政党も共産党と大衆をうばいあうことはできない。現段階の革命は社会主義ではなくて、民権主義であり、党の(著者圧――ここに「大都市での」という字句をつけくわえるべきだ)当面の任務はすぐに暴動をおこすことではなく、大衆を獲得することである、という党の第六回大会〔8〕がしめした政治路線と組織路線は正しい。だが、革命は急速に発展するであろうから、武装暴動の宣伝と準備には積極的な態度をとちなければならない。ひどく混乱した現在の情勢のもとでは、積極的なスローガンと積極的な態度がないかぎり、大衆を指導することはできない。党の戦闘力もかならずこのような積極的態度をとることによって、はじめて回復できる。……プロレタリア階級の指導は革命を勝利にみちびく唯一の鍵かぎである。党のプロレタリア階級的基礎の確立、中心地域での企業細胞の創設、これか当面の党の組織面における重要な任務である。しかし、それと同時に、農村での闘争を発展させ、小地域の赤色政権をうちたて、赤軍を創設し、拡大することは、とりわけ、都市における闘争をたすけ革命の高まりをうながす主要な条件である。したがって、都市の闘争を放棄するのはあやまりであるか、しかし、農民勢力の発展をこわがり、それが労働者の勢力をしのいで革命に不利となるのではないかという考えが、もし党員のなかにあるとすれば、それもあやまりであるとわれわれはおもう。なぜなら、半植民地中国の革命は、農民闘争が労働者の指導がえられないために失敗することはあっても、農民闘争が発展して労働者の勢力をしのいだがために革命そのものを不利にするようなことはないからである。」

またこの書簡は、赤軍の行動の戦術の問題についてつぎのように答えている。

「党中央はわれわれにたいし、赤軍の保存と大衆の動員を目的として、部隊をごく小さくわけて、農村に分散させ、朱億、毛沢東は部隊をはなれ、大きな目標となるものをかくせと要求している。これは実際にそぐわない考え方である。中隊あるいは大隊を単位として、単独行動をとり、農村に分散させ、遊撃戦術によって大衆を動員し、目標となるのをさけることは、われわれが一九二七年の冬から計画したことであり、しかも何回か実行したことであるが、すべて失敗した。なぜなら、(一)主力である赤軍の多くは地元のものではなく、地方の赤衛隊とは来歴がちがっている。(二)小さくわければ指導が不健全となり、悪い環境に対処できず、失敗しやすい。(三)敵に各個撃破されやすい。(四)環境が悪くなればなるほど部隊をますます集中し、指導者はますます断固として奮闘すべきであり、そうしなければ、内部を団結させて、敵に対処することはできない。環境が有利なばあいにだけ、兵力を分散させて遊撃することができ、指導者もまた悪い環境のときのように片時も部隊をはなれてはならないということではない。」

書簡のこの部分の欠点は、兵力を分散させてはならない理由としてあげたものが、みな消極的なものであったことで、これはまことに不十分である。兵力集中の積極的な理由は、集中することによってはじめて、より大きな敵を消滅することができるし、町を占領することができる点にある。より大きな敵を消滅し、町を占領することによってはじめて、ひろい範囲で大衆を動員し、いくつかの県をつらねた一つの政権を樹立することができる。こうしなければ、遠近の人の耳目をそばだたせる(いわゆる政治的影響を拡大する)ことはできず、革命の高まりをうながすうえで実際的効果をあげることはできない。たとえば、われわれが一昨年、湖南・江西省境地区政権を樹立したのも、昨年福建省西部の政権〔9〕を樹立したのも、すべてこのような兵力集中政策の結果である。これは一般的な原則である。それでは、兵力を分散させるときはないのかといえば、やはりある。前敵委員会が党中央に送った書簡では赤軍の遊撃戦術についてのべたが、そこにはつぎのように、近距離の兵力分散のこともふくまれている。

「われわれがこの三年らいの闘争のなかでえた戦術は、古今東西の戦術とはまったくちがったものである。われわれの戦術をつかえば、大衆闘争への動員は日一日と拡大し、どんなに強大な敵でもわれわれをどうすることもできなくなる。われわれの戦術とは遊撃の戦術である。かいつまんでいうとつぎのとおりである。『兵力を分散させて大衆を動員し、兵力を集中して敵に対処する。』『敵が進んでくればわれわれは退き、敵がとどまればわれわれはなやませ、敵が疲れればわれわれは襲い、敵が退けばわれわれは追いかける。』『固定した地域の割拠〔10〕を波状的にひろげていく政策をとる。強敵が追いかけてくれば、ぐるぐるまわる政策をとる。』『短い時間に、すぐれた方法で、多くの大衆を立ちあがらせる。』このような戦術はちょうど投げ網をうつようなもので、いつでも網をひろげ、またいつでも網をひきしぼるようにする。ひろげては大衆を獲得し、しぼっては敵に対処する。三年このかた、つかってきた戦術はすべてこれである。」

ここで「ひろげる」というのは、つまり近距離の兵力分散である。たとえば湖南・江西省境地区で最初に永新ヨンシンを攻略したとき、第二十九連隊と第三十一連隊は永新県内に兵力を分散させていた。また三回目に永新を攻略したときは、第二十八連隊が安福アンフー県の県境へ、第二十九連隊は蓮花リェンホワ県へ、第三十一連隊は吉安チーアン県の県境へと兵力を分散させた。また、たとえば、昨年四月から五月にかけての江西省南部の各県における兵力分散や、七月の福建省西部の各県における兵力分散もそれである。遠距離の兵力分散は、環境がいくらかでも有利であり、指導機関がわりあい健全であるという二つの条件がなければできない。なぜなら、兵力を分散させる目的は、大衆の獲得、土地革命の貫徹、政権の樹立、赤軍と地方武装組織の拡大をいっそうよくやれるようにすることにある。もし、こうした目的がたっせられないか、あるいは兵力を分散させたことによってかえって失敗をまねき、赤軍の力が弱められるならば、たとえば、一昨年の八月、湖南・江西省境地区で兵力を分散させて[林+おおざと]州チェンチョウを攻撃したときのようなことであれば、むしろ兵力は分散させない方がよい。もしうえにのべた二つの条件がそなわっておれば、疑いもなく兵力を分散させるべきである。この二つの条件のもとでは、集中するより分散させた方がいっそう有利だからである。

党中央の二月の書簡の趣旨は正しくない。その書簡は第四軍の党内の一部の同志に悪い影響をあたえた。党中央は当時もう一つの通達で、蒋介石派と広西派の戦争はかならずしもおこるとはかぎらないといった。しかし、その後の党中央の評価と指示は、だいたいにおいていずれも正しかった。不適当な評価をしたあの通達については、党中央からすでに訂正の通達がでている。赤軍への書簡については訂正していないが、その後だされた指示には、もうあのような悲観的な論調は見られなくなり、赤軍の行動についての主張もわれわれの主張と一致するようになった。だが、党中央のあの書簡が一部の同志にあたえた悪い影響は、まだ残っている。したがって、わたしは、いまでもまだ、この問題について説明する必要があるとおもう。

一年で江西省をたたかいとる計画も、昨年の四月に、前敵委員会が党中央に提出したもので、その後さらに[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都ユイトウ県で決定がおこなわれている。当時指摘した理由は、党中央にあてた書簡に見られるが、それはつぎのとおりである。

「蒋介石と広西派の部隊は九江チウチァン一帯で接近しており、大きなたたかいのはじまるのは目のまえに迫っている。大衆闘争の回復、それに、反動支配者内部の矛盾の拡大によって、革命の高まりはまもなくやってくる可能性がある。このような局面のもとで活動の手配をするさいに、われわれはつぎのように考える。南部の数省のうちで広東、湖南両省は買弁地主の軍事力があまりにも大きく、そのうえ湖南省では、党の盲動主義のあやまりによって、党内党外の大衆をほとんどうしなっている。福建、江西、淅江チョーチァンの三省はこれとちがった情勢にある。第一に、この三省の敵の軍事力はもっとも弱い。淅江省には蒋伯誠チァンポーチョン〔11〕のわずかな省防衛軍がいるだけである。福建省の五つの部隊は十四コ連隊あるが、郭鳳鳴クォフォンミン旅団はすでに撃破されており、陳国輝チェンクォホイ、盧興邦ルーシンパン〔12〕の二つの部隊はどちらも匪賊部隊で、戦闘力はきわめて小さい。陸戦隊の二コ旅団は沿海地方にいて、これまで戦闘したこともなく、その戦闘力は大きいはずがない。ただ張貞チャンチェン〔13〕の部隊だけが比較的戦えるが、福建省委員会の分析によると、張貞の部隊にしても、戦闘力の比較的強いのは二コ連隊だけである。しかも、福建省は現在完全に混乱状態にあり、統一されていない。江西省の朱塔徳チューペイトー〔14〕、熊式輝シゥシーホイ〔15〕の両部隊はあわせて十六コ連隊あって、福建省、淅江省の軍事力よりも強いが、湖南省にくらべるとびどく劣っている。第二に、この三省では盲動主義のあやまりがわりにすくない。淅江省の状況だけはわれわれによくわかっていないか、江西、福建両省における党と大衆の基礎は、湖南省よりいくらかよい。江西省についていうならば、北部の徳安トーアン、修水シウショイ、銅鼓トンクーの各県にはまだかなりの基礎かある。江西省西部の寧岡ニンカン、永新、蓮花、遂川スイチョワンの各県には、党および赤衛隊の勢力が依然として存在している。江西省南部ではいっそうのぞみがあり、吉安、永豊ヨンフォン、興国シンクォなどの県での赤軍第二、第四連隊は日ましに発展する傾向にある。方志敏の赤軍は消滅されてはいない。このようにして南昌ナンチャン包囲の形勢がつくりだされている。われわれは党中央につぎのように提案する。国民党軍閥が長期にわたって戦争しているあいだに、蒋介石派と広西派から江西省をたたかいとり、同時に、福建省西部、淅江省西部にも進出する。三省で赤軍の兵力を拡大し、大衆的割拠をつくりあげ、一年を期限としてこの計画を達成する。」

以上のべた江西省をたたかいとる点で、まちがっていたのは期限を一年ときめたことである。江西省をたたかいとることについては、江西省自体の条件のほかに、さらに全国的な革命の高まりがまもなくやってくるという条件がふくまれる。革命の高まりがまもなくやってくることを信じないならば、一年のうちに江西省をたたかいとるという結論はけっしてだせるものではないからである。あの提案の欠点が一年ときめたことにあったので、その影響をうけて、革命の高まりがまもなくやってくるという、この「まもなく」ということにも、多少のあせりがふくまれていないわけではなかった。江西省の主体的、客観的条件については大いに注意すべきである。党中央への書簡でのべている主体的条件のほかに、客観的条件として現在はっきり指摘できる点が三つある。その一つは、江西省の経済が主として封建的経済であり、商業ブルジョア階級の勢力が比較的小さく、しかも地主の武装組織が南部各省のうち、どの省よりも弱いことである。その二つは、江西省にはこの省自体の軍隊がなく、いままでずっとよその省の軍隊がきて駐屯していたことである。よそからきた軍隊は「共産軍討伐」「匪賊討伐」をやるのに、事情もうとく、そのうえ地元の軍隊にくらべるとその利害関係ははるかにうすいので、とかくそれほど熱心でない。その三つは、広東が香港シァンカンに接近し、ほとんどなにごともイギリスの支配をうけているのとはちがって、帝国主義の影響からわりあいへだてられていることである。この三つの点を理解すれば、なぜ江西省の農村蜂起が他のどの省よりも普遍的であり、また赤軍の遊撃隊がどの省よりも多いかということを説明できる。

革命の高まりがまもなくやってくるというこの「まもなく」ということばをどう解釈するか、この点は多くの同志の共通の問題である。マルクス主義者は易者ではない。将来の発展と変化については、ただ大きな方向だけを示すべきであり、またそれしかいえないのであって、機械的に期日をきめるべきでなく、またきめられるものでもない。だが、わたしのいう中国革命の高まりがまもなくやってくるというのは、けっして一部の人びとがいっている「やってくる可能性がある」というような、まったく行動的意義のない、ながめることはできても近づくことのできない、といったからっぽなものではない。それは海辺からはるかかなたにのぞまれる、帆柱の先端をあらわした船であり、それは高い山のいただきからはるか東にのぞまれる、光を四方に放ちながらうすもやをついてでようとしている朝日であり、それは母親の胎内でうごめきながらまもなくうまれでようとしている嬰児えいじである。

注

〔1〕 方志敏同志は、江西省弋陽県の出身で中国共産党第六回大会で選出された中央委員であり、江西省東北部の赤色地域および赤軍第十軍の創立者である。一九三四年、かれは赤軍の抗日先遣隊をひきいて北上した。一九三五年一月、国民党の反革命軍隊との戦闘中捕えられ、同年七月、南昌で英雄的な最期をとげた。

〔2〕 毛沢東同志がここでいっている「革命の主体的な力」とは、組織された革命の力をさす。

〔3〕 魯[シ+篠]平は、国民党の軍閥で、一九二八年当時、国民党の湖南省主席であった。

〔4〕 蒋桂戦争とは、一九二九年の三月から四月にかけての国民党の南京軍閥蒋介石と広西省軍閥李宗仁、白崇禧とのあいだの戦争をいう。

〔5〕 一九二八年末から一九二九年はじめにかけて湖南、江西両省の国民党軍閥が赤軍の根拠地井岡山にたいしておこなった第三回目の侵犯をさす。

〔6〕 「党中央がよこした二月の書簡」とは、中国共産党中央が一九二九年二月九日、前敵委員会にあてた書簡のことである。本文に引用されている一九二九年四月五日に前敵委員会が党中央にあてた書簡には、党中央の二月の書簡の内容が要約されている。それは主として当時の情勢の評価と赤軍の行動の戦術の問題にかんするものである。党中央がこの書簡のなかで提起した見解は、妥当なものではなかったので、前敵委員会は、党中央への書簡のなかで、それとちがった見解を提起したのである。

〔7〕 反革命勢力が、人民の革命勢力にたいしてとった血なまぐさい虐殺の手段をさす。

〔8〕 「党の第六回大会」とは、一九二八年七月の中国共産党第六回全国代表大会のことである。この大会では、一九二七年の革命が失敗したのちも、中国革命の性質は依然として反帝・反封建のブルジョア民主主義革命であること、また新しい革命の高まりはさけられないものであるが、その高まりはまだやってきておらず、したがって、当時の革命の総路線は、大衆を獲得することであることが指摘された。第六回大会では、一九二七年の陳独秀の右翼投降主義が清算され、また一九二七年に革命が失敗したあと、一九二七年の末から一九二八年のはじめにかけて党内に発生した極左盲動主義も批判された。

〔9〕 一九二九年、赤軍は井岡山から東にむかって福建省に進撃し、新しい革命根拠地をきりひらき、福建省西部の竜岩、永定、上杭などの県に人民革命の政権を樹立した。

〔10〕 「固定した地域の割拠」とは、労農赤軍が比較的強固な革命根拠地をうちたてることをさす。

〔11〕 蒋伯誠は、当時国民党の淅江省保安司令官であった。

〔12〕 陳国輝、盧興邦は、福建省の有名な匪賊の首領で、その部隊は国民党軍に編入された。

〔13〕 張貞は、国民党軍の師団長であった。

〔14〕 朱培徳は、国民党の軍閥で、当時国民党の江西省政府主席であった。

〔15〕 熊式輝は、当時江西省に駐屯していた国民党車の師団長であった。

訳注

① 本巻の『中国社会各階級の分析』の注〔7〕を参照。

② 「魚を深みに追いこむ」というのは、『孟子』―「離婁章句上」に出てくることばで、原文はつぎのとおり。「魚を深みに追いこむのは獺かわうそであり、すずめを茂みに追いこむのは隼はやぶさであり、民衆を湯王、武王の側においやったのは桀王、紂王である。」つまり、魚をとってたべる獺が魚を深みに追いこみ、すずめをとってたべる隼がすすめを茂みに追いこむのとおなじように、暴君桀王と紂王は民心をうしなって、人民をみな仁君の湯王、武王の側においやってしまった、という意味である。ここでは、国民党の虐殺主義が人民を革命の側へおいやったことにたとえている。

経済活動に心をそそげ

(一九三三年八月二十日)

これは、毛沢東同志が一九三三年八月、江西省南部十七県の経済建設活動会議でおこなった演説である。

革命戦争の激烈化によって、われわれは、大衆を動員して、ただちに経済戦線での運動をくりひろげ、各種の必要にして可能な経済建設事業をおしすすめることを要求されている。どうしてか。いまのわれわれのすべての活動は、革命戦争の勝利、まず数の五回目の「包囲討伐」〔1〕を粉砕する戦争での徹底的な勝利をかちとること、赤軍の給養と供給を保障する物質的な条件をかちとること、人民大衆の生活を改善して、人民大衆の革命戦争に参加する積極性をいっそうふるいたたせること、経済戦線で広範な人民大衆を組織し教育して、戦争に新しい大衆の力をくわえること、経済建設をつうじて労働者と農民の同盟をかため、労農民主主義独裁をかため、プロレタリア階級の指導をつよめること、こうしたことのためでなければならない。こうしたすべてのことのためには、経済面での建設活動をすすめることが必要である。これは、革命の活動家の一人びとりが、はっきりと認識しておかなければならないことである。これまで、一部の同志は、革命戦争だけでもいそがしくてやりきれないのに、経済建設活動をやるひまなどどこにあろうかと考え、そのため経済建設の話でも耳にしようものなら、すぐに「右翼的偏向だ」ときめつけた。かれらは、革命戦争という環境では経済建設をやる可能性はなく、経済建設をやるには戦争が最終的に勝利して、平和な落ちついた環境になるのをまたなければならないと考えている。同志諸君、このような考えはまちがいである。このような考えをもっている同志は、経済建設をやらなければ、革命戦争の物質的条件は保障されず、人民は長期の戦争でつかれを感じることが、わからない。見たまえ、敵は経済封鎖をおこない、悪質商人や反動派はわれわれの金融、商業を破壊しており、わが赤色地域の対外貿易は、非常に大きな妨害をうけている。もし、われわれがこれらの困難を克服しなかったら、革命戦争は大きな影響をうけはしないだろうか。塩は非常にたかいし、ときには買えないこともある。米も、秋冬は安いが、春夏になると途方もなくたかい。このような状況は、すぐ労働者、農民の生活にひびき、その生活改善を不可能にしている。これでは労農同盟という基本路線に影響しはしないだろうか。もし労農大衆が自分の生活に不満をいだくようになったら、赤軍の拡大、革命戦争への大衆の動員というわれわれの活動に影響しはしないだろうか。だから、革命戦争という環境のもとでは経済建設をやるべきでないという考えは、極端なあやまりである。このような考えをもっている人も、いっさいを戦争に従属させるべきだとつねにいっている。だが、経済建設をとりやめたら、戦争に従属させるのではなくて、戦争をよわめることになるのをかれらは知らない。経済戦線の面での活動をくりひろげ、赤色地域の経済を発展させること。そうしなければ、革命戦争にかなりの物質的基礎をあたえることができず、われわれの軍事的な進攻を順調にくりひろげて、敵の「包囲討伐」に力づよい打撃をあたえることができない。また、そうしなければわれわれが赤軍を拡大して、われわれの戦線を数千華里のところにまでのばせるような力をもつことができず、われわれの赤軍がなんの心配もなく、将来有利な条件のもとで、南昌ナンチャン、九江チウチァンを攻撃することができず、われわれの赤軍が自分で給養を解決するという仕事をへらして、ひたすら、敵とたたかうことができない。また、そうしなければわれわれの広範な大衆が生活上かなりの満足をえて、いっそうよろこんで赤軍にはいり、各種の革命活動をやることができない。このようにしなければ、戦争に従属させたとはいえないのである。現在、各地の革命活動家のなかには、革命戦争のなかでの経済建設活動の重要性をはっきり理解していない人がまだたくさんおり、地方政府のなかにも経済建設の問題の討論に力をいれていないところがまだたくさんある。各地の政府の国民経済部の組織はまだ健全でなく、ところによってはまだ部長さえ見つけていないか、あるいは、仕事の能力のわりにおとるもので間にあわせているにすぎない。協同組合の発展はまだはじまったばかりの段階であり、食糧調整の仕事も、一部の地方ではじめられただけである。各地ではまだ経済建設という任務を、広範な大衆のあいだに宣伝(これはたいへん重要なことである)しておらず、まだ経済建設のためにたたかう熱烈なふんいきを大衆のなかにつくりだしていない。このような状態は、いずれも経済建設重要性を無視したことからきている。われわれはどうしても、同志諸君のこの会議での討論と、会議がすんで各地に帰ってからの伝達をつうじて、政府の全職員のあいだに、また広範な労働者、農民大衆のあいだに、熱烈な経済建設のふんいきをつくりださなければならない。みんなに、革命戦争のなかでの経済建設の重要性を理解させて、経済建設公債の売りさばき、協同組合運動の発展、穀物倉庫と備荒倉庫の普遍的な設立に努力するようにさせなければならない。県ごとに食糧調整分局をもうけ、重要な区、重要な[土+于]場ユイチャン〔2〕には食糧調整支局をもうけなければならない。一方では、われわれの食糧を赤色地域内のあまったところから不足しているところに運んで、あるところでは山積みしてあるのに、別なところでは買うこともできず、あるところでは値段が安すぎるのに、別のところでは高すぎるような状態をなくさなければならない。他方では、われわれの地域内のあまった食糧を計画的に(無制限にではなく)輸出し、悪質商人の中間搾取をうけずに、白色区から必需品を買い入れなければならない。みんなで農業生産と手工業生産の発展につとめ、多くの農具を作り、多くの石灰を生産して、来年の収穫をふやし、タングステン鉱、木材、樟脳、紙、葉たばこ、麻布、しいたけ、薄荷油などの特産物を、過去の生産量にまで回復するとともに、それらを大量に白色区に輸出しなければならない。

輸出入貿易の量から見ると、われわれのいちばん大口の輸出品は食糧である。毎年、おおよそ三百万担タン①のもみが輸出されているが、これは三百万の大衆が一人平均一担のもみを輸出して必需品と交換してくるわけで、おそらくそれ以下ということはないだろう。この取り引きはどんな人がやっているか。全部商人がやっており、商人は中間でひどい搾取をしている。昨年、万安ワンアン、泰和タイホー両県の農民はもみ一担を五角で商人に売りわたしたが、商人はそれを[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]州カンチョウにもっていって、一担四元で売り、七倍ももうけた。つぎに、三百万の大衆が一年間に、おおよそ九百万元の塩と、おおよそ六百万元の綿布を買っているのをとりあげてみよう。この千五百万元の塩と綿布の輸入は、いうまでもなく、いままではすべて商人がやってきたもので、われわれはそれに手をつけていなかった。商人の中間搾取は、まったくひどいものであった。たとえば、商人が梅メイ県にいって塩を仕入れると、七斤一元であるが、われわれの地域内にもちこまれると、十二両が一元で売られる。まったく驚くべき搾取ではないか。われわれは、このようなことをこれ以上放置しておくわけにはいかない。今後はどうしてもこれに手をつけていかなければならない。われわれの対外貿易局は、この面で大きな努力をはらう必要がある。

三百万元の経済建設公債を発行して、どのようにつかうのか。われわれはつぎのようにつかおうとおもっている。すなわち、百万元を赤軍の戦費にあて、二百万元を協同組合、食糧調整局、対外貿易局に資金として貸しつける。そのうち、一小部分を生産の発展につかい、大部分を輸出入貿易の発展につかう。われわれの目的は、生産を発展させることにあるだけでなく、生産されたものを輸出して適当な価格で売り、また白色区から安い価格で塩や綿布を買い入れて、人民大衆に供給し、それによって敵の封鎖をやぶり、商人の搾取をおさえることにある。われわれは、人民の経済を日ごとに発展させ、大衆の生活を大いに改善し、われわれの財政収入を大いに増加させて、革命戦争と経済建設の物質的基礎をしっかりとうちたてなければならない。

これは偉大な任務であり、偉大な階級闘争である。だが、どうだろう。この任務は、激しい戦争という環境のもとで達成できるだろうか。わたしは達成できるとおもう。われわれは、なにも竜岩ロンイェンまで鉄道をしこうというのではないし、当分のあいだは[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]州まで自動車道路をつくろうというのでもない。食糧を完全な専売制にうつそうというのでもなければ、千五百万元の塩と綿布の取り引きを全部政府の手にうつし、商人には手をふれさせないというのでもない。われわれは、そのようなことはいわないし、そのようなこともしていない。われわれがいっていること、していることは、農業と手工業の生産を発展させ、食糧とタングステン鉱を輸出し、食塩と綿布を輸入することであって、さしあたり二百万元の資金に大衆の株金をくわえてそれをやりはじめるというのである。こうしたことはやるべきではなく、やることもできず、またやりおおせないことだろうか。われわれはすでにこうした仕事をはじめており、しかもすでに成果をあげている。ことしの秋の収穫は、昨年の秋の収穫より二〇パーセントないし二五パーセントふえ、秋季収穫二割増の見込みをうわまわっている。手工業の面では、農具と石灰の生産が回復の道をたどっており、タングステン鉱の生産も回復しはじめている。たばこ、紙、木材の生産もいくらか活気をしめしはじめている。食糧の調整もことしは多くの成果をあげている。食塩輸入の仕事も部分的にはじまっている。こうした成果は、将来発展できるというわれわれの確信の基礎となっている。経済建設は戦争が終わってはじめてやれるもので、いまはできないといわれているが、それはあきらかにあやまった見方ではないだろうか。

したがって、現在の段階では、経済建設は革命戦争という中心任務をめぐっておこなわれなければならないことがわかる。革命戦争が当面の中心任務であって、経済建設の事業はそのためのものであり、それをめぐり、それに従属するものである。経済建設がすでに当面のすべての任務の中心になっていると考えて、革命戦争を無視し、革命戦争からはなれて経済建設をやろうというのも、おなじようにあやまった観点である。経済建設をすべての任務の中心にするということは、国内戦争が終わったときにはじめていえるのであり、またいわなければならないのである。将来は当然おこなわれても現在おこなってはならないような、また将来の環境ではゆるされても現在の環境ではゆるされないような、平和的な経済建設活動を、国内戦争の最中にやろうとする試みは、たんなる妄想もうそうにすぎない。当面の活動は戦争がさしせまって必要としている諸活動である。これらの活動は、戦争からはなれた平和な事業ではなくて、その一つ一つが戦争のためのものである。もし同志たちのあいだに、戦争をはなれて経済建設をやろうという考え方があるとすれば、すぐにあらためなければならない。

正しい指導方式と活動方法がなければ、経済戦線での運動を急速にくりひろげることは、不可能である。これもまた、今回の会議で解決しなければならない重要な問題である。なぜなら、同志たちは帰るとすぐに、たくさんの仕事にとりかからなければならないばかりでなく、たくさんの活動家を指導して、いっしょに仕事をしなければならないからである。とくに郷段階および市段階の同志や、協同組合、食糧局、貿易局、買付所などの機関にいる同志は、直接大衆を動員して協同組合を組織し、食糧を調整、運搬し、輸出入貿易を管理する実務にたずさわる活動家であるから、もしその指導方式がまちがっていて、正しくて効果のあるさまざまな活動方法をとることができなければ、たちまち活動の成果に影響して、われわれの各種の活動は、広範な大衆の支持をえられなくなり、中央政府の経済建設上の全計画を、今年の秋冬および来年の春夏に完遂することができなくなる。したがって、わたしは同志たちにつぎのようないくつかの点を指摘しておきたい。

第一は、組織をつうじて大衆を動員すること。まず、各級政府の議長団、国民経済部および財政部の同志は、公債の発行、協同組合の発展、食糧の調整、生産の発展、貿易の発展などの活動をつねに議事日程にのぼせて、討議し、督促し、点検しなければならない。そのつぎは、大衆団体、おもに労働組合と貧農団をうごかすことである。労働組合に組合員全員を経済戦線に動員させなければならない。貧農団は、協同組合を発展させ公債を買わせるうえでの大衆動員の有力な基礎であり、区政府と郷政府は貧農団の指導に大いに力をいれなければならない。そのつぎには、村ごとあるいは家ごとの大衆集会をひらいて、経済建設の宣伝をおこない、そのなかで、革命戦争と経済建設との関係をよくわかるように説明し、大衆の生活を改善して、闘争の力をつよめるということを、実際にそくしてよく説明しなければならない。大衆に公債の買い入れ、協同組合の発展、食糧の調整、金融の強化、貿易の発展をよびかけ、かれらにこれらのスローガンのためたたかうようよびかけて、大衆の情熱をたかめなければならない。もしこのように組織をつうじて大衆を動員せず、大衆に宣伝しないならば、すなわち、各級政府の議長団、国民経済部および財政部が、経済建設活動をとりあげて討議、点検することに力をいれず、大衆団体にはたらきかけることに心をそそがず、大衆集会をひらいて宣伝することに心をそそがないならば、目的達成は不可能である。

第二は、大衆を動員する方式が、官僚主義的であってはならないこと。官僚主義的な指導方式は、どんな革命活動にもあってはならないが、経済建設活動でもおなじように官僚主義的であってはなるない。官僚主義的方式というこの極悪のしろものは、肥だめになげすてなければならない。こんなものをよろこぶ同志はひとりもいないからである。すべての同志のよろこぶものは、とうぜん大衆的な方式、すなわち、労働者、農民のだれもがよろこんでうけいれる方式である。官僚主義のあらわれの一つは、知らぬ顔をしたり、おざなりですませる怠慢現象である。われわれは、このような現象にたいしてきびしい闘争をおこなわなければならない。もう一つは命令主義である。命令主義者は、うわべは怠慢でなく、一生懸命やっているようにみえる。だが、実際には、命令主義で協同組合を発展させようとしても成功するものではなく、一時的に形のうえでは発展しても、それをかためることはできず、結果は、信用をうしない、協同組合の発展をさまたげてしまう。命令主義で公債を売りさばき、大衆が理解しようがしまいが、そんなに多く買えようが買えまいが、一向におかまいなく、ただ自分できめた数字どおりにむりやりわりあてようとするならば、その結果は、大衆にきらわれ、公債もうまく売りさばけなくなる。われわれには絶対に命令主義があってはならない。われわれに必要なのは、宣伝につとめ、大衆を説得し、具体的な環境と具体的にあらわれている大衆の気持ちにもとづいて、協同組合を発展させ、公債を売りさばき、あらゆる経済動員の活動をおこなうことである。

第三は、経済建設運動を展開するには、大量の幹部が必要だということ。これは何十人「何百人というものではなくて、何千人、何万人を必要とするのであり、かれらを組織し、訓練して、経済建設の戦線におくりこまなければなるない。かれらは経済戦線での指揮員であり、広範な大衆は戦闘員である。幹部がいないといってよくこぼす人がいる。同志諸君、ほんとうに幹部がいないのだろうか。土地闘争、経済闘争、革命戦争のなかできたえられた大衆のなかから、数かぎりない幹部がうまれているのに、どうして幹部がいないなどといえるだろうか。あやまった見方をすてさえすれば幹部は目のまえにいるのである。

第四に、経済建設は、こんにち、戦争の全般的な任務と切りはなしえないはかりでなく、その他の任務とも切りはなしえないものであること。封建的・半封建的な土地所有制を徹底的になくし、農民の生産意欲をたかめて、広範な農民を急速に経済建設の戦線にひきいれるには、土地点検運動〔3〕を徹底させるよりほかはない。労働者大衆の生活を改善し、労働者大衆を急速に、積極的に、経済建設の事業に参加させて、かれらの農民にたいする指導的役割をつよめるには、労働法を断固として実施するよりほかはない。われわれの政府機関を健全にして、われわれの政府が、いっそう強力に革命戦争を指導し、各方面の活動を指導し、経済活動を指導できるようにするには、選挙運動と、土地点検運動の展開にともなってくりひろげられる摘発運動〔4〕とを正しく指導するよりほかはない。文化教育活動によって大衆の政治的、文化的水準をたかめること、これも国民経済の発展にとって同様にきわめて大きな重要性をもっている。赤軍を拡大する活動を一日でもゆるがせにできないことは、なおさらいうまでもない。だれでも知っているように、赤軍の勝利がなければ、経済封鎖はいっそうはげしくなるであろう。他方、国民経済が発展し、大衆の生活が改善されれば、疑いもなく、赤軍拡大の活動にとってきわめて大きな助けになり、広範な大衆は、よろこびいさんで前線におもむくようになるのである。まとめていえば、もし、われわれが経済建設というきわめて重要な新しい条件をふくむ、さきにのべたすべての条件をたたかいとり、しかもこうしたすべての条件を革命戦争に奉仕させるならば、革命戦争の勝利は、疑いもなくわれわれのものとなる。

注

〔1〕 一九三〇年から一九三四年にかけて、蒋介石の軍隊は、江西省の瑞金を中心とする赤色地域にたいして、五回にわたる大規模な軍事進攻をおこなった。これを五回の「包囲討伐」という。五回目の「包囲討伐」が正式にはじまったのは一九三三年の十月であるが、一九三三年の夏から、蒋介石は積極的にこの進攻の手はずをととのえていた。

〔2〕 [土+于]場とは、江西省の農村で定期的にたつ市いちのことである。

〔3〕 土地点検運動とは、当時、赤色地域で土地を分配したのち、土地の分配がほんとうに適切であるかどうかを点検するためおこなわれた運動である。

〔4〕 摘発運動とは、民主政府の職員の悪行を広範な人民が下から上へと摘発する民主的運動であった。

訳注

① 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑩を参照。

農村の階級をいかに分析するか

(一九三三年十月)

この文書は、毛沢東同志が一九二ー年十月、土地改革活動のなかにうまれた偏向をだたし、土地問題を正しく解決するために書いたもので、農村の階級構成要素を区分する基準として当時の中央労農民主政府によって採択された。

一 地主

土地を所有し、自分では労働をしないか、あるいはただ補助的な労働をするだけで、農民を搾取することによって生活するものを地主という。地主の搾取方式は、主として小作料の取りたてであるが、そのほかに、金貸しか、作男の雇用か、商工業の経営かを兼ねたりしている。しかし、農民にたいする小作料の搾取が、地主の主要な搾取方式である。共有の財産の管理と学田の地代徴収〔1〕も小作料搾取の一種である。

地主のうち一部の、すでに破産してはいるが、破産後もあいかわらず労働せず、詐欺、略奪、あるいは親戚友人からの援助などの方法にたよって生活し、その生活状態が普通の中農以上であるものは、やはり地主のなかにいれる。

軍閥、官僚、土豪、劣紳は、地主階級の政治的代表であり、地主のなかでもとくに悪らつなものである。わりあいに小さな土豪、劣紳は富農のなかにもよくいる。

地主をたすけて小作料を取りたてたり、家の差配をしたりし、地主の農民にたいする搾取に依存して、それを生活の主要な源泉にしており、その生活状態が普通の中農以上である一部のものは、地主とおなじとりあつかいをすべきである。

高利貸しによる搾取を生活の主要な源泉にしており、その生活状態が普通の中農以上であるものは、高利貸しとよび、地主とおなじとりあつかいをすべきである。

二 富農

富農は一般に土地を所有している。しかし、なかには、自分でも一部の土地を所有しているが、別に一部の土地を借りいれているものもいる。また、自分ではぜんぜん土地を所有せず、全部の土地を借りいれているものもいる。富農は、一般に、わりあい多くの生産用具と流動資本をもち、自分でも労働するが、恒常的に搾取にたより、それを生活の一部または大部分の源泉にしている。富農の搾取方式は、主として雇用労働(年季作男のやといいれ)の搾取である。そのほかに、一部の土地の貸しつけによる小作料の搾取か、金貸しか、商工業の経営かを兼ねたりしている。富農の大半はまた共有の財産を管理している。あるものは、かなり多くのよい土地を所有し、作男をやといいれないで自分で労働するが、小作料や金利などの、別の方式で農民を搾取している。このような状態にあるものも富農としてとりあつかうべきである。富農の搾取は恒常的なものであり、しかも多くの富農の搾取による収入は、その全収入のうちでも主要な部分をしめている。

三 中農

中農の多くは土地を所有している。中農の一部は、土地を一部所有するだけで、ほかの一部の土地は借りいれている。中農の一部は、土地を所有せず、土地は全部借りいれている。中農はみな自分でかなりの生産用具をもっている。中農の生活の源泉は、全部が自分の労働によるか、あるいは主として自分の労働による。一般に中農は他人を搾取せず「多くの中農は、わずかながら他人から小作料、金利などによる搾取をうけている。しかし、一般に中農は労働力を売らない。他の一部の中農(富裕中農)は、わずかながら他人を搾取しているが、それは恒常的なものでも、主要なものでもない。

四 貧農

貧農のなかの一部は、土地の一部と不完全な生産用具をもっており、一部は土地がぜんぜんなく、わずかばかりの不完全な生産用具しかもっていない。一般には、土地を借りいれて耕作しなければならす、他人から小作料、金利および小部分の雇用労働による搾取をうけている。

中農は一般に労働力を売る必要はないが、貧農は一般に小部分ながら労働力を売らなければならない。これが、中農と貧農とを区別する主要な基準である。

五 労働者

労働者(雇農をふくむ)は一般に土地も生産用具もぜんぜんもっていない。労働者のなかにはごくわずかな土地と生産用具をもっているものもいる。労働者は、完全にか、あるいは主として、労働力を売ることによって生活している。

注

〔1〕 中国の農村にはたくさんの共有地があった。あるものは政治的な性質をもっていた。たとえば区や郷の政府がもっていた土地がそれである。あるものは同族的な性質をもっていた。たとえはそれぞれの同族の祖先廟がもっていた土地がそれである。あるものは宗教的な性質をもっていた。たとえば仏教、道教、カトリック教、回教などの寺院がもっていた土地がそれである。あるものは社会救済あるいは社会公益的性質をもっていた。たとえば備荒倉、橋梁・道路修築の費用にあてるための土地がそれである。あるものは教育的な性質をもっていた。たとえば学田がそれである。こうした土地の大部分は地主、富農の手ににぎられ、農民が関与する権利をもつ土地はごく一部にすぎなかった。

われわれの経済政策

(一九三四年一月二十三日)

これは、毛沢東同志が一九三四年一月、江西省瑞金でひらかれた第二回全国労働者農民代表大会でおこなった報告である。

もっとも恥知らずな国民党軍閥でなければ、自分の支配する地域では人民と国家を破産の瀬戸ぎわに追いやりながら、赤色地域がどんなにひどく荒廃しているかといったデマをまいにちのようにふりまくことはできるものではない。帝国主義と国民党の目的は、赤色地域を破壊し、前進しつつある赤色地域の経済建設活動を破壊し、すでに解放された何百何千万の労農民衆の福利を破壊することにある。そのため、かれらは武装力を組織して軍事上の「包囲討伐」をおこなっているばかりでなく、経済上でも残酷な封鎖政策をおこなっている。しかし、われわれは広範な大衆と赤軍を指導して、敵の「包囲討伐」を何回も撃破したばかりでなく、経済封鎖という敵の悪らつな計略をうちやぶるため、あらゆる可能な、また必要な経済建設をおこなっている。われわれのこの段どりも、いま、ちゃくちゃくと勝利をおさめている。

われわれの経済政策の原則は、経済面でのあらゆる可能な、また必要な建設をすすめ、経済力を集中して戦争の需要をまかない、同時に民衆の生活の改善に力をつくし、経済面での労働者、農民の同盟を強化し、農民にたいするプロレタリア階級の指導を保障し、私営経済にたいする国営経済の指導をかちとり、将来、社会主義に発展するための前提をつくることにある。

われわれの経済建設の中心は、農業生産の発展、工業生産の発展、対外貿易の発展、協同組合の発展をはかることにある。

赤色地域での農業は、いま、あきらかに発展しつつある。一九三三年の農業生産は、一九三二年にくらべて、江西チァンシー省南部・福建フーチェン省西部地域では一五パーセント(一割五分)増加し、福建・淅江チョーチァン・江西辺区では二〇パーセント増加した。四川スーチョワン・陝西シャンシー辺区の農業もよい収穫をあげている。赤色地域がうちたてられた最初の一、二年、農業生産はとかく低下しがちであった〔1〕。ところが、土地分配によって土地所有権が確立し、そのうえに、われわれが生産を提唱したため、農民大衆の労働意欲は高まり、生産は回復の情勢にある。現在、一部の地方では、革命前の生産量を回復したばかりでなく、それを上回っている。また一部の地方では、革命の蜂起の過程で荒廃した土地を復旧させたばかりでなく、新しい土地を開拓した。多くの地方では、農村の労働力を調整するために労働互助社や耕田隊〔2〕を組織し、役牛不足の問題を解決するために役牛協同組合を組織している。同時に広範な婦人大衆も生産に参加するようになった。このようなことは、国民党の時代には、けっしてやりえないことであった。国民党の時代には、土地は地主のもので、農民は自分の力で土地を改良することをのぞまなかったし、またそうすることもできなかった。われわれが土地を農民に分配し、農民に生産を提唱し、奨励したことによって、はじめて農民大衆の労働意欲がわきあがり、生産面での偉大な勝利がかちとれたのである。ここで指摘しなければならないことは、当面の条件のもとでは、農業生産がわれわれの経済建設活動の第一位をしめており、それは、もっとも重要な食糧問題の解決に必要であるばかりでなく、衣類・砂糖・紙などの日用品の原料、すなわち綿花、麻、甘蔗かんしょ、竹などの供給の問題の解決にも必要である、ということである。森林の育成、家畜の増殖もまた農業の重要な部分である。小農経済の基礎のうえに、いくつかの重要な農作物についての一定の生産計画をたて、この計画のために努力するよう農民を動員することは、ゆるされることだし、また、やらなければならないことでもある。われわれは、この面でいっそうの注意と努力をはらわなければならない。農業生産に必要な条件での困難な問題、たとえば労働力、役牛、肥料、種子、水利などの問題については、それを解決できるよう、われわれは農民の指導に力をいれなければならない。ここでは、労働力を組織的に調整することと、婦人が生産に参加するようはたらきかけることが、農業生産の面でのわれわれのもっとも基本的な任務である。そして、労働互助社や耕田隊を組織すること、春の耕作や夏の耕作などの重要な季節に、農村の全民衆を動員し、うながすことは、労働力の問題を解決するための必要な方法である。農民のうちのかなりの部分(だいたい二五パーセント)が役牛に不足していることも大きな問題である。役牛協同組合を組織して、役牛をもたないすべての農家に、自発的に金をだしあって役牛を買い共同で使うようはたらきかけることは、われわれが心をそそがなければならないことである。水利は農業の命の綱である。われわれはこれにも、大いに心をそそがなければならない。もちろん、いまはまだ、国営農業や集団農業の問題は提起できないが、農業の発展をうながすために、各地に小規模な農事試験場をつくったり、農業研究学校や農産物展示所をもうけたりすることは、さしせまって必要なことである。

敵の封鎖によって、われわれの物産の輸出が困難になった。赤色地域の多くの手工業生産はおとろえ、たばこ、紙などはそのもっともはなはだしいものである。だが、このような輸出の困難も、まったく克服できないものではない。広範な大衆の需要があるので、われわれ自身にも広範な市場がある。ます第一に自給のために、つぎには輸出のためにも、手工業と一部の工業を計画的に回復させ、発展させなければならない。この二年らい、とくに一九三三年の上半期いらい、われわれが心をそそぎはじめたために、また大衆の生産協同組合がだんだん発展してきたために、多くの手工業といくつかの工業が現在回復にむかいはじめている。そのうちでも重要なものは、たばこ、紙、タングステン鉱、樟脳しょうのう、農具、肥料(石灰など)である。また自分で綿布を織ったり、薬をつくったり、砂糖をつくったりすることも、いまの環境ではおろそかにできないことである。福建・淅江・江西辺区では、従来この地方に欠けていた一部の工業、たとえば製紙、織物、製糖などがいまではちゃんと発展しており、しかも成果をあげている。人びとは食塩の欠乏を解決するために、硝土から塩をとっている。工業を経営するには適切な計画が必要である。分散的な手工業の基礎のうえに、全般的な綿密な計画をたてることは、もちろん不可能である。だが、若干の主要な事業、まず国家経営と協同組合経営の事業については、かなり綿密な生産計画をたてることが、ぜひとも必要である。的確に原料の生産を算定し、敵地区とわが地区での販路を算定することは、われわれのあらゆる国営工業と協同組合工業が最初から心をそそぐべきことである。

われわれが計画的に人民の対外貿易を組織し、しかも、向種類かの必要な商品の流通、たとえば食塩と綿布の輸入、食糧とタングステン鉱の輸出、および内部での食糧の調整などを国家の手で直接に経営することは、いま非常に必要となっている。この仕事は、福建・淅江・江西辺区では、わりあいはやくからおこなわれたが、中央地区ではじめられたのは一九三三年の春からである。対外貿易局などの機関が設立されたことによって、すでに一応の成果がみられる。

現在、われわれの国民経済は国営事業、協同組合事業および私営事業の三つからなりたっている。

国家が経営している経済事業は、いまのところ、可能な、また必要な部分にかぎられている。国営の工業や商業は、すでに発展しはじめており、その前途にははかりしれないものがある。私営経済にたいしては、政府の法律のわくをこえないかぎり、われわれは阻止しないばかりか、それを提唱し、奨励している。なぜなら、いまのところ、私営経済の発展は国家の利益と人民の利益にとって必要だからである。私営経済は、いうまでもなく、いま絶対的に優勢をしめているし、今後もかなり長期にわたって優勢を保つにちがいない。いまのところ、赤色地域の私営経済は小規模経営の形をとっている。

協同組合事業は、いまきわめて急速に発展している。江西、福建両省十七県の一九三三年九月の統計によると、各種の協同組合は計千四百二十三、株金は計三十余万元となっている。もっともよく発展しているのは消費協同組合と食糧協同組合で、そのつぎが生産協同組合である。信用協同組合の活動は、やっとはじまったばかりである。協同組合経済と国営経済とが呼応して、長いあいだ発展をつづければ、経済面での大きな力となり、私営経済にたいしてしだいに優位をしめ、指導的な地位をしめるようになるであろう。したがって、できるかぎり国営経済を発展させ、大規模に協同組合経済を発展させることは、私営経済の発展を奨励することと並行させていかなければならない。

国営経済を発展させ、協同組合経済を援助するために、われわれは大衆の支持をうけて、三百万元の経済建設公債を発行した。このように、大衆の力にたよって経済建設の資金問題を解決することは、当面の唯一の、また可能な方法である。

国民経済を発展させることによってわれわれの財政収入をふやすことは、われわれの財政政策の基本方針である。その効果はすでにはっきりと福建・淅江・江西辺区にあらわれ、中央地区にもあらわれはじめている。この方針の実行に力をいれることは、われわれの財政機関と経済機関の責務である。ここで十分注意しなければならないことは、国立銀行の紙幣発行は、基本的には国民経済の発展上の必要にもとづくべきであって、たんなる財政上からの必要は、第二義的な地位にしかおけないということである。

財政の支出は、節約の方針にもとづかなければならない。汚職と浪費は重大な犯罪であることを、すべての政府職員に、はっきり理解させなければならない。汚職と浪費に反対する闘争は、これまでにいくらかの成果をあげたが、今後も力をいれなければならない。戦争と革命事業のため、われわれの経済建設のために、銅貨一枚でも節約するのがわれわれの会計制度の原則である。われわれの国家収入の使途は、国民党のそれとは厳格なちがいがなければならない。

全中国が経済的大災難にまきこまれ、数億の民衆が飢えと寒さに苦しむ困難な状態におちいっているとき、われわれ人民の政府は、どんな困難にもひるまず、革命戦争のため、民族の利益のために、しんけんに経済建設活動をすすめている。われわれが帝国主義と国民党にうち勝たなければ、また、われわれが計画的、組織的に経済建設活動をすすめなければ、全国人民を空前の大災難から救いだすことができないのは、きわめてあきらかである。

注

〔1〕 赤色地域かつくられた最初の一、二年、農業生産がとかく低下しがちだったのは、主として、土地分配の期間に、土地所有権が確立せず、新しい経済秩序がまだ軌道にのらなかったため、農民の生産意欲にまだむらがあったからである。

〔2〕 労働互助社と耕田隊は、当時、赤色地域の農民が労働力を調整して生産をすすめるために、小私有経済の基礎のうえにつくった労働の相互援助組織である。このような労働相互援助組織への加入は各人の自由意志によるもので、またたがいに利益のあるものでなければならなかった。決算は労働日を相殺し、すくなく仕事をした方が多く仕事をした方に差額を支払うのである。労働互助社は社員の相互援助だけでなく、赤軍の家族にたいする特別奉仕や、身よりのない老人にたいする援助(身よりのない老人のために働くばあいは、食事をするだけで、日当はとらない)をもおこなった。このような労働の相互援助組織は、生産面の役割も大きく、やり方も合理的であったので、大衆に心から支持された。毛沢東同志の『長岡郷の調査』や『才渓郷の調査』には、これについて記載されている。

大衆の生活に関心をよせ、活動方法に注意せよ

(一九三四年一月二十七日)

これは、毛沢東同志が、一九三四年一月、江西省瑞金でひらかれた第二回全国労農代表大会でのべた結語の一部である。

同志諸君が討議のなかで、あまり注意をはらわなかった問題が三つある。わたしはそれをとりあげてのべろ必要があるとおもう。

第一の問題は、大衆の生活についての問題である。

われわれの現在の中心任務は、広範な大衆を動員して革命戦争に参加させ、革命戦争によって帝国主義と国民党をうちたおし、革命を全国におしひろめ、帝国主義を中国から追いだすことである。この中心任務を軽視するなら、だれであろうとりっぱな革命の活動家とはいえない。もし、われわれの同志がこの中心任務をほんとうによくつかみ、どうしても革命を全国におしひろめなければならないことを理解しているならば、われわれは広範な大衆の切実な利益にかんする問題、大衆の生活の問題を、少しでもおろそかにしたり、軽視したりはしないはずである。なぜなら、革命戦争は大衆の戦争であり、大衆を動員してはじめて戦争ができるのであり、大衆にたよってはじめて戦争ができるからである。

われわれが、ただ人民を戦争に動員するだけで、ほかの活動を少しもやらないとしたら、敵にうち勝つという目的をはたすことができるだろうか。もちろんできない。われわれが勝とうとおもうなら、どうしてもそのほかに多くの活動をしなければならない。農民の土地闘争を指導して土地を農民にわけること、農民の労働意欲をたかめて農業の生産をふやすこと、労働者の利益を保障すること、協同組合をつくること、対外貿易を発展させること、大衆の衣服の問題、食事の問題、家の問題、たきぎや米や油や塩の問題、病気や衛生の問題、婚姻の問題を解決すること、要するに、大衆の生活のすべての実際問題は、みなわれわれが気をくばらなければならない問題である。われわれが、こうした問題に気をくばり、それを解決し、大衆の要求をみたしたならば、われわれはほんとうに大衆の生活の組織者となるし、大衆はほんとうにわれわれのまわりにあつまってきて、われわれを心から支持するようになる。同志諸君、そのとき、われわれが大衆によびかけて革命戦争に参加させることができるだろうか。できる。それは完全にできることである。

われわれの活動家たちのあいだには、かつてつぎのような状況がみられた。かれらはただ赤軍の拡大、輸送隊の拡充、土地税の徴収、公債の売りさばきを口にするだけで、そのほかのことになると、口にもしなければかまいもせず、すべてのことをほったらかしにさえした。たとえば、かつてある期間、汀州ティンチョウ市政府は、赤軍の拡大と輸送隊の動員をはかるだけで、大衆の生活の問題は少しもかまわなかった。汀州市の大衆の問題とは、たきぎがないこと、資本家が塩をしまいこんだため塩が買えないこと、一部の大衆には住む家がないこと、米が不足しており、その値段もまた高いことであった。これらが汀州市の人民大衆の実際問題であり、かれらはわれわれの援助で解決することを心からのぞんでいた。だが、汀州市政府は少しもそれを討議しなかった。だから、そのころ、汀州市労農代表者会議が改選されてからあと、何回かひらかれた会議では、いつも赤軍の拡大と輸送隊の動員を討議するだけで、大衆の生活のことはぜんぜんかまわなかったので、百人あまりの代表者は、そのうち会議に出るのがいやになり、会議もひらけなくなってしまった。赤軍の拡大と輸送隊の動員はどうかというと、これも、そのために成績がほとんどあがらなかった。これが一つの状況である。

同志諸君、諸君にくばった二つの模範的な郷についてのパンフレットは、諸君もおそらく読んだこととおもう。そこでは反対の状況がみられる。江西チァンシー省の長岡チャンカン郷〔1〕、福建省の才渓ツァイシー郷〔2〕ではなんと大幅に赤軍を拡大したことだろう。長岡郷の青壮年男女は、百人のうち八十人が赤軍に参加した。才渓郷では、百人のうち八十八人が赤軍に参加した。公債も非常によく売れ、長岡郷は全人口千五百人であるが、四千五百元の公債を消化した。そのほかの活動でも非常に大きな成果をあげた。どういうわけだろうか。いくつかの例をあげてみればわかるとおもう。長岡郷のある貧しい農民が火事で家をひと間半焼いたが、郷政府はすぐ、大衆が金を出しあってかれをたすけるように、はたらきかけた。また飯の食えないものが三人いたが、郷政府と共済会はただちに米をおくってかれらを救済した。昨年の夏の食糧不足のとき、郷政府は二百華里あまりはなれた公略コンリュエ県〔3〕から米を買ってきて大衆を救済した。才渓郷でもこうした活動が非常によくやられている。このような郷政府がほんとうの模範的な郷政府である。かれらのやりかたは汀州市の官僚主義的な指導のしかたとまったくちがう。われわれは汀州市のような官僚主義的な指導者に反対し、長岡郷、才渓郷にまなぼうではないか。

わたしは、しんけんにつぎのことをこの大会に提案する。われわれは、土地、労働の問題からたきぎや米や油や塩の問題まで、大衆の生活の問題に深く気をくばらなければならない。婦人たちはすき、まぐわの使いかたをならいたがっているが、だれに教えさせたらよいだろうか。子どもたちは勉強したいといっているが、小学校をつくっただろうか。むかいの木の橋はせますぎて通行人が落ちるかもしれないから、なおす必要があるのではないだろうか。たくさんの人がおできができたり病気になったりしているが、なんとか方法はないだろうか。こうした大衆の生活上のすべての問題を自分の議事日程にのぼせなければならない。そして討議し、決定し、実行し、点検しなければならない。広範な大衆に、われわれはかれらの利益を代表するものであり、かれらと息がかよいあっているということを理解させなければならない。そして、かれらがこうしたことがらから出発して、われわれの提起したいっそう高い任務、すなわち革命戦争の任務を理解し、革命を支持し、革命を全国におしひろめ、われわれの政治的なよびかけをうけいれて、革命の勝利のために最後までたたかうようにしなければならない。長岡郷の大衆は、「共産党はほんとうによい。わしらのためにどんなことでも考えてくれる」といっている。模範的な長岡郷の活動家、尊敬すべき長岡郷の活動家たち! かれらは広範な大衆に心から愛されているし、戦争への動員というかれらのよびかけは広範な大衆から支持されている。大衆の支持をえようとするのか、大衆の全力を戦線にそそがせようとするのか、それなら、大衆と一つにならなければならないし、大衆の積極性をよびおこさなければならないし、大衆の痛いところかゆいところに手がとどくようにしなければならないし、心から大衆の利益をはかり、大衆の生産や生活の問題、塩の問題、米の問題、家の問題、着物の問題、お産の問題を解決し、大衆のすべての問題を解決しなければならない。われわれがそのようにしたなら、広範な大衆はかならず、われわれを支持し、革命を自分たちの生命とし、革命を自分たちのこのうえもない光栄な旗じるしとするようになる。国民党が赤色地域に攻めてくれば、広範な大衆は命をかけて国民党とたたかう。これは疑いのないところである。敵の一回目、二回目、三回目、四回目の「包囲討伐」はまぎれもなくわれわれに粉砕されたではないか。

国民党はいま、堡塁政策〔4〕を実行し、さかんにトーチカを構築して、これをかれらの金城鉄壁だと考えている。同志諸君、これははたして金城鉄壁だろうか。けっしてそうではない。見たまえ、何千年らい、封建君主たちのあの城や宮殿は堅固ではなかったか。だが、大衆が立ちあがると、つぎつぎにつぶれてしまった。ロシアの皇帝は世界でもっとも凶悪な支配者であったが、プロレタリア階級と農民の革命がおきたのち、その皇帝というものはまだあっただろうか。なくなってしまった。金城鉄壁はどうか。つぶれてしまった。同志諸君、ほんとうの金城鉄壁とはなにか。それは大衆である。それは心から革命を支持する幾百万、幾千万の大衆である。これが、どんな力にもうちやぶられることのない、まったくうちやぶられることのない、ほんとうの金城鉄壁である。反革命はわれわれをうちやぶることはできないが、われわれは反革命をうちやぶるのだ。革命政府のまわりに幾百万、幾千万の大衆を結集して、われわれの革命戦争を発展させるなら、われわれはすべての反革命を消滅することができ、全中国を奪取することができる。

第二の問題は、活動方法についての問題である。

われわれは、革命戦争の指導者、組織者であるとともに、大衆の生活の指導者、組織者でもある。革命戦争を組織すること、大衆の生活を改善すること、これがわれわれの二大任務である。ここでは、活動方法という重大な問題がわれわれのまえにおかれている。われわれは、任務を提起するばかりでなく、任務を達成する方法の問題をも解決しなければならない。われわれの任務が川をわたることであるとすれば、橋か船がないとわたることはできない。橋か船の問題を解決しないかぎり、川をわたるということは空念仏におわってしまう。方法の問題を解決しないかぎり、任務もまたでまかせのおしゃべりにすぎない。赤軍を拡大することについての指導に気をくばらず、赤軍を拡大する方法について工夫をこらさなかったら、たとえ赤軍拡大を千遍となえてみたところで、やはり成功しない。その他の、たとえば土地点検活動、経済建設活動、文化教育活動、新解放区・周縁地区の活動などすべての活動についても、ただ任務を提起するだけで、実行するときの活動方法に注意しないなら、また官僚主義的な活動方法に反対して実際的で具体的な活動方法をとるようにしないなら、命令主義的な活動方法をすてて根気よく説得する活動方法をとるようにしないなら、どんな任務も達成できない。

興国シンクォ県の同志たちが活動のなかでもっともすぐれた創造をしていることは、模範的な活動家として称賛にあたいする。おなじように、江西省東北部の同志たちもすぐれた創造をしており、かれらもまたおなじく模範的な活動家である。興国県や江西省東北部の同志たちは、大衆の生活と革命戦争とをむすびつけており、革命の活動方法の問題と革命の活動任務の問題とを同時に解決した。かれらはそこでしんけんに活動しており、かれらはそこで問題をきめ細かに解決しており、かれらは革命にたいしてほんとうに責任をおっており、かれらは革命戦争のよい組織者、指導者であるとともに、大衆の生活のすぐれた組織者、指導者でもある。そのほか、たとえば福建省の上杭シャンハン、長汀チャンティン、永定ヨンティンなどの県の一部のところ、江西省南部の西江シーチァンその他のところ、湖南フーナン・江西辺区の茶陵チャーリン、永新ヨンシン、吉安チーアンなどの県の一部のところ、湖南・湖北フーペイ・江西辺区の陽新ヤンシン県の一部のところ、それに江西省の多くの県の区や郷、さらに直属県瑞金リイチンなど、それらのところの同志たちもみな先進的な活動をしており、おなじく、われわれの称賛にあたいする。

われわれの指導するすべての地方には、疑いもなく、多くの積極的な幹部がいるし、大衆のなかからあらわれたりっぱな活動家がいる。これらの同志は、活動のよわい地方をたすけ、まだ活動のじょうずにやれない同志をたすけて活動がうまくやれるようにする責任をおっている。われわれは偉大な革命戦争に直面しており、われわれは敵の大規模な「包囲討伐」をつきやぶらなければならないし、革命を全国におしひろめなければならない。革命の活動家は全部がきわめて大きな責任をおっている。大会ののち、われわれはかならず地についたやり方でわれわれの活動を改善し、すすんだところはさらにいっそう前進し、おくれたところはすすんだところに追いつかなければならない。何千の長岡郷、何十の興国県をつくりださなければならない。これらがわれわれの強固な陣地である。こうした陣地を占拠したならば、われわれは、これらの陣地からうってでて、敵の「包囲討伐」をうちくだき、帝国主義と国民党の全国における支配をうちたおすことができるのである。

注

〔1〕 長岡郷は江西省興国県の郷の一つである。

〔2〕 才渓郷は福建省上杭県の郷の一つである。

〔3〕 公略県は当時の江西省赤色地域内の一つの県で、吉安県東南の東固鎮がその中心であった。赤軍第三軍軍長黄公略同志が一九三一年十月ここで戦死したので、かれを記念してこの県がもうけられた。

〔4〕 一九三三年七月、蒋介石は江西省盧山の軍事会議で、五回目の「包囲討伐」での新しい軍事戦術として、赤色地域の周囲にトーチカをきずくことを決定した。統計によると、一九三四年一月末までに、江西省にはトーチカが二千九百きずかれた。その後、日本侵略者が中国で八路軍、新四軍と戦ったときにも、蒋介石のこの堡塁政策を採用した。毛沢東同志の人民戦争にかんする戦略によれば、完全に、このような反革命の堡塁政策をうちやぶることができ、うち勝つことができる。これはすでに歴史の事実によって十分に証明されている。

日本帝国主義に反対する戦術について

(一九三五年十二月二十七日)

これは、毛沢東同志が陝西省北部瓦窰堡の党活動者会議でおこなった報告で、一九三五年十二月の中国共産党中央委員会政治局瓦窰堡会議のあとでおこなわれたものである。この政治局会議は、きわめて重要な党中央の会議で、中国の民族ブルジョア階級は中国の労働者、農民と連合して抗日することができないという党内のあやまった観点を批判し、民族統一戦線をうちたてる戦術を決定した。この報告で、毛沢東同志は党中央の決議にもとづいて、抗日という条件のもとで民族ブルジョア階級とあらたに統一戦線をうちたてる可能性と重要性を十分に説明し、この統一戦線のなかで、共産党と赤軍が決定的意義をもつ指導的役割をはたすことをとくに指摘し、中国革命の長期性を指摘し、それまで長いあいだ党内に存在していたせまい閉鎖主義と革命にたいするせっかち病――これらは第二次国内革命戦争の時期に党と赤軍が重大な挫折をこうむった基本的原因である――を批判した。同時に、毛沢東同志は、一九二七年に陳独秀の右翼日和見主義が革命を失敗にみちびいた歴史的教訓について党内の注意をよびおこし、蒋介石が革命勢力を破壊するのは必至であると指摘した。こうして、毛沢東同志は、蒋介石のはてしない欺瞞とたびかさなる武装攻撃にあっても革命勢力に損害をこうむらせることのないよう、わが党がその後の新しい情勢のなかではっきりした考え方をもつことができるように保障した。一九三五年一月、党中央は、貴州省の遵義でひらかれた政治局拡大会議で、それまでの「左」翼日和見主義の指導をあらため、毛沢東同志をはじめとする新しい党中央の指導をうちたてた。だが、その会議は赤軍の長征の途上でひらかれたため、当時もっとも切迫していた軍事問題と中央委員会書記処、中央革命軍事委員会の組織問題についてしか、決議することができなかった。赤軍が長征して陝西省北部に到着したのち、党中央ははじめて政治上の戦術の諸問題を系統的に説明できるようになったのである。こうした政治上の戦術の諸問題について、毛沢東同志のこの報告は、もっとも完全な分析をくわえている。

当面の政治情勢の特徴

同志諸君、当面の政治情勢には、すでに大きな変化がおきている。この変化した情勢にもとづいて、わが党はすでに自己の任務をさだめた。

当面の情勢はどうか。

当面の情勢の基本的特徴は、日本帝国主義が中国を植民地に変えようとしていることである。周知のように、ほぼ百年らい、中国はいくつもの帝国主義国が共同で支配する半植民地国であった。中国人民の帝国主義にたいする闘争と帝国主義国相互間の闘争によって、中国はなお半独立の地位をたもっている。第一次世界大戦は、ある期間、日本帝国主義に中国をひとりじめする機会をあたえた。だが、中国人民の日本帝国主義反対の闘争と他の帝国主義国の干渉によって、当時の売国奴のかしら袁世凱ユァンシーカイ〔1〕が署名した日本にたいする屈服と投降の条約二十一ヵ条〔2〕は、無効に終わらざるをえなかった。一九二二年には、アメリカの招集したワシントン九ヵ国会議で条約がむすばれて〔3〕、中国はふたたびいくつかの帝国主義国が共同で支配する状態にもどった。ところが、まもなく、こうした状況にもまた変化がおきた。一九三一年九月十八日の事変〔4〕で、中国を日本の植民地にかえる段階がはじまったのである。ただ、日本の侵略の範囲がしばらく東北四省〔5〕にかぎられていたことから、人びとは、日本帝国主義者がおそらくそれ以上前進することはあるまいとおもっていた。こんにちでは事情がちがっている。日本帝国主義者は、中国中心部に進出し、全中国を占領しようとしていることを、すでにはっきりとしめしている。いま日本帝国主義は、全中国をいくつかの帝国主義国がわけまえにあずかる半値民地の状態から、日本が独占する植民地の状態に変えようとしている。最近の冀東チートン事変〔6〕や外交交渉〔7〕は、この方向をはっきりとしめし、全国人民の生存をおびやかしている。こうした状況は、中国のすべての階級、すべての政党政派に「どうするか」という問題をなげかけた。抵抗か、投降か、それともこの二つのあいだをゆれ動くか。

では、中国の各階級がこの問題にどうこたえているかを見ることにしよう。

中国の労働者と農民は、みな抵抗を要求している。一九二四年から一九二七年までの革命、一九二七年から現在までの土地革命、一九三一年の九・一八事変いらいの反日の波は、中国の労働者階級と農民階級が中国革命のもっとも確固とした勢力であることを証明している。

中国の小ブルジョア階級も抵抗しようとしている。青年学生と都市の小ブルジョア階級は、いますでに大きな反日運動をまきおこしているではないか〔8〕。中国の小ブルジョア階級のこれらの層は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命に参加している。かれらは農民とおなじように、帝国主義とは両立しない小生産者の経済的地位にある。帝国主義と中国の反革命勢力は、かれらに大きな損害をあたえ、かれらのうちの多くのものを失業、破産、または半破産の状態におとしいれてきた。かれらはいまにも亡国の民になろうとしており、もはや抵抗する以外に活路はない。

この問題をまえにして、では民族ブルジョア階級、買弁階級、地主階級、そして国民党はどうするだろうか。

大土豪、大劣紳、大軍閥、大官僚、大買弁は、早くから腹をきめている。かれらはこれまでもそうであったが、いまもやはり、革命(どんな革命であろうと)はどうあっても帝国主義よりわるい、といっている。かれらは売国奴の陣営をつくっており、かれらにとって亡国の民になるかどうかなどは問題にならない。かれらはすでに民族のけじめをなくし、かれらの利益は帝国主義の利益と切りはなせなくなっている。かれらの大頭目が蒋介石チァンチェシーである〔9〕。この売国奴の陣営は、中国人民のうらみかさなる敵である。もしこの売国奴の一味がいなければ、日本帝国主義はこれほどまでのさばることはできなかったであろう。かれらは帝国主義の手先である。

民族ブルジョア階級の問題は複雑である。この階級は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命に参加したが、その後、この革命の炎に腰をぬかして、人民の敵、すなわち蒋介石集団の側についてしまった。問題は、こんにちの状況のもとで、民族ブルジョア階級に変化のおこる可能性があるかどうかということである。われわれはその可能性があると考える。それは、民族ブルジョア階級が地主階級、買弁階級とおなじものでなく、かれらのあいだにはちがいがあるからである。民族ブルジョア階級には、地主階級ほどつよい封建性もなければ、買弁階級ほどつよい買弁性もない。民族ブルジョア階級のなかには、外国資本や国内の土地所有制とわりあいふかい関係をもつものも一部いるが、この部分の人びとは民族ブルジョア階級の右翼であり、われわれは、しばらく、これらの人の変化の可能性については考えないことにする。問題は、そうした関係をもたないか、あるいは関係のわりあいすくない部分にある。われわれは、植民地化の脅威がせまっている新しい環境のもとでは、民族ブルジョア階級のこれらの部分の人びとの態度に変化のおこる可能性があると考える。その変化の特徴はかれらの動揺である。かれらは、一方では帝国主義をこのまないが、他方では革命の徹底性をおそれ、この両者のあいだを動揺している。このことは、一九二四年から一九二七年までの革命の時期に、かれらがなぜ革命に参加したか、またこの時期の終わりになると、なぜ蒋介石の側についてしまったかを説明している。現在の時期は、一九二七年に蒋介石が革命を裏切った時期とどうちがっているだろうか。当時の中国はまだ半植民地であったが、いまは植民地になりつつある。こと九年らい、かれらは、自分の同盟者である労働者階級をすてて、地主・買弁階級を友にしてきたが、なにか得をしただろうか。えたものといえば、民族工商業の破産、または半破産の境遇だけで、なにも得はしていない。こうした状況から、こんにちの時局のもとでは、民族ブルジョア階級の態度に変化のおこる可能性があると、われわれは考える。ではどの程度の変化であろうか。全般的な特徴は動揺である。だが、闘争のある段階では、かれらの一部(左翼)は闘争に参加する可能性がある。他の一部も、動揺から中立的な態度をとるようになる可能性がある。

蔡廷[金+皆]ツァイティンカイらが指導している十九路軍〔10〕は、どんな階級の利益を代表しているだろうか。かれらは、民族ブルジョア階級、小ブルジョア階級の上層、農村の富農と小地主を代表している。蔡廷[金+皆]らはかつて赤軍と死にものぐるいの戦争をしたのではなかったか。だが、のちには赤軍と抗日反蒋同盟をむすんだ。かれらは、江西チァンシー省では、赤軍を攻撃したが、上海チャンハイに移ると、日本帝国主義に抵抗し、福建フーチェン省に移ると、こんどは赤軍と妥協し、蒋介石にたいして戦争をはじめた。蔡廷[金+皆]らが将来どういう道にすすもうと、また当時の福建人民政府がどんなにありきたりのやり方にしがみついて民衆を闘争に立ちあがらせなかったとしても、かれらがそれまで赤軍にむけていた銃口を日本帝国主義と蒋介石にむけかえたことは、革命にとって有利な行為だといわなければならない。これは国民党陣営の分裂である。九・一八事変後の環境でもこうした一部の人びとを国民党の陣営から分裂させることができたのに、こんにちの環境でどうして国民党の分裂をひきおこせないことがあろうか。地主・ブルジョア階級の全陣営は統一し、固定しており、どんな状況のもとでも変化をおこさせることはできないという見方をもつものがわが党内にいるが、それはまちがいである。かれらは、こんにちのこの重大な情勢を認識しないばかりか、歴史さえもわすれてしまっている。

もうすこし歴史についてはなしてみよう。一九二六年と一九二七年、革命軍が武漢にむかって前進し、さらに武漢に攻めいり、河南ホーナン省に攻めいったとき、唐生智タンションチーや馮玉祥フォンユイシァン〔11〕が革命に参加するということがおこった。馮玉祥は、一九三三年にも察蛤爾チャーハール省①で共産党と協力し、抗日同盟軍をつくったことがある。

もう一つはっきりした例をとると、かつて十九路軍といっしょに江西省の赤軍を攻撃した第二十六路軍は、一九三一年十二月、寧都ニントウ県で蜂起して〔12〕赤軍になったではないか。この寧都の蜂起を指導した趙博生チャオポーションや董振堂トンチェンタンらは、確固とした革命の同志となった。

東北三省における馬占山マーチャンシャンの抗日の行動〔13〕も、支配者陣営内の分裂である。

こうした例はすべて、日本の爆弾の脅威圏が全中国におよぶばあい、また闘争が普通の状態から突然はげしい勢いで進展するばあいには、敵の陣営に分裂がおこりうることをしめしている。

同志諸君、それでは問題をもう一つの点にうつしてみよう。

もし、中国の民族ブルジョア階級の政治的、経済的軟弱性というこの点をとらえて、われわれの論点に反対し、中国の民族ブルジョア階級は新しい環境でも態度を変える可能性はないというものがあるとしたら、そういういい方は正しいだろうか。わたしは、やはりまちがっているとおもう。もし、態度を変えられない原因が民族ブルジョア階級の軟弱性にあるとしたら、どうして、かれらは一九二四年から一九二七年にかけて、通常の態度を変え、たんに動揺しただけでなく、革命にまで参加したのだろうか。民族ブルジョア階級の軟弱性は、あとから身についた新しい欠陥であって母胎からもってでたふるい欠陥ではないのだろうか。いまは軟弱だが、あのときは軟弱ではなかったのだろうか。半値民地の政治、経済の主要な特徴の一つは、民族ブルジョア階級の軟弱性にある。だからこそ、帝国主義はあえてかれらをしいたげるのであり、それがまた、かれらの帝国主義をこのまない特徴を規定しているのである。またこの点から、帝国主義や地主・買弁階級はその場かぎりのある種の餌えさをもって、かれらをたやすく釣っていけるし、それがまた、かれらの革命にたいする不徹底性を規定しているということを、もちろんわれわれは否定しないばかりか、完全に認めている。だからといって、こんにちの状況のもとで、かれらが地主階級や買弁階級となんのちがいもないとは、どうしてもいえないのである。

したがって、われわれは、民族的危機が重大な瀬戸ぎわにたっしたとき、国民党の陣営には分裂が生ずることをとくに指摘する。このような分裂は、民族ブルジョア階級の動揺にもあらわれ、馮玉祥、蔡廷[金+皆]、馬占山ら、いちじ名をとどろかせた抗日の人物にもあらわれている。このような状況は、基本的にいって、反革命には不利であるが革命には有利である。中国の政治経済の不均等、また、それからうまれる革命の発展の不均等によって、こうした分裂の可能性は大きくなっている。

同志諸君、これでこの問題の正面からの説明は終わった。こんどはその逆の面から説明してみよう。つまり、民族ブルジョア階級のある一部のものは、しばしば民衆をだます名人だという問題である。それはなぜか。かれらのうち、ほんとうに人民の革命事業を支持しているものは別として、多くのものは、ある一時期、革命的またはなかば革命的なふりをしてあらわれることができるため、同時に民衆をだます元手をもっており、したがって、民衆にはかれらの不徹底性やもっともらしく見せかけたにせの姿がなかなか見ぬけないのである。このため、同盟者を批判し、にせの革命家を暴露し、指導権をかちとるという共産党の責務は増大する。もし大きな変動のなかで民族ブルジョア階級が動揺し、革命に参加する可能性のあることをわれわれが否定するなら、それは指導権をかちとるわが党の任務を解消するか、すくなくともこれを軽減することになる。なぜなら、民族ブルジョア階級が地主や買弁とまったくおなじように売国奴としての凶悪なつらがまえをしているなら、指導権をかちとるという任務は大いに解消できるか、すくなくとも軽減することができるからである。

大変動のさなかにある中国の地主・ブルジョア階級の態度を全体的に分析するばあい、もう一つ指摘しておかなければならない側面がある。それは、地主・買弁階級の陣営さえ完全には統一していないことである。これは、半植民地の環境、つまり多くの帝国主義が中国を奪いあっている環境からでてくるのである。闘争が日本帝国主義にむけるれるばあい、アメリカやイギリスの飼い犬どもは、その主人のけしかける声の強さに応じて、日本帝国主義者やその飼い犬と、かくれた闘争ひいては公然とした闘争をおこなう可能性がある。これまでにも、こうした犬どものかみあった事実はたくさんあったが、それにはふれないでおこう。ここでは、蒋介石に監禁されたことのある国民党の政治屋胡漢民ホーハンミン〔14〕も、さきごろ、われわれの提起した抗日救国六大綱領〔15〕の文書に署名したことだけをのべておく。胡漢民がたのみにしている広東コヮントン・広西コヮンシー派の軍閥〔16〕も、いわゆる「失地回復」とか「抗日と討匪とうひ〔17〕の併進」(蒋介石のばあいは「討匪をさきにし、抗日をあとにする」)といった欺瞞的なスローガンをかかげて、蒋介石と対立している。どうだろう、すこし変ではないだろうか。変ではない。それはただ、大きな犬と小さな犬、食いぶくれた犬と飢えた大の、とくにおもしろい争いであり、大きいとはいえないが小さくもない裂け目であり、痛しかゆしの矛盾である。だが、そのような争い、そのような裂け目、そのような矛盾も、革命的な人民には役にたつ。われわれは、敵の陣営内のすべての争いや裂け目や矛盾をみんなあつめてきて、当面の主要な敵とたたかうために利用しなければならない。

こうした階級関係の問題をまとめてみると、日本帝国主義が中国中心部に攻めこんできたこの基本的な変化のもとで、中国の各階級の相互関係に変化がおこり、民族革命陣営の勢力が大きくなり、民族反革命陣営の勢力が弱まった、ということになる。

つぎに、中国の民族革命陣営内の状態についてのべよう。

まず、赤軍の状態である。同志諸君、ご承知のように、ほぼこの一年半のあいだに、中国の三つの赤軍主力部隊が陣地の大移動をおこなった。昨年八月、任弼時レンピーシー同志〔18〕らのひきいる第六軍団が賀竜ホーロン同志のところへ移動をはじめて〔19〕から、つづいて十月には、われわれの移動がはじまった〔20〕。ことしの三月には、四川スーチョワン・陝西シャンシー辺区の赤軍も移動をはじめた〔21〕。この三つの赤軍部隊はいずれも、もとの陣地を放棄して、新しい地区に移動したのである。この大移動で、もとの地区は遊撃区に変わった。また、移動中に、赤軍自身はひどく弱まった。もし全局面のなかのこの面だけを見れば、敵は一時的、部分的な勝利をおさめ、われわれは一時的、部分的な失敗をなめたことになる。こうしたいい方は正しいだろうか。わたしは正しいとおもう。それは事実だからである。しかし、あるもの(たとえば張国燾チャンクォタオ〔22〕)は、中央赤軍〔23〕は失敗したという。このことばは正しいだろうか。正しくない。それは事実ではないからである。マルクス主義者は、問題を見るばあい、部分を見るだけでなく、全体をも見なければならない。井戸のなかのかえるが「空の大きさは井戸口ほどだ」というなら、それは正しくない。空の大きさは井戸口ぐらいのものではないからである。だが、もし「空のある部分の大きさは井戸口ほどだ」というなら、これは正しい。事実に合っているからである。われわれはいう。赤軍は一つの面(もとの陣地を確保した面)からいえば失敗したが、もう一つの面(長征計画を完遂した面)からいえば勝利した。敵は一つの面(わが軍のもとの陣地を占領した面)からいえば勝利したが、もう一つの面(「包囲討伐」や「追撃討伐」の計画を実現する面)からいえば失敗した。われわれは長征をやりとげたのだから、こういってこそ適切である。

長征についていえば、それにはどんな意義があるだろうか。われわれはいう。長征は歴史の記録にあらわれた最初のものである。長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機である、と。盤古が天地をひらいてから、三里五帝②をへて、こんにちにいたるまで、われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。十二ヵ月のあいだ、空ではまいにち何十機という飛行機が偵察と爆撃をおこない、地上では何十万という大軍が包囲し、追撃し、阻止し、遮断しゃだんし、途上ではことばでいいつくせない困難と険害に出あったにもかかわらず、われわれはめいめいの二本の足を動かして二万余華里を踏破し、十一の省を縦横断した。われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。なかった、いまだかつてなかった。長征はまた宣言書である。それは、赤軍が英雄であり、帝国主義者やその手先蒋介石などのやからはまったく無能であることを全世界に宣言した。長征は、帝国主義や蒋介石の包囲、追撃、阻止、遮断が破産したことを宣言した。長征はまた宣伝隊である。それは、十一の省のおよそ二億の人民にたいして、かれらを解放する道は赤軍の道しかないことを宣布した。もしこの壮挙がなかったら、世界には赤軍というこの大きな道理があることを、広範な民衆はどうしてこんなに早く知ることができただろうか。長征はまた種まき機である。それは、十一の省にたくさんの種をまいたが、それらは芽をだし、葉をのばし、花をきかせ、美をむすび、やがては収穫されることになる。要するに、長征はわれわれの勝利、敵の失敗という結果をもって終わりをつげた。だれが長征を勝利させたのか。共産党である。共産党なしには、このような長征は想像することもできない。中国共産党、その指導機関、その幹部、その党員は、どんな困難や苦労もおそれない。革命戦争を指導するわれわれの能力を疑うものは、すべて日和見主義の泥沼におちこむだろう。長征が終わったとたんに、新しい局面があらわれた。直羅チールオ鎮の戦いは、中央赤軍と西北赤軍が兄弟のような団結によって、売国奴蒋介石の陝西・甘粛カンスー辺区にたいする「包囲討伐」を粉砕し〔24〕、全国の革命の大本営を西北地方におくという党中央の任務のための基礎がための式典となった。

赤軍の主力部隊は以上のようであるが、南方各省の遊撃戦争はどうだろうか。南方の遊撃戦争は、ある程度の挫折をこうむったが、消滅されてはいない。多くの部分が、回復し、成長し、発展しつつある〔25〕。

国民党の支配地域では、労働者の闘争は、工場のなかから工場のそとへ、経済闘争から政治闘争へとむかっている。労働者階級の反日・反売国奴の英雄的な闘争の気運は大きくもりあがっており、爆発の時期はそう遠くはなさそうにおもわれる。

農民の闘争はやんだことがない。外患、内憂、さらに自然災害などの圧迫のもとで、農民は遊撃戦争、一揆いっき、米よこせ騒動など、さまざまな形態の闘争を広範に展開している。東北地方や河北省東部の抗日遊撃戦争〔26〕は、日本帝国主義の進攻に回答をあたえているのである。

学生運動は、すでにきわめて大きな発展をとげており、今後はいっそう大きく発展するにちがいない。だが、学生運動が持久性をもち、売国奴の戒厳令や、警察、スパイ、学校ゴロ、ファシストの破壊と虐殺の政策をつきやぶるためには、どうしても労働者、農民、兵士の闘争に呼応する以外にない。

民族ブルジョア階級と、農村の富農、小地主らの動揺、ひいては抗日闘争への参加の可能性については、まえにのべた。

少数民族、とくに内蒙古の民族は、日本帝国主義に直接おびやかされて、闘争に立ちあがりつつある。将来は、華北地方の人民の闘争や西北地方の赤軍の活動と合流するだろう。

すべてこうしたことは、革命の勢力配置が、局部的なものから全国的なものに変わり、不均等状態からしだいにある種の均等状態にうつりつつあることをしめしている。いまは大変動の前夜にある。党の任務は、赤軍の活動を全国の労働者、農民、学生、小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級のすべての活動と合流させて、統一的な民族革命戦線を結成することである。

民族統一戦線

反革命と革命の両方の情勢をみたので、われわれは党の戦術的任務を容易に説明することができる。

党の基本的な戦術的任務はなにか。ほかでもなく、広範な民族革命統一戦線をつくることである。

革命の情勢が変化したときには、革命の戦術、革命の指導方式もこれに応じて変えなければならない。日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の任務は、中国を植民地に変えることであり、われわれの任務は、中国を独立、自由、領土保全の国家に変えることである。

中国の独立と自由を実現することは偉大な任務である。そのためには、外国帝国主義および自国の反革命勢力と戦わなければならない。日本帝国主義は、がむしゃらに突きすすもうと決意している。国内の蒙紳・買弁階級の反革命勢力は、いまのところまだ人民の革命勢力をしのいでいる。日本帝国主義と中国の反革命勢力をうちたおす事業は、一日や二日で成功するものではなく、長い時間をかける心がまえがなければならず、また、すこしばかりの力で成功するものではなく、巨大な力をつみあげていかなければならない。中国と世界の反革命勢力はまえよりも弱まっており、中国と世界の革命勢力はまえよりも大きくなっている。これは正しい評価であり、一面の評価である。だが同時に、ここしばらく、中国と世界の反革命勢力はやはり革命勢力よりも大きいというべきである。これも正しい評価であり、もう一つの面の評価である。中国の政治経済の発展の不均等は、革命の発展の不均等をうみだしている。革命の勝利は、いつも、反革命勢力のわりに弱いところから、さきにはじまり、さきに発展し、さきに勝利する。そして、反革命勢力の強いところでは、革命はまだおきていないか、あるいはその発展が非常におそい。これは、中国革命がすでにこれまでの長い期間にぶつかったことである。将来、ある段階では、革命の全般的な情勢がさらに発展しても、不均等な状態はなお存在することが考えられる。不均等な状態をほぼ均等した状態に変えるには、なお長い時間をかけ、大きな努力をはらい、党の戦術路線の正しさに依拠しなければならない。ソ連共産党の指導した革命戦争〔27〕が三年で終わったとすれば、中国共産党の指導する革命戦争は、これまですでに長い時間をかけてきたものの、内外の反革命勢力を最終的、徹底的に片付けるには、なおそれに相応した時間をかける心がまえがなくてはならず、これまでのような過度のあせりは禁物である。その上、りっぱな革命の戦術を提起しなければならず、これまでのように、いつも狭いわくのなかをぐるぐるまわりしていたのでは、大きな仕事がやれるものではない。もちろん、中国のことはのんびりやるほかはないというのではない。亡国の危険は、われわれに一分でも気をゆるめることをゆるさず、中国のことは果敢にやらなければならない。こんごの革命の発展速度も、これまでよりずっと早くなるにちがいない。中国と世界の局面は、いずれも戦争と革命の新しい時期にのぞんでいるからである。だが、そうはいうものの、中国の革命戦争はやはり持久戦であり、帝国主義の力と革命の発展の不均等がその持久性を規定しているのである。われわれはいう。時局の特徴は、あらたな民族革命の高まりがおとずれ、中国があらたな全国的大革命の前夜にあることであり、これが現在の革命情勢の特徴である、と。これは事実であり、これは一面の事実である。だが、われわれはまたいう。帝国主義はまだ容易ならぬ勢力であり、革命勢力の不均等な状態は重大な欠点であって、敵をたおすには持久戦の心がまえがなければならず、これが現在の革命情勢のもう一つの特徴である、と。これも事実であり、もう一つの面の事実である。この二つの特徴、この二つの事実がいっしょに出てきて、われわれに教訓をあたえ、状況に応じて戦術をあらため、戦闘のための勢力配置の方式をあらためるよう要求している。当面の情勢は、われわれに閉鎖主義を勇敢にすてさり、広範な統一戦線を採用し、冒険主義を防ぐよう要求している。決戦の時期にならなければ、決戦の力をもたなければ、向こうみずに決戦をおこなってはならない。

ここでは、閉鎖主義と冒険主義の関係についても、将来の大きな情勢の展開のなかで冒険主義がうまれる危険性についても、のべないことにする。こうした点については、後日にゆずってもおそくはない。ここでは、統一戦線の戦術と閉鎖主義の戦術がまったく正反対の異なった戦術であることだけをのべておく。

一方は、ひろく人馬をあつめて、敵を包囲し、これを消滅しようとする。

他方は、ただ単騎で、強大な敵と強引な戦いをしようとする。

一方はつぎのようにいう。中国を植民地に変える日本帝国主義の行動が、中国の革命と反革命の戦線に変化をもたらすことを十分に評価しなければ、広範な民族革命統一戦線を組織する可能性を十分に評価することはできない。日本の反革命勢力、中国の反革命勢力、中国の革命勢力という、このいくつかの方面の強い点や弱い点を十分に評価しなければ、広範な民族革命統一戦線を組織する必要性を十分に評価することはできず、断固とした措置をとって閉鎖主義をうちやぶることはできず、統一戦線という武器によって何百何千万の民衆や、革命の友軍となりうるすべてのものを組織し結集して、日本帝国主義とその手先である中国の売国奴というもっとも中心的な目標にむかって前進し攻撃することはできず、また自分の戦術的武器で当面のもっとも中心的な目標を射撃することはできずに、目標を分散させ、そのため主要な敵には命中しないで、かえって副次的な敵、ひいては同盟軍にわれわれの弾丸をあびせるようになるのである。これが、敵をえらべず、弾薬を浪費するということである。こんなことでは、敵を孤立したせまい陣地に追いこむことができない。こんなことでは、敵の陣営内の脅かされて従っている人びとや、まえには敵であったがこんにちでは友軍になりうる人びとを、敵の陣営と敵の戦線からひきぬくことができない。こんなことでは、実際には敵に手をかすことになり、革命を停滞させ、孤立させ、縮小させ、退潮させ、ひいては失敗の道に向かわせることになる。

他方はつぎのようにいう。こういう批判はみなまちがっている。革命の勢力は、純粋なうえにも純粋でなければならないし、革命の道は、まっすぐなうえにもまっすぐでなければならない。聖典にのっているものだけが正しい。民族ブルジョア階級は全部が永遠に反革命である。富農には一歩もゆずってはならない。御用組合とはあくまでもたたかいぬくだけだ。もしも蔡廷[金+皆]と握手するなら、握手した瞬間にかれを反革命とののしらなければならない。油をなめない猫がどこにいるか。反革命でない軍閥がどこにあるか。知識人の革命性は三日坊主だ。かれらをひきいれるのは危険である。したがって、結論としては、閉鎖主義が唯一の万能の宝で、統一戦線は日和見主義の戦術だということになる。

同志諸君、統一戦線の道理と閉鎖主義の道理とは、いったいどちらが正しいのか。 マルクス・レーニン主義は、いったいどちらに賛成するのか。統一戦線に賛成し、閉鎖主義に反対すると、わたしはきっぱり答える。人間のなかには三歳の子どももあり、三歳の子どものいうことにも道理にかなったことはたくさんある。だが、このような子どもに天下国家の大事をまかせるわけにはいかない。かれらにはまだ天下国家の道理がわからないからである。マルクス・レーニン主義は革命の隊列内の小児病に反対する。閉鎖主義の戦術を固執している人びとの主張しているのは、小児病そのものである。革命の道は世界のあらゆる事物の運動の道とおなじように、まっすぐではなく、つねにまがりくねっている。革命と反革命の戦線が変動しうるのも、世界のすべての事物が変動しうるのとおなじである。日本帝国主義が全中国を植民地に変えようときめていること、また、中国革命の現在の勢力がまだ重大な弱点をもっていること、この二つの基本的な事実が党の新しい戦術、すなわち広範な統一戦線の出発点である。何百何千万の民衆を組織し、津波のような革命の部隊をうごかすことは、こんにち革命勢力が反革命勢力を攻撃するために必要なことである。日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴をうちたおすことができるのは、このような勢力以外にない。これはだれにもわかる真理である。だから、統一戦線の戦術だけが、マルクス・レーニン主義の戦術である。閉鎖主義の戦術は一人天下の戦術である。閉鎖主義は「魚を深みに追いこみ、すずめを茂みに追いこみ③」「何百何千万の民衆」と「津波のような革命の部隊」をみな敵の側に追いやるもので、敵の喝采かっさいをうけるだけである。閉鎖主義は、実質的には、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の忠実な下僕げぼくである。閉鎖主義のいわゆる「純粋」とか「まっすぐ」とかは、マルクス・レーニン主義からは横っつらをはられ、日本帝国主義からはほめられるしろものである。われわれは、ぜったいに閉鎖主義を必要としない。われわれが必要とするのは、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の死命を制する民族革命統一戦線である。

人民共和国〔28〕

われわれのこれまでの政府が労働者、農民、都市小ブルジョア階級の同盟による政府であったというなら、これからは、労働者、農民、都市小ブルジョア階級のほか、さらに、その他の階級のなかの、民族革命に参加することをのぞむすべての人びとをもふくめたものにあらためなければならない。

いまのところ、この政府の基本任務は、日本帝国主義の中国併呑へいどんに反対することである。この政府の構成要素は広い範囲に拡大される。土地革命には興味をもたなくても、民族革命には興味をもっているものも、これに参加できるだけでなく、欧米帝国主義と関係があって欧米帝国主義には反対できなくても、日本帝国主義とその手先には反対できる人びとも、かれらがのぞみさえすれば、これに参加することができる。したがって、この政府の綱領は、当然、日本帝国主義とその手先に反対するという基本任務に合致することを原則とし、これにもとづいて、われわれのこれまでの政策を適切にあらためるべきである。

現在の革命の側の特徴は、きたえあげられた共産党が存在し、またきたえあげられた赤軍が存在することである。これはきわめて重要なことである。もし、いまでもまだきたえあげられた共産党と赤軍が存在しないとすれば、きわめて大きな困難がうまれるにちがいない。なぜか。中国の民族裏切り者、売国奴は数も多く、力も強く、かれらは、かならず、さまざまな手口を考えだして、この統一戦線をうちこわす、すなわち、売国奴からはなれてわれわれとともに日本とたたかおうとする、かれらよりも小さい勢力を各個撃破するため、脅迫、誘惑やあらゆる術策によって挑発と離間をはかり、また武力によって強圧するからである。もし、抗日の政府と抗日の軍隊に共産党と赤軍という重要な要素が欠けるなら、こうした状態はさけがたい。一九二七年の革命が失敗したおもな原因は、共産党内の日和見主義路線から、自己の隊列(労農運動と共産党の指導する軍隊)の拡大につとめず、一時的な同盟者である国民党だけにたよったことにある。その結果、帝国主義は自分の手先である豪紳・買弁階級に命じて、ありとあらゆる手を動かし、まず蒋介石を、のちにまた汪精衛ワンチンウェイを抱きこんで、革命を失敗におちいらせた。当時の革命統一戦線には中心の支柱がなく、強固な革命の武装部隊がなかったので、四方八方に裏切りがはじまると、共産党は孤軍奮闘せざるをえなくなり、帝国主義と中国の反革命勢力の各個撃破戦術に対抗することができなかった。当時、賀竜、葉挺イエティンの部隊はあったが、まだ政治的に強固な軍隊でなく、党もそれをうまく指導できなかったので、ついに失敗してしまった。これは、革命の中心勢力が欠けていたために革命の失敗をまねいた血の教訓である。こんにちでは、この点が変わって、すでに強固な共産党と強固な赤軍が存在し、そのうえ赤軍の根拠地もある。共産党と赤軍は、いま抗日民族統一戦線の発起人になっているばかりでなく、将来の抗日政府や抗日軍隊のなかでも、かならずしっかりした大黒柱になり、日本帝国主義者と蒋介石に抗日民族統一戦線切りくずし政策の最後の目的をとげさせないであろう。疑いもなく、日本帝国主義者と蒋介石は、多くの面で脅迫、誘惑やあらゆる術策をつかうにきまっている。われわれは、それを十分注意しなければならない。

もちろん、抗日民族統一戦線のはばひろい隊列にたいして、そのすべての部分が共産党や赤軍とおなじように強固であることはのぞめない。その活動の過程では、一部の悪質分子が敵の影響をうけて、統一戦線をぬけだすようなこともありうる。だが、われわれは、そうした人びとの脱落をおそれない。一部の悪質分子が敵の影響をうけてぬけだしても、一部のよい人がわれわれの影響をうけてはいってくる。共産党と赤軍そのものが存在し、発展するかぎり、抗日民族統一戦線もかならず存在し、発展する。これが民族統一戦線における共産党と赤軍の指導的役割である。共産党員は、いまはもう子どもではない。かれらは、すでに自分のことをりっぱにさばいていくことができるし、また同盟者をもうまくさばいていくことができる。日本帝国主義者や蒋介石があらゆる術策をつかって革命の隊列にむかってくることができるなら、共産党もあらゆる術策をつかって反革命の隊列にたちむかうことができる。かれらがわれわれの隊列内の悪質分子をひきぬくことができるなら、われわれももちろん、かれらの隊列内の「悪質分子」(われわれにとってはよい人びと)をひきぬくことができる。もし、われわれがかれらの隊列から一人でも多くひきぬくことができれば、それだけ敵の隊列は減り、われわれの隊列は大きくなる。要するに、いまは二つの基本的な勢力がたたかっており、すべての中間勢力はあちら側につくか、さもなければこちら側につく。これは理の当然である。そして、日本帝国主義者の中国を滅ぼす政策と蒋介石の中国を売りわたす政策は、どうしても多くの勢力をわれわれの側に追いやり、直接共産党や赤軍の隊列に参加させるか、または共産党や赤軍と連合戦線をむすばせるようになる。われわれの戦術が閉鎖主義でないかぎり、この目的はたっせられるのである。

では、なぜ労農共和国を人民共和国に変えなければならないのか。

われわれの政府は、労働者と農民を代表するばかりでなく、民族をも代表するものである。労農民主共和国のスローガンには、もともとその意義がふくまれていた。なぜなら、労働者と農民が全民族の人口の八〇パーセントないし九〇パーセントをしめているからである。わが党の第六回全国代表大会できまった十大政綱〔29〕は、労働者と農民の利益を代表しているばかりでなく、同時に民族の利益をも代表している。だが、いまの状況は、われわれに、このスローガンをあらためること、つまり人民共和国にあらためることをもとめている。それは、日本の侵略という状況が中国の階級関係を変え、小ブルジョア階級だけでなく、民族ブルジョア階級も抗日闘争に参加する可能性がうまれたからである。

人民共和国が敵階級の利益を代表しないことは、もちろんである。反対に、人民共和国は帝国主義の手先である豪紳・買弁階級とは正反対の立場に立つもので、これらの階級を人民という範囲には入れない。これは、蒋介石の「中華民国国民政府」が、ただ最大の金持ちを代表するだけで、民衆を代表せず、民衆をいわゆる「国民」の範囲には入れていないのと同様である。中国の八〇パーセントないし九〇パーセントの人□が労働者と農民であるから、人民共和国はなによりもまず、労働者と農民の利益を代表しなければならない。だが、人民共和国が帝国主義の抑圧をはらいのけて、中国を自由・独立の国にすること、地主の抑圧をはらいのけて、中国を半封建制度からぬけださせること、こうしたことは、労働者と農民に利益をあたえるばかりでなく、他の人民にも利益をあたえる。労働者、農民その他の人民のすべての利益を一括したものが、中華民族の利益を構成している。買弁階級や地主階級も中国の土地に住んではいるが、かれらは民族の利益をかえりみず、かれらの利益は多数の人びとの利益と衝突している。われわれが決別するのはかれらのような少数者だけであり、われわれが衝突するのも、かれらのような少数者だけである。だから、われわれには、われわれこそ全民族を代表するものだという権利がある。

労働者階級の利益は、民族ブルジョア階級の利益とも衝突するところがある。民族革命をくりひろげるには、民族革命の前衛に政治上、経済上の権利をあたえ、労働者階級に帝国主義とその手先である売国奴に立ちむかう力をださせるようにしなければ、成功するものではない。しかし、民族ブルジョア階級が帝国主義反対の統一戦線に参加するなる、労働者階級と民族ブルジョア階級は共通の利害関係をもつことになる。ブルジョア民主主義革命の時代において、人民共和国は、非帝国主義的、非封建主義的な私有財産は廃止せず、民族ブルジョア階級の工商業は没収しないばかりか、これらの工商業の発展を奨励する。どんな民族資本家でも、帝国主義と中国の売国奴に手をかさないかぎり、われわれはこれを保護する。民主主義革命の段階では、労資間の闘争には限度がある。人民共和国の労働法は労働者の利益を保護するが、民族資本家の金もうけにも反対しないし、民族工商業の発展にも反対しない。なぜなら、このような発展は、帝国主義にとっては不利で、中国の人民にとっては有利だからである。このことからもわかるように、人民共和国は、帝国主義に反対し封建勢力に反対する各階層人民の利益を代表するものである。人民共和国の政府は、労働者、農民を主体とし、同時に、帝国主義に反対し封建勢力に反対するその他の階級をも包容する。

これらの人びとを人民共和国の政府に参加させるのは、危険ではないのか。危険ではない。労働者、農民は、この共和国の基本大衆である。都市小ブルジョア階級、知識層および反帝・反封建の綱領を支持するその他の人びとに人民共和国政府のなかで発言し仕事をする権利をあたえ、選挙権と被選挙権をあたえるが、労農基本大衆の利益にそむくことはできない。われわれの綱領の重要な部分は、労農基本大衆の利益を保護するものでなければならない。人民共和国政府のなかで労農基本大衆の代表が大多数をしめること、共産党がこの政府のなかで指導と活動をおこなうことによって、かれらがはいってきても危険でないように保障される。中国革命の現段階がプロレタリア社会主義的性質の革命ではなく、いまなおブルジョア民主主義的性質の革命であることは、きわめてあきらかである。中国ではすでにブルジョア民主主義革命は完成した、つぎに革命をやるなら、社会主義革命よりほかにない、とでたらめをいうのは、ただ反革命のトロツキスト〔30〕だけである。一九二四年から一九二七年までの革命はブルジョア民主主義的性質の革命であったが、その革命は達成されず失敗した。一九二七年から現在までの、われわれの指導してきた土地革命も、ブルジョア民主主義的性質の革命である。なぜなら、革命の任務は反資本主義ではなく、反帝・反封建だからである。今後のかなり長い期間における革命も、やはりそうしたものである。

革命の原動力は、基本的にはやはり労働者、農民、都市の小ブルジョア階級であるが、現在ではもう一つ民族ブルジョア階級がくわわることも可能である。

革命の転化は将来のことである。民主主義革命は、将来、必然的に社会主義革命に転化する。いつ転化するかは、転化の条件がそなわったかどうかによってきめられなければならないが、時間的にはかなり長くかかる。政治上、経済上のすべての必要条件がそなわらないうちは、また、転化が全国の最大多数の人民にとって不利でなく、有利になるような時がこないうちは、かるがるしく転化を提起すべきではない。この点に疑いをもって、ごく短期間での転化をのぞむのは、いぜん一部の同志が民主主義革命が重要な省で勝利しはじめたときこそ革命が転化しはじめるときだといったのと同様に、まちがっている。それは、かれらが中国はどんな政治経済状態の国であるかがわからないからであり、中国が政治的、経済的に民主主義革命を達成するのは、ロシアよりもずっと困難で、ずっと多くの時間と努力が必要であることを知らないからである。

国際的援助

最後に、中国革命と世界革命の相互関係にひとことふれる必要がある。

帝国主義という怪物がこの世にあらわれてから、世界のことがらは一つにつながり、切りはなそうとしても切りはなせなくなった。われわれ中華民族は、自分たちの敵と最後まで血戦をする気概をもち、自力更生を基礎として失われたものを回復する決意をもち、世界の諸民族のあいだに自立する能力をもっている。だが、このことはわれわれに国際的援助がなくてもよいという意味ではない。いや、国際的援助は現代のあらゆる国、あらゆる民族の革命闘争にとって必要である。昔のひとは「春秋に義戦なし」〔31〕といったが、いまの帝国主義にはなおさら正義の戦争はなく、ただ、被抑圧民族と被抑圧階級にだけ正義の戦争がある。人民が立ちあがって抑圧者とたたかう全世界のすべての戦争は、正義の戦争である。ロシアの二月革命と十月革命は正義の戦争であった。第一次世界大戦後のヨーロッパ各国人民の革命も正義の戦争であった。中国における、アヘン反対の戦争〔32〕、太平天国の戦争〔33〕、義和団の戦争〔34〕、辛亥シンハイ革命の戦争〔35〕、一九二六年から一九二七年までの北伐戦争④、一九二七年から現在までの土地革命戦争⑤、こんにちの抗日と売国奴討伐の戦争は、みな正義の戦争である。当面の全中国における抗日の高まりと全世界における反ファシズムの高まりのなかで、正義の戦争は全中国、全世界にひろがるだろう。すべて、正義の戦争はたがいにたすけあうものであり、不正義の戦争は正義の戦争に転化させなければならないものである。これがレーニン主義の路線である〔36〕。われわれの抗日戦争は、国際的な人民の援助、まず第一にソ連人民の援助を必要とし、かれらもまた、われわれを援助してくれるにちがいない。われわれとかれらは苦楽をともにしているからである。過去のある時期、中国の革命勢力と国際的な革命勢力の結びつきは蒋介石によって断ちきられていたので、この点からいえばわれわれは孤立していた。いまでは、こうした情勢はすでに変わり、われわれに有利になっている。今後、こうした情勢はなおひきつづき有利な方向に変わっていくだろう。われわれはもう孤立することはない。これは、中国の抗日戦争と中国革命が勝利をかちとるのに必要な条件の一つである。

注

〔1〕 袁世凱は清朝末期の北洋軍閥の頭目である。一九一一年の革命で清朝がくつがえされたのち、かれは、反革命の武力と帝国主義の支持にたより、当時革命を指導していたブルジョア階級の妥協性を利用して、総統の地位を奪いとり、大地主、大買弁階級を代表する最初の北洋軍閥政府をつくった。一九一五年、かれは皇帝になろうとして、日本帝国主義の支持を得るために、全中国の独占を企図した日本の二十一ヵ条の要求を承認した。同年十二月、皇帝を名のる袁世凱に反対する蜂起が雲南省におこり、それに呼応する運動がたちまち全国各地にひろがった。袁世凱は、一九一六年六月、北京で死亡した。

〔2〕 一九一五年一月十八日、日本帝国主義は中国の袁世凱政府に二十一ヵ条の要求をつきつけ、五月七日には、四十八時間以内に回答をもとめる最後通牒を出した。この要求の全文は五つの大項目からなり、まえの四つの大項目には、ドイツにかすめとられた山東省の権利を日本に移譲するとともに、山東省における日本の新しい権利を認めること、南満州と東蒙古における土地租借権、あるいは所有権、居住権、工商業経営権、鉄道敷設および鉱山採掘の独占権を日本にあたえること、漠治菰公司を中国と日本の共同経営にすること、また中国沿海の港湾、島嶼などはすべて第三国に譲渡してはならないことなどの条項があった。第五の大項目には、中国の政治、財政、警察、軍事を支配する大権をうばいとるとともに、湖北、江西、広東の諸省をむすぶ重要な鉄道の敷設権をうばいとる各条項があった。袁世凱は、第五の項目について「日をあらためて協議したい」と声明したほかは、すべて承認した。しかし、中国人民の一致した反対にあって、日本の要求は実行されなかった。

〔3〕 一九二一年十一月、アメリカ政府は、中国、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、日本の八ヵ国の代表を招集し、アメリカをくわえたワシントン九ヵ国会議をひらいた。これは、アメリカと日本が極東の覇権をあちそった会議である。翌年の二月六日、「中国における各国の機会均等」「中国の門戸開放」というアメリカの主張にもとづいて、九ヵ国条約が締結された。九ヵ国条約は日本の中国独占計画をうちこわすため、帝国主義列強による中国の共同支配の局面、実際にはアメリカ帝国主義の中国独占を準備する局面をつくりだす役割をはたした。

〔4〕 一九三一年九月十八日、中国の東北地方に駐屯していた日本のいわゆる「関東軍」が瀋陽を襲撃、占領した。当時、瀋陽をはじめ東北各地に駐屯していた中国の軍隊(東北軍)が、蒋介石の「絶対に抵抗するな」という命令を受けて山海関以南に撤退したため、遼寧、吉林、黒竜江などの諸省はたちまち日本軍に占領されてしまった。中国人民のあいだでは、日本侵略者のこの侵略行動を「九・一八事変」とよんでいる。

〔5〕 東北四省とは、当時中国の東北部にあった遼寧、吉林、黒竜江、熱河の四省のこと(現在の遼寧、吉林、黒竜江の三省および河北省東北部の長城以北と内蒙古自治区東部の地区をさしている――訳者)。九・一八事変後、日本侵略軍は、まず遼寧、吉林、黒竜江の三省を占領し、一九三三年にはさらに熱河省を占領した。

〔6〕 一九三五年十一月二十五日、日本は国民党の民族裏切り者殷汝耕をそそのかして、河北省東部の二十二県にかいらい政権をつくらせ、「冀東防共自治政府」と名づけた。これが「冀東事変」である。

〔7〕 外交交渉とは、当時、蒋介石政府と日本政府とのあいだですすめられたいわゆる「広田三原則」についての交渉をさす。「広田三原則」とは、当時の日本の外相広田弘毅が提出したいわゆる「対華三原則」のことである。その内容は、一、中国はすべての排日運動をとりしまる、二、中国、日本、「満州国」の経済協力体制をうちたてる、三、中日共同で防共にあたる、というものであった。一九三六年一月二十一日、広田は、日本の議会で、「中国政府はすでに帝国の提出した三原則を承認した」とのべている。

〔8〕 一九三五年、全国人民の愛国運動はあらたなもりあがりをみせはじめた。北京の学生は、中国共産党の指導のもとで、まず十二月九日、「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」「日本帝国主義をうちたおせ」などのスローガンをかかげて、愛国的なデモをおこなった。この運動は国民党政府と日本侵略者の同盟による長期のテロ支配をつきやぶり、全国人民が急速にこれに呼応した。これは「一二・九運動」とよばれている。これによって、全国の各階級間の関係にはっきりした新しい変化があらわれ、中国共産党の提起した抗日民族統一戦線はすべての愛国的な人びとの公然と主張する国是となった。蒋介石政府の売国政策は極度の孤立におちいった。

〔9〕 毛沢東同志がこの報告をおこなった当時、蒋介石はひきつづき東北を売りわたしていたばかりでなく、華北をも売りわたしており、同時に、赤軍にたいしてもさかんに攻撃をつづけていた。したがって、中国共産党としては、売国奴蒋介石の正体を極力暴露しなければならなかったから、当時、中國共産党の提起していた抗日民族統一戦線には、また蒋介石はふくまれていなかった。しかし、毛沢東同志はこの報告のなかでも、すでに、帝国主義諸国間の矛盾は中国の地主、買弁階級の陣営に分化をもたらす可能性のあることをのべている。のちに、日本帝国主義が華北に進攻し、英米帝国主義の利益とひどく衝突するようになると、中国共産党は、英米帝国主義の利益と密接につながる蒋介石集団がその主人の命令にしたがって、日本にたいする態度をかえる可能性があるとみて、蒋介石に圧力をくわえて抗日に転じさせる政策をとった。一九三六年五月、赤軍は山西省から陝西省北部に軍をひきあげ、直接、南京の国民党政府にむかって、内職を停止して一致抗日することを要求した。同年八月、中国共産党中央委員会は、また自民党中央執行委員会に書簡をおくって、両党が共同抗日の統一戦線を結成することと、代表を派遣してその交渉をすすめることを要求した。ところが、蒋介石は依然として共産党の主張を拒否した。かれは、一九三六年十二月、国民党内の連共抗日を主張する軍人に西安で監禁されたとき、はじめて、内戦を停止して抗日するという共産党の要求をやむなくうけいれた。

〔10〕 当時、蔡廷[金+皆]は国民党第十九路軍の軍長のひとりで、十九路軍の副総指揮をかね、陳銘枢、蒋光[”乃”の下に鼎]らとともに同軍の責任者であった。十九路軍は、もと江西省で赤軍と戦ったが、九・一八事変ののち、上海に移動した。当時、上海と全国人民のあいだにおきていた抗日のたかまりは、十九路軍に大きな影響をあたえた。一九三二年一月二十八日の夜、日本海軍の陸戦隣が上海を攻撃すると、十九路軍は上海の市民とともに抗戦した。だが、この戦争は、のちに蒋介石と汪精衛の裏切りによって敗北した。その後、十九路軍は、蒋介石によって福建省に移動させられ、赤軍と戦うことになった。当時、十九路軍を指導していた人たちは、赤軍と戦うのが活路のない行為であることをだんだん自覚してきた。一九三三年十一月、十九路軍の将領は、国民党内の李済深ら一部の勢力とむすんで、蒋介石との決裂を公然と宣言した。かれらは、福建省で「中華共和国人民革命政府」をうちたて、赤軍と抗日反蒋の協定をむすんだ。十九路軍と福建人民政府は蒋介石の兵力の圧迫によって失敗した。その後、蔡廷[金+皆]らはしだいに共産党と協力する立場をとるようになった。

〔11〕 一九二六年九月、北伐の革命軍が武漢まで攻めのぼったとき、馮玉祥は綏遠省(現在の内蒙古自治区西部――訳者)で、自分の軍隊をひきいて北洋軍閥系からはなれることを宣言し、革命に参加した。一九二七年のはじめ、その部隊は陝西省を出発して、北伐軍と合流し、河南省に進攻した。一九二七年、蒋介石と汪精衛が革命を裏切ると、馮玉洋もまた反共活動に参加した。だが、かれと蒋介石集団とのあいだには終始利害の衝突があった。九・一八事変ののち、かれは抗日に賛成し、一九三三年五月、共産党と協力して張家口で民衆抗日同盟軍を組織した。このときの抗日蜂起は、蒋介石勢力と日本侵略軍の二重の圧迫をうけて、八月に失敗した。馮玉祥は、晩年においても共産党と協力する立場をとりつづけた。

〔12〕 国民党第二十六路軍は、蒋介石の命令で赤軍を攻撃するため江西省に派遣された。一九三一年十二月、同軍の一万余人は、趙博生、董振堂らの同志の指導のもとに、中国共産党の抗日のよびかけにこたえて、江西省寧都で蜂起し、赤軍に参加した。

〔13〕 馬占山はもと国民党東北軍の将校であり、その部隊は黒竜江省に駐屯していた。九・一八事変ののち、日本の侵略軍が遼寧省から黒竜江省にむかって進撃したとき、その部隊はこれに抵抗した。

〔14〕 胡漢民は国民党の有名な政治屋で、かつて孫中山が中国共産党と協力する政策をとったことに反対した。また、一九二七年、蒋介石が「四・一二」反革命クーデターをおこなったときの共謀者であった。その後、蒋介石との権力争いがもとで、蒋介石に監禁された。九・一八事変ののち、釈放されて、南京から広州にいき、広東・広西派の軍閥勢力をうごかし、蒋介石南京政府とのあいだに長期にわたる対立状態をつくりだした。

〔15〕 「抗日救国六大綱領」とは「中華人民対日作戦基本綱領」のことで、中国共産党が一九三四年に提起し、宋慶齢らの署名をえて公表されたものである。この綱領にはつぎのような項目がふくまれている。(一)全陸海空軍を総動員して日本と戦う。(二)全国人民を総動員する。(三)全国人民の総武装化をおこなう。(四)中国にある日本帝国主義の財産と売国奴の財産を没収して抗日の戦費にあてる。(五)労働者、農民、兵士、知識層、商工業者の代表が選出した全中国民族武装自衛委員会をつくる。(六)日本帝国主義のすべての敵と連合してこれを友軍とし、善意の中立をまもるすべての図と友好関係をうちたてる。

〔16〕 広東・広西旅軍閥とは、広東省の陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]、広西省の李宗仁、白崇禧らをさす。

〔17〕 蒋介石匪賊一味は、革命的な人民を「匪賊」といい、かれらが自己の軍隊をもって革命的な人民を攻撃し、虐殺する行為を「討匪」といった。

〔18〕 任弼時同志は、中国共産党のもっとも早くからの党員であり、組織者のひとりであった。一九二七年の中国共産党第五回全国代表大会いらい、毎回の党大会で中央委員に選出され、一九三一年の党の第六期中央委員会第四回総会では中央委員会政治局委員に選出された。一九三三年、湖南・江西辺区省委員会書記となり、赤軍第六軍団政治委員を兼ねた。赤軍第六軍団と赤軍第二軍団が合流してからは、第二、第六両軍団で編成した第二方面軍の政治委員となった。抗日戦争の初期には、八路軍総政治部主任となった。一九四〇年には、中国共産党中央委員会書記処の活動に参加した。一九四五年、党の第七期中央委員会第一回総会では、中央委員会政治局委員と中央委員会書記処書記に選出された。一九五〇年十月二十七日、北京で逝去した。

〔19〕 中国労農赤軍第六軍団は、もとは湖南・江西辺区の根拠地に駐屯していたが、一九三四年八月、中国共産党中央の命令によって、包囲を突破し、移動をはじめた。同年十月、貴州省東部で、賀竜同志のびきいる赤軍第二軍団と合流し、赤軍第二方面軍を編成して、湖南・湖北・四川・貴州革命根拠地をきりひらいた。

〔20〕 一九三四年十月、中国労農赤軍第一、第三、第五軍団(すなわち赤軍第一方面軍で、中央赤軍ともよばれる)は、福建省西部の長汀、寧化、江西省南部の瑞金、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都などの各地から出発して、戦略的な大移動をはじめた。赤軍は、福建、江西、広東、湖南、広西、貴州、四川、雲南、西康(現在の四川省西部とチベット自治区の東部――訳者)、甘粛、陝西など十一の省を通過して、年中雪をいただく高山をこえ、人跡まれな湿地帯をすぎ、あらゆる困難をなめつくして、敵のたびかさなる包囲、追撃、阻止、遮断を撃破し、二万五千華里(一万二千五百キロ)を歩きとおして、ついに一九三五年十月、勝利のうちに陝西省北部の革命根拠地に到着した。

〔21〕 四川・陝西辺区の赤軍とは、中国労農赤軍第四方面軍のことである。一九三五年三月、第四方面軍は、四川・陝西辺区の根拠地をはなれて四川、西康両省の省境に移動した。同年六月には、四川省西部の懋功地方で赤軍第一方面軍と合流し、左路軍と右路軍を編成して北上した。同年九月、松潘付近の毛児蓋一帯の地区についたのち、第四方面軍で活動していた張国燾が、中国共産党中央の命令にそむいて、勝手に左路軍をひきいて南下し、赤軍を分裂させた。一九三六年六月、赤軍第二万両軍が湖南・湖北・四川・貴州辺区から包囲を突破し、湖南、貴州、雲南の諸省をとおって、西康省の甘孜に到着し、第四方面軍と合流した。このとき、第四方面軍の同志たちは、張国燾の意志にそむいて、第二方面軍とともに北方への移動をおこなった。同年十月、第二方面軍の全部と第四方面軍の一部は陝西省北部に到着し、赤軍第一方面軍と勝利のうちに合流した。

〔22〕 張国燾は中国革命の裏切り者である。かれは若いころ、投機的に革命にくわわり、中国共産党に入党した。党内でのかれのあやまりはきわめて多く、そのおかした罪悪ははかりしれない。なかでももっとも重大なのは、一九三五年、赤軍の北上に反対して、赤軍を四川省、西康省の少数民族地区に退却させることを主張した敗北主義と解党主義であり、同時にまた、公然と反党、反中央の裏切りをはたらき、勝手ににせの中央をつくりあげて、党と赤軍の統一を破壊し、赤軍第四方面軍に重大な損失をこうむらせたことである。赤軍第四方面軍とその広範な幹部は、毛沢東同志と党中央の辛抱づよい教育によって、すぐ党中央の正しい指導のもとにかえり、その後の闘争で光栄ある役割をはたした。しかし、張国燾自身は、ついに救いようもない状態になり、一九三八年春、陝西・甘粛・寧夏辺区を単身ぬけだして、国民党の特務集団に投じた。

〔23〕 中央赤軍とは、もと江西、福建地域で発展し、中国共産党中央の直接の情導をうけていた赤軍、すなわち赤軍第一方面軍のことである。

〔24〕 一九三五年七月、国民党軍は、陝西・甘粛革命根拠地にたいして三回目の「包囲討伐」をはじめた。陝西省北部の赤軍第二十六軍は、まず東部戦線で敵の二コ旅団をうちやぶり、この戦線の敵を黄河以東に追いやった。同年九月、もと湖北・河南・安徽根拠地にいた赤軍第二十五軍は、陝西省南部から甘粛省東部をへて陝西省北部に到着し、陝西省北部の赤軍と合流して、赤軍第十五軍団を編成した。赤軍十五軍団は、甘泉県の労山の戦役で、敵軍の一一〇師団の大部分を撃滅し、その師団長を戦死させた。その後まもなく、敵軍の一〇七師団の四コ大隊を甘泉県の楡林橋で撃滅した。そこで、敵はまた新しい攻撃を計画し、童英斌(東北軍の一軍長)が五コ師団をひきい、ふた手にわかれて進攻してきた。東の一コ師団は洛川、[鹿+”おおざと”]県の街道を北上し、西の四コ師団は甘粛省の慶陽、合水から葫盧河にそって陝西省北部の[鹿+”おおざと”]県方面に進撃してきた。同年十月、中央赤軍は陝西省北部に到着した。十一月、中央赤軍と赤軍十五軍団は共同して敵軍の一〇九師団を[鹿+”おおざと”]県西南の直羅鎮で殲滅し、さらに追撃して敵軍一〇六師団の一コ連隊を黒水寺で殲滅した。こうして、陝西・甘粛根拠地にたいする敵の三回目の「包囲討伐」を徹底的に粉砕した。

〔25〕 一九三四年かち一九三五年にかけて、中国南部にいた赤軍の主力が移動したとき、一部の遊撃部隊をのこした。それらの遊撃部隊は、八つの省の十四の地域で遊撃戦争を堅持した。その他域とは、湖江省南部地域、福建省北部地域、福建省東部地域、福建省南部地域、福建省西部地域、江西省東北地域、福建・江西省境地域、広東・江西省境地域、湖南省南部地域、湖南・江西省境地城、湖南・湖北・江西省境地域、湖北・河南・安徽省境地域、河南省南部桐柏山地城および広東省の瓊崖地域である。

〔26〕  一九三一年、日本帝国主義が東北地方を侵略すると、中国共産党は、人民に武装抵抗をよびかけて、抗日遊撃隊と東北人民革命軍を編成し、さまざまな形態の抗日義勇軍を援助した。一九三四年以後になると、中国共産党の指導のもとに、東北のすべての抗日部隊をあわせて、統一した東北抗日連合軍が組織され、有名な共産党員楊靖宇が総指揮となって、長いあいだ東北の抗日遊撃戦争を堅持した。河北省東部の抗日遊撃戦争は、一九三五年五月におこった農民の抗日蜂起である。

〔27〕 ソ連共産党の指導した革命戦争とは、一九一八年から一九二〇年にかけて、ソ連人民がイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドなどの帝国主義国の武力干渉とたたかい、白衛軍の反乱を平定した戦争をいう。

〔28〕 毛沢東同志がここで提起している人民共和国の政権の性質とその諸政策は、抗日戦争の期間に、共産党の指導する人民解放区で完全に実現されていた。だからこそ、共産党は、敵の後方戦場で、人民を指導し、日本侵略者にたいする勝利的な戦争をすすめることができたのである。日本の降伏後に勃発した第三次国内革命戦争でも、戦争の進展につれて、人民解放区はしだいに全中国に拡大し、ついに統一された中華人民共和国が出現した。毛沢東同志の人民共和国の理想はついに全国的な範囲で実現したわけである。

〔29〕 一九二八年七月にびちかれた中国共産党第六回全国代表大会では、つぎの十六政綱がさだめられた。一、帝国主義の支配をくつがえす。二、外国資本の企業や銀行を没収する。三、中国を統一し、民族自決権を認める。四、軍閥国民党の政府をくつがえす。五、労農兵代表者会議の政府を樹立する。六、八時間労働制、賞金の引きあげ、失業救済、社会保障などを実施する。七、すべての地主階級の土地を没収し、耕地を農民のものにする。八、兵士の生活を改善し、兵士に土地と仕事をあたえる。九、すべての苛酷で雑多な税金を廃止し、統一的な累進税を実施する。十、世界のプロレタリア階級およびソ連と連合する。

〔30〕 トロツキスト集団は、もと、ロシアの労働運動のなかでレーニン主義に反対した一分派で、のちに完全な反革命の匪賊一味に堕落した。この裏切り者集団の変わりかたについて、スターリン同志は、一九三七年、ソ連共産党中央委員会総会における報告でつぎのように説明している――「過去七、八年まえまでは、トロツキズムは、労働者階級のなかの政治的一派であった。それはたしかに反レーニン主義的であり、したがって極度にまちがった政治的一派ではあったが、しかし、当時はやはり政治的一派といえた。……現在のトロツキズムは、けっして労働者階級のなかの政治的一派ではなく、原則のない、思想のない暗殺者であり、破壊者であり、スパイであり、殺人の下手人であり、外国のスパイ機関にやとわれて活動する労働者階級の仇敵である。」一九二七年、中国革命が失敗したのち、中国にも少数のトロツキストがあらわれた。かれらは陳独秀らの裏切り者とむすんで、一九二九年、反革命的グループをつくり、国民党はすでにブルジョア民主主義革命を完成したなどという反革命的宣伝をおこない、帝国主義と自民党の反人民的なきたない道具に完全になりさがった。中国のトロツキストは公然と国民党の特務機関に参加した。九・一八事変ののち、かれらはトロツキー一味から「日本帝国の中国占領を妨げるな」という指令をうけて、日本の持務機関に協力し、日本侵略者から手当をうけて、さまざまな利敵行為をおこなった。

〔31〕 「春秋に義戦なし」とは『孟子』のなかのことばである。春秋時代(西紀前七二二~前四八一年)には中国の多くの封建諸民のあいだで権力や利益を争う戦争かたえずおこなわれたので、孟子はこのようにいった。

〔32〕 一八四〇年から一八四二年にかけて、イギリスは、中国人がアヘン貿易に反対したので、通商保護を口実に出兵し、中国を侵略した。中国の軍隊は林則徐の指導のもとに抵抗戦争をおこなった。当時、広州の人びとも自然発生的に「平英団」を組織して、イギリスの侵略者に大きな打撃をあたえた。

〔33〕 太平天国の戦争は、一九世紀のなかごろ、清朝の封建支配と民族抑圧に反対しておこった農民の革命戦争である。一八五一年一月、この革命の指導者洪秀全、楊秀清らは、広西省の桂平県金田村で蜂起し、「太平天国」の成立を宣言した。太平軍は、一八五二年に広西省を出発して、湖南、湖北、江西、安徽の諸省をへて、一八五三年に南京を攻略した。その後すぐ南京から一部の兵力をさいて北上し、天津付近まで進撃した。しかし、太平軍は、占領した地方に強固な根拠地をつくらなかったことと、南京に都をおいてから、その指導者集団が政治上、軍事上の多くのあやまりをおかしたことから、清朝の反革命軍と英米仏侵略者の連合攻撃に抵抗できず、一八六四年に失敗した。

〔34〕 義和団の戦争とは、一九〇〇年、中国北部の農民、手工業者大衆が、神秘主義的な秘密結社の形態をとり、武力をもって帝国主義とたたかった広範な自然発生的運動である。八つの帝国主義国の連合軍は、北京、天津を占領し、この運動をきわめて残酷に弾圧した。

〔35〕 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕にみられる。

〔36〕 レーニンの『プロレタリア革命の軍事綱領』および『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第六章第三節を参照。

訳注

① 察蛤爾省は現在の河北省西北部と内蒙古の中部にあたる。

② 中国の神話に、盤古が天地をびちき、人類最初の支配者になったとつたえられている。三皇五帝は、伝説にでてくる中国原始社会の部落の長である。ここでは、「歴史がはじまっていらい」という意味にたとえている。

③ 本巻の『小さな火花も広野を焼きつくす』訳注②を参照。ここでは、閉鎖主義者が結集できる人びとをも敵の側に追いやってしまうことのたとえにつかっている。

④ 北伐戦争とは、一九二六年七月、国民革命軍が広東省を出発して北上し、北洋軍閥を討伐した戦争をさす。国民革命軍は、中国共産党の政治的指導と広範な労農大衆の積極的支持をうけたので、急速に長江流域まで攻めよせ、中国のほぼ半分を占領し、帝国主義と封建勢力に手きびしい打撃をあたえた。ところが、一九二七年の春から夏へかけて、北伐戦争が発展していた矢先に、蒋介石に代表される国民党右派は、帝国主義の支持のもとに革命を裏切って、その成果を奪い、残忍きわまる新軍閥のテロ支配をうちたてた。

⑤ 土地革命戦争とは中国共産党の指導する第二次国内革命戦争のことである。一九二七年七月、第一次国内革命戦争が失敗したのち、毛沢東同志を代表とする中国共産党は、土地革命の旗を高くかかげて、敵の支配が比較的弱くて、革命の基礎が比較的しっかりした農村に活動の重点をうつし、おもいきり農民を立ちあがらせて土地改革をおこない、遊撃戦争を展開し、革命根拠地をうちたてた。一九三六年末、全国人民の抗日運動の新しい高まりによって、蒋介石国民党がやむなく国内戦争の政策を一時放棄し、第二次国内革命戦争は基本的に終わりをつげた。

中国革命戦争の戦略問題

(一九三六年十二月)

毛沢東同志のこの著作は、第二次国内革命戦争の経験を総括するために書かれたもので、当時陝西省北部に設立されていた赤軍大学で講演されたことがある。著者によれば、この著作は五章までを完成しただけで、このほかになお戦略的進攻、政治工作およびその他の問題があったが、西安事変が発生したために書きつづける時間がなくなり、筆をおいたままであるという。この著作は第二次国内革命戦争の時期に軍事問題について党内でおこなわれた一大論争の結果であり、一つの路線が他の路線に反対する意見を表明したものである。一九三五年一月におこなわれた党中央の遵義会議は、この路線上の論争について結論をくだし、毛沢東同志の意見を是認して、あやまった路線の意見を否定した。一九三五年十月、党中央が陝西省北部に移ってからまもなく、十二月に、毛沢東同志は、『日本帝国主義に反対する戦術について』という講演をおこない、第二次国内革命戦争の時期における党の政治路線上の問題を系統的に解決した。その翌年、すなわち一九三六年、毛沢東同志はさらにこの著作を書いて、中国革命戦争の戦略面にかんする諸問題について系統的に説明した。

第一章 戦争をいかに研究するか

第一節 戦争の法則は発展するものである

戦争の法則――これは戦争を指導するものが、だれでも研究しなければならない問題であり、解決しなければならない問題である。

革命戦争の法則――これは革命戦争を指導するものが、だれでも研究しなければならない問題であり、解決しなければならない問題である。

中国革命戦争の法則――これは中国革命戦争を指導するものが、だれでも研究しなければならない問題であり、解決しなければならない問題である。

われわれは現在、戦争に従事している。われわれの戦争は革命戦争である。われわれの革命戦争は、中国という半植民地的・半封建的な国ですすめられている。したがって、われわれは戦争一般の法則を研究するだけではなく、特殊な革命戦争の法則も研究しなければならないし、さらに、いっそう特殊な中国革命戦争の法則をも研究しなければならない。

周知のように、どんなことをするにも、そのことの状況、その性質、それとそれ以外のこととの関連がわからないと、そのことの法則もわからず、どういうふうにやるのかもわからず、また、それをなしとげることもできない。

戦争――私有財産と階級があるようになってからはじまった、階級と階級、民族と民族、国家と国家、政治集団と政治集団とのあいだの、一定の発展段階での矛盾を解決するためにとられる最高の闘争形態である。その状況、その性質、それとそれ以外のこととの関連がわからないと、戦争の法則はわからず、戦争をどういうふうに指導するかもわからず、戦争で勝つこともできない。

革命戦争――革命的な階級戦争と革命的な民族戦争は、戦争一般の状況と性質のほかに、その特殊な状況と性質をもっている。したがって、それには戦争の一般法則のほかに、いくつかの特殊な法則がある。これらの特殊な状況や性質がわからず、その特殊な法則がわからないと、革命戦争を指導することもできないし、革命戦争で勝つこともできない。

中国革命戦争――国内戦争あるいは民族戦争をとわず、それは中国という特殊な環境のなかですすめるれているのであって、戦争一般、革命戦争一般にくらべると、その特殊な状況、特殊な性質をもっている。したがって、それには戦争一般および革命戦争一般の法則のほかに、なおいくつかの特殊な法則がある。これらのことがわからないと、中国革命戦争で勝つことはできない。

したがって、われわれは戦争一般の法則を研究すべきであり、革命戦争の法則も研究すべきであり、最後に、さらに中国革命戦争の法則をも研究すべきである。

つぎのような意見をもっているものがあるが、それはまちがっている。われわれはそのような意見をとうに反駁はんばくした。かれらは、戦争一般の法則さえ研究すればいいのだ、具体的にいえば、反動的な中国政府、あるいは反動的な中国の軍事学校で出版している軍事典範令のとおりにやりさえすればいいのだ、というのである。これらの典範令は、戦争一般の法則についてのものでしかなく、しかも、みな外国のもののまるうつしであり、もしわれわれがその形式や内容に少しも変更をくわえないで、そっくりそのまま使うとすれば、どうしても足をけずって靴にあわせることになり、戦争に負けるということを、かれらは知らない。かれらの言い分は、過去に血を流してえたものが、どうして役にたたないのか、というのである。過去に血を流してえた経験はもとより尊重すべきであるが、自分が血を流してえた経験もやはり尊重すべきであるということを、かれらは知らないのである。

また、つぎのような意見をもっているものがあるが、それもまちがっている。われわれはそのような意見をも、とうに反駁した。かれらは、ただロシアにおける革命戦争の経験を研究しさえすればいいのだ、具体的にいえば、ソ連の国内戦争の指導法則とソ連の軍事機関が公布した軍事典範令のとおりにやりさえすればいいのだ、というのである。ソ連の法則や典範令には、ソ連の国内戦争とソビエト赤軍の特殊性がふくまれており、もしわれわれがなんの変更もゆるさないで、そっくりそのまま使うとすれば、これも同様に足をけずって靴にあわせることになり、戦争に負けるということを、かれらは知らない。この人たちの言い分は、ソ連の戦争は革命戦争であり、われわれの戦争も革命戦争である、しかもソ連では勝利している、それなのにどうして取捨の余地があろうか、というのである。ソ連の戦争の経験は、もっとも近代的な革命戦争の経験であり、レーニンとスターリンの指導のもとでえたものであるから、われわれは、もとより、とくに尊重すべきであるが、中国革命と中国赤軍にもまた多くの特殊な事情があるので、中国革命戦争の経験もやはり尊重すべきであることを、かれらは知らないのである。

さらに、つぎのような意見をもっているものがあるが、それもまちがっている。われわれはそのような意見をも、とうに反駁した。かれらは、一九二六年から一九二七年の北伐戦争①の経験がいちばんよい、われわれはそれを学ぶべきだ、具体的にいえば、北伐戦争の長駆前進や大都市攻略を学ぶべきだ、というのである。北伐戦争の経験はまなぶべきであるが、しかし、われわれが現在やっている戦争の状況は、すでに変化しているので、それを型どおりにひきうつして使うべきでないということを、かれらは知らない。われわれは、北伐戦争のなかから、現在の状況のもとでなお適用できるものだけをとりいれるべきであり、現在の状況にもとづいて、われわれ自身のものを規定すべきである。

このようにみてくると、戦争の状況のちがいが、異なった戦争指導法則を決定するのであり、それには、時間、地域および性質上の差異がある。時間的条件からすると、戦争と戦争指導法則は、いずれも発展するものであり、それぞれの歴史的段階には、その段階での特徴があるので、戦争の法則にも、それぞれの特徴があり、それを機械的に異なった段階に転用することはできない。戦争の性質についてみると、革命戦争と反革命戦争には、それぞれ異なった特徴があるので、戦争の法則にも、それぞれの特徴があり、それを機械的に転用しあうことはできない。地域的条件についてみると、それぞれの国、それぞれの民族、とくに大きな国、大きな民族には、いずれもその特徴があるので、戦争の法則にもそれぞれの特徴があり、これも同様に機械的に転用することはできない。われわれは、それぞれ異なった歴史的段階、それぞれ異なった性質、異なった地域や民族の戦争の指導法則を研究するさい、戦争問題における機械論に反対し、その特徴と、その発展に着眼すべきである。

そればかりではない。ひとりの指揮員についていっても、はじめは小兵団しか指揮できなかったものが、のちにはさらに、大兵団を指揮できるようになれば、これは、その人にとって進歩であり、発展である。また一つの地域と、多くの地域とでもちがいがある。はじめは、よく知っている一つの地域でしか作戦を指揮できなかったものが、のちにはさらに、多くの地域でも作戦を指揮できるようになれば、これはまたその指揮員にとって進歩であり、発展である。敵味方の双方の技術、戦術、戦略の発展によって、一つの戦争でも、その各段階の状況にはちがいがある。低い段階でしか指揮できなかったものが、高い段階になっても、指揮できるようになれば、その指揮員にとって、いっそうの進歩であり、発展である。一定の兵団、一定の地方、戦争発展の一定段階にしか適応できないのをさして進歩も発展もないという。一つの技わざやちょっとした見識にしがみついて、それ以上進歩のないような人は、革命にとって一定の場所と時期にはいくらか役割をはたしても、大きな役割ははたせない。われわれは、大きな役割をはたす戦争指導者を必要としている。すべての戦争指導法則は、歴史の発展にしたがって発展し、戦争の発展にしたがって発展するのであり、一定不変のものはない。

第二節 戦争の目的は戦争を消滅することにある

戦争――人類がたがいに殺しあうこの怪物は、人類社会の発展が、終局的にはこれを消滅するし、しかも遠くない将来にこれを消滅するにちがいない。だが、それを消滅する方法はただ一つしかない。つまり、戦争をもって戦争に反対し、革命戦争をもって反革命戦争に反対し、民族革命戦争をもって民族反革命戦争に反対し、階級的革命戦争をもって階級的反革命戦争に反対することである。歴史上の戦争には、正義のものと不正義のものとの二種類しかない。われわれは正義の戦争を支持し、不正義の戦争に反対する。すべての反革命戦争は不正義のものであり、すべての革命戦争は正義のものである。人類の戦争生活の時代は、われわれの手で終わらせることになる。われわれがすすめている戦争は、疑いもなく最終的な戦争の一部分である。だが、われわれが直面している戦争は、また疑いもなくもっとも大きな、もっとも残酷な戦争の一部分である。もっとも大きな、もっとも残酷な不正義の反革命の戦争が、われわれの頭上にのしかかっており、われわれが、もしも正義の戦争の旗じるしをかかげないなら、人類の大多数はふみにじられてしまう。人類の正義の戦争の旗じるしは、人類を救う旗じるしであり、中国の正義の戦争の旗じるしは、中国を救う旗じるしである。人類の大多数と中国人の大多数がおこなう戦争は、疑いもなく正義の戦争であり、人類を救い、中国を救うこのうえもなく光栄な事業であり、全世界の歴史を新しい時代にうつらせるかけ橋である。人類の社会が、階級を消滅し、国家を消滅するところまで進歩したときには、どんな戦争もなくなる。反革命戦争はなくなるし、革命戦争もなくなる。不正義の戦争はなくなるし、正義の戦争もなくなる。これが人類の永遠の平和の時代である。われわれが革命戦争の法則を研究するのは、すべての戦争を消滅しようとするわれわれの願望からでており、これがわれわれ共産党員とすべての搾取階級とを区別する境界線である。

第三節 戦略問題とは戦争の全局についての法則を研究するものである

戦争があるかぎりは、戦争の全局というものがある。世界が戦争の一つの全局になりうるし、一国も戦争の一つの全局になりうるし、また一つの独立した遊撃地域も、一つの大きな独立した作戦方面も、戦争の一つの全局になりうる。およそ各方面、各段階に配慮をくわえなければならないような性質をもったものは、すべて戦争の全局である。

全局的な戦争指導法則を研究することが、戦略学の任務である。局部的な戦争指導法則を研究するのが、戦役学と戦術学の任務である。

戦役指揮員や戦術指揮員にたいして、ある程度の戦略上の法則について理解をもつことを要求する必要があるのは、なぜだろうか。それは、局部的なものが全局的なものに従属しているので、全局的なものを理解すれば、局部的なものをいっそうよく使いこなせるからである。戦略的勝利が戦術的勝利によって決定されるという意見はあやまっている。なぜなら、このような意見は、全局と各段階にたいする配慮のよしあしが、戦争の勝敗を決定する主要な、そしてまず最初の問題であることを見ていないからである。もし、全局と各段階にたいする配慮に重大な欠陥、あるいはあやまりがあれば、その戦争はかならず失敗する。「一石のうちちがいで、全局がまける」というのは、全局的なもの、つまり全局に決定的な意義をもつ一石のことをいっているのであって、局部的なもの、つまり全局に決定的な意義をもたない一石のことではない。碁がそうであり、戦争もそうである。

だが、全局的なものは、局部からはなれて独立できるものではなく、全局は、そのすべての局部からなりたっている。ときによっては、いくつかの局部が崩壊し、あるいは失敗しても、全局に重大な影響をおよぼさないことがあるのは、それらの局部が全局にたいして決定的な意義をもつものでないからである。戦争においては、いくつかの戦術上、あるいは戦役上の失敗または不成功が、戦争全局の悪化をひきおこすまでに至らないことがしばしばあるのは、これらの失敗が決定的な意義をもつものでないからである。だが、もし戦争の全局を構成する多数の戦役が失敗したばあい、あるいは決定的な意義をもつ一つ、二つの戦役が失敗したばあいには、ただちに全局に変化がおきる。ここでいう多数の戦役、および一つ、二つの戦役とは、すべて決定的なものである。戦争の歴史には、連戦連勝ののち、一つの敗戦によって、いままでの戦果のすべてが無に帰したこともあり、あるいはたくさんの敗戦をかさねたのち、一つの勝利によって、新しい局面が打開されたこともある。ここでいう「連戦連勝」と「たくさんの敗戦」は、いずれも局部的なもので、全局にたいしては決定的な作用をおよぼさないものである。ここでいう「一つの敗戦」および「一つの勝利」とは、いずれも決定的なものである。これらのことは、みな全局について配慮することの重要性をものがたっている。全局を指揮するものにとって、もっとも大事なことは、戦争の全局にたいする配慮に自分の注意力をそそぐことである。主要なことは、状況にもとづいて、部隊と兵団の編成問題②、二つの戦役のあいだの関係の問題、各作戦段階のあいだの関係の問題、味方の活動全体と敵の活動全体とのあいだの関係の問題に配慮をくわえることである。これらのことがもっとも骨の折れるところであり、もし、こうしたことをそっちのけにして、一部の副次的な問題に頭をつっこんでいると、損をするのはさげられない。

全局と局部との関係についていうならば、戦略と戦役との関係がそうであるばかりでなく、戦役と戦術との関係もまたそうである。師団の行動と連隊・大隊の行動との関係、中隊の行動と小隊・分隊の行動との関係などは、その実例である。いかなる級の首長でも、その注意の重点は、かれが指揮する全局にとって、もっとも重要な、もっとも決定的な意義をもつ問題、または行動におくべきであり、他の問題、または他の行動におくべきではない。

重要とか、決定的な意義をもつとかいうことは、一般的な、あるいは抽象的な状況によって規定してはならず、具体的な状況によって規定しなければならない。作戦にあたって、突撃方向や突撃点の選定は、当面している敵の状態、地形と味方の兵力の状況によってきめなければならない。給養の十分なところでは、兵士に食べすぎをさせないように注意しなければならず、給養の不足しているところでは、兵士を飢えさせないよう注意しなければならない。白色地域では、わずか一つの情報がもれたために、その後の戦闘を失敗にみちびくこともありうるが、赤色地域では、情報がもれるということは、ふつうもっとも重要な問題にはならない。あるいくつかの戦役では、高級指揮員みずから戦役に参加する必要があるが、他のばあいにはその必要がない。軍事学校でもっとも重要な問題は、校長および教員をえらぶことと教育の方針を規定することである。民衆集会では、主として、民衆をその集会に動員し、適切なスローガンを提起することに注意しなければならない、等々といったものである。要するに、全局にかかわる重要な環に注意すること、これが原則である。

戦争の全局の指導法則を学ぶには、頭を使って考えることが必要である。なぜなら、このような全局的なものは、目には見えないので、頭を使って考えてはじめてわかるものであり、頭を使って考えなければわかるものではないからである。ところが、全局は局部からなりたっており、局部について経験をもっている人、あるいは戦役や戦術について経験をもっている人が、もし頭を使って考えようとするならば、そうしたより高級なものも理解することができる。戦略問題、たとえば、敵と味方との関係について配慮すること、各戦役、あるいは各作戦段階のあいだの関係について配慮すること、全局にかかわる(決定的意義をもつ)あるいくつかの部分について配慮すること、全般的な状況のなかの特徴について配慮すること、前線と後方とのあいだの関係について配慮すること、消耗と補充、作戦と休息、集中と分散、攻撃と防御、前進と後退、隠蔽いんぺいと暴露、主攻方面と助攻方面、突撃方面と牽制けんせい方面、集中指揮と分散指揮、持久戦と速決戦、陣地戦と運動戦、本軍と友軍、この兵種とほかの兵種、上級と下級、幹部と兵士、古参兵と新兵、高級幹部と下級幹部、ふるい幹部と新しい幹部、赤色地域と白色地域、旧地区と新地区、中心地区と周縁地区、暑いときと寒いとき、勝ちいくさと負けいくさ、大兵団と小兵団、正規軍と遊撃隊、敵を消滅することと大衆を獲得すること、赤軍の拡大と赤軍の強化、軍事工作と政治工作、過去の任務と現在の任務、現在の任務と将来の任務、ある状況のもとでの任務と他の状況のもとでの任務、固定した戦線と固定しない戦線、国内戦争と民族戦争、ある歴史的段階と他の歴史的段階などといった問題の区別や連係について配慮すること、これらはいずれも、目には見えないものであるが、頭を使って考えれば、みな理解することもでき、把握することもでき、精通することもできるのである。つまり、戦争あるいは作戦上のすべての重要な問題は、より高い原則にまでたかめて解決することができるということである。この目的を達成することが、戦略問題を研究することの任務である。

第四節 書要な問題はよく学ぶことにある

なぜ赤軍を組織するのか。それを使って敵にうち勝つためである。なぜ戦争の法則を学ぶのか。それらの法則を戦争に使うためである。

学ぶことは容易なことではなく、使うことはいっそう容易なことではない。戦争という学問は、教室や書物のうえでは、多くの人がたとえおなじように、もっともらしくならべたてても、いざ戦争をやってみると、勝ち負けのちがいがでてくる。戦争史も、われわれ自身の戦争生活もこのことを立証している。

では、その鍵かぎはどこにあるのか。

われわれは事実上の常勝将軍を求めることはできず、そういう人は昔からまれであった。われわれが求めるのは、戦争の過程において、一般的に勝ちいくさをする勇敢で聡明な将軍――すなわち知勇兼備の将軍である。知勇兼備になるには、学ぶときにも使うときにもそれによる一つの方法を学ばなければならない。

どういう方法か。それは敵味方の双方の各方面の状況をよく知り、その行動の法則をみつけ、しかも、それらの法則を自分の行動に応用することである。

多くの国で公布している軍事典範令には、いずれも「状況に応じて原則を活用する」ことの必要が指示されており、さらに、戦いに負けたときの処置方法が指示されている。前者は、指揮員が、原則をしゃくし定規に使って主観的なあやまりをおかさないようにするためのものであり、後者は、指揮員が主観的なあやまりをおかしたか、あるいは客観情勢に予想外の変化や不可抗力の変化がおきたときに、どう処置すればよいかを指揮員に教えているものである。

なぜ主観上のあやまりをおかすくとになるのか。それは、戦争あるいは戦闘の部署配置と指揮が、その時、その場所の状況に合わないこと、主観的指導と客観的実際状況とがくい違っていて、合致しないこと、ことばをかえていえば、主観と客観とのあいだの矛盾を解決していないことによるものである。だれがどんな仕事をするばあいでも、こうした事情はさけがたいのであって、わりあいよくやれるかやれないかのちがいがあるだけである。仕事ではわりあいよくやることが要求され、軍事の面では、勝ちいくさをわりあい多くすることが要求される。逆にいえば、負けいくさをわりあいすくなくすることが要求されるのである。ここでの鍵は、主観と客観の両者をよく合致させることである。

戦術の例をあげていおう。攻撃点を敵陣地のある一翼にえらび、しかもそこがちょうど敵の弱い部分であれば、突撃はそれによって成功する。これは主観が客観と合致したというのであり、つまり指揮員の偵察ていさつと判断と決心が、敵および敵の配置の実際状況に合致したというのである。もし攻撃点を他の一翼、あるいは中央部にえらび、その結果、ちょうど敵の強いところにぶちあたって、攻めこむことができないとすれば、それは合致しなかったという。攻撃の時機が当をえており、予備部隊の使用が早くもおそくもなく、各種の戦闘処置と戦闘行動が、みな味方に有利であり、敵に不利であったとすれば、それは全戦闘における主観的指揮と客観的状況がことごとく合致したことになる。ことごとく合致するということは、戦争や戦闘においては、ごくまれなことである。それは、戦争や戦闘をしている双方が、ともに集団をなした、武装している生きた人間であり、しかもたがいに秘密を保っているからで、これは静物や日常のことがらをとりあつかうのとは大いに異なる。しかし、指揮が大体において状況に合致しさえすれば、すなわち決定的意義をもつ部分が状況に合致しておれば、それが勝利の基礎となる。

指揮員の正しい部署配置は、正しい決心からうまれ、正しい決心は、正しい判断からうまれ、正しい判断は、周到な、また必要な偵察と、さまざまな偵察材料をむすびつけた思索とからうまれる。指揮員は、あらゆる可能な、また必要な偵察手段をつかい、偵察でえた敵側の状況にかんするさまざまな材料にたいして、滓かすをすてて粋すいをとり、偽をすてて真をのこし、これからあれへ、表面から内面へという思索をおこない、そのうえで、味方の状況をくわえて、双方の対比や相互の関係を研究し、それによって、判断をくだし、決心をかため、計画をたてる――これが軍事家の毎回の戦略、戦役、あるいは戦闘の計画をたてるにさきだっておこなう状況認識の全過程である。大ざっぱな軍事家は、こうはしないで、一方的な願望を基礎として軍事計画をたてるが、そのような計画は空想的な、実際と合致しないものである。向こうみずの、ただ情熱しかない軍事家が、どうしても敵からあざむかれ、敵の表面的な、あるいは一面的な状況にまどわされ、自分の部下の無責任な、洞察力に欠けた提案にあおられ、それでかべにつきあたるのをまぬがれないのは、かれらがどんな軍事計画でも、必要な偵察と敵味方の状況やその相互関係にたいする周到な思索を基礎としてたてるべきであることを知らないか、あるいは知ろうともしないからである。

状況認識の過程は、軍事計画をたてる前だけでなく、軍事計画をたてたのちにも存在する。ある計画を実施するばあいには、実施しはじめたときから戦局の終わるときまでが、状況認識のもう一つの過程であり、すなわち実行の過程である。このときには、第一の過程のものが、実際の状況に合致しているかどうかを、あらためて点検する必要がある。もし、計画と状況とが合致しないか、あるいは完全には合致していないばあい、新しい認識にもとづいて新しい判断をくだし、あらたな決心をかため、新しい状況に適応するように既定の計画を変更しなければならない。部分的に変更することは、ほとんど毎回の作戦にみられることで、全面的に変更するようなこともたまにはある。向こうみず屋は、盲滅法にやるだけで、変更することを知らないか、あるいは変更しようとしないので、その結果は、またどうしてもかべにつきあたってしまう。

以上のべたことは、一つの戦略での行動、あるいは一つの戦役と戦闘での行動についてである。経験をつんだ軍人で、もし、かれが謙虚にものを学ぶ人であり、自分の部隊(指揮員、戦闘員、武器、給養など、およびその全体)の気性をよく知り、また敵の部隊(同様に指揮員、戦闘員、武器、給養など、およびその全体)の気性もよく知り、戦争と関連のあるその他すべての条件、たとえば政治、経済、地理、気候などもよく知っている人であるならば、このような軍人の指導する戦争や作戦は、比較的に確実性があり、勝利をうることができる。これは、長い時間のあいだに、敵味方の双方の状況を認識し、行動の法則をさがしだし、主観と客観との矛盾を解決した結果である。この認識の過程は非常に重要であって、こういう長期の経験がなければ、戦争全体の法則を理解し、把握することは困難である。ほんとうに有能な高級指揮員には、かけだしのものや、たんに紙の上で戦争を論ずることに長じている人間ではなれるものでなく、そうなるには戦争のなかで学ばなければならない。

すべての原則性をおびた軍事法則あるいは軍事理論は、みな昔の人あるいは今の人が過去の戦争の経験を総括したものである。これら過去の戦争がわれわれにのこしてくれた血の教訓は、とくに力をいれて学ぶべきものである。これが一つのことである。だが、もう一つのことがある。すなわち自分の経験のなかから、それらの結論を検証し、そのうちの使えるものはくみとり、使えないものはすて、自分特有のものをつけくわえていくことである。このもう一つのことは、非常に重要であって、こうしなければ、われわれは戦争を指導することができない。

書物をよむことは学習であるが、使うことも学習であり、しかもより重要な学習である。戦争から戦争を学ぶ――これがわれわれの主要な方法である。学校にいく機会のなかった人でも、やはり戦争を学ぶことができる、つまり戦争のなかから学ぶのである。革命戦争は民衆のやることであって、先に学んでからやるのではなく、やりだしてから学ぶのが常であり、やることが学ぶことである。「民衆」から軍人までには距離があるが、それは万里の長城ではなく、急速になくすことのできるものである。革命をやり、戦争をやることが、その距離をなくす方法である。学ぶことと使うことが容易でないというのは、徹底的に学び、それを使いこなすことが容易でないということである。民衆がすぐに軍人になれるというのは、入門が別にむずかしいものではないということである。この二つのことを総合するならば、中国の古いことわざにあるように「世間に難事はなく、ただ心がけ次第だ」ということになる。入門がむずかしくないならば、ふかくきわめることもできるわけで、ただ心がけ次第であり、よく学びさえすればよいのである。

軍事上の法則は、他の事物の法則とおなじように、客観的実際〔1〕のわれわれの頭脳への反映である。われわれの頭脳以外のすべては、客観的実際である。したがって、学習と認識の対象は敵と味方の二つの面をふくんでおり、この二つの面はいずれも研究の対象とみなすべきであって、研究の主体は、われわれの頭脳(思想)だけである。味方については明るいが、敵については暗い人がいる。また敵については明るいが、味方については暗い人もいる。こうした人たちは、いずれも戦争の法則を学ぶことと使うことの問題を解決することはできない。中国古代の大軍事学者孫武子〔2〕の書物には「かれを知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」ということばがあるが、これは、学ぶことと使うことの二つの段階をふくめていったのであり、客観的実際における発展法則を認識することから、これらの法則にしたがって、自分の行動を決定し、当面している敵を克服することまでをふくめていったものであり、われわれは、このことばを軽視してはならない。

戦争は、民族と民族、国家と国家、階級と階級、政治集団と政治集団とのあいだの相互の闘争の最高形態であり、戦争にかんするすべての法則は、いずれも戦争をする民族、国家、階級、政治集団が自己の勝利をたたかいとるために使うものである。戦争の勝敗が、主として戦う双方の軍事、政治、経済、自然などの諸条件によって決定されることはいうまでもない。だがそれだけではなく、戦う双方の主観的指導の能力によっても決定される。軍事家には物質的条件のゆるす範囲をこえて戦争の勝利をはかることはできないが、物質的条件のゆるす範囲内で、戦争の勝利をたたかいとることはできるし、またそうしなければならない。軍事家の活躍する舞台は、客観的物質的条件の上にきずかれているが、しかし軍事家は、この舞台一つで、精彩にとんだ、勇壮な多くの活劇を演出できるのである。したがって、われわれ赤軍の指導者は、既定の客観的な物質的基礎、すなわち軍事、政治、経済、自然などの諸条件の上で、われわれの威力を発揮し、全軍をひっさげて、民族の敵と階級の敵をうちたおし、このわるい世界を改造しなければならない。ここではわれわれの主観的指導の能力が使えるし、また使わなければならない。われわれは、赤軍のどんな指揮員にも、盲滅法にぶつかっていく向こうみず屋になることをゆるさない。われわれは、赤軍の指揮員の一人ひとりが、すべてを圧倒する勇気をもつだけでなく、戦争全体の変化、発展を駆使できる能力をもつ、勇敢で、聡明な英雄となることを提唱しなければならない。指揮員は、戦争という大海をおよいでいるのであって、沈まないようにし、確実に、段どりをおって、対岸に到達するようにしなければならない。戦争を指導する法則は、つまり戦争の水泳術である。

以上がわれわれの方法である。

第二章 中国共産党と中国革命戦争

一九三四年にはじまった中国革命戦争は、すでに二つの段階、すなわち一九二四年から一九二七年までの段階と、一九二七年から一九三六年までの段階を経過した。これからのちは抗日民族革命戦争の段階である。この三つの段階の革命戦争は、いずれも中国のプロレタリア階級とその政党である中国共産党が指導している。中国革命戦争の主要な敵は、帝国主義と封建勢力である。中国のブルジョア階級は、歴史のある時点では、革命戦争に参加することができても、その私利私欲性と、政治的、経済的に独立性を欠いていることによって、中国革命戦争を徹底的勝利の道にみちびくのをのぞまないし、またみちびくこともできない。中国の農民大衆と都市の小ブルジョア大衆は、革命戦争に積極的に参加することをのぞむとともに、また戦争を徹底的に勝利させることをのぞんでいる。かれらは革命戦争の主力軍である。だが、かれらの小生産者的特徴が、かれらの政治的視野を制約している(一部の失業者大衆は無政府的な思想をもっている)ので、かれらは戦争の正しい指導者になることはできない。したがって、プロレタリア階級がすでに政治の舞台にあらわれてきた時代では、中国革命戦争を指導する責任は、中国共産党の肩にかかってこざるをえない。このようなときには、どんな革命戦争でも、プロレタリア階級と共産党の指導がないか、あるいはその指導にそむけば、その戦争はかならず失敗する。なぜなら、半植民地的な中国の社会各階層と各種の政治集団のなかで、すこしも狭隘きょうあい性や私利私欲性をもたず、もっとも遠大な政治的視野と組織性をそなえており、しかも、もっとも謙虚に世界の先進的プロレタリア階級およびその政党の経験をとりいれて、それを自分の事業に用いることができるものは、プロレタリア階級と共産党以外にはないからである。したがって、プロレタリア階級と共産党だけが、農民、都市小ブルジョア階級とブルジョア階級を指導して、農民、小ブルジョア階級の狭隘性を克服し、失業著大衆の破壊性を克服することができ、またブルジョア階級の動揺と不徹底性を克服して(共産党が政策上であやまりをおかさなければ)、革命と戦争を勝利にみちびくことができるのである。

一九二四年から一九二七年までの革命戦争は、基本的にいうと、国際プロレタリア階級と中国のプロレタリア階級およびその政党の、中国の民族ブルジョア階級およびその政党にあたえた政治的影響と政治的協力のもとですすめられたものである。ところが、革命と戦争が危急の瀬戸ぎわにたっしたとき、まず、大ブルジョア階級の裏切りによって、同時にまた革命の陣営内の日和見主義者が革命の指導権を自発的に放棄したことによって、このときの革命戦争は失敗した。

一九二七年から現在までの土地革命戦争③は、新しい状況のもとですすめられた。戦争の敵は、たんに帝国主義だけでなく、大ブルジョア階級と大地王の同盟もそうであった。民族ブルジョア階級は大ブルジョア階級の追随者となった。この革命戦争を指導するものは、ただ共産党だけであり、共産党は革命戦争の絶対的な指導権をすでに確立した。共産党のこの絶対的な指導権が、革命戦争を最後まで堅持するもっとも主要な条件である。共産党のこのような絶対的な指導がなければ、革命戦争にこのような堅持性があるなどとは思いもおよばない。

中国共産党は、中国の革命戦争を勇敢に断固として指導しており、十五年の長い年月をつうじて〔3〕、共産党こそが人民の友であって、人民の利益をまもるため、人民の自由と解放のために、一日として革命戦争の最前線に立たない日はなかったことを全国人民にしめしてきた。

中国共産党は、苦難にめげず奮闘してきた自己の経歴によって、また何十万の英雄的な党員や何万の英雄的な幹部の流した血の犠牲によって、全民族数億のあいだで、偉大な教育的役割をはたしてきた。革命闘争における中国共産党の偉大な歴史的成果によって、こんにち、民族の敵の侵入という危急の瀬戸ぎわに立たされている中国は、滅亡から救われる条件をもつようになった。この条件とは、つまり大多数の人民から信任され、長期にわたって人民の考査をうけてえらびだされた政治指導者をもつようになったことである。現在、共産党のいうことは、他のどんな政党のいうことよりも人民によくうけいれられる。中国共産党の過去十五年にわたる苦難にめげない奮闘がなかったならば、あらたな亡国の危険を救うことは不可能である。

中国共産党は、革命戦争のなかで、陳独秀チェントウシウ〔4〕の右翼日和見主義と李立三リーリーサンの「左」翼日和見主義〔5〕の二つのあやまりのほかに、さらに、つぎの二つのあやまりをも犯した。その一は、一九三一年から一九三四年までの「左」翼日和見主義〔6〕である。このあやまりは、土地革命戦争にきわめて重大な損失をあたえ、五回目の反「包囲討伐」④においては、敵にうち勝つことができなかったばかりか、逆に根拠地をうしない、赤軍をよわめる結果をまねいた。このあやまりは、一九三五年一月、遵義ツンイーでひらかれた拡大中央政治局会議⑤のときに是正された。その二は、一九三五年から一九三六年までの張国燾チャンクォタオの右翼日和見主義〔7〕である。このあやまりは、党と赤軍の規律を破壊するまでに発展し、一部の赤軍主力に重大な損失をあたえた。しかし、党中央の正しい指導と、赤軍内の党員、指揮員、戦闘員の自覚によって、ついにそのあやまりも是正された。これらすべてのあやまりは、われわれの党にとって、われわれの革命と戦争にとって、もちろん、不利なものであったが、ついには、われわれによって克服され、われわれの党と赤軍は、これらのあやまりを克服するなかで、いっそう強くきたえあげられた。

中国共産党はあらしのような、光栄ある、勝利にかがやく革命戦争を指導してきたし、また指導しつづけている。この戦争は、中国を解放する旗じるしであるばかりでなく、国際的な革命的意義をもつものである。世界の革命的な人民の目はわれわれにそそがれている。新しい抗日民族革命戦争の段階で、われわれは、中国革命を達成にみちびくであろうし、また東方および世界の革命にたいしても深刻な影響をあたえるであろう。過去の革命戦争は、われわれが、マルクス主義の正しい政治路線を必要としているばかりでなく、マルクス主義の正しい軍事路線をも必要としていることを証明している。十五年にわたる革命と戦争によって、すでにこのような政治路線と軍事路線がねりあげられている。今後の戦争の新しい段階では、このような路線は、新しい環境にもとづいて、いっそう発展し、充実し、豊富になって、民族の敵にうち勝つ目的を達成するものとわれわれは信じている。歴史は、正しい政治路線と軍事路線が、自然に平穏裏に発生し発展するのではなくて、闘争のなかで発生し、発展するということをわれわれに教えている。一方で、それは「左」翼日和見主義と闘争しなければならないし、他方では、また右翼日和見主義とも闘争しなければならない。革命と革命戦争をあやうくするこれらの有害な偏向にたいして闘争し、それらを徹底的に克服しなければ、正しい路線の確立と革命戦争の勝利は不可能である。わたしがこのパンフレットでしばしばあやまったほうの意見にふれるのはそのためである。

第三章 中国革命戦争の特徴

第一節 この問題の重要性

中国革命戦争に特徴があることを認めず、知らす、あるいは知ろうともしないものは、赤軍が国民党軍と戦うことを戦争一般とおなじだとみなしているか、あるいはそれをソ連の国内戦争とおなじだとみなしている。レーニン、スターリンの指導したソ連の国内戦争の経験は世界的な意義をもっている。すべての共産党は、中国共産党も同様であるが、この経験と、レーニン、スターリンがこの経験を理論的に総合したものとを指針としている。だが、このことは、われわれの条件のもとで、この経験を機械的につかうべきだというのではない。中国の革命戦争は多くの面で、ソ連の国内戦争とは異なったそれ自身の特徴をもっている。こうした特徴を考慮にいれなかったり、あるいは否定したりすることは、もちろんあやまりである。この点は、われわれの十年にわたる戦争のなかですでに完全に証明されている。

われわれの敵も、かつてそれに似たようなあやまりをおかした。かれらは赤軍と戦争するには、ほかの戦争とはちがった戦略と戦術が必要であることを認めなかった。かれらは、自分たちの各方面での優勢をたのみにして、われわれを軽視し、いつもの戦法を固執した。これが一九三三年の敵の四回目の「包囲討伐」の時期、およびそれ以前の状況であり、その結果は、かれらのたびかさなる失敗をまねいた。国民党軍のなかで、いちばんさきにこの問題について新しい意見をだしたのは、国民党の反動将軍柳維垣リウウェイユァンで、のちには戴岳タイユエがいる。かれらの意見はついに蒋介石チァンチェシーによって採用された。これが、蒋介石の盧山ルーシャン軍官訓練団〔8〕および五回目の「包囲討伐」で実施した反動的な新しい軍事原則〔9〕のうまれた過程である。

ところが、敵がその軍事原則を赤軍との作戦状況に適応するように変えているとき、われわれの隊列には、逆に「いつものやり方」にもどる人たちがあらわれた。かれらは一般的な状況の方へもどることを主張した。そして、どのような特殊状況も理解することをこばみ、赤軍の血戦の歴史の経験をこばみ、帝国主義と国民党の力を軽視し、国民党軍の力を軽視し、敵が採用した反動的な新しい原則など、目にはいらないかのようであった。その結果は、陝西シャンシー・甘粛カンスー辺区以外のすべての革命根拠地を失い、赤軍を三十万から数万に減少させ、中国共産党の党員を三十万から数万に減少させ、国民党地域における党の組織をほとんど全部失ってしまった。要するに、きわめて大きな歴史的懲罰をうけたわけである。かれらはマルクス・レーニン主義者と自称しているが、じつはマルクス・レーニン主義を少しも身につけていない。レーニンは、マルクス主義のもっとも本質的なものとマルクス主義の生きた魂は、具体的状況にたいする具体的分析にある〔10〕といっている。われわれのこれらの同志はまさにこの点をわすれていたのである。

このことからわかるように、中国革命戦争の特徴を理解しなければ、中国革命戦争を指導することができず、中国革命戦争を勝利の道にみちびくことはできない。

第二節 中国革命戦争の特徴はなにか

では、中国革命戦争の特徴はなにか。

わたしは、主要な特徴が四つあるとおもう。

第一の特徴は、中国が政治的、経済的発展の不均等な半値民地の大国であり、また、一九二四年から一九二七年までの革命をへていることである。

この特徴は、中国革命戦争に発展と勝利の可能性があることをしめしている。一九二七年の冬から一九二八年の春にかけて、中国の遊撃戦争が発生してまもなく、湖南フーナン、江西チァンシー両省の省境地域――井岡チンカンシャン山の同志のなかの一部のものから、「赤旗はいったいいつまでかかげられるか」という疑問がだされたとき、われわれはこのことを指摘した(党の湖南・江西省境地区第一回代表大会〔11〕)。なぜなら、これはもっとも基本的な問題であり、中国の革命根拠地と中国赤軍が存在し発展しうるかどうかという問題にこたえなければ、われわれは一歩も前進することができなかったからである。一九二八年の中国共産党第六回全国代表大会では、もう一度この問題についてこたえた。それいらい、中国の革命運動は、正しい理論的基礎をもつようになった。

いま、この問題を分解して見ることにしよう。

中国の政治的、経済的発展が不均等であること――貧弱な資本主義的経済と根づよい半封建的経済が同時に存在しており、近代的な若干の商工業都市と停滞している広大な農村が同時に存在しており、何百万かの産業労働者と古い制度の支配のもとにある何億もの農民、手工業労働者とが同時に存在しており、中央政府を統轄している大軍閥と各省を統轄している小軍閥が同時に存在しており、反動軍隊のなかには、蒋介石配下のいわゆる中央軍と各省の軍閥配下のいわゆる雑軍との、こうした二種類の軍隊が同時に存在しており、また若干の鉄道、航路、自動車道路と、いたるところにある一輪車しか通れない道、徒歩でしか通れない道、徒歩でさえ通りにくい道とが同時に存在している。

中国は半植民地国であること――帝国主義の不統一が、中国の支配者集団のあいだの不統一をひきおこしている。いくつかの国が支配している半植民地国と、一国が支配している植民地とのあいだには、差異がある。

中国は大国であること――「東が暗くても西は明るく、南で消えても北で燃えている」のであるから、動きまわる余地がないなどと心配することはない。

中国は大革命を一度へていること――赤軍の種子が用意されており、赤軍の指導者、すなわち共産党が用意されており、また革命に一度参加したことのある民衆が用意されている。

だから、われわれは、中国は革命を一度へた、政治的、経済的発展の不均等な半植民地の大国で、これが中国革命戦争の第一の特徴であるというのである。この時徴は、われわれの政治上の戦略と戦術とを基本的に規定しているばかりでなく、われわれの軍事上の戦略と戦術をも基本的に規定している。

第二の特徴は敵が強大なことである。

赤軍の敵である自民党は、どんな状況にあるのか。それは政権をうばいとっており、しかもその政権を相対的に安定させている政党である。それは全世界の主要な反革命諸国の援助をえている。それは、すでに自己の軍隊を、中国の歴史上のどの時代の軍隊とも異なった、世界の近代国家の軍隊とほぼおなじものに改造しており、武器やその他の軍需物資の供給が、赤軍よりずっとまさっているばかりでなく、兵員の多い点でも、中国の歴史上のどの時代の軍隊をもしのぎ、世界のどの国家の常備軍をもしのいでいる。その軍隊と赤軍をくらべると、じつに雲泥の差がある。国民党は全中国の政治、経済、交通、文化等の中枢あるいは命脈をにぎっており、その政権は全国的な政権である。

中国の赤軍は、このような強大な敵を前にしている。これが中国革命戦争の第二の特徴である。この特徴は、赤軍の作戦が戦争一般や、ソ連の国内戦争や、北伐戦争とも多くのちがいをもたざるをえないようにしている。

第三の特徴は赤軍が弱小なことである。

中国の赤軍は、第一次大革命が失敗したのちにうまれ、遊撃隊からはじまったものである。それは、中国の反動的時期におかれていたばかりでなく、また、世界の反動的資本主義諸国が、政治的、経済的に比較的安定した時期におかれていた。

われわれの政権は、山地あるいは僻地へきちにある分散し孤立した政権であり、いかなる外部からの援助もない。革命根拠地の経済的条件と文化的条件は、国民党地区にくらべるとおくれている。革命根拠地には農村と小さな町しかない。その地区は、はじめは非常に小さかったし、その後も、そう大きくなってはいない。しかも根拠地はつねに流動しており、赤軍にはほんとうに強固な根拠地はない。

赤軍の数はすくなく、その武器はおとっており、食糧、被服などの物資の供給は非常に困難である。

この特徴は、前にあげた第二の特徴とするどい対照をなしている。赤軍の戦略戦術は、こうしたするどい対照の上にうまれたのである。

第四の特徴は、共産党の指導と土地革命である。

この特徴は、第一の特徴の必然的な結果である。この特徴から、二つの面の状況がうまれている。一つの面では、共産党の指導と農民の援助があるので、中国革命戦争は、中国および資本主義世界の反動的時期におかれてはいても、勝利できるものである。われわれには農民の援助があるので、根拠地は小さいながらも大きな政治的威力をもっており、膨大な国民党政権に厳然と対立し、国民党の進攻にたいして、軍事上大きな困難をあたえている。共産党の指導のもとにある赤軍の成員は、土地革命のなかからうまれ、自分たちの利益のために戦っており、しかも、指揮員と戦闘員のあいだが政治的に一致しているので、赤軍は小さいながらも、強大な戦闘力をもっているのである。

もう一つの面では、自民党がこれとするどい対照をなしていることである。自民党は土地革命に反対しているので、農民の援助がない。その軍隊は多いが、兵士大衆、小生産者出身の多くの下級幹部たちに、みずからすすんで国民党のために命をなげださせるようにすることはできない。将校と兵士のあいだは政治的にくいちがっており、これがその戦闘力をよわめている。

第三節 ここからわれわれの戦略戦術はうまれる

大革命を一度へている、政治的、経済的に不均等な半植民地の大国、強大な敵、弱小な赤軍、土地革命――これらが中国革命戦争の四つの主要な特徴である。これらの特徴が、中国革命戦争の指導路線およびその戦略戦術上の多くの原則を規定している。第一の特徴と第四の特徴は、中国赤軍の発展が可能であり、また、敵にうち勝つことが可能であることを規定している。第二の特徴と第三の特徴は、中国赤軍が、急速に発展することが不可能であること、また、急速に敵にうち勝つことが不可能であること、すなわち戦争が持久的であること、しかもへたをすると失敗する可能性もあることを規定している。

これが、中国革命戦争の二つの側面である。この二つの側面は同時に存在している。すなわち、有利な条件もあれば、また困難な条件もある。これが中国革命戦争の根本法則であり、数多くの法則はすべて、この根本法則からうまれたものである。十年にわたるわれわれの戦争の歴史は、この法則の正しさを証明している。目をあげていてもこれらの根本的性質をもつ法則の見えないものには、中国の革命戦争を指導することはできず、赤軍の戦いを勝利させることもできない。

戦略方向を正しく規定して、進攻にあたっては冒険主義に反対し、防御にあたっては保守主義に反対し、移動にさいしては逃走主義に反対すること、赤軍の遊撃主義には反対するが、赤軍の遊撃性は認めること、戦役での持久戦と戦略での速決戦に反対し、戦略での持久戦と戦役での速決戦を認めること、固定した作戦線と陣地戦に反対し、固定しない作戦線と運動戦を認めること、撃破戦に反対し、殲滅せんめつ戦を認めること、戦略方向における二つのゲンコツ主義に反対し、一つのゲンコツ主義を認めること、大後方制度に反対し、小後方制度を認めること⑥、絶対的な集中指揮に反対し、相対的な集中指揮を認めること、軍事一点ばりの観点や流賊主義〔12〕に反対し、赤軍が中国革命の宣伝者であり、組織者であることを認めること、匪賊ひぞく主義〔13〕に反対し、厳格な政治的規律を認めること、軍閥主義に反対し、限度のある民主的生活と権威のある軍事規律を認めること、正しくないセクト主義の幹部政策に反対し、正しい幹部政策を認めること、孤立政策に反対し、すべての、可能性のある同盟者をかちとることを認めること、最後に、赤軍をふるい段階にとどめることに反対し、赤軍が新しい段階に発展するようたたかいとること これらすべての原則的問題を正しく解決することが要求されるのは、非常にあきらかである。われわれがこれからのべる戦略問題は、中国革命戦争の十年にわたる血戦史の経験にてらして、これらの問題を十分に説明するものである。

第四章 「包囲討伐」と反「包囲討伐」

――中国国内戦争の主要な形態

十年このかた、遊撃戦争がはじまったその日から、どの独立の赤色遊撃隊、あるいは赤軍でも、またどの革命根拠地でも、その周囲では、いつも敵の「包囲討伐」にであった。敵は赤軍を怪物とみなして、あらわれるとすぐにつかまえようとする。数はいつも赤軍をつけまわし、とりかこもうとする。このような形態は、過去十年間、変わっていず、もし、民族戦争が国内戦争にとってかわらないなちは、敵が弱小となり、赤軍が強大となるその日まで、このような形態はやはり変わることはない。

赤軍の活動は、反「包囲討伐」の形態をとっている。勝利というのは、主として反「包囲討伐」の勝利をいうのであり、これが、戦略と戦役での勝利である。一回の反「包囲討伐」が一つの戦役であって、それは通常大小いくつかの、ないし数十の戦闘からなりたっている。一回の「包囲討伐」を基本的にうちやぶらないかぎり、たとえ多くの戦闘で勝利をえたとしても、戦略上あるいは全戦役上で勝利したとはいえない。十年間の赤軍の戦争の歴史は、反「包囲討伐」の歴史であった。

敵の「包囲討伐」と赤軍の反「包囲討伐」は、たがいに進攻と防御という二種類の戦闘形態をとっており、これは、古今東西のあらゆる戦争と変わりはない。だが、中国の国内戦争の特徴は、この二つの形態が長期にわたってくりかえされることにある。一回の「包囲討伐」において、敵は進攻をもって赤軍の防御にたちむかい、赤軍は防御をもって敵の進攻にたちむかう、これが反「包囲討伐」戦役の第一段階である。敵が防御をもって赤軍の進攻にたちむかい、赤軍が進攻をもって敵の防御にたちむかう、これが反「包囲討伐」戦役の第二段階である。いずれの「包囲討伐」にもこの二つの段階があり、しかも、それは長期にわたってくりかえされるのである。

長期間のくりかえしとは、戦争と戦闘形態のくりかえしのことをいう。これは事実であって、だれにも一目ですぐわかることである。「包囲討伐」と反「包囲討伐」は、戦争形態のくりかえしである。敵が進攻をもってわれわれの防御にあたり、われわれが防御をもって敵の進攻にあたる第一段階と、敵が防御をもってわれわれの進攻にあたり、われわれが進攻をもって敵の防御にあたる第二段階とは、毎回の「包囲討伐」のなかでの戦闘形態のくりかえしである。

戦争と戦闘の内容となると、それは単純にくりかえされるものではなく、毎回ちがうものである。このこともまた事実であって、だれにも一目ですぐわかることである。ここでの法則は、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の規模が一回ごとに大きくなり、状況も一回ごとに複雑となり、戦闘も一回ごとにはげしくなることである。

しかし、それに起伏がないわけではない。五回目の「包囲討伐」ののちは、赤軍の力がひどくよわまり、南方の根拠地が全部失われ、赤軍が西北にうつり、南方にいたときのように、国内の敵を脅かすもっとも重要な地位をしめなくなったので、「包囲討伐」の規模と状況と戦闘は、わりあいに、小さくなり、単純になり、緩和してきた。

赤軍の失敗とは何か。戦略上からいえば、反「包囲討伐」が根本的に成功しなかったばあいにだけ失敗といえるのであって、しかも、それは、局部的な、一時的な失敗だとしかいえない。なぜなら、国内戦争の根本的な失敗とは、赤軍全体の壊滅ということであるが、そのような事実はないからである。広大な根拠地の喪失と赤軍の移動は、一時的な、局部的な失敗であって、その局部には、党と軍隊と根拠地の九〇パーセントがふくまれてはいたが、永久的な、全面的な失敗ではない。このような事実を、われわれは防御の継続とよび、敵の追撃を進攻の継続とよぶのである。これはつまり、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の闘争において、われわれが防御から進攻に転ずることがなく、逆に、敵の進攻によって、われわれの防御がうちやぶられたので、われわれの防御は退却に変わり、敵の進攻は追撃に変わったということである。だが、赤軍が新しい地区に到達したとき、たとえば、われわれが江西省などの地方から陝西省にうつってきたとき、「包囲討伐」のくりかえしが、ふたたびあらわれた。だからわれわれは、赤軍の戦略的退却(長征)は、赤軍の戦略的防御の継続であり、敵の戦略的追撃は、敵の戦略的進攻の継続であるというのである。

中国の国内戦争は、古今東西のどの戦争ともおなじように、基本的な戦闘形態には攻撃と防御の二種類しかない。中国の国内戦争の特徴は、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の長期にわたるくりかえしと、攻撃と防御というこの二種類の戦闘形態の長期にわたるくりかえしであり、しかも、そのなかには、一万余キロにおよぶ偉大な戦略的移動(長征)〔14〕というようなものがふくまれている。

敵の失敗というのも、こうしたものである。かれらの戦略的失敗とは、かれらの「包囲討伐」がわれわれにうちやぶられ、われわれの防御が進攻に変わり、敵が防御の地位に転じて、もう一度「包囲討伐」をするには、あらためて組織しなおさなければならないことである。敵は全国的な支配者であり、われわれよりずっと強大であるから、われわれのような一万余キロの戦略的移動というような状況はおこらない。しかし、部分的にはそういうことがあった。若干の根拠地で赤軍から包囲攻撃をうけた白色拠点内の敵が、その包囲を突破して、白色区に退却し、そこであらためて進攻を組織しなおすというようなことはおきたことがある。もし、国内戦争が長びき、赤軍の勝利する範囲がいっそう拡大したときには、このようなことは多くなるだろう。だが、かれらには人民の援助がなく、将校と兵士とのあいだも一致していないから、その結果は赤軍とくらべることはできない。かれらがもし赤軍の長距離移動をまねるならば、きっと消滅されてしまうにちがいない。

一九三〇年の李立三路線の時期に、李立三同志は、中国の国内戦争の持久性がわからなかったので、中国の国内戦争が発展するなかで、「包囲討伐」につぐ「包囲討伐」、それにたいする粉砕につぐ粉砕という、長期にわたるくりかえしの法則(当時、すでに湖南・江西辺区の三回にわたる「包囲討伐」、福建フーチェン省の二回にわたる「包囲討伐」などがあった)をみいだせなかった。したがって、全国の革命を急速に勝利させようとはかり、赤軍がまだ幼少であった時期に、武漢攻撃を命令し、全国で武装蜂起をおこなうことを命令した。これで「左」翼日和見主義のあやまりをおかしたのである。

一九三一年から一九三四年にあらわれた「左」翼日和見主義者も、「包囲討伐」のくりかえしというこの法則を信じなかった。湖北フーペイ・河南ホーナン・安徽アンホイ辺区根拠地では、いわゆる「補助軍」説がうまれた。ここの一部の指導的な同志は、三回目の「包囲討伐」に失敗したのちの国民党は、補助軍にすぎなくなったので、赤軍を攻撃するには、帝国主義がみずから出馬して主力軍を担当するほかないと考えた。こうした評価のもとでの戦略方針が、赤軍の武漢攻撃であった。このことは、江西省の一部の同志が赤軍に南昌ナンチャン攻撃をよびかけ、各根拠地を一つにつなぐ活動に反対し、敵をふかく誘いいれる作戦に反対し、省都および中心都市の奪取をその省での勝利の基点にしたこと、および「五回目の『包囲討伐』に反対する闘争は、革命の道と植民地の道との決戦である」とみなしたことなどと、原則的に一致するものである。この「左」翼日和見主義は、湖北・河南・安徽辺区の四回目の「包囲討伐」に反対する闘争と江西省中央地区の五回目の「包囲討伐」に反対する闘争におけるあやまった路線の根をつちかうことになり、敵のきびしい「包囲討伐」を前にして、赤軍を手も足もだせない状態に追いこみ、中国革命に非常に大きな損失をもたらした。

「包囲討伐」のくりかえしを認めない「左」翼日和見主義と直接結びついて、赤軍はどうあっても防御手段をとるべきではないという意見もあるが、これもまた、まったくあやまりである。

革命と革命戦争は進攻的である――このようないいかたには、もちろんそれなりの正しさがある。革命と革命戦争が、発生から発展へ、小から大へ、政権をもたない状態から政権の奪取へ、赤軍のない状態から赤軍の創設へ、また革命根拠地のない状態から革命根拠地の創設へとすすむには、どうしても進攻的でなければならない。保守的であってはならず、保守主義の偏向には反対すべきである。

革命と革命戦争は進攻的ではあるが、また防御も後退もある――こうしたいいかたこそが完全に正しいのである。進攻のための防御、前進のための後退、正面へのための側面へ、直進のための迂回うかい、このようなことは、多くの事物の発展過程でさけることのできない現象であり、まして、軍事行動ではなおさらのことである。

以上のべた二つの論断のうち、まえの論断は、政治のうえでいえば正しいことにもなるが、それを軍事のうえにもってくるとまちがいになる。政治のうえでも、それはある状況のとき(革命が前進するとき)にだけ正しいのであって、他の状況(革命が退却するとき、たとえば一九〇六年のロシア〔15〕、一九二七年の中国のような全面的退却のとき、また一九一八年のブレスト条約当時のロシア〔16〕にのような局部的退却のとき)にもってくるとまちがいになる。あとの方の論断だけが、全面的に正しい真理である。一九三一年から一九三四年までの「左」翼日和見主義が、軍事的防御手段をとることに機械的に反対したことは、非常に幼稚な考えにすぎない。

「包囲討伐」のくりかえしという形態は、いつ柊わるのか。わたしの考えでは、もし国内戦争が長びくとすれば、それは敵と味方の強弱の対比に根本的な変化がおきたときである。もし赤軍がひとたび敵よりいっそう強大になったときには、こういうくりかえしは終わりをつげてしまう。そのときには、われわれが敵を包囲討伐し、敵は反包囲討伐をくわだてることになるが、しかし政治的、軍事的な条件は、敵に赤軍とおなじような反「包囲討伐」の地位をしめることをゆるさないだろう。そのときになれば、「包囲討伐」のくりかえしという形態は、たとえ完全に終わったとはいえなくても、一般的に終わったということは断言してよい。

第五章 戦略的防御

この題目のもとで、わたしはつぎの諸問題を説明しようとおもう。(一)積極的防御と消極的防御、(二)反「包囲討伐」の準備、(三)戦略的退却、(四)戦略的反攻、(五)反攻開始の問題、(六)兵力集中の問題、(七)運動戦、(八)速決戦、(九)殲滅戦。

第一節 積極的防御と消極的防御

なぜ防御から説きはじめるのか。一九二四年から一九二七年までの、中国の第一次民族統一戦線が失敗してから、革命はきわめて深刻な、きわめて残酷な階級闘争となった。敵は全国的な支配者であり、われわれはわずかな小部隊しかもっていなかったので、はじめから敵の「包囲討伐」とのたたかいとなった。われわれの進攻は、「包囲討伐」をうちやぶることと密接に結びついており、われわれの発展の運命は、「包囲討伐」をうちやぶることができるかどうかにかかっている。「包囲討伐」をうちやぶる過程は、往々にして、まがりくねったもので、思うままにまっすぐすすめるものではない。まず第一の、しかも重大な問題は、どういうふうに力を保存し、敵をやぶる機会を待つかということである。したがって、戦略的防御の問題は、赤軍の作戦のなかで、もっとも複雑なもっとも重要な問題となる。

十年間にわたるわれわれの戦争のなかでは、戦略的防御の問題について、二種類の傾向がしばしばうまれた。一つは敵をみくびることであり、もう一つは敵におびえることである。

敵をみくびったために、多くの遊撃隊は失敗したし、赤軍は、敵の何回かの「包囲討伐」をうちやぶることができなかった。

革命的な遊撃隊ができたばかりのころ、指導者は敵味方の情勢にたいして、とかく正しくない見方をしがちであった。かれらは、自分たちがあるところで、突然武装蜂起をおこして勝利したか、または反乱をおこして白軍からでてきて、一時的に環境が非常に順調であったことしか見なかったため、あるいはきびしい環境にありながら、それが目にはいらなかったために、とかく敵をみくびりがちであった。他面、かれらは自分の弱点(経験がなく力が弱いといった点)についても理解していなかった。敵が強く、味方が弱いということは、もともと客観的に存在している現象であるが、そのことをその人たちは考えようとせず、防御と退却をとりあげずに、一途いちずに進攻だけをとりあげて、防御について精神的に武装を解除したため、行動をまちがった方向にみちびいた。多くの遊撃隊は、このために失敗した。

これとおなじような原因で、赤軍が「包囲討伐」をうちやぶれなかった例としては、一九二八年の広東コヮントン省海豊ハイフォン・陸豊ルーフォン地域での赤軍の失敗〔17〕があり、また一九三二年、湖北・河南・安徽辺区の赤軍が、国民党は補助軍となったという説にひきずられて、四回目の「包囲討伐」に反対する闘争で、余裕のある措置をとる能力を失ってしまった事実がある。

敵におびえて挫折ざせつした例は多い。

敵をみくびるものとは反対に、ある人びとは敵を強く見すぎ、味方を弱く見すぎたため、必要でない退却の方針をとり、おなじように防御について精神的に武装を解除してしまった。その結果、あるいは遊撃隊の失敗となり、あるいは赤軍のいくつかの戦役での失敗となり、あるいは根拠地の喪失となった。

根拠地を失ったもっともいちじるしい例は、五回目の「包囲討伐」に反対する闘争において江西省の中央根拠地を失ったことである。ここでのあやまりは、右翼的な観点からうまれている。指導者たちは敵を虎のようにおそれ、敵の後方へ攻めいるもともと有利な進攻もしきれなければ、また、大胆に思いきって敵をふかく誘いいれ、それを包囲して殲滅することもしきれずに、いたるところで防備をし、一歩一歩さがっては抵抗した結果、根拠地全部を失い、赤軍に一万二千余キロの長征をおこなわせることになった。しかし、このようなあやまりには、しばしばある種の極左的な、敵を軽視するあやまりが先立っていた。一九三二年にとられた中心都市進攻の軍事的冒険主義こそ、のちに敵の五回目の「包囲討伐」に対処するにあたって、消極的な防御路線をとるようになった根源である。

敵におびえた極端な例は、退却主義の「張国燾路線」である。赤軍第四方面軍の西路軍の黄河ホヮンホー以西での失敗〔18〕は、この路線の最終的な破産であった。

積極的防御は攻勢防御ともいい、決戦防御ともいう。消極的防御は専守防御ともいい、単純防御ともいう。消極的防御は、実際には、にせの防御であって、積極的防御だけがほんとうの防御であり、反攻と進攻のための防御である。わたしの知っているかぎりでは、価値のあるどんな兵書でも、また、わりあい聡明などんな軍事家でも、古今東西をとわず、戦略的にも、戦術的にも、消極的防御に反対しないものはない。もっともおろかなものか、あるいは、もっとも思いあがったものだけが、消極的防御を万能の宝としてあがめるのである。しかし、世間にはあいにくとこういう人間がいて、こういうことをしでかす。これは戦争のなかでの過失であり、軍事上における保守主義のあらわれであり、われわれは断固としてこれに反対しなければならない。

あとからおこって、しかも急速に発展した帝国主義国、すなわち、ドイツ、日本両国の軍事家は、戦略的防御に反対し、戦略的進攻の利益を積極的に鼓吹している。このような思想は、中国の革命戦争には全然適しない。帝国主義ドイツ、日本の軍事家たちは、防御の重要な弱点として、人心をふるいたたせることができず、逆に人心を動揺させるという点を指摘している。これは、階級間の矛盾がはげしく、反動的な支配階層ないし政権をにぎっている反動的な政党だけが、戦争から利益をうける国家についていうことである。われわれの事情はこれとちがう。われわれは被抑圧者であり、被侵略者であるから、革命の根拠地をまもれ、中国をまもれ、というスローガンのもとで、最大多数の人民を結集し、心を一つにして戦うことができる。ソ連の国内戦争の時期における赤軍もやはり防御形態のもとで、敵にうち勝った。かれらは、帝国主義諸国が白衛軍を組織して進攻してきたときに、ソビエトをまもれというスローガンのもとで戦ったばかりでなく、十月蜂起を準備した時期にも、やはり首都をまもれというスローガンのもとで軍事動員をおこなった。正義の戦争での防御戦はすべて、政治的異分子をまひさせる作用をもっているばかりでなく、おくれた人民大衆を動員して戦争に参加させることができるのである。

武装蜂起をおこしたのちは、かたときも進攻を停止してはならない〔19〕とマルクスがいっているのは、敵の不備に乗じて突如蜂起した大衆が、反動的支配者に、政権保持、政権奪回の機会をあたえず、この一瞬を利用して、国内の反動的支配勢力を、手のうつすきもないようにたたかなければならないのであって、すでにえた勝利に満足して敵をみくびったり、敵にたいする進攻をゆるめたり、あるいはたじろいで進まず、みすみす、敵を消滅する時機を失い、革命の失敗をまねくようなことがあってはならないという意味である。これは正しい。だが、これは、敵味方の双方がすでに軍事的に敵対していて、しかも、敵が優勢で、敵からの圧迫をうけているときでも、革命党員は防御の手段をとってはならないという意味ではない。もし、そんなふうに考えるものがあるとすれば、それこそ、一番のおろか者である。

われわれの過去の戦争は、全体としていえば、国民党にたいする進攻であるが、軍事上では「包囲討伐」をうちやぶる形態をとった。

軍事上からいうと、われわれの戦争は防御と進攻を交互に応用したものである。われわれにとって、問題の鍵は「包囲討伐」をうちやぶることにあるので、防御のあとに進攻があるといってもよいし、あるいは防御のまえに進攻があるといってもよい。「包囲討伐」をうちやぶるまでは防御であり、「包囲討伐」をうちやぶったとたんに進攻がはじまるが、それは一つのことの二つの段階にすぎず、しかも敵の「包囲討伐」はそのつど、つぎの「包囲討伐」と連結している。この二つの段階のうち、防御の段階は進攻の段階よりいっそう複雑であり、いっそう重要である。この段階は、「包囲討伐」をどのようにうちやぶるかについての多くの問題をふくんでいる。その基本的原則は、消極的防御に反対し、積極的防御を認めることである。

国内戦争からいうと、もし赤軍の力が敵をしのいだときには、一般的に、戦略的防御をとる必要はなくなる。そのときの方針は戦略的進攻だけである。このような変更は、敵味方の力の全般的な変化によるものである。そのときになれば、のこされた防御の手段は、ただ局部的なものでしかない。

第二節 反「包囲討伐」の準備

敵の毎回の計画的な「包囲討伐」にたいして、もしわれわれが、必要な、また十分な準備をしていなければ、必然的に受動的地位におちいる。そのときになってあわてて応戦するのでは、勝利の確実性はない。したがって、敵が「包囲討伐」を準備しているそのときに、われわれも反「包囲討伐」の準備をすることが、ぜひとも必要である。われわれの隊列内にかつてあらわれたような準備に反対する意見はふきだすほど幼稚なものである。

ここには、論争を引きおこしやすい一つの困難な問題がある。それは、いつ味方の進攻をうちきって、反「包囲討伐」の準備段階にうつるかということである。なぜなら、味方が勝利の進攻をつづけ、敵が防御の地位にあるときには、敵の「包囲討伐」の準備は秘密のうちにすすめられており、かれらがいつ進攻をはじめるかをわれわれが知るのはむずかしいからである。われわれが反「包囲討伐」の準備活動を早めにはじめると、進攻の利益が減少することはまぬがれず、しかも、ときには、赤軍や人民にいくらかわるい影響をあたえることもある。なぜなら、準備段階での主要な段どりは、軍事上の退却準備と、退却準備のための政治的動員をおこなうことだからである。ときには、準備が早すぎたため、敵を待つことになり、ながいこと待っても、敵がやってこないので、ふたたび自分から進攻をはじめなければならなくなることもある。また、われわれがふたたび進攻をはじめたばかりのときに、ちょうど敵の進攻の開始にであい、困難な立場に立たされることもある。したがって、準備をはじめる時機を選ぶことは、重要な問題となる。このような時機の断定には、敵味方の双方の状況と、両者間の関係からみていかなければならない。敵の状況を知るためには、敵側の政治、軍事、財政および社会世論などの各方面から資料をあつめなければならない。またこれらの資料を分析するときには、敵の力全体を十分に評価しなければならず、敵の過去における失敗の程度を過大にみてはならないが、敵の内部の矛盾、財政上の困難、過去の失敗による影響などを評価しないようなことがけっしてあってはならない。自分の側についてはL 過去における勝利の程度を過大にみてはならないが、過去の勝利がもたらした影響を十分評価しないようなこともけっしてあってはならない。

しかし、準備をはじめる時機の問題では、一般的にいうと、おそすぎるよりも、むしろ早すぎる方がよい。なぜなら、後者の方が、前者よりも損失がすくなく、その利益としては、備えあれば憂いなしで、根本的に不敗の地位にたつからである。

準備の段階での主要な問題は、赤軍の退却準備、政治的動員、新兵の募集、財政および糧秣りょうまつの準備、政治的異分子の処置などである。

赤軍の退却準備ということは、つまり、赤軍を退却に不利な方向にむかわせないこと、あまり遠くまで進攻しないこと、赤軍をあまり疲労させないことである。これは敵が大挙進攻してくる前夜において、主力としての赤軍がとるべき措置である。このばあい、赤軍の注意力は、主として、戦場の創造、資材の調達、自己の拡大と訓練などの計画にそそがれなければならない。

政治的動員は、反「包囲討伐」闘争における第一の重要な問題である。それは、敵の進攻が必至であり切迫していることと、敵の進攻が人民にたいして重大な危害をもたらすことについて、また、敵の弱点や、赤軍のすぐれた条件、われわれはかならず勝利しなければならないという決意、われわれの活動の方向などについて、赤軍の成員と根拠地の人民に、明確に、決然と、十分に説明することである。そして赤軍および全人民に、「包囲討伐」反対と、根拠地防衛のためにたたかうようよびかける。軍事機密をのぞいて、政治的動員は、公然とやるべきであり、しかも、革命の利益を擁護する可能性のあるすべての人びとにゆきわたるようにつとめなければならない。その重要な環は幹部を説得することである。

新兵の募集は二つの面から考えていかなければならない。一つは、人民の政治的自覚の程度と人口状態を配慮することであり、もう一つは、その時の赤軍の状況と反「包囲討伐」戦役全体のなかでの赤軍の消耗の可能な限度を配慮することである。

財政と糧秣の問題が、「包囲討伐」反対闘争において重大な意義をもっていることはいうまでもない。「包囲討伐」の期間が長びくかもしれないことを配慮しなければならない。主として赤軍、さらには、革命根拠地の人民が反「包囲討伐」闘争全体で必要とする物資の最低限度を計算しておくべきである。

政治的異分子にたいして、かれらを警戒しないのはいけないが、かれらの裏切りをおそれるあまり、過度の警戒手段をとるのもいけない。地主と商人と富農のあいだには、区別をつけるべきであるが、主要なことは、かれらに政治の面から説明し、かれらの中立化をたたかいとるとともに、民衆を組織してかれらを監視することである。逮捕などのきびしい手段をとってもよいのは、ごく少数のもっとも危険な分子にかぎられる。

反「包囲討伐」闘争の勝利の度合いは、準備段階での任務の完成の度合いと密接に結びついている。敵をみくびることからうまれる準備怠慢、敵の進攻におびえることからうまれるあわてふためきは、いずれも断固として反対すべきわるい偏向である。われわれの必要とするものは、熱烈であるが沈着な態度と、緊張しているが秩序のある活動である。

第三節 戦略的退却

戦略的退却は、劣勢な軍隊が優勢な軍隊の進攻を前にして、その進攻を急速に撃破できないとみたばあいに、軍事力を保存し、敵をやぶる機会を待つためにとる計画的な戦略的段どりである。ところが、軍事冒険主義者は、「敵を国門の外でふせぐ」ということを主張し、このような段どりにあくまで反対する。

だれでも知っているように、ふたりの拳法けんぽう家が立ちむかったばあい、かしこい拳法家はよく相手に一歩をゆずるが、おろかな者は、猛烈ないきおいで、初手にすべての手をだしつくしてしまい、その結果、ゆずったほうに打ちたおされることがしばしばある。

『水滸すいこ伝』にでてくる供師範は柴進の家で林冲を打とうとして、「さあ来い、さあ来い」とつづけざまに叫んだが、その結果、供師範は、一歩ゆずった林冲にすきを見ぬかれて、ひとけりで、けたおされてしまった〔20〕。

春秋時代の魯国が斉国〔21〕と戦ったとき、魯の荘公ははじめ、斉軍の疲れるのを待たずに、出撃しようとしたが、曹[歳+リ]そうけいにとめられ、「敵が疲れればわれわれは襲う」方針をとって、斉軍に勝ち、中国の戦史で、弱軍が強軍に勝った有名な戦例をつくった。歴史家左丘明〔22〕の記述によるとつぎのようである。

「春、斉の師し、我を伐うつ。公、まさに戦わんとす。曹[歳+リ]、見まみえんことをこわんとす。その郷人曰いわく、『肉食の者、これを謀はかる。またなんぞ間かんせん。』[歳+リ]曰く、『肉食の者は鄙いやし。いまだ遠く謀ることあたわず』と。すなわち入いりて見ゆ。問う、『何をもって戦わんとするや。』公曰く、『衣食の安んずるところ、敢あえて専もっぱらにせず、かならず以もって人に分わかてり。』こたえて曰く、『小恵にしていまだ[彳+扁]からず、民従わざらん。』公曰く、『犠牲玉帛ぎせいぎょくばく、敢て加くわえざるなり、かならず信を以てせり。』こたえて曰く、『小信にしていまだ孚ふならす。神福さいわいせざるなり。』公曰く、『小大の獄、察することあたわずといえども、かならず情を以てせり。』こたえて曰く、『忠の属たぐいなり、以て一戦すべし。戦わばすなわち請こう従したがわん』と。公これとともに乗りて長勺ちょうしゃくに戦う。公まさにこれに鼓つづみうたんとす。[歳+リ]曰く、『いまだ可ならず』と。斉人三たびうつ。[歳+リ]曰く、『可なり』と。斉の師敗績す。公まさにこれに馳はせんとす。[歳+リ]曰く、『いまだ可ならす』と。くだりてその轍わだちをみ、軾しょくに登りてこれを望みて曰く、『可なり』と。遂に斉の師をおう。すでにかちて、公その故を問う。こたえて曰く、『それ戦いは勇気なり。一たび鼓うちて気をおこし、ふたたびして衰え、みたびして竭つく。彼竭き、我盈みつ。故にこれにかてり。それ大国ははかりがたし。伏あらんことをおそれたり。われ、その轍をみるに乱れ、その旗を望むになびきたり。故にこれをおえり』と。」〔23〕

当時の状況は、弱国が強国に抵抗していたのである。この文章のなかには、戦いの前の政治上の準備――人民の信頼をうる点が指摘されており、反攻に転ずるのに有利な陣地――長勺のことがのべられており、反攻をはじめるのに有利な時機――敵軍の勇気が尽き、わが軍の勇気がみらている時のことがのべられており、追撃開始の時機――わだちがみだれ、旗がたおれている時のことがのべられている。これは大きな戦役ではないが、同時に、戦略的防御の原則が説かれている。中国の戦史には、この原則にあって勝利をかちえた実例は非常に多い。楚と漢の成皐せいこうの戦い〔24〕、新と漢の昆陽の戦い〔25〕、袁紹えんしょうと曹操そうすおの官渡の戦い〔26〕、呉と魏ぎの赤壁の戦い〔27〕、呉と蜀しょくの彝陵いりょうの戦い〔28〕、秦と晋の[シ+肥]水ひすいの戦い〔29〕など有名な大戦は、いずれも双方に強弱のちがいがあるばあい、弱者が先に一歩をゆずり、あとからうってでて相手を制したために、戦いに勝ったものである。

われわれの戦争は、一九ニ七年の秋からはじまったが、当時はぜんぜん経験がなかった。南昌蜂起〔30〕、広州コヮンチョウ蜂起〔31〕は失敗した。秋収蜂起〔32〕では、湖南・湖北・江西省境地区の赤軍も、数回敗戦をなめて、湖南、江西省境の井岡山地区にうつった。その翌年の四月、南昌蜂起の失敗後保存されていた部隊も、湘南省南部をへて、井岡山にうつってきた。しかし、一九二八年の五月からは、当時の状況にかなった、素朴な性質をもつ、遊撃戦争の基本原則がうまれていた。それは「敵が進んでくれはわれわれは退き、敵がとどまればわれわれはなやませ、敵が疲れればわれわれは襲い、敵が退けばわれわれは追いかける」という四句の要訣ようけつである。この四句の要訣の軍事原則は、李立三路線以前の党中央が承認したものである。そののち、われわれの作戦原則には、一歩すすんだ発展がみられた。江西省の根拠地での一回目の反「包囲討伐」のときになって、「敵をふかく誘いいれる」という方針が提起され、しかも応用して成功した。敵の三回目の「包囲討伐」にうち勝ったころになると、赤軍の作戦原則全部ができあがっていた。このときは、軍事原則の新しい発展段階で、内容は大いに豊富になり、形式にもまた多くの変化があった。主としては、いままでの素朴性をのりこえたことであるが、基本的な原則はやはりさきの四句の要訣であった。四句の要訣には反「包囲討伐」の基本原則が包括され、戦略的防御と戦略的進攻の二つの段階が包括され、防御のばあいには、また戦略的退却と戦略的反攻の二つの段階が包括されている。のちのものは、それが発展したにすぎない。

ところが、一九三二年の一月から、すなわち、「三回にわたる『包囲討伐』が粉砕されたのち、一省または数省でまず勝利をたたかいとる」という重大な原則上のあやまりをふくむ党の決議が発表されてからは、「左」翼日和見主義者は正しい原則にたいして闘争をすすめ、最後には、この一連の正しい原則を廃して、これとは反対のいわゆる「新原則」あるいは「正規の原則」という別の一体系をつくりあげた。これ以後は、いままでのは正規のものといわれなくなり、それは否定すべき「遊撃主義」というものになった。「遊撃主義」反対の空気が、まる三年間も支配した。その第一段階は軍事冒険主義であり、第二段階では軍事保守主義にうつり、最後の第三段階では逃走主義に変わってしまった。党中央が一九三五年一月、貴州コイチョウ省の遵義で拡大政治局会議をひらくにいたって、はじめてこのあやまった路線の破産が宣告され、まえの路線の正しさが、あらためて確認された。そうなるまでにはなんと大きな代価を払ったことか!

「遊撃主義」にやっきになって反対する同志たちはいう。敵をふかく誘いいれるのは、多くの土地を放棄することで、まちがいである。まえには、それで勝利をえたことがあるが、いまはもう、まえとはちがっているではないか。しかも、土地を放棄しないで敵に勝てるなら、なおよいではないか。敵の地区、あるいはわが方の地区と敵の地区とが境を接しているところで、敵にうち勝つ方が、なおよいではないか。いままでのものは、なんらの正規性もなく、遊撃隊のつかう方法にすぎない。現在、われわれの国家はすでに成立しており、われわれの赤軍も正規化している。われわれと蒋介石との戦争は、国家と国家との戦争であり、大軍と大軍との戦争である。歴史はくりかえすべきではなく、「遊撃主義」的なものは全部なげすてるべきである。新しい原則は「完全なマルクス主義」的なものである。いままでのものは、遊撃隊が山のなかでつくりあげたもので、山のなかにはマルクス主義はない。新しい原則は、これとは反対で、「一をもって十にあたり、十をもって百にあたり、勇猛果敢で、勝利に乗じてまっしぐらに追撃し」、「全線にわたって出撃し」、「中心都市を奪いとり」、「二つのゲンコツで敵をうつ」ものである。敵が進攻したときに対処する方法は、「敵を国門の外でふせぎ」、「先んじて相手を制し」、「家財道具をぶちこわされないようにし」、「一寸の土地をも失わず」、「兵を六路にわける」ことであり、「革命への道と植民地への道との決戦」であり、短距離強襲、堡塁戦、消耗戦、「持久戦」であり、大後方主義、絶対的集中指揮であり、そして最後は、大規模な引っ越しである。しかも、これらのことを承認しない者には、懲罰をくわえ、日和見主義というレッテルをはる、等々である。

疑いもなく、これらすべての理論と実際は、みなあやまったものである。これは主観主義である。これは環境の順調なときの小ブルジョア階級の革命的熱狂と革命せっかち病のあらわれであり、情勢が困難になると、状況の変化につれて、体当たり主義、保守主義、さらに逃走主義へとつぎつぎに変わっていく。これこそ、向こうみず屋としろうとの理論と実践であり、マルクス主義のにおいはいささかもないもので、反マルクス主義的なものである。

ここでは戦略的退却についてのべるだけであるが、江西省ではこれを「敵をふかく誘いいれる」といい、四川スーチョワン省では「陣地のひきしめ」といっている。従来の軍事理論家や実際家も、これを弱軍が強軍と戦うばあい、戦争開始の段階でとらなければならない方針だと認めないものはない。外国の軍事家も、かつて「戦略的守勢に立つ作戦においては、たいてい、まず不利な決戦をさけ、有利な状況にしてからはじめて決戦する」といっている。これは完全に正しいし、われわれもこれになんらつけ加えるものはない。

戦略的退却の目的は、軍事力を保存し、反攻を準備することにある。退却が必要なのは、強敵の進攻を前にして、もし一歩ゆずらなければ、かならず軍事力の保存をあやうくするからである。ところが前には、多くの人が、退却を「日和見主義的な、防御一点ばりの路線」とみなして、断固反対した。われわれの歴史は、すでに、こうした反対が完全にあやまりであることを証明している。

反攻を準備するには、味方に有利で、敵に不利ないくつかの条件をえらび、つくりださなければならず、敵味方の力の対比に変化をおこさせてのち反攻の段階にはいるのである。

われわれの過去の状況からいえば、だいたい退却の段階で、つぎの諸条件のうち、すくなくとも二つ以上の条件を獲得しなければ、味方に有利で敵に不利だということにはならず、反攻に転ずることができるようにはならない。その条件とは――

(一)赤軍を積極的に援助する人民があること

(二)作戦に有利な陣地があること

(三)赤軍主力を全部集中すること

(四)敵の弱い部分を発見すること

(五)敵を疲労させ、士気を阻喪させること

(六)敵にあやまちをおかさせること

人民というこの条件は、赤軍にとってもっとも重要な条件である。根拠地の条件とはこれである。しかも、この条件から、第四、第五、第六の条件も容易につくられ、あるいは発見されるのである。だから、敵が大挙して赤軍を進攻してくるときには、赤軍はいつも白色区から根拠地に退却するのである。なぜなら、根拠地の人民は、赤軍が白軍とたたかうのをもっとも積極的に援助するからである。根拠地でも、周縁地区と中心地区とではちがいがある。中心地区の人民は情報もれの防止、偵察、輸送、戦争への参加などの点で、周縁地区の人民よりすぐれている。だから「退却の終点」としては、これまで、江西省での一、二、三回目の反「包囲討伐」のときには、いずれも人民という条件がもっともよいか、あるいは比較的によい地区をえらんだ。根拠地のこうした特徴が、赤軍の作戦に、通常の作戦とくらべて、非常に大きな変化をおこさせ、それがのちに敵に堡塁主義をとることをよぎなくさせた主要な原因ともなった。

進攻してくる軍隊を、どうしてもこちらのおもうつぼにはまりこむように、退却する軍隊が、自分のおもいどおりの有利な陣地をえらべるということ、これが内線作戦のすぐれた条件の一つである。弱軍が強軍にうち勝つには、陣地というこの条件を吟味しなければならない。しかし、この条件だけではまだたらず、それに呼応する他の条件がなお要求される。まず第一は人民という条件である。そのつぎには、攻撃しやすい敵、たとえば敵が疲労しているとか、あるいはまちがいをおこしたとか、あるいは前進してくる敵のその部隊が、比較的に戦闘力に欠けているとか、が要求される。これらの条件がそなわらないときは、たとえすぐれた陣地があっても、それをすておいて、自分のおもいどおりの条件がみたされるまで、ひきつづき退却するよりほかない。白色区には、すぐれた陣地がないわけではないが、人民というすぐれた条件がない。もし、他の条件もまだつくりだされていないか、あるいはまだ発見されていないばあいには、赤軍は根拠地にむかって退却せざるをえない。根拠地の周緑地区と中心地区の区別も、だいたいこれとおなじである。

地方部隊と牽制兵力をのぞいたすべての突撃兵力は、全部集中するのが原則である。戦略上守勢をとっている敵を進攻するときには、赤軍は往々にして分散しているものである。しかし、ひとたび敵がわれわれにむかって大挙進攻してきたときには、赤軍はいわゆる「求心的退却」をおこなう。退却の終点には、よく根拠地の中央部がえらばれる。しかし、ときには前部がえらばれ、ときには後部がえらばれるが、それは状況によって決定される。このような求心的退却は、赤軍の主力全体を完全に集中させることができる。

弱軍の強軍にたいする作戦での、もう一つの必要な条件は、弱い部分をえらんでたたくことである。しかし、敵が進攻しはじめたとき、分進してくる敵のどの部隊がもっとも強く、どの部隊がつぎに強く、どの部隊がもっとも弱く、どの部隊がつぎに弱いのか、われわれにはわからないことがよくあり、偵察の過程が必要である。その目的をたっするには長い時間を必要とすることがしばしばである。これもまた、戦略的退却が必要とされる理由の一つである。

もし、進攻してくる敵が、その数の上でも、また強さの上でも、はるかにわが軍をしのいでおり、われわれがその強弱の対比に変化をおこさせようとするなら、三回目の「包囲討伐」において、蒋介石のある旅団の参謀長がいったように「引きずりまわされて、ふとったものはやせ、やせたものは死ぬ」とか、また「包囲討伐」軍西路総司令陳銘枢チェンミンシューがいっているように、「国軍はどこにいってもまっ暗で、赤軍はどこにいっても明るい」という状態になるまで、敵が根拠地にふかくはいりこみ、根拠地で苦しみをなめつくすのを待たなければ、その目的はたっせられない。こうなったときには、敵軍は強くても、大いに弱まっており、兵力は疲労し、士気は阻喪して、多くの弱点をみな暴露してくる。赤軍は弱くても、鋭気をやしない力をたくわえ、休息をえて疲労した敵を待つことになる。このときの双方の対比は、しばしば、ある程度の均衡状態にたっしているか、あるいは敵軍の絶対的優勢が相対的優勢に、わが軍の絶対的劣勢が相対的劣勢に変わるかし、さらには、敵軍がわが軍より劣勢になり、わが軍がかえって敵軍より優勢になることさえある。江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、赤軍は一種の極端な退却をしたが(赤軍は根拠地の後部に集中した)、それは当時の「包囲討伐」軍が、赤軍の十倍をこえていたので、どうしてもそうしなければ、敵に勝つことができなかったのである。孫子が「その気、鋭なるときをさけ、おとろえ、つきはてたるをうつ」といっているのは、敵の優勢をそぐために敵を疲労させ、士気を阻喪させることをいうのである。

退却で要求される最後の一つは、敵にあやまちをしでかさせ、発見することである。どんな能力のある敵軍の指揮員でも、相当長い時間のあいだに、少しもあやまちをおかさないというのは不可能であること、したがって、われわれが敵のすきに乗ずる可能性はかならず存在していることを知らなければならない。われわれ自身が、ときには、まちがうこともあれば敵に乗ぜられるすきをあたえることもあるのとおなじように、敵もあやまりをおかすのである。しかもわれわれは、孫子のいっている「形をしめす」(東に形をしめして西を撃つこと、すなわち東を撃つとみせかけて西を撃つこと)などのように、人為的に敵軍にあやまちをしでかさせることができる。こうするには、退却の終点をある地区に限定してはならない。その地区にまで退いても、まだ乗ずるすきがないばあいには、乗ずる「すき」が敵にあらわれるのを待つために、さらに何歩か退かなければならない。

退却でもとめる有利な条件とは、だいたい以上のべたようなものである。しかし、このことはこれらの条件が完全にそなわらないと、反攻がおこなえないということではない。これらの条件を同時にそなえることは不可能であり、しかもそのような必要もない。しかし、敵の当面の情勢に応じて、若干の必要な条件をたたかいとることは、弱い兵力で強い敵にあたる内線作戦をおこなう軍隊が心をそそがなければならないところであり、このことについての反対意見は正しくない。

退却の終点をけっきょくどこに決定するかは、全体の情勢から出発しなければならない。局部の情勢からみて反攻に転ずることが有利でも、もし同時に全体の情勢からみてわが方に有利でないばあいは、これによって、退却の終点を決定することは、正しくない。なぜなら反攻をはじめるには、それからのちの変化までを計算にいれなければならないからである。ところがわれわれの反攻は、いつも局部からはじまるのである。退却の終点は、ときには根拠地の前部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の二回目と四回目の反「包囲討伐」、陝西、甘粛省での三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の中部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の後部になることもあり、たとえば、江四省の三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。これらはいずれも局部の情勢を全体の情勢と結びつけて決定したものである。江西省の五回目の反「包囲討伐」では、局部の情勢にも、全体の情勢にも、目をむけなかったことが原因で、わが軍は全然退却について考えもしなかったが、これはまったく向こうみずのむちゃなやり方である。情勢は条件によってつくられる。局部の情勢と全体の情勢との結びつきを観察するには、局部と全体とにあらわれているそのときの敵味方の双方のもつ条件が、わが軍の反攻開始にある程度有利であるかどうかによって、判断しなければならない。

退却の終点は、根拠地では、だいたい前部、中部、後部の三種類にわけられる。それなら、白色区での作戦を頭から拒否するのであろうか。そうではない。われわれが白色区での作戦を拒否するのは、ただ敵軍の大規模な「包囲討伐」に対処するばあいだけについていうのである。敵味方の強弱の差がはなはだしいばあいに、われわれは軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つという原則のもとで、はじめて根拠地に退却することを主張し、敵をふかく誘いいれることを主張するのであり、反攻に有利な条件をつくるか、あるいは発見するには、どうしてもそうしなければならないからである。もし状況がそれほどきびしくないばあい、または、赤軍が根拠地においてさえまったく反攻のはじめようがないほど状況がきびしいばあい、あるいは反攻が不利で、局面の変化をもとめるためさらに退却する必要があるばあいには、退却の終点を白色区にえらぶことも認めるべきであり、たとえ、われわれがこれまでこのような経験をほとんどもたなかったにしても、すくなくとも理論的には認めるべきである。白色区での退却の終点も、だいたい三種類にわけられる。第一は根拠地の前方であり、第二は根拠地の側面であり、第三は根拠地の後方である。第一種の終点としては、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のさいに、もし赤軍の内部の不統一と地方の党の分裂がなかったならば、すなわち李立三路線とAB団〔33〕という二つの困難な問題が存在しなかったならば、吉安チーアン、南豊ナンフォン、樟樹チャンシューの三地点のあいだに兵力を集中して、反攻をおこなうことも考えられることであった。なぜなら、当時[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江カンチァンと撫水フーショイの二つの川のあいだ〔34〕を前進してきた敵の兵力は、赤軍にくらべてそれほど優勢でもなかった(十万対四万)からである。人民という条件は、根拠地ほどよくなかったが、陣地という条件があり、しかも敵が各路にわかれて前進していたのに乗じて、それを各個撃破することもできたのである。第二種の終点としては、たとえば江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、かりに当時敵の進攻の規模があのように大きくなく、そして敵の一路の部隊が福建、江西両省の境界にある建寧チェンニン、黎川リーチョワン、泰寧タイニンから前進し、この一路の部隊の力がまたわれわれの攻撃に手ごろのものであったならば、赤軍は千里も遠まわりして瑞金ロイチンをへて興国シンクォへいく必要がなく、福建省西部の白色区に集結して、まずこの敵をうちやぶることも考えられる。第三種の終点としては、たとえばいまのべた江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、もし敵の主力が西にむかわずに、南にむかっていたとすれば、われわれはおそらく会昌ホイチャン、尋[鳥+”おおざと”]シュインウー、安遠アンユァン地区(そこは白色地域である)まで退却をよぎなくされ、敵をもっと南の方へ誘うことになったであろう。そのときには北部の根拠地内部にある敵軍はあまり多くないはずだから、赤軍は南から北にむけて根拠地内部の敵をたたくことができたであろう。だが、以上の説明はいずれも仮定であって、経験したものではないから、特殊なものとしてあつかうのはよいが、一般原則としてあつかってはいけない。敵が大規模な「包囲討伐」をおこなっているとき、われわれにとっての一般原則は、敵をふかく誘いいれることであり、根拠地に退却して戦うことであって、これは、われわれが、敵の進攻をうちやぶるいちばん確実なやり方だからである。

「敵を国門の外でふせぐ」ことを主張する人たちは、退却によって土地を失い、人民に危害をあたえ(いわゆる「家財道具をぶちこわされる」)、対外的にもわるい影響をおよぼすということを理由にして、戦略的退却に反対する。五回目の反「包囲討伐」のとき、かれらはつぎのようにいった。われわれが一歩退くと、敵の堡塁は一歩まえにおしすすめられ、根拠地は日ましにちぢまっていって、回復できなくなる。敵をふかく誘いいれるということは、まえには役にたったとしても、敵が堡塁主義をとった五回目の「包囲討伐」では役にたたない。それで五回目の「包囲討伐」に対処するには、兵をわけて抵抗することと、短距離強襲の方法をとるよりほかない、と。

これらの意見にこたえることはたやすく、われわれの歴史がすでにこたえをだしている。土地を失うという問題では、失ってこそ、失わなくてすむようになるということがよくあり、これが「とろうとすればまずあたえよ」の原則である。もしわれわれの失うものが土地で、得るものが敵にたいする勝利であり、そのうえ土地をとりもどし、さらに土地を拡大するならば、これはもうかる商売である。市場での取り引きでも、買う人は金を失わなければ、品物を手にいれることはできないし、売る人は品物を失わなければ、金を手にいれることはできない。革命運動がもたらす損失は破壊であるが、得るものは進歩的な建設である。睡眠と休息によって時間は失われるが、翌日の活動のエネルギーが得られる。もしこの理屈がわからず、睡眠をとることを拒否するようなおろか者がいるとすれば、その人は翌日は元気がなくなる。これはもとでを食いこむ商売である。敵の五回目の「包囲討伐」のときに、われわれがもとでを食いこんでしまったのはこのためである。一部の土地も失うまいとした結果、土地の全部を失ってしまった。エチオピアが叫歩もひかない戦争をやったことも、全国士を失う結果をまねいた。もちろん、エチオピアが失敗した原因は、たんにこの点だけではないが。

人民に危害をあたえるという問題も、これとおなじ道理である。一部の人民の家でいくらかの家財道具を一時的にぶちこわされないと、全人民が長期にわたって家財道具をぶちこわされることになる。一時のわるい政治的影響をおそれるならば、長期のわるい影響を代価として受けとることになる。十月革命後、ロシアのボリシェビキ党が、もし「左翼共産主義者」の意見にしたがって、ドイツとの講和条約を拒否したならば、うまれたばかりのソビエトは若死にする危険があったであろう〔35〕。

革命的にみえるこのような極左的な意見は、小ブルジョア知識分子の革命焦燥病に由来しており、同時に、農民小生産者の局部的保守性にも由来している。かれらは全局をみわたす能力がなく、問題を一局部からしかみず、きょうの利益とあすの利益とを結びつけようとせず、部分の利益と全体の利益とを結びつけようとせず、一局部、一時期のものにしがみついて、どうしてもはなさない。たしかに、そのときの具体的な状況からみて、そのときの全局および全時期にとって利益のあるもの、とくに決定的な意義をもつ一局部および一時期は、すべてしっかりつかまえてはなすべきではない。そうでなければ、われわれは、なりゆき主義、あるいは放任主義になってしまう。退却には終点がなければならないというのは、こうした道理からである。しかし、けっして、小生産者的な近視眼にたよってはならない。われわれが学ばなければならないのは、ボリシェビキの聡明さである。われわれは眼力がたりないので、望遠鏡や顕微鏡の力を借りなければならない。マルクス主義の方法が政治上、軍事上での望遠鏡であり、顕微鏡である。

もちろん、戦略的退却には困難がある。退却開始の時機の選定、退却の終点の選定、幹部や人民を政治的に説得することなど、いずれも困難な問題であり、解決しなければならないものである。

退却開始の時機の問題は重要な意義をもっている。江西省の小回目の反「包囲討伐」でのわれわれの退却が、もし、ちょうどあのような時機でなかったならば、つまり、それよりおくれていたならば、すくなくともわれわれの勝利は、ある程度影響をうけていたであろう。退却は早すぎても、おそすぎても、もちろん損失をこうむる。だが一般的にいえば、早すぎるより、おそすぎるばあいの損失が大きい。適時に退却し、自分を完全に主動的な地位にたたせること、これは、退却の終点に到着したのち、部隊の態勢をととのえ、休息をえて疲労した敵を待って、反攻に転ずるうえに、きわめて大きな影響をもつものである。江西省で、敵の一回目、二回目、四回目の「包囲討伐」を粉砕した戦役では、いずれもゆうゆうと敵に対処した。ただ、ご三目の戦役だけは、二回目の戦役であのような惨雌を喫した敵が、新しい進攻をそんなに早くやるとはおもわなかったので(一九三一年五月二十九日に、われわれは二日の反「包囲討伐」の作戦を終結させたが、七月一日には、蒋介石はその三回目の「包開討伐」をはじめた)、亦車は、あわただしく回り道して集結することになり、そのためにすっかり疲れてしまった。どのようにその時機をえらぶかは、さきにのべた準備段階の開始の時機をえらぶのにとる方法とおなじように、もっぱら必要な資料をあつめることによって、敵味方の双方の大勢から判断するのである。

戦略的退却で、幹部と人民にまだ経験がないばあい、また軍事指導の権威が、戦略的退却の決定権をごく少数の人ないしはひとりの手に集中し、しかも幹部の信服をうるまでにはいたっていないばあい、幹部と人民を説得するという問題は、きわめて困難な問題である。幹部が経験をもたず、戦略的退却を信じなかったために、一回目と四回目の反「包囲討伐」の初期でも、五回目の反「包囲討伐」の全時期でも、この問題で、大きな困難にぶつかった。一回目の反「包囲討伐」のときには、説得されるまでの幹部の意見は、李立三路線の影響によって、退却ではなくて進攻であった。四回目の反「包囲討伐」のときには、軍事的冒険主義の影響によって、幹部の意見は準備に反対であった。五回目の反「包囲討伐」のときには、幹部の意見は、はじめは敵をふかく誘いいれることに反対し軍事的冒険主義をつづける観点であったが、のちには軍事的保守主義に変わった。チベット族や回ホイ族〔36〕の地区ではわれわれの根拠地がうちたてられないことを信じなかった張国燾路線が、壁にぶちあたってからはじめて信じるようになったことも、その実例である。経験は幹部にとって必要なものであり、失敗はたしかに成功のもとである。だが、他人の経験を謙虚にうけいれることもまた必要である。なにもかも自分の経験にたよろうとし、そうでないと、他人の経験はうけいれないで自分の意見を固執するというなら、これこそ、正真正銘の「せまい経験主義」である。われわれの戦争が、こうしたことからうけた損失はすくなくなかった。

人民が経験をもたないために、戦略的退却の必要を信じなかったことでは、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときよりひどいものはない。当時、吉安、興国、永豊ヨンフォン等の県の党の地方組織や人民大衆で、赤軍の退却に反対しないものはなかった。しかし、このたびの経験をもってから、その後の何回かの反「包囲討伐」では、この問題はまったくなくなってしまった。人びとは、根拠地の損失、人民の苦痛は、一時的なものであることを信じるようになり、赤軍は「包囲討伐」をうちやぶることができるのだという確信をもつようになった。ところが、人民が信じるかどうかは、幹部が信じるかどうかと密接につながっているので、主要な、また第一の任務は、幹部を説得することである。

戦略的退却の全役割は、反攻に転ずることにあり、戦略的退却は、戦略的防御の第一段階にすぎない。全戦略の決定的な鍵は、それにつづく反攻の段階で、勝つことができるかどうかにある。

第四節 戦略的反攻

絶対的に優勢な敵の進攻にうち勝つには、戦略的退却の段階でつくりだされる、味方に有利で敵に不利な、敵が進攻をはじめたときにくらべて変化のおこった情勢にたよるのであって、そのような情勢は、いろいろな条件によってつくりだされる。この点については、まえにのべた。

ところが、味方に有利で敵に不利な条件と情勢があるだけでは、まだ敵を失敗させたことにはならない。このような条件や情勢は、勝敗を決定する可能性をもっているが、それはまだ勝敗の現実性にはなっていないし、両軍の勝敗はまだ実現されていない。この勝敗の実現は、両軍の決戦にかかっている。両軍のうちいずれが勝ち、いずれが負けるかという問題を解決できるのは、決戦だけである。これが戦略的反攻の段階での全任務である。反攻は一つの長い過程であり、防御戦でのもっとも精彩にとんだ、もっとも活発な段階であり、防御戦の最終段階でもある。いわゆる積極的防御とは、主としてこのような決戦的性質をもつ戦略的反攻をさすのである。

条件と情勢は、たんに戦略的返却の段階でつくりだされるばかりでなく、反攻の段階でもひきつづいてつくりだされる。そのときの条件と情勢は、まえの段階での条件や情勢と完全には同一形態、同一性質のものではない。

同一形態、同一性質のものもありうる。たとえば、そのときの敵軍のいっそうの疲労と兵員の減少は、まえの段階での疲労と兵員の減少の継続にすぎない。

だがまた、完全に新しい条件や情勢も必然的にあらわれてくる。たとえば、敵軍が一回または数回敗戦したばあい、そのときの味方に有利で敵に不利な条件には、たんに敵軍の疲労などだけではなくて、敵軍の敗戦という新しい条件がくわわってくる。情勢にも新しい変化がおこる。敵軍は軍隊の移動配置でごったがえし、その措置をあやまるので、両軍の優劣の関係も、まえとはちがってくる。

もし、一回ないし数回の敗戦が敵軍にではなくて、わが軍にあったならば、条件と情勢の有利と不利も、逆になってしまう。つまり敵にとっての不利がすくなくなり、味方にとっての不利がうまれはじめ、拡大さえする。これもまた完全に新しい、まえとはちがったものである。

どちら側が失敗しても、それは失敗した側のある新しい努力を直接に急速にひきおこす。すなわちそれによって、この新しくあらわれた味方に不利で敵に有利な条件と情勢からぬけだし、ふたたび味方に有利で敵に不利な条件と情勢をつくりだして相手を制圧するために、危険な局面の打開をはかる努力である。

勝利した側の努力はこれとは反対で、味方にとっての有利な条件と情勢の増大、あるいは発展をもとめ、不利からぬけだし危険な局面を打開しようとする相手の企図を達成させないようにもとめて、自分の勝利をひろげ、敵にいっそう大きな損害をあたえるよう極力はかるのである。

したがって、どちら側からいっても、決戦段階での闘争は、戦争全体あるいは戦役全体のなかで、もっとも激烈な、もっとも複雑な、もっとも変化にとんだものであり、またもっとも困難な、もっともつらいものであって、指揮の面からいえば、もっともむずかしい時である。

反攻の段階には問題が非常に多く、主要なものとしては、反攻開始の問題、兵力集中の問題、運動戦の問題、速決戦の問題、殲滅戦の問題などがある。

これらの問題の原則は、反攻についていっても、進攻についていっても、基本的な性質においてはちがいはない。この意味では、反攻はすなわち進攻だといえる。

しかし、反攻はそのまま進攻だとはいえない。反攻の原則は、敵が進攻してきたときに応用されるものである。進攻の原則は、敵が防御しているときに応用されるものである。この意味では、また若干のちがいがある。

重複をさけるために、ここでは作戦上の多くの問題をすべて戦略的防御の反攻の部でのべ、戦略的進攻の部では、他の問題について少しのべるだけであるが、前述の理由からして、われわれが応用するばあいには、その共通点を見おとしてはならないとともに、その相違点をも見おとしてはならない。

第五節 反攻開始の問題

反攻開始の問題とは、いわゆる「緒戦」あるいは「序戦」の問題である。

多くのブルジョア軍事家は、いずれも緒戦を慎重にすることを主張しており、これは、戦略的防御でも戦略的進攻でもおなじであるが、防御ではなおさらであるとしている。われわれもかつて、この問題をきびしく提起したことがある。江西省での敵の一回目から五回目までの「包囲討伐」に反対する作戦は、われわれに豊富な経験をあたえた。これらの経験について研究してみることは、無益ではない。

一回目の「包囲討伐」のときには、敵は十万もの兵力をもって、北から南へ、吉安、建寧の線から八つの縦隊にわかれて赤軍の根拠地に進攻してきた。当時の赤軍は約四万で、江西省寧都ニントウ県の黄陂ホワンピー、小[イ+布]シャオプー地区に集結していた。

当時の状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は十万にすぎず、しかも蒋介石の直系は全然なく、全体の情勢はそれほどきびしいものではなかった。(二)吉安を防衛していた敵軍の羅霖ルオリン師団は、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江の西側にへだてられていた。(三)敵軍の公秉藩コンピンファン、張輝[王+贊]チャンホイツァン、譚道源タンタオユァンの三コ師団は吉安の東南、寧部の西北にある富田フーティエン、東固トンクー、竜岡ロンカン、源頭ユァントウ一帯を占領していた。張師団の主力は竜岡におり、護師団の主力は源頭にいた。富田、東固の両地では、人民がAB団にだまされて一時赤軍を信用せず、赤軍と対立していたので、ここは戦場としてえらぶには適しない。(四)敵軍の劉和鼎リウホーティン師団は遠く福建省白色区の建寧におり、江西省にはいってくるとはおもわれない。(五)敵軍の毛炳文マオピンウェン、許克祥シュイコーシァンの二コ師団は、広昌コヮンチャンと寧都のあいだの頭[”こざと”+皮]、洛口ルオコウ、東韶トンシャオ一帯にまですすんでいた。頭[”こざと”+皮]は白色区であり、洛口は遊撃区で、東韶にはAB団がいて、情報がもれやすかった。しかも、毛炳文、許克祥の部隊をうってから西にうって出ると、おそらく西の張輝[王+贊]、譚道源、公秉藩の三コ師団は集中するだろうから、決定的に勝利することは容易でなく、問題を最終的に解決することはできない。(六)張、譚両師団は、「包囲討伐」の主力軍で、「包囲討伐」軍総司令江西省主席魯滌平ルーテイピンの直系部隊であり、それに、張輝[王+贊]は前線総指揮であった。この二コ師団を消滅すれば、「包囲討伐」は基本的にうちやぶったことになる。この二コ師団はそれぞれ約一万四千で、しかも張師団はニヵ所にわかれていたので、われわれが一回に一コ師団ずつをたたけば、絶対的に優勢である。(七)張、譚両師団の主力がいた竜岡、源頭一帯は、われわれの集結地点に近接しており、しかも人民という条件がよかったので、隠蔽しながら近づくことができる。(八)竜岡にはすぐれた陣地がある。源頭は戦いにくい。もし敵が小[イ+布]を攻撃してわが軍の方によってきたとしても、陣地はやはりすぐれている。(九)われわれは竜岡の方向に最大の兵力を集中することができる。竜岡の西南方数十里の興国には、なお千余人の独立師団がおり、敵の背後に迂回することもできる。(十)わが軍が中間突破を実行し、敵の戦線に突破口をひらくと、敵の東と西の諸縦隊は、遠くはなれた二つの部分に分割される。以上の理由にもとづいて、われわれの第一戦は、張輝[王+贊]の主力二コ旅団と一つの師団司令部を攻撃することにきめ、しかも、それが成功して、師団長をふくめて九千人を全部捕虜にし、人ひとり、馬一匹ものがさなかった。この一戦の勝利によって敵はきもをつぶし、譚師団は東韶にむかって逃げ、許師団は頭[”こざと”+皮]にむかって逃げた。わが軍はさらに譚師団を追撃し、その半分を消滅した。五日間(一九三〇年十二月二十七日から一九三一年一月一日まで)に二回戦ったので、富田、東固、頭[”こざと”+皮]にいた敵はたたかれるのをおそれ、算をみだして撤退し、一回目の「包囲討伐」はそれで終わった。

二回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は二十万で、何応欽ホーインチンが総司令となり、南昌に駐屯していた。(二)一回目の「包囲討伐」のときとおなじように、蒋介石の直系部隊は全然なかった。蔡廷[金+皆]ツァイティンカイの第十九路軍と、孫連仲スンリェンチョンの第二十六路軍、朱紹良チューシャオリァンの第八路軍がもっとも強いか、あるいは比較的強かったが、その他はみな比較的に弱かった。(三)AB団は一掃され、根拠地の人民は全部赤軍を支持していた。(四)王金鈺ワンチンユイの第五路軍は北方からやってきたばかりで、おびえていて、その左翼にいた郭華宗クォホワツォン、[赤+”おおざと”]夢齢ハオモンリンの両師団もだいたいおなじ状態であった。(五)わが軍が富田から攻撃をはじめ、東にむかって横にないでいけば、福建省と江西省との境界地帯の建寧、黎川、泰寧地区で根拠地をひろげ、物資を徴集することができ、つぎの「包囲討伐」をうちやぶるのに便利であった。もし東から西にむかって攻撃していけば、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江にさえぎられ、戦局が終結したのちの発展の余地がない。またこの戦いが終わってから東に転じると、時間がかかり軍を疲労させる。(六)わが軍の人数は、前回の戦役のときよりすこし減っていた(三万余)が、四ヵ月のあいだに鋭気を養い力をたくわえてきていた。以上の理由にもとづいて、富田地区の王金鈺、公秉藩(合計十一コ連隊)をえらび、これと第一戦をまじえることにした。勝利ののち、ひきつづき郭軍をうち、孫軍をうち、朱軍をうち、劉軍をうった。十五日のあいだ(一九三一年五月十六日から三十日まで)に七百華里歩き、五回戦いをまじえて、銃二万余を分捕り、「包囲討伐」を思う存分うちやぶった。王金鈺の部隊をうったときは、蔡廷階と郭華宗の二つの敵部隊のあいだにいて、郭軍からは十余華里、蔡軍からは四十余華里であったので、あるものはわれわれが「袋小路につっこんだ」といったが、ついにそれをつきぬけたのである。それは主として根拠地という条件によるが、さらに敵軍の各部隊の不統一にもよる。郭師団がやぶれると、[赤+”おおざと”]師団も夜中に永豊まで逃げかえって難をのがれた。

三回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)蒋介石みずから出馬して総司令となり、その下に左、石、中の三路の総司令をおいた。中路は何応欽で、蒋介石とともに南昌に駐屯し、右路は陳銘枢で、吉安に駐屯し、左路は朱紹良で、南豊に駐屯した。(二)「討伐」軍は三十万であった。主力軍は陳誠チェンチョン、羅卓英ルオチュオイン、趙観濤チャオコヮンタオ、衛立煌ウェイリーホヮン、蒋鼎文チァンティンウェンなど蒋介石直系の五コ師団で、どの師団も九コ連隊からなり、全部で約十万であった。そのつぎは蒋光[”乃”の下に鼎]、蔡廷[金+皆]、韓徳勤ハントーチンの三コ師団で、四万であった。そのつぎは孫連仲軍で、二万であった。そのほかもみな蒋の直系ではなく、比較的弱かった。(三)「討伐」の戦略は、二回目の「包囲討伐」での「一歩ごとに陣地をかためる」やり方とは大いにちがって、「長駆直進」であり、赤軍を[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江に追いつめて消滅しようとねらっていた。(四)二回目の「包囲討伐」が終わってから三回目の「包囲討伐」がはじまるまでのあいだは、わずか一ヵ月しかなかった。赤軍が苦戦ののち、休息もとらず、補充もしないで(三万人前後)、千華里もまわり道して江西省南部根拠地の西部にある興国にもどって集結したときには、敵はすでに数路にわかれて、われわれの目のまえにせまっていた。以上のべた状況のもとで、われわれの決定した第一の方針は、興国から万安をへて富田の一点を突破したのち、西から東へ敵の後方連絡線を横にないでいき、敵の主力を江西省南部根拠地に深くはいらせて、役にたたなくさせることであり、これを作戦の第一段階とした。敵がむきをかえて北にむかう時になれば、ひどく疲労するにちがいないから、そのすきに乗じてうつことのできるものをうち、これを第三段階とした。この方針の核心は、敵の主力をさげながら、その弱い部分をうつことであった。ところが、わが軍が富田にむけて開進しているとき、敵に気づかれ、陳誠、羅卓英の二コ師団が富田にせまってきた。わが軍はやむなく計画を変え、興国県西部の高興[土+于]カオシンユイにひきかえしたが、このとき、わが軍の集結のゆるされる地区は、この高興[土+于]およびその付近の地区数十平万華里しかのこっていなかった。集結したつぎの日に、東にむかい、興国県東部の蓮塘リェンタン、永豊県南部の良村リァンツン、寧都県北部の黄[”こざと”+皮]の方向に突進することを決定した。一日目は夜に乗じて、蒋鼎文師団と蒋光[”乃”の下に”鼎”]、蔡廷[金+皆]、韓徳勤の部隊とのあいだの四十華里の間隙かんげき地帯をぬって、蓮塘に移動した。二日目に、上官雲相シャンコヮニュインシァンの部隊(上官雲相はかれ自身の一コ師団と[赤+”おおざと”]夢齢師団を指揮していた)の前哨ぜんしょうと接触した。三日目に上官師団をたたいたのが第一戦で、四日目に[赤+”おおざと”]夢齢師団をたたいたのが第二戦で、その後三日間行軍して黄[”こざと”+皮]にたっし、毛炳文師団をたたいたのが第三戦である。三つの戦いとも勝利し、分捕った銃は万をこえた。このとき、西と南にむかって進んでいたすべての敵軍の主力は、みな方向を変えて東にむかい、黄[”こざと”+皮」に視線を集中して、猛烈な勢いで並進し、わが軍と戦うために密集した大包囲態勢をとってわが軍に近づいてきた。わが軍は、蒋光鼎、蔡廷[金+皆]、韓徳勤の部隊と陳誠、羅卓英の部隊とのあいだの二十華里の間隙にある大きな山をひそかにこえて、東側から西側の興国県内にもどって集結した。敵がそれを発見して、ふたたび西にむかって進んできた時には、わが軍はすでに半ヵ月ほどの休息をとっていたが、敵は飢えと疲れで士気は阻喪し、どうする力もなくなっていたので、決心して退却した。わが軍は、かれらの退却に乗じて蒋光[”乃”の下に”鼎”]、蔡廷[金+皆]、蒋鼎文、韓徳勤の部隊をうち、蒋鼎文の一コ旅団と韓徳勤の一コ師団を消滅した。蒋光鼎、蔡廷[金+皆]の二コ師団とは戦って対峙たいじ状態となり、かれらを逃がしてしまった。

四回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。敵は三路にわかれて、広昌にむかって進み、主力は東路にあり、西路車の二コ師団はわれわれのまえに暴露され、しかも、わが軍の集結地点にせまっていた。このため、わが軍はまずその西路軍を宜黄イーホヮン南部の地区でうち、李明リーミンと陳時驥チェンシーチーの二コ師団を一挙に消滅することができた。敵が左路軍から二コ師団をさいて中路軍と呼応してふたたび前進してきたので、わが軍は、またその一コ師団を宜黄南部の地区で消滅することができた。この二回の戦いで一万余の銃を分捕り、このたびの「包囲討伐」を基本的にうちやぶった。

五回目の「包囲討伐」では、敵は堡塁主義という新しい戦略をとって前進し、まず黎川を占領した。ところがわが方は、敵を根拠地の外で防ごうとして黎川の奪回をはかり、黎川以北の敵の堅固な陣地で、しかも白色区である硝石シァオシーをせめた。この戦いでは勝てず、さらにその東南の資渓橋ツーシーチァオをうったが、ここも敵の堅固な陣地であり、白色区であったので、また勝てなかった。それからのちは、敵の主力と堡塁のあいだを戦闘をもとめて転々とし、完全に受動的な地位にたたされてしまった。五回目の反「包囲討伐」戦争は一年もの長いあいだをつうじて、主動的に活躍することが全然なかった。最後には江西省の根拠地から退去しなければならなくなった。

上述の一回目から五回目までの反「包囲討伐」の時期におけるわが軍の作戦の経験は、防御の地位にある赤軍が強大な「討伐」軍をうちやぶるには、反攻の最初の戦闘が非常に大きな関係をもつものであることを証明している。最初の戦闘の勝敗は全局にきわめて大きな影響をあたえ、さらには最後の戦闘にまでずっと影響をおよぼすものである。したがって、つぎのような結論がえられる。

第一には、かならず勝たなければならない。敵情、地形、人民等の条件がすべてわが方に有利で敵に不利であり、ほんとうに確実性があったとき手をくだすべきである。でなければ、むしろ退いて、自重して機会を待つべきである。機会というのはかならずあるもので、かるがるしく応戦してはならない。一回目の反「包囲討伐」のときは、まず譚道源師団をうとうとおもったが、敵が源頭のあの見とおしのきく高い陣地をはなれなかったばかりに、わが軍は二度も開進しながち、二度とも忍耐づよくひきかえし、何日かたったのち、うちやすい張輝[王+贊]師団をみつけた。二回目の反「包囲討伐」のときも、わが軍は東固まで開進したが、ただ王金鈺の部隊が富田の堅固な陣地をはなれるのを待つために、むしろ情報のもれる危険をおかしても、すべてのせっかちな早急攻撃の提案をしりぞけて、敵のすぐ近くにとどまり、二十五日もの長いあいだ待って、ついにその目的をたっした。三回目の反「包囲討伐」は、あのあらしのような局面で、千華里も軍をひきかえしたが、敵の側背に迂回しようとした計画をまたさとられてしまった。それでもわれわれは忍耐づよくひきかえして、中間突破にあらため、ついに蓮塘で最初のみごとな勝ちいくさをした。四回目の反「包囲討伐」のときには、南豊を攻めたが、攻めおとせなかったので、決然として退却の段どりをとり、ついに敵の右翼にまわり、東韶地区に集結して、宜黄南部での大勝利の戦いをはじめた。ただ、五回目の反「包囲討伐」のときだけは、緒戦がどんなに大きな関係をもっているかをまったく知らす、黎川という町一つを失ったことにおどろき、それをとりもどそうとして、北上して敵によりついていき、洵口シュインコウで予期しない遭遇戦に勝利した(敵の一コ師団を消滅した)が、これを第一戦とみなさず、この戦いで必然的にひきおこされる変化をみないで、軽率にも必勝をのぞめない硝石を攻撃した。これは第一歩から主動権を失っており、たしかにもっともおろかな、もっともわるい戦い万である。

第二には、緒戦の計画は、全戦役計画の有機的な序幕でなければならない。すぐれた全戦役計画がなければ、ほんとうにすぐれた第一戦というものはけっしてありえない。つまり緒戦で勝利したとしても、この戦いが全戦役にとって有利とならないばかりか、逆に有害になったときには、この戦いは勝っても負けたことになる(たとえば、五回目の「包囲討伐」のときの洵口の戦闘がそれである)。したがって、第一戦をはじめるに先だって、第二、第三、第四戦から最後の一戦にいたるまで、だいたいどういう戦い方をするか、われわれがつぎの戦いで勝ったばあいには、敵軍の全局にどういう変化がおこるか、また負けたばあいには、どういう変化がおこるかを一戦ごとに考えておかなければならない。結果がすべて予期したようになるとはかぎらないし、またなるはずもないが、しかし、双方の全局面にもとづいて、それを詳細に、実際的に考えぬいておかなければならない。全局が頭になければ、ほんとうによい手はうてるものではない。

第三には、つぎの戦略段階での発展をも考えておかなければならない。ただ反攻のことだけを考え、その反攻が勝利したのち、あるいは万一反攻が失敗したのち、つぎはどうすればよいかを考えないならば、やはり戦略指導者としての責任をはたしていないことになる。戦略指導者は、ある一つの戦略段階にあるときに、その後の数多くの段階まで計算しておくべきであり、すくなくとも、つぎの段階は計算しておくべきである。たとえその後の変化が推測しにくく、遠い将来のことになればなるほど漠然ばくぜんとしてはくるが、だいたいの計算は可能であり、遠い将来を見とおしておくことは必要である。一歩すすめばその一歩のことしか考えない指導のしかたは、政治にとって不利であり、戦争にとっても不利である。一歩すすめばその一歩の具体的変化に目をむけ、それによって自分の戦略、戦役計画をあらためるか、または発展させなければならない。そうしなければ、猪ちょ突猛進のあやまりをおかすことになる。しかし、全戦略段階ないし、いくつかの戦略段階をつらぬく、そして、だいたいにおいて考えぬかれた一つの長期の方針は、どうしてもなくてはならないものである。そうしなければ、ためらい、立ち往生するあやまりをおかし、実際には、敵の戦略的要求にのせられ、自分を受動的地位におとしいれることになる。敵の統帥部はある種の戦略的眼力をもっているものであることを知らなければならない。われわれは、自分を敵よりもいっそう高いものにきたえあげなければ、戦略的に勝利することはできない。敵の五回目の「包囲討伐」の時期に、「左」翼日和見主義路線と張国燾路線の戦略指導があやまっていたのは、主としてこの点に欠けていたためである。要するに、退却の段階では反攻の段階までを計算しておかなければならないし、反攻の段階では進攻の段階までを計算しておかなければならず、進攻の段階では、さらに退却の段階までを計算しておかなければならない。このような計算がなく、目ききの利害にしばられるならば、それは失敗への道である。

かならず勝たなければならないこと、全戦役の計画に配慮を加えなければならないこと、つぎの戦略段階に配慮を加えなければならないこと、これが反攻開始にあたって、つまり第一戦をおこなうにあたって、忘れてはならない三つの原則である。

第六節 兵力集中の問題

兵力を集中することは、みたところ、たやすいようであるが、実行はかなりむずかしい。多数で少数に勝つのがもっともよい方法であることは、だれでも知っているが、多くの人にはそれができず、反対に、いつも兵力を分散させている。その原因は、指導者が戦略的頭脳に欠けていて、複雑な環境にまどわされるために、環境に左右され、自主的能力をうしない、まにあわせ主義をとることにある。

どんなこみいった、きびしい、みじめな環境にあっても、軍事指導者にとって、まず第一に必要なことは、自分の力を自主独立的に組織し使用することである。敵から受動的地位に追いこまれるのはよくあることだが、重要なのは主動的地位をすみやかにとりもどすことである。もしこのような地位をとりもどせなければ、そのつぎにくるものは失敗である。

主動的地位というのは、空想的なものではなく、具体的なものであり、物質的なものである。ここでもっとも重要なことは、最大の、しかも活気にみちた軍隊を保存し集結することである。

防御戦は、もともと受動的地位におちいりやすく、とても進攻戦のように十分に主動権を発揮することはできない。ところが、防御戦は受動的な形式のなかに主動的な内容をもつことができるのであり、形式上の受動的段階から、形式のうえでも内容のうえでも主動的段階に転じることができるのである。完全に計画的な戦略的退却は、形式のうえでは、よぎなくとった行動であっても、内容のうえでは、軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つものであり、敵をふかく誘いいれて反攻を準備するものである。ただ退却しようとしないで、あわてて応戦する(たとえば硝石の戦闘)だけでは、表面的には、主動性をかちとろうとつとめているようであっても、実際には受動的である。戦略的反攻は、その内容が主動的であるばかりでなく、形式のうえでも、退却時の受動的な姿勢をすてている。敵軍にとって、反攻とはわが軍が敵に主動権の放棄を強制し、同時に敵を受動的地位に立たせるよう努力することである。

このような目的を完全にたっするためには、兵力の集中、運動戦、速決戦、殲滅戦はいずれも必要な条件である。その第一の、また主要なものが兵力の集中である。

兵力の集中が必要なのは、敵味方の形勢を変えるためである。第一には、進退の形勢を変えるためである。まえには、敵が進みわれわれが退いていたが、いまは、われわれが進み敵を退かせるという目的をたっしようとはかるのである。兵力を集中し、一戦して勝てば、この目的はこの戦闘でたっせられ、また全戦役にも影響をあたえる。

第二には、攻守の形勢を変えるためである。退却終点にまで退却するのは、防御戦では基本的にいって消極的な段階、すなわち「守る」段階に属する。反攻は積極的な段階、すなわち「攻める」段階に属する。戦略的防御の全過程では、防御の性質からはなれてはいないが、反攻は退却にくらべて、形式だけでなく、内容のうえでも、変化をきたしたものである。反攻は戦略的防御と戦略的進攻とのあいだにある過渡的なものであり、戦略的進攻前夜の性質をおびており、兵力の集中は、この目的をたっするためである。

第三には、内線と外線との形勢を変えるためである。戦略的に内線作戦におかれている軍隊、とくに「包囲討伐」されている環境にある赤軍は、多くの不利をこうむっている。しかし、われわれは、戦役あるいは戦闘で、それを変えることができるし、またぜひとも変えなければならない。わが軍にたいする敵軍の一つの大「包囲討伐」を、敵軍にたいするわが軍の数多くの各個別の小包囲討伐に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の分進合撃を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の分進合撃に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の優勢を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の優勢に変える。戦略上で強者の地位にある敵軍を、戦役あるいは戦闘上では弱者の地位に立たせる。同時に、戦略上で弱者の地位にあるわが軍を、戦役あるいは戦闘上での強者の地位に変えていく。これがすなわち、内線作戦のなかでの外線作戦、「包囲討伐」のなかでの包囲討伐、封鎖のなかでの封鎖、防御のなかでの進攻、劣勢のなかでの優勢、弱者のなかでの強者、不利のなかでの有利、受動のなかでの主動というものである。戦略的防御のなかで勝利をたたかいとることは、基本的には、兵力の集中という一手にかかっている。

中国赤軍の戦史のなかで、この問題はつねに重要な論争問題となっていた。一九三〇年十月四日、吉安の戦いでは、兵力の完全な集中を待たずに、開進と攻撃がおこなわれたが、敵(鄧英トンイン師団)が自分から逃げてしまったからよかったものの、われわれの攻撃そのものは効果をあげていなかった。

一九三二年からは、根拠地の東西南北から四方に出撃することを要求した、いわゆる「全線出撃」というスローガンがあった。これは戦略的防御のときでもまちがいであるばかりか、戦略的進攻のときでさえもまちがいである。敵味方の対比の形勢全体に根本的な変化がないばあい、戦略にも、戦術にも、防御と進攻、牽制と突撃の両面があって、いわゆる「全線出撃」ということは実際にはごくまれである。全線出撃のスローガンは、軍事的冒険主義にともなってあらわれた軍事的平均主義である。

軍事的平均主義者は、一九三三年になると、いわゆる「二つのゲンコツでうつ」といういい方をして、赤軍の主力を二つにわけ、二つの戦略方向で、同時に勝利をえようとはかった。その時の結果は、ゲンコツの一つはつかいようのない所におき、他の一つにはへとへとになるまでうちまくらせ、しかもその時にかちとれたはずの最大の勝利もかちとれなかった。わたしの意見では、強大な敵軍が存在する条件のもとでは、味方にどれだけの軍隊があろうと、一時期におけるその主要な使用方向は、ただ一つであるべきで、二つであってはならない。わたしは、作戦方向が二つあるいは二つ以上あることには反対しないが、しかし、同一の時期における主要な方向は、ただ一つでなければならない。中国赤軍は、弱小者の姿をもって国内戦争の戦場にあらわれ、たびたび強敵をくじいて、世界をおどろかすような戦果をあげたが、これは兵力の集中的使用によるところが非常に大きい。どの大勝利をとってみても、みなこの点を証明することができる。「一をもって十にあたり、十をもって百にあたる」というのは、戦略的ないい方であり、戦争全体、敵味方の対比全体についていったのであって、この意味では、われわれはたしかにそのとおりである。それは戦役および戦術についていったものではなく、この意味では、われわれはけっしてそうであってはならない。反攻においても、進攻においても、われわれはつねに大きな兵力を集結して、敵の一部をうっている。一九三一年一月、江西省寧都県東韶地区で譚道源師団をうった戦いでも、一九三一年八月、江西省興国県高興[土+于]地区で第十九路軍をうった戦いでも、一九三二年七月、広東省南雄ナンシゥン県水口[土+于]ショイコウユイ地区で陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]の部隊をうった戦いでも、一九三四年三月、江西省黎川県団村トヮンツン地区で陳誠をうった戦いでも、すべて兵力を集中しなかったために損をした。水口[土+于]や団村のような戦いは、もともと一般的には勝ちいくさとみなされ、しかも大勝利とさえみなされているが(前者では陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]の二十コ連隊を撃破し、後者では陳誠の十二コ連隊を撃破した)、しかし、われわれは従来から、このような勝ちいくさは歓迎しないもので、ある意味では、まったく負けいくさであったとさえいえる。なぜなら、戦利品がないか、あっても消耗したものよりすくなくて、われわれからみると意義があまりないからである。われわれの戦略は「一をもって十にあたる」のであるが、われわれの戦術は「十をもって一にあたる」のであり、これは、われわれが敵に勝つための根本法則の一つである。

軍事的平均主義は、一九三四年の五回目の反「包囲討伐」のときになると、その極点にまで発展した。「兵を六路にわけ」、「全線にわたって抵抗」すれば、敵を制圧できると考えたのが、敵から制圧される結果となった。その原因は、土地を失うのをおそれたことにあった。主力を一つの方向に集中して、他の方向には牽制兵力をのこすと、もちろん土地を失うことはさけられない。しかし、それは一時的、局部的損失であって、その代価としては突撃方向で勝利をうることである。突撃方向で勝利すれば、牽制方向での損失はとりかえすことができる。敵の一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」では、いずれもわれわれは土地を失い、とくに敵の三回目の「包囲討伐」では、江西省の赤軍の根拠地のほとんど全部を失ったが、結果は、われわれの土地を全部とりもどしたばかりでなく、さらに拡大したのである。

根拠地の人民の力がみえないところから、赤軍が根拠地を遠くはなれるのをおそれるというあやまった心理がよくうまれる。一九三二年、江西省の赤軍が遠く福建省の[シ+章]州にうってでたときにも、一九三三年の四回目の反「包囲討伐」戦役が勝利したのち、赤軍が福建省への進攻に転じたときにも、このような心理がうまれた。前者は、根拠地全部が占領されるのをおそれ、後者は、根拠地の一部が占領されるのをおそれて、兵力の集中に反対し、兵力をわけて守備することを主張したが、結果は、いずれもまちがっていたことが証明された。敵からみれば、根拠地はかれらにとって、はいるのにおそろしいところであり、他方、白色区にうって出た赤軍は、かれらの主要な危険物である。敵軍の注意力はいつも主力の赤軍の所在地にむけられ、主力の赤軍を放置して、もっぱら根拠地にむかうことはごくまれである。赤軍が防御をおこなうときも、敵の注意力はやはり赤軍に集中される。根拠地を縮小させようとする計画は、敵の全計画の一部分であるが、もし赤軍が主力を集中して、敵の一路の部隊を消滅するならば、敵軍の統帥部は、かれらの注意力と兵力をいっそう多く赤軍にむけなければならなくなる。したがって、根拠地を縮小させようとする敵の計画も、うちやぶることができるのである。

「堡塁主義をとっている五回目の『包囲討伐』の時期には、われわれはただ兵をわけて防御し、短距離強襲をかけるほかなく、集中して戦うことはできない」、こういういい方もまたまちがっている。ひと進みに三里、五里、ひと推しに八里、十里とやってくる敵の堡塁主義の戦法は、まったく赤軍自身が一歩一歩さがっては抵抗していくというやり方によってもたらされたものである。もしわが軍が内線で一歩一歩さがっては抵抗していくという戦法をすてて、さらに、必要なまた可能なときには敵の内線にうってでたならば、局面は必然的にちがったものになる。兵力集中の法則こそ、堡塁主義にうち勝つ手段である。

われわれの主張する兵力の集中には、人民の遊撃戦争を放棄するということはふくまれていない。李立三路線は、「一ちょうの銃も赤軍へ集中せよ」といって、小さな遊撃戦争を放棄することを主張したが、それがまちがいであることは、とうに証明された。革命戦争全体の観点からすると、人民の遊撃戦争は、主力の赤軍とたがいに両腕の関係をなしており、主力の赤軍だけで、人民の遊撃戦争がないならば、それは片腕将軍のようなものである。根拠地の人民という条件は、具体的にいうと、とくに作戦についていうと、武装した人民がいることである。敵がおそれをなしているのも、主としてこの点にある。

赤軍の支隊を副次的な作戦方向におくこともまた必要であって、すべてを集中しなければならないというのではない。われわれの主張する兵力の集中は、戦場での作戦に絶対的あるいは相対的優勢を保障するという原則のうえにうちたてられている。強い敵に、あるいはきわめて重要な戦場での作戦にたいしては、絶対的優勢な兵力をもってのぞまなければならない。たとえば、一九三〇年十二月三十日の一回目の反「包囲討伐」の最初の戦いで、四万人を集中して張輝[王+贊]師団の九千人をうったのがそれである。弱い敵に、あるいは重要でない戦場での作戦にたいしては、相対的に優勢な兵力をもってのぞめば十分である。たとえば、一九三一年五月二十九日の二回目の反「包囲討伐」の最後の一戦で、建寧にむかって劉和鼎師団の七千人をうったときには、赤軍は一万人あまりしか使わなかった。

毎回優勢な兵力が必要だということでもない。ある状況のもとでは、相対的に劣勢な、あるいは絶対的に劣勢な兵力をもって戦場にのぞんでもよい。相対的に劣勢なばあいとして、たとえばある地域に大きくない赤軍の部隊が一つしかなくても(兵力をもっていながら集中しないのではない)、人民、地形あるいは天候などの条件が、ある優勢な敵の進攻をうちやぶるのに、われわれにとって大いにたすけとなりうるときには、遊撃隊あるいは小支隊で、敵の正面および一翼を牽制し、赤軍が全力を集中して、突如、敵の他の一翼の一部分を襲撃することも、もちろん必要なことであり、しかも勝利することのできるものである。われわれが、敵の一翼の一部分を襲撃するばあい、兵力の対比ではやはり優勢をもって劣勢にあたり、多数をもって少数に勝つという原則が適用される。絶対的に劣勢なばあいとして、たとえば遊撃隊が白軍の大部隊を襲撃するときには、その一小部分を襲撃するだけであり、同様に上述の原則が適用される。

大軍を一つの戦場に集中して戦うと、地形、道路、給養、駐屯地などの制約をうけるといういいかたも、事情のちがいによってみなければならない。赤軍は白軍にくらべて、もっと大きな困難にたえることができるので、これらの制約は、赤軍と白軍とでは、その程度にちがいがある。

われわれは少数をもって多数にうち勝つ――われわれは、全中国の支配者にむかってこのようにいう。われわれはまた多数をもって少数にうち勝つ――われわれは、戦場で戦っているそれぞれの局部の敵にむかってこのようにいう。このことは、もうなにも秘密ではなく、敵はたいていわれわれの気性をよく知っている。しかし、敵はわれわれを勝利させなくすることも、自分の損失をさげることもできない。なぜなら、われわれがいつ、どこでそうするのか、かれらにはわからないからである。その点、われわれは秘密をたもっている。赤軍の作戦は一般には奇襲である。

第七節 運動戦

運動戦か、それとも陣地戦か。われわれの答えは運動戦である。大きな兵力もなく、弾薬の補充もなく、どの根拠地でも、一部隊しかない赤軍が戦いまわっているという条件のもとで、陣地戦はわれわれにとって基本的に無用である。陣地戦は、われわれにとって、防御のときに基本的に使えないばかりか、進攻のときにも、同様に使えないものである。

敵が強大であること、赤軍の技術的装備が貧弱であることからうまれる赤軍の作戦のいちじるしい特徴の一つは、固定した作戦線をもたないということである。

赤軍の作戦線は、赤軍の作戦方向にしたがう。作戦方向が固定しないので、作戦線も固定しなくなる。大方向は一つの時期においては変更しないが、大方向のなかの小方向は、そのつど変更するものであり、一つの方向が制約をうけると、別の方向に転じていかなければならない。一つの時期がすぎたあと、大方向も制約をうけるとなれば、その大方向でさえも変更しなければならない。

革命の国内戦争の時期には、作戦線は固定できない。こうしたことはソ連でもあったことである。ソ連の軍隊がわれわれの軍隊とちがっている点は、その固定しない度合いが、われわれほどはなはだしくなかったことである。どんな戦争にも、絶対的に固定した作戦線というものはありえず、勝敗進退の変化がそれをゆるさないのである。ところが、相対的に固定した作戦線は、一般の戦争にはよくみうけられる。ただ、現段階の中国赤軍のように、敵との強弱の差がはなはだしい軍隊では、それは例外である。

作戦線が固定しないので、根拠地の領土も固定しなくなる。大きくなったり小さくなったり、伸びたり縮んだりするのはつねであり、起伏はあちらこちらでしばしばおこる。このような領土の流動性は、完全に戦争の流動性に由来している。

戦争と領土の流動性は、根拠地のさまざまな建設活動にも流動性をおこさせている。何年にもわたる建設計画などはおもいもおよばないことである。計画の頻繁ひんぱんな変更は、われわれにとって日常茶飯事である。

このような特徴を認めることは、われわれにとってためになるのである。この特徴から、われわれの日程を定めるのであって、進むだけで退くことのない戦争を夢みてはならず、領土や軍事的後方の一時的な流動におどろいてはならず、長期にわたる具体的な計画をたてようとしてはならない。われわれの思想や活動を状況に適応させ、腰をおろす用意もするが、またいつでもでかける用意もし、口糧袋をすててはならない。将来の比較的に流動しない状態をかちとるためには、また最後の安定をかちとるためには、現在の流動生活のなかで努力する以外にはない。

五回目の反「包囲討伐」の時期を支配していたいわゆる「正規の戦争」という戦略方針は、このような流動性を否定し、いわゆる「遊撃主義」に反対した。流動に反対した同志たちは、大国家の支配者気どりでことをはこぼうとしたが、結果は、ただごとならぬ大流動――二万五千華里の長征となったのである。

われわれの労農民主共和国は、一つの国家ではあるが、こんにちでは、まだ不完全な国家である。こんにち、われわれは、まだ国内戦争の戦略的防御の時期におかれており、われわれの政権は完全な国家形態にはまだほどとおく、われわれの軍隊は、数のうえでも技術的装備のうえでも、敵よりまだはるかに劣っており、われわれの領土もまだ小さく、われわれの敵は四六時中われわれを消滅しようと考えており、そうしなければ胸がおさまらないのである。この点から、われわれの方針がきめられるのであり、それは、一般的に遊撃主義に反対することではなくて、赤軍の遊撃性をすなおに認めることである。ここではずかしがることは無用である。それどころか、遊撃性こそ、われわれの特徴であり、われわれの長所であり、われわれが敵にうち勝つための手段である。われわれは遊撃性をすてる用意をすべきであるが、こんにちでは、まだすてられない。遊撃性は、将来には、恥ずべきもの、またすてるべきものとなるにちがいないが、しかし、こんにちでは、なお貴重なまた堅持すべきものである。

「勝てるなら戦い、勝てなければ去る」、これがこんにちのわれわれの運動戦についてのわかりやすい解釈である。世の中には、戦うことだけを認めて、去ることを認めない軍事家はいないが、ただわれわれほどひどく去らないだけである。われわれにとっては、ふつう、歩く時間の方が戦う時間より多く、平均して月に一回の大きい戦いがあればよい方である。「去る」ことはすべて「戦う」ためであり、われわれの戦略、戦役のすべての方針は「戦う」という一つの基本点のうえにうちたてられている。ところが、われわれには、戦いにくいばあいがいくつかある。第一に、直面している敵が多いと戦いにくい。第二に、直面している敵は多くなくても、それが近くにいる敵の部隊と非常に近接していると、戦いにくいときもある。第三に、一般的にいって、孤立していず、しかも、十分堅固な陣地をもっている敵はみな戦いにくい。第四に、戦っても戦闘をかたづけることができないときには、それ以上戦わない方がよい。以上のべたようなばあいには、われわれは、すべて去る用意をする。こういうときに去るのはゆるされるものであり、またそうすべきである。なぜなら、われわれは、まず戦うことの必要性を認めることを条件として、去ることの必要性を認めるからである。赤軍の運動戦の基本的な特徴はここにある。

基本的なものが運動戦であるということは、必要なまた可能な陣地戦を拒否することではない。戦略的防御において、われわれが牽制方面で、あるいくつかの重要拠点を固守するばあいにも、戦略的進攻において、孤立無援の敵に出あったばあいにも、陣地戦でたちむかうことを認めるべきである。このような陣地戦で敵にうち勝った経験は、われわれの過去においてもすくなくない。多くの都市、堡塁、とりでが、われわれによってうちやぶられ、敵のある程度強固な野戦陣地が、われわれによって突破された。今後も、この方面での努力をかさね、この方面でのわれわれの弱点をおぎなわなければならない。状況が必要とし、しかもそれがゆるされる陣地攻撃と陣地防御はぜひとも提唱すべきである。われわれが反対しているのは、こんにちにおいて一般的な陣地戦をとること、あるいは陣地戦と運動戦を同等にあつかうことだけであって、これこそゆるすことのできないものである。

赤軍の遊撃性、固定した作戦線のないこと、根拠地の流動性、根拠地の建設活動の流動性は、この十年の戦争のあいだに少しも変化がなかったであろうか。変化はあった。井岡山から江西省の一回目の反「包囲討伐」前までが第一段階で、この段階での遊撃性と流動性は大きく、赤軍はまだ幼年時代にあり、根拠地はまだ遊撃区であった。一回目の反「包囲討伐」から三回目の反「包囲討伐」までが第二段階で、この段階では、遊撃性と流動性はかなり縮小し、すでに方面軍がつくられ、何百万の人口をもつ根拠地が存在していた。三回目の反「包囲討伐」から五回目の反「包囲討伐」までが第三段階で、遊撃性と流動性はいっそう縮小した。中央政府と革命軍事委員会がすでにつくられていた。長征が第四段階である。小遊撃と小流動を否定するあやまりをおかしたばかりに、大遊撃と大流動をまねいたのである。現在は第五段階である。五回目の「包囲討伐」に勝てなかったことと大流動とによって、赤軍と根拠地は大いに縮小したが、すでに西北地方に足場をかため、陝西・甘粛・寧夏ニンシァ辺区の根拠地を強化し発展させている。赤軍主力の三つの方面軍はすでに統一的指揮のもとにあり、このことは前にはなかったことである。

戦略の性質についていえば、井岡山の時期から四回目の反「包囲討伐」の時期までが一つの段階で、五回目の反「包囲討伐」の時期がもう一つの段階であり、長征からこんにちまでが第三の段階であるともいえる。五回目の反「包囲討伐」のさい、ある人びとは、それまでのもともと正しかった方針を否定するあやまりをおかしたが、こんにち、われわれはまた五回目の反「包囲討伐」のときのかれらのあやまった方針を正しく否定し、以前の正しい方針を復活させた。だが、五回目の反「包囲討伐」のときのすべてを否定するのではないし、以前のすべてを復活させるのでもない。復活させたのは、以前のすぐれたものであり、否定したのは五回目の反「包囲討伐」のときのあやまったものである。

遊撃主義には二つの面がある。一つの面は非正規性、すなわち集中しないこと、統一しないこと、規律が厳格でないこと、活動方法が単純なことなどである。これらのものは、赤軍が幼年時代に身につけてきたもので、あるものは当時としてはまさに必要なものであった。だが、赤軍が高い段階にたっすれば、赤軍をより集中的にし、より統一的にし、より規律のあるものにし、その活動をより綿密なものにするため、つまりより正規性をもったものにするため、だんだんとそれを意識的にすてさらなければならない。作戦指揮のうえでも、高い段階では不必要になった遊撃性をだんだんと意識的にすくなくしていくようにしなければならない。この面で前進するのを拒否し、ふるい段階にとどまるのを固執するのは、ゆるされないことであり、有害なことであり、大規模な作戦にとって不利なことである。

もう一つの面は、運動戦の方針であり、現在もなお必要な戦略および戦役作戦の遊撃性であり、阻止することのできない根拠地の流動性であり、根拠地の建設計画の臨機応変性であり、赤軍の建設において、その時の事情にあわないような正規化をしないことである。この面で、歴史的事実を拒否し、役にたつものをのこすことに反対し、軽率に現段階をはなれて、見えても近づけない、さしあたって現実的意義のない、いわゆる「新段階」にむかって盲滅法につっぱしることは、同様にゆるされないことであり、有害なことであり、当面の作戦にとって不利なことである。

現在、われわれは赤軍の技術的装備および組織の面で、つぎの新しい段階の前夜にある。われわれは新しい段階にうつる用意をしなければならない。そのような用意をしないことはまちがいであり、将来の戦争にとって不利である。将来、赤軍の技術的装備や組織の条件が変わり、赤軍の建設が新しい段階にすすんだならば、赤軍の作戦方向および作戦線はわりあいに固定し、陣地戦は増加し、戦争の流動性、領土および建設の流動性も大いに減少して、最後には消滅することになり、現在われわれを制約しているもの、たとえば優勢な敵とかれらが守備している堅固な陣地も、われわれを制約できなくなるのである。

われわれは、現在、一方では「左」翼日和見主義が支配していた時期のあやまったやり方に反対し、他方では、赤軍の幼年時代にあったもので、現在ではすでに不用になっている多くの非正規性の復活にも反対するものである。だがわれわれは、赤軍がいままでずっとそれによって勝利をえてきた多くの貴重な錘軍の原則や戦略戦術の原則を、断固として復活しなければならない。われわれは、こんにちの敵にたいする勝利をたたかいとるとともに、将来新しい段階にうつる用意をするためには、いままでのすべてのすぐれたものを総括して、それを体系だった、さらに発展した、より豊富な軍事路線にしなければならない。

運動戦を実行する面では、問題が非常に多い。たとえば偵察、判断、決心、戦闘配置、指揮、隠蔽、集中、開進、展開、攻撃、追撃、襲撃、陣地攻撃、陣地防御、遭遇戦、退却、夜戦、特殊地形における戦闘、強敵をさけて弱敵をうつこと、敵を包囲してその援軍をうつこと、陽攻、防空、いくつかの敵部隊のあいだにおかれたばあいの作戦、超越作戦、連続作戦、無後方作戦、鋭気をやしない力をたくわえることの必要などである。これらの問題は、みな赤軍の戦史において多くの特徴をしめしており、戦役学のなかで筋道をたててのべ、また総括しなければならないものであって、わたしはここではふれないことにする。

第八節 速決戦

戦略上の持久戦と、戦役および戦闘上の速決戦、これは一つのことがらの二つの側面であり、国内戦争で同時に重んじられる二つの原則であり、また、帝国主義反対の戦争にも適用できるものである。

反動勢力が強大なので、革命勢力がじょじょにしか成長しないこと、このことが戦争の持久性を規定している。この面であせることは損をすることになり、この面で「速決」を主張することは正しくない。十年も革命戦争をつづけたことは、他の国にとっては、あるいは驚異に値するかもしれないが、われわれにとっては、ちょうど八股こ文をつくるのに、破題、承題および起講〔37〕だけを書いたようなもので、たくさんのにぎやかな文章は、まだこれからである。今後の発展は、内外のあらゆる条件の影響によって、過去にくらべて疑いもなく大いに速度をます可能性がある。国際的、国内的環境には、すでに変化がおきており、しかも、もっと大きな変化がやってこようとしているので、われわれは、すでにいままでのような発展のゆるやかな孤軍作戦の状態からはぬけだしたといえるのである。だからといって、あすにも成功するものと期待してはならない。「朝めし前にかたづける」という気概はよいが、「朝めし前にかたづける」という具体的な計画はよくない。なぜなら、中国の反動勢力は、多くの帝国主義によって支持されており、国内の革命勢力が内外の敵の主要な陣地を突破できるまでに集積されないうちは、また国際革命勢力が国際反動勢力の大部分をうちやぶり、それを牽制しないうちは、われわれの革命戦争は依然として持久的だからである。この点に立って、われわれの長期作戦の戦略方針を規定することは、戦略指導の重要な方針の一つである。

戦役と戦闘の原則はこれとは逆で、持久ではなくて速決である。戦役と戦闘で速決をめざすことは、古今東西いずれもおなじである。戦争の問題では、古今東西をつうじて速決をもとめないものはなく、月日を長びかすことはなんといっても不利だとみられてきた。だが、中国の戦争だけは、最大の辛抱強さをもってあたらないわけにはいかないし、持久戦をもってこれにあたらないわけにはいかない。李立三路線の時期に、ある人はわれわれのやり方を、「拳法戦術」(何回もうったりうたれたりする手あわせをしなければ大都市は奪取できないという意味である)だとあざけり、またわれわれを、白髪にならなければ革命の勝利はみられないだろうとあざけった。このようなせっかち病の気分が正しくないことは、すでに早くから証明されている。だが、もしかれらの批判的意見が戦略問題にではなくて、戦役や戦闘の問題についておこなわれたのであれば、それは非常に正しい。その理由は、第一に、赤軍の兵器、とくに弾薬には補給源がないこと、第二に、白軍はたくさんの部隊をもっているが、赤軍には一つの部隊しかないので、一回の「包囲討伐」をうちやぶるには、迅速な連続的な作戦を準備しなければならないこと、第三に、白軍の各部隊は分進してはくるが、その多くは比較的に密集しており、かれらのなかの一つをうつさい、迅速に戦闘をかたづけることができなければ、他の部隊がみなやってくることである。こうした理由から、速決戦を実行しないわけにはいかない。われわれにとって、数時間とか、一日、あるいは二日のあいだに、一つの戦闘をかたづけてしまうのはよくあることである。ただ、「敵を包囲してその援軍をうつ」方針のもとでは、目的が包囲した敵をうつのではなくて、敵の援軍をうつのであるから、包囲した敵との作戦は相当に持久の準備をするが、敵の援軍にたいしてはやはり速決である。戦略的防御のさいに牽制方面の拠点を固守するとき、戦略的進攻のさいに孤立無援の敵をうつとき、根拠地内の白色拠点を消滅するとき、こうしたときにも、つねに戦役あるいは戦闘に持久の方針がとられる。しかし、こうした持久戦は、赤軍主力の速決戦をたすけこそすれ、それをさまたげはしない。

速決戦は、頭のなかでそうしようと考えたらそれで実現できるというものではなく、それには、たくさんの具体的な条件が必要である。その条件の主要なものは、準備が十分できていること、時機を失わないこと、優勢な兵力を集中すること、包囲・迂回戦術をとること、よい陣地があること、運動中の敵をうつこと、あるいは駐止はしたが陣地をまだかためていない敵をうつことである。これらの条件を解決しないで、戦役あるいは戦闘の速決をもとめるのは不可能である。

一回の「包囲討伐」をうちやぶることは、一つの大戦役であり、それには、持久の原則ではなくて、やはり速決の原則が適用される。なぜなら、根拠地の人力、財力、軍事力などの条件が、いずれも持久をゆるさないからである。

だが、一般的な速決の原則のもとで、不当なあせりに反対することは必要である。革命根拠地の最高の軍事政治指導機関が、根拠地のもつこうした条件を考慮に入れ、敵の状況を考慮に入れて、敵の気勢にきもをつぶさず、まだたえられるような困難にくじけず、いくらかの挫折にも力をおとさずに、必要な忍耐心と持久力をもつことは、ぜひとも必要である。江西省で一回目の「包囲討伐」をうちやぶったのは、緒戦から終結までわずか一週間であり、二回目の「包囲討伐」をうちやぶったのは、わずか半ヵ月であったが、三回目の「包囲討伐」をうちやぶるには三ヵ月も苦労しぬき、四回目は三週間、五回目はまるまる中年も苦労しぬいた。ところが、五回目の「包囲討伐」をうちやぶることができず、包囲突破をよぎなくされたときには、あってはならないあわてぶりをしめした。状況からみれば、まだ二、三ヵ月もちこたえられ、それによって軍隊を休養・整頓することもできたはずである。もしそうであったならば、また包囲突破後の指導がもう少し賢明であったならば、状況は大いにちがっていたであろう。

以上のべたとおりではあるが、全戦役の時間を極力縮めるというわれわれの原則は、やはりやぶられてはいない。戦役、戦闘の計画では、兵力の集中や連動戦などの条件を極力たたかいとって、内線で(根拠地において)敵の実兵力を消滅して「包囲討伐」の迅速な解決をはかるほかに、「包囲討伐」が内線で解決できないことが証明されたときには、主力の赤軍をもって敵の包囲攻撃線を突破し、わが方の外線、つまり敵の内線にはいっていって、この問題を解決すべきである。堡塁主義の発達したこんにち、このような手段は通常の作戦手段となるものである。五回目の反「包囲討伐」がはじめられてニヵ月後に、福建事変⑦がおきたとき、主力の赤軍は、疑いもなく、淅江チョーチァン省を中心とする江蘇チァンスー・淅江・安徽・江西省地区につき進んで、杭州ハンチョウ、蘇州スーチョウ、南京ナンチン、蕪湖ウーフー、南昌、福州フーチョウのあいだを縦横にかけめぐり、戦略的防御を戦略的進攻に変えて、敵の中枢要地をおびやかし、堡塁のない広大な地帯で戦いをもとめるべきであった。このような方法がとられたならば、江西省南部、福建省西部地区を進攻していた敵は、その中枢要地を援助するためにひきかえすことをよぎなくされ、われわれは、江西省の根拠地にたいする敵の進攻を粉砕できるとともに、福建人民政府をも援助できたであろう。――このような方法は、たしかにかれらを援助できるものであった。この計略を用いなかったために、五回目の「包囲討伐」はうちやぶることができなかったし、福建人民政府もたおれるよりほかなかった。一年ものあいだ戦ったあとでは、淅江省にうって出るにはすでに不利であったが、もう一つの方向にむけて戦略的進攻をとること、すなわち主力を湖南省にむけて前進させ、湖南省をへて貴州省にむかうのではなくて、湖南省の中部にむけて前進し、江西省の敵を湖南省にひきよせて、それを消滅することもできたはずである。この計略も用いなかったので、五回目の「包囲討伐」をうちやぶる希望は最終的にたちきられ、ただ一つ長征の道だけがのこされた。

第九節 殲滅戦

「消耗で張りあう」という主張は、中国の赤軍にとってはいまの事情にあっていない。「宝くらべ」を竜王が竜王とやるのでなくて、こじきが竜王とやったら、それこそこっけいである。ほとんどすべてのものを敵側から奪うことによってまかなっている赤軍にとっては、その基本的な方針は殲滅戦である。敵の実兵力を殲滅しないかぎり、「包囲討伐」をうちやぶることも、革命の根拠地を発展させることもできない。敵を殺傷するのは、敵を殲滅する手段としてとられるものであり、そうでなければ意義がない。敵を殺傷することで、味方も消耗するが、また敵を殲滅することで、味方が補充されるのであって、そうすればわが軍の消耗がつぐなえるばかりでなく、わが軍の力は増大される。撃破戦は、強大な敵にたいして勝敗を基本的に決するものではない。ところが、殲滅戦は、どんな敵にたいしても、ただちに重大な影響をもたらす。人のばあいでも、十本の指を傷つけるよりは一本の指を切りおとした方がよく、敵にたいしても、十コ師団を撃破するよりはその一コ師団を殲滅した方がよい。

一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」にたいするわれわれの方針は、いずれも殲滅戦であった。毎回殲滅した敵は、敵全体にとっては一部分にすぎなかったが、しかし「包囲討伐」はうちやぶった。五回目の反「包囲討伐」のときは、反対の方針がとられ、じっさいには、敵の目的達成をたすけることとなった。

殲滅戦と、優勢な兵力を集中して包囲・迂回戦術をとることとは、同一の意義をもっている。後者がなければ前者はない。人民の支持、すぐれた陣地、たたきやすい敵、敵の意表にでるなどの条件は、いずれも殲滅の目的を達成するのに欠くことのできないものである。

撃破に意義があるといい、ひいては敵を逃走させることにも意義があるというのは、全戦闘あるいは全戦役で、わが軍の主力が、目標とした敵にたいして殲滅的な戦いをおこなうばあいにだけいえるのであって、そうでなければ、なんの意義もない。これは、失うことが得ることにたいして意義をもつ、もう一つのばあいである。

われわれは軍需工業を建設するが、それへの依頼心を助長してはならない。われわれの基本方針は、帝国主義と国内の敵の軍需工業に依存することである。ロンドンと漢陽ハンヤンの兵器工場の製品にたいして、われわれは権利をもっており、しかも敵の輸送隊によってそれがはこばれてくる。このことは冗談ではなく、真理である。

注

〔1〕 中国の文字の「実際」という概念には、二つの意味がふくまれている。一つは実際の状況をさし、他の一つは人びとの行動(つまり一般にいわれる実際)をさす。毛沢東同志がその著作のなかでこの概念をつかうとき、しばしば両方の意味をかねている。

〔2〕 孫武子とは孫武のことで、西紀前五世紀の中国の著名な軍事学者であり、『孫子』十三縞をあらわした。本文に引用したことばは、『孫子』三巻の「謀攻」編にみられる。

〔3〕 一九二一年七月、中国共産党が成立してから、一九三六年に毛沢東同志がこの著作をあらわした時までが、ちょうど十五年である。

〔4〕 陳独秀は、もと北京大学の教授であったが、雑誌『新青年』を編集したことから有名になった。陳独秀は中国共産党の創立者のひとりであった。かれか五・四運動時代に有名であったことと、創立当初の党が幼稚であったことから、かれは党の総書記になった。一九二四年から一九二七年までの革命における最後の一時期には、陳独秀に代表される党内の右翼思想によって、投降主義の路線が形成された。当時の「投降主義者は、農民大衆、都市小ブルジョア階級および中層ブルジョア階級にたいする指導権をすすんで放棄し、とくに武装力にたいする指導権を放棄したため、そのときの革命を失敗に終わらせてしまった」(毛沢東『当面の情勢とわれわれの任務』)。一九二七年、革命が失敗したのち、陳独秀およびその他の少数の投降主義者は、革命の前途に悲観して解党主義者となり、トロツキー主義の反動的立場をとるとともに、トロツキストと結託して反党小グループをつくった。そのため、一九二九年十一月、党から追われた。陳独秀は一九四二年に死んだ。陳独秀の右翼日和見主義については、本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』『湖南省農民運動の視察報告』の二つの論文の解題と第二巻の『「共産党人」発刊のことば』を参照。

〔5〕 李立三の「左」翼日和見主義とは、一九三〇年六月以後の約四ヵ月のあいだ、当時の中国共産党中央の主要な指導者李立三によって代表された「左」翼日和見主義路線のことであり、ふつう「李立三路線」といわれている。李立三路線の特徴は、党の第六回全国代表大会の方針にそむいて、革命が大衆的な力の準備を必要とし、革命の発展が不均等であることを否定したことである。李立三路線は、毛沢東同志の、長期にわたって主要な注意力を農村根拠地の創設にそそぎ、農村をもって都市を包囲し、根拠地をもって全国的革命の高まりをおしすすめるという思想を、いわゆる「極度にあやまった」「農民意識の地方的観念であり、保守的観念である」として、全国各地でただちに蜂起する準備をしなければならないと主張した。李立三はこのようなあやまった路線のもとで、全国各中心都市の武装蜂起をただちに組織するという冒険的な計画をたてた。同時に、李立三路線は世界革命の不均等性も認めず、中国革命の全面的勃発が必然的に世界革命の全面的勃発をひきおこし、しかも中国革命は世界革命の全面的勃発のなかにあってのみ成功しうるものだとした。李立三路線はまた、中国のブルジョア民主主義革命の長期性を認めず、一省あるいは数省でさきに勝利をうることが、社会主義へ転換するはじまりであるとして、これにもとづき、当時の事情にあわない若干の「左」翼的冒険政策をきめた。毛沢東同志はこのあやまった路線に反対し、全党の広範な幹部と党員もこの路線の是正を要求した。李立三自身も、一九三〇年九月、党の第六期中央委員会第三回総会で、当時指摘されたあやまりを認め、ついで中央の指導的地位からはなれた。李立三が長い期間のなかで自己のあやまった観点をあらためたので、党の第七回全国代表大会は、またかれを中央委員に選出した。

〔6〕 一九三〇年九月にひらかれた党の第六期中央委員会第三回総会とその後の一時期の党中央は、李立三路線をうちきるために積極的な作用をもつ多くの措置をとった。ところが、第六期中央委員会第三回総会以後、革命闘争の実際の経験をもたない党内の一部の同志は、陳紹禹(王明)、秦邦憲(博古)を先頭として、中央の措置に反抗した。かれらは当時発表した『二つの路線』、または『中国共産党のいっそうのボリシェビキ化のためにたたかおう』と名づけられたパンフレットのなかで、李立三路線の「右」翼的なものにたいする「批判」をその活動のもとでにして、当時の党内の主要な危険が「左」翼日和見主義ではなく、いわゆる「右翼日和見主義」であるととくに強調した。かれらは、新しい形態のもとで李立三路線やその他の「左」翼的思想、「左」翼的政策を継続させ、復活させ、あるいは発展させる新しい政治綱領をうちだして、毛沢東同志の正しい路線に対立した。毛沢東同志のこの著作『中国革命戦争の戦略問題』は、主としてこの新しい「左」翼日和見主義路線が軍事の面でおかしたあやまりを批判するために書かれたものである。この新しい「左」翼的なあやまった路線は、一九三一年一月にひらかれた党の第六期中央委員会第四回総会から、一九三五年一月、党中央が貴州省の遵義でひらいた政治局会議で、あやまった路線の指導を終わらせ、毛沢東同志を先頭とする党中央の新しい指導がはじめられたときまで、党内を支配していた。この「左」翼的なあやまった路線が党内を支配していた時期はとくに長く(四年)、党と革命にあたえた損失はとくに重大であった。そのわるい結果として、中国共産党、中国赤軍および赤軍の根拠地は、その九〇パーセント前後を失い、革命根拠地の数干万の人民は国民党にふみにじられ、中国革命の進展をおくらせた。この「左」翼的路線のあやまりをおかした同志たちも、その大多数は、長期の体験をつうじて、自分のあやまりを認識し、是正して、党と人民にとって有益な多くの仕事をした。これらの同志は、他の広範な同志たちといっしょに、おなじ政治的認識を基礎として、毛沢東同志の指導のもとに、たがいに団結した。

〔7〕 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔21〕および注〔22〕を参照。

〔8〕 盧山軍官訓練団とは、蒋介石が反共の軍事幹部を訓練するためにつくった組織のことで、一九三三年七月、江四省九江県の盧山に設けられた。この訓練団では、蒋介石軍の将校が順番にあつめられ、ドイツ、イタリア、アメリカの軍事教官によって、ファッショ的な軍事訓練と政治訓練がほどこされた。

〔9〕 ここでいう五回目の「包囲討伐」でとられた新しい軍事原則とは、主として、トーチカをつくっては前進し、一歩ごとに陣地をかためるという蒋介石匪賊一味の「堡塁政策」のことである。

〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。この論文のなかで、レーニンはハンガリー共産党員べラ・クンを批判して、「かれは、マルクス主義のもっとも本質的なものとマルクス主義の生きた魂である具体的状況にたいする具体的分析を放棄した」と指摘している。

〔11〕 党の湖南・江西省境地区第一回代表大会とは、一九二八年五月二十日、湖南・江西辺区の共産党組織が寧岡県の茅坪でひらいた第一回代表大会のことである。

〔12〕 本巻の『党内のあやまった思想の是正について』の注〔2〕および〔3〕を参照。

〔13〕 「匪賊主義」とは、規律がなく、組織性がなく、明確な政治的目標のない略奪行為のことである。

〔14〕 赤軍が江西省から出発して陝西省北部に到達するまでの二万五千華里の長征をさす。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔20〕にみられる。

〔15〕 ロシアで、一九〇五年十二月の蜂起が失敗したのち、革命が高揚からしたいに退潮に転じていった時期をいう。『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第三章第五、第六節を参照。

〔16〕 ブレスト条約は、一九一八年三月、ソビエト・ロシアがドイツと締結した講和条約である。当時の状況では、敵の力があきらかに革命勢力をしのいでいたので、成立早々まだ自分の軍隊をもっていなかったソビエト共和国か、ドイツ対国主義の打撃をこうむらないようにするためにおこなった一時的な退却である。この講和条約の締結によって、ソビエト共和国はプロレタリア階級の政権を強固にし、経済を調整し、赤軍を建設するための時間をかせぐことができ、プロレタリア階級は農民にたいする指導を保持し、力を結集して、一九一八年から一九二〇年にかけての白衛軍およびイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドの諸国の武力千渉を撃破することができるようになった。

〔17〕 一九二七年十月三十日、広東省海豊、陸豊県の農民は、中国共産党の指導のもとで三回目の蜂起をおこない、海豊、陸豊県およびその付近の地区を占領し、赤軍を組織し、労農民主政権をうちたてた。その後、敵をみくびるというあやまりをおかしたため失敗した。

〔18〕 一九三六年の秋、赤軍第四方面軍は、第二方面軍と合流したのち、西康省東北部から出発して、北上のための移動をおこなった。張国燾は、このときにもやはり反党の立場を固持し、一貫してとりつづけてきた退却主義と解党主義を固持した。同年十月、赤軍第二万両軍と第四方面軍が甘粛省についたのち、張国燾は第四方面軍の前衛部隊二万余人にたいし、西路軍を編成し、黄河をわたって西の青海省へ進むことを命令した。一九三六年十二月、西路軍は、戦いで打撃をうけて基本的に失敗し、一九三七年三月には完全に失敗してしまった。

〔19〕 マルクスのクーゲルマンあてのパリ・コミューンについての書簡にみられる。

〔20〕 『水滸伝』は農民戦争を描いた中国の有名な小説で、十四世紀の元未明初の施耐庵の作と伝えられている。林冲、柴進はいずれもこの小説にでてくる英雄的な人物である。洪師範は柴家の武芸指南者である。

〔21〕 魯と斉は、中国春秋時代(西紀前七二二年~前四八一年)の二つの封建国家である。斉は大国で、いまの山東省中部にあり、魯はわりに小さく、いまの山東省南部にあった。魯の荘公は、西紀前六九三年から六六二年にかけての魯の君主であった。

〔22〕 左丘明は、中国の周代の有名な編年史『左伝』の著者である。本文に引用した部分は『左伝』「荘公十年」にみられる。

〔23〕 「肉食の者」とは役人をさす。「またなんぞ間せん」というのは「どうしてその仲間にくわわる必要があろうか」という意味。「犠牲玉帛、敢えて加えざるなり、かならず信を以てせり」という句の「犠牲玉帛」とは神をまつるときの供え物のことで、「加え」とは、誇大に報告するという意味。書の荘公が事実どおりに供え物を報告したといったのは、神にたいし信義をまもったということを表明したものである。「忠の属なり。以て一戦すべし」の忠とは、本分をつくすということである。曹[歳+リ]のことばは、一国の君主が訴訟や疑獄にたいして情理にかなった処置をとれば、人民の支持をうることができるので、戦ってよろしい、という意味である。「公まさにこれに鼓うたんとす」とか「斉人三たびうつ」というこの「鼓」は、陣太鼓をうって兵士の突撃を指揮することをいう。「軾に登りてこれを望み」という「軾」は車に乗るものがつかまる前部の手すりのことで、車の上ではいちばん高いので、これにのぼって遠方を見るのである。

〔24〕 昔の成皐の城は、いまの河南省成皐県の西北部にあり、古代の軍事的要地であった。西紀前二〇三年、漢王劉邦と楚王項羽がこの一帯で戦った。当時項羽は[”塋”の”土”を”水”に変える]陽、成皐をあいついで攻略し、劉邦軍はちりぢりになるまで撃破された。しかし、のちに劉邦は楚軍が氾水をなかばわたる時機をまちかまえて、ついに楚軍を大いにやぶり、成皐を奪回した。

〔25〕 昔の昆陽の城は、いまの河南省葉県にある。西紀二三年、劉秀(東漢光武帝)がここで王莽の軍隊をうちやぶった。この戦いでは、双方の兵力の差がはなはだしく、劉秀の軍隊はわずか八、九千人しかなかったのに、王莽の軍隊は四十余万であった。しかし、劉秀は王莽の将軍王尋、王邑が敵をみくびって、ゆるんでいた弱点を利用して、精兵三千人をひきいて、王莽の軍隊の中堅を突破し、勢いに乗じて進撃し、敵軍を大いにやぶった。

〔26〕 官渡はいまの河南省中牟県の東北部にある。西紀二〇〇年、曹操の軍隊と袁紹の軍隊がこの一帯で戦った。当時袁紹は十万の兵をもっていたが、曹操は兵もすくなく糧秣もつきはてていた。しかし曹操は、袁軍が敵をみくびって防備をしていないのに乗じて、軽装備の軍隊で奇襲をおこない袁軍の輜重しちょうに火をはなった。袁軍があわてふためくところを曹軍か出撃し、その主力を殲滅した。

〔27〕 呉とは孫権の側をいい、魏とは曹操の側をいう。赤壁はいまの湖北省嘉魚県の東北の長江南岸にある。西紀二〇八年、曹操は五十余万の兵をひきい八十万と称して孫権を攻撃した。孫権は曹操の敵である劉備と連合し、兵三万をくりだし、曹軍に伝染病があることと水戦に不慣れなことを利用して、火攻めで曹軍の軍船を焼きはらい、これを大いにやぶった。

〔28〕 彝陵はいまの湖北省宜昌県の東にある。西紀二二二年、呉の将軍陸遜はここで蜀漢の劉備を大いにやぶった。この戦いの初期には、劉備軍は連戦連勝して、彝陵まですすみ、呉の国境内に五、六百華里もはいった。陸遜は七、八ヵ月ものあいだたてこもって戦わず、劉備軍の「兵が疲れ、士気がくじけ、うつ手がなくなる」まで侍って、追い風を利用して火をはなち、大いに蜀軍をやぶった。

〔29〕 西紀三八三年、東晋の将軍謝玄は、秦の君主苻堅を安徽省の[シ+肥]水で大いにやぶった。当時、苻堅は歩兵六十余万、騎兵二十七万、親衛隊三万余騎をもっていたのにたいし、東晋は水陸軍あわせてわずか八万しかなかった。両軍が[シ+肥]水をへだてて対峙していたとき、晋軍の将領は、敵軍がおごり高ぶっているのを利用して、秦軍にたいし、晋軍が[シ+肥]水をわたって決戦できるよう、[シ+肥]水北岸に戦場をあけてほしいと申しいれた。秦軍はその予期したとおり承諾したが、軍隊かびとたび後退しだすととどまらなくなったので、晋軍はその機に乗じて[シ+肥]水をわたって攻撃し、大いに秦軍をやぶった。

〔30〕 一九二七年八月一日、中国共産党は、蒋介石、汪精衛の反革命に反対し、一九二四年から一九二七年にかけての革命事業をつづけるため、江西省の省都南昌で有名な蜂起を指導した。この蜂起に参加した武装部隊は三万余人で、指導者には周恩来、朱徳、賀竜、葉挺らの同志がいた。八月五日、蜂起軍は予定の計画にしたがって南昌を撤退したが、広東省の潮州、汕頭一帯まで進んだときに挫折をこうむった。蜂起軍の一部は、のちに朱徳、陳毅、林彪らの同志にひきいられて、転戦をしながら、井岡山に到達し、毛沢東同志の指導する労農革命軍第一軍第一師団と合流した。

〔31〕 本巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』の注〔8〕を参照。

〔32〕 一九二七年九月、湖南・江西省境地区の修水、萍郷、平江、瀏陽などの県の人民武装組織は、毛沢東同志の指導のもとに、有名な秋収蜂起をおこし、労農革命軍第一軍第一師団をつくった。毛沢東同志はこの軍隊をひきいて井岡山につき、そこで湖南・江西辺区の革命根拠地をうちたてた。

〔33〕 AB団とは当時赤色地域にひそんでいた国民党の反革命特務組織のことである。ABとは英語のAnti-Bolshevik(反ボリシェビキ)の略語である。

〔34〕 江西省中部の[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江と東部の撫水の二つの川のあいだの地区をいう。

〔35〕 レーニンの『即時に単独講和し、領土割譲条約を締結する問題についてのテーゼ』、『奇妙なことと法外なこと』、『重大な教訓と重大な責任』、『戦争と平和にかんする報告』などの著作および『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第七章第七節を参照。

〔36〕 ここでいっているチベット族、回族とは、西康省一帯に住むチベット族と、甘粛省、青海省、新疆に住む回族をさす。

〔37〕 八股文とは十五世紀から十九世紀にかけての中国の封建王朝の官吏登用試験に規定された一種の特殊な文体である。八股文とは破題、承題、起講、入題、短股、中股、後股、束股の部分からなりたっており、「破題」は二句で、まず題目の要義を穿うがつ。「承題」はふつう三句か四句で、破題の意義をうけ、それを説明する。「起講」は全体を概説し、ここから論議がはじまる。「入題」は起講ののちに本願に入るところである。起股、中股、後股および束股のこの四段落が、はじめて正式の論議を展開するところで、中股は全文の中心となる。この四段落は、さらにそれぞれたがいに対比した字句をつかう二つの股からなりたち、全部で八股となるので、八股文とよばれ、あるいは八比ともよばれる。毛沢東同志がここでいっているのは、八股文を書くにあたって、一つの部分から他の部分にうつる展開過程のことをさしており、それを革命の発展の各段階にたとえたのである。だが、ふつうのばあい、毛沢東同志は八股文なるものを教条主義にたいするたとえや風刺につかっている。

訳注

① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注④を参照。

② ここでいう「部隊」は、だいたい連隊以下のものをさし、「兵団」は、だいたい師団以上のものをさす。

③ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注⑤を参照。

④ 本巻の『経済活動に心をそそげ』の注〔1〕を参照。

⑤ この会議は一九三五年一月、貴州省の遵義でひらかれた。この会議は、全力を集中して、当時決定的な意義をもっていた軍事上、組織上のあやまりの是正に全力を集中し、党中央における日和見主義路線の支配に終止符をうち、毛沢東同志を代表とする党中央の新しい指導を確立した。これは中国共産党内でもっとも歴史的意義をもつ転換である。

⑥ 「大後方制度に反対する」とは、五回目の反「包囲討伐」のとき、革命根拠地を「大後方」とみなし、一つの国家とみなして、「敵を国門の外でふせぎ」「一歩一歩さがっては抵抗していく」ことと「短距離強襲」などをやろうとする「左」翼日和見主義者のあやまった作戦原則に反対することである。「小後方制度を認める」とは、革命根拠地では、革命戦争を支援するのに分散した小規模な後方を利用すべきことを認めることである。

⑦ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔10〕を参照。

蒋介石の声明についての声明

(一九三六年十二月二十八日)

蒋介石チァンチェシー氏は、西安シーアンで、張学良チャンシュエリァン、楊虎城ヤンホーチョンの両将軍および西北地方の人民の抗日の要求をうけいれて〔1〕、まず、内戦をすすめている軍隊に陝西シャンシー、甘粛カンスー両省から撤退するよう命令した。これは、蒋介石氏が十年来のあやまった政策を転換しはじめたものである。このことは、内戦を指揮し、分裂をつくりだし、同時に今回の事変において蒋氏を死地におとしいれようとした日本帝国主義と中国の討伐派〔2〕の陰謀に打撃をあたえた。日本帝国主義と中国の討伐派の失望は、すでにはっきりとあらわれている。蒋氏がこのような覚醒かくせいをしめしたことは、国民党が十年来のあやまった政策をやめようとしていることのあらわれとみてよい。

蒋介石氏は、十二月二十六日、洛陽ルオヤンにおいて「張、楊にたいする訓戒のことば」といわれる声明を発表した。内容はあいまいな、ひねくったもので、中国の政治的文献のなかではじつに興味のある文章である。もし、蒋氏が、ほんとうに今回の事変からふかい教訓をくみとって、国民党の新生のためになんらかの努力をはらい、外国にたいしては妥協、国内にたいしては武力、人民にたいしては抑圧というその伝統的なあやまった政策をやめ、国民党を人民の願望にそむかないところにみちびこうとするならば、かれは、その誠意をしめすために、政治的に過去をふかく悔い、将来の道をひらくもっとよい文章をだすべきである。十二月二十六日の声明は、中国人民大衆の要求を満足させることはできない。

蒋氏の声明のなかには、称賛にあたいする一節がある。それは、「言った以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやる」というくだりである。それは、かれが西安で張、楊のだした条件に署名はしなかったが、国家、民族に有利なそれらの要求は採用するつもりであり、署名しなかったからといって約束をまもらないようなことはない、という意味である。われわれは、蒋氏が撤兵したあとで、はたして確実に信義をまもるかどうか、承諾した条件を実行するかどうかを見まもることにしよう。条件というのはつぎのようなものである。(一)国民党と国民政府を組織がえし、親日派を追いだし、抗日的人物をいれること。(二)上海シャンハイの愛国的指導者たち〔3〕を釈放し、すべての政治犯を釈放し、人民の自由の権利を保障すること。(三)「共産党討伐」の政策をやめ、赤軍と連合して抗日すること。(四)各党、各派、各界、各軍隊による救国会議を招集し、抗日救国の方針をきめること。(五)中国の抗日に共鳴する諸国と協力関係をうちたてること。(六)その他具体的な救国措置をとること。これらの条件を実行するには、なによりもまず確実に信義をまもることが必要であるし、またいくらかの勇気も必要である。われわれは、蒋氏の今後の行動のなかでそれを観察することにしよう。

しかし、蒋氏の声明のなかには、さらに西安事変は「反動派」の包囲による、ということばがある。残念ながら、かれのいう「反動派」なるものは、いったいどんな人物をさしているのか、蒋氏は説明していないし、また「反動派」という三字を蒋氏の辞典のなかではどのように解釈しているのかもわからない。だが、西安事変はつぎのようないくつかの勢力の影響をうけておこったことはたしかである。(一)張、楊両部隊と西北地方の革命的人民の抗日の波の高まり。(二)全国人民の抗日の波の高まり。(三)国民党左派勢力の発展。(四)各省実力派の抗日救国の要求。(五)共産党の抗日民族統一戦線の主張。(六)世界の平和陣営の発展。これらはすべて争うことのできない事実である。蒋氏のいう「反動派」とはほかでもなくこれらの勢力のことであり、人びとが革命派とよんでいるものを、蒋氏は「反動派」とよんでいるにすぎない。蒋氏は西安で本気になって抗日するという話をしたからには、西安をはなれたとたんにまた全力をあげて革命勢力を攻撃するようなことはやるまい。なぜなら、信義の問題は蒋氏とその一派の政治生命にかかわるばかりでなく、また現実の政治の道においても、蒋氏とその一派の前には、かれらにとって不利な、大きくふくれあがっている勢力が横たわっているからである。西安事変にあたって蒋氏を死地におとしいれようとしたいわゆる討伐派がそれである。だから、われわれとしては、蒋氏に、その政治辞典を改訂して、「反動派」という三字を革命派という三字にあらため、名実あいともなうようにしたほうがよいと忠告する。

蒋氏は、かれが無事に西安をはなれることのできたのには、西安事変の指導者、張、楊両将軍のほかに、じつに共産党の調停が力になっていることを、記憶しておくべきである。共産党は、西安事変中、平和的解決を主張するとともに、そのためにさまざまな努力をはらったが、それはもっぱら民族の生存という観点から出発したものである。もし、内戦が拡大し、張、楊が長いあいだ蒋氏を監禁したとすれば、事変の進展はいたずらに日本帝国主義と中国の討伐派を有利にするだけであった。このような事情のもとで、共産党は日本帝国主義と中国の討伐派汪精衛ワンチンウェイ〔4〕、何応欽ホーインチン〔5〕らの陰謀を断固として暴露し、この事変の平和的解決を断固として主張した。これが張、楊両将軍および宋子文ソンツーウェン氏〔6〕らの国民党員の主張と、はからずも一致したといえる。これが全国人民の主張である。なぜなら、人民は現在の内戦をひどく憎んでいるからである。

蒋氏は、西安での条件をうけいれたので、すでに自由をとりもどした。今後の問題は、蒋氏がかれ自身の「言った以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやる」という約束をかけ値なしに実行し、救国の条件をぜんぶ確実に実現するかどうか、ということである。全国人民は、蒋氏にこれ以上ためらったり、額面通り実行しなかったりすることを許さないであろう。蒋氏がもし抗日問題でぐらつき、その約束の実行をひきのばそうとするなら、全国人民の革命の波はかならず蒋氏を巻きさらってしまうであろう。古語にも「人にして信なくんば、その可なるを知らず」といわれている。蒋氏とその一派はふかくこの点に注意すべきである。

蒋氏がもし国民党十年来の反動政策のよごれを洗いおとし、外国にたいしては譲歩、国内にたいしては武力、人民にたいしては抑圧というかれの根本的なあやまりを徹底的にあらため、ただちに各党各派の連合した一致抗日の戦線にはせ参じ、軍事的にも政治的にも、実際に救国のための段どりをとることができるならば、共産党はもちろんかれを支持するであろう。共産党は、はやくも八月二十五日付の国民党あての書簡で、蒋氏と国民党にこうした支持を約束している〔7〕。共産党が「言った以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやる」ことは、十五年このかた、全国人民のすでにみとめているところである。共産党の言動にたいする全国人民の信頼は、国内のいずれの党派の言動にたいする信頼よりもじつに高いのである。

注

〔1〕 張学良をはじめとする国民党東北軍と楊虎城をはじめとする国民党第十七路軍は、中国赤軍と人民の抗日運動の影響をうけて、中国共産党が提起した抗日民族統一戦線に賛成し「蒋介石に共産党と連合して抗日するよう要求した。蒋介石はこの要求を拒絶したばかりでなく、いっそう道理にもとる行動をとり、積極的に「共産党討伐」の軍事配置をととのえるとともに、西安で抗日青年を虐殺した。そこで張学良と楊虎城は共同行動をとり、蒋介石を逮捕した。これが一九三六年十二月十二日の有名な西安事変である。当時、蒋介石は共産党と連合して抗日するという条件をやむをえすうけいれて、釈放され、南京へ帰った。

〔2〕 これは西安事変のとき、張学良と楊虎城を「討伐」するよう主張し、蒋介石と権力争いをしていた南京国民党政府内部の親日派をさす。汪精衛、何応欽をかしらとするこれらのものは、日本帝国主義の進攻に便宜をあたえ、磯に乗じて蒋介石の支配的地位を奪いとるために、西安事変を利用して大規模な内戦をおこそうとしていた。

〔3〕 上海の愛国的な指導者とは、上海で抗日の愛国運動を指導した沈鈞儒、章乃器、鄒韜奮、李公樸、沙千里、史良、王造時の七人をさす。かれらは一九三六年十一月に蒋介石政府に逮捕され、一九三七年七月にようやく釈放された。

〔4〕 汪精衛は当時国民党内の親日派の首領であった。一九三一年から、かれは日本帝国主義の侵略にたいし一貫して妥協を主張していた。一九三八年十二月、かれは重慶をはなれて公然と日本侵略者に投降し、南京かいらい政府を組織した。

〔5〕 何応欽は国民党の軍閥で、国民党内の親日派のもうひとりの首領である。西安事変のなかで、かれは国内戦争の挑発を極力画策し、隴海鉄道に沿って陝西省に進攻するよう、国民党の軍隊を配置するとともに、蒋介石の地位にとってかわるため、西安を爆撃して蒋介石を爆死させる計画をたてていた。

〔6〕 宋子文は親米派である。当時、極東で支配権を争っていた米、日両帝国主義の矛盾から、かれはアメリカの利益にもとづいて、やはり西安事変の平和的解決を主張した。

〔7〕 この書簡は、国民党の反動支配と当時の国民覚中央執行委員会第二回全体会議にたいして、道理にかなった手きびしい批判をくわえると同時に、抗日民族統一戦線を結成することと、あらためて国共合作を実現する用意があることについての中国共産党の政策をあきらかにしたものである。この書簡の主要な部分はつぎのとおりである。「貴党中央執行委員会第二回全体会議のいっている『集中と統一』は、あまりにも本末を転倒している。十年来の内戦と不統一は、まったく貴党と貴党政府の帝国主義に依存して国をあやまらせる政策、ことに『九・一八』いらいの一貫した無抵抗政策によってつくりだされたものであることを知らなければならない。貴党と貴党政府は『外敵を打ちはらうには、まず国内を安んぜよ』というスローガンのもとに、毎年たえまなく内戦をくりびろげ、赤軍にたいしては幾度となく包囲攻撃をおこない、全国人民の愛国運動や民主運動にたいしては全力をあげて弾圧をくわえてきた。最近になってもまだ、東北や華北をすててかえりみず、日本帝国主義が中国の最大の敵であることをわすれ、全力をあげて、赤軍に反対するとともに、貴党員身の陣営内の争いを事とし、また全力をあげて、赤軍の抗日への進路をさえぎり、赤軍の抗日の後方を攪乱し、全国人民の抗日の要求を無視し、全国人民の自由の権利をうばっている。愛国は罪とされ、無実の罪を負うもの全国にみち、売国は賞せられ、民族裏切り者が好運を祝いあっている。このようなあやまった政策によって集中と統一をはかろうとすることは、まさに木によって魚を求めるものであり、まったく逆の結果になる。われわれはここに諸先生に忠告する。もし、諸君が自分のあやまった方針を根本的にあらためないならば、また、憎しみを依然として自己の同胞にむけ、日本帝国主義にむけようとしないならば、諸君が現状をいかに維持しようとしても、不可能であるし、まして集中と統一とか、いわゆる『近代国家』などは、まったく空論となる。全国人民がいま望んでいるのは、外国にへつらい、人民をふみにじる集中と統一ではなくて、抗日救国のための集中と統一なのである。全国人民はいま、真に国を救い人民を救う政府をつよく求め、真の民主共和国をつよく求めている。全国人民は自分たちの利益をはかる民主共和政府を求めている。この政府の主要な綱領はつぎのようなものでなければならない。第一は、外国の侵略に抵抗しうること、第二は、人民に民主主義の権利をあたえうること、第三は、国民経済を発展させ、人民の生活上の苦痛を軽減ないし除去しうることである。『近代国家』というからには、これらの綱領こそ植民地・半植民地の中国がいまの時代にほんとうに求めているものなのである。全国の人民は、現在この目標実現のために、心からの願望と確固たる決意をもってたたかっている。しかるに、貴党と貴党政府の政策は、こうした全国人民の願望とまったく逆行しており、それで人民の信頼をえようとしてもまったく不可能である。中国共産党と中国赤軍は、ここにとくに厳粛に宣言する。われわれは、全中国の統一的な民主共和国の樹立に賛同し、普通選挙権によって選出された国会の招集に賛同し、全国人民と抗日軍隊による抗日救国代表大会を支持し、全国的な統一的国防政府を支持するものである。われわれはつぎのように宣言する。全中国の統一的な民主共和国が樹立されたときには、赤色地域は全中国の統一的な民主共和国の一構成部分となり、赤色地域の人民の代表は、全中国の国会に参加するし、また赤色地域では全中国と同様の民主制度を実行するものである。われわれは、貴党の中央執行委員会第二回全体会議で組織することを決定した国防会議、および貴境と貴党政府が招集しようとしている国民大会では、集中と統一による抗日救国の任務の達成は不可難と考える。貴党中央執行委員会第二回全体会議で採択した国防会議条例によれば、国防会議は、貴境と貴党政府において実権をにぎっている少数の官吏だけによって組織され、国防会議の任務はたんに貴党政府の諮問機関にすぎなくなる。このような会議では、いかなる成果もおさめられず、人民のいかなる信任もえられないことは、きわめてあきらかである。そして、貴党政府採択の『中華民国憲法草案』と『国民大会組織法および代表選挙法』によれば、諸先生の招集しようとする国民大会も、同様に、いかなる成果もおさめられないし、人民のいかなる信任もえられない。なぜなら、このような国民大会は、貴党と貴党政府の少数の官吏たちによってあやつられる機関にすぎず、これらの官吏たちの付属品、装飾品にすぎないからである。このような国防会議と国民大会は、わが党の主張する全国抗日救国代表大会(すなわち国防会議)と中華民主共和国やその国会とはなんの共通点もない。抗日救国の国防会議は、各党、各派、各界、各武装組緘の代表者を参加させて、真に抗日救国の大計を決定しうる権力機関とならなければならず、この会議から全国的な統一国防政府をうみださなければならないものと、われわれは考える。国民大会も、全国人民が普通選挙で選出した国会でなければならず、中華民主共和国の最高権力機関でなければならない。このような国防会議と全国的な国会だけが、全国人民によって歓迎され、支持され、参加されうるものであり、国を救い人民を救う偉大な事業を確固不動の基礎にすえることができる。さもなければ、いかに耳ざわりのよい名称も、けっして、実際には役にたたないし、全国人民から賛成されはしない。貴党と貴党政府がこれまでに招集してきたいろいろの会議の失敗こそ、そのもっともよい証左である。貴党の中央執行委員会第二回全体会議の宣言はさらにつぎのようにものべている。『前途のけわしさはもとより予測しうるが、国事の困難を理由に、そのつくすべき職責をみずからおこたるようなことは断じてしない』、『わが党は国家の興亡にたいし、終始一貫、全知全能をかたむけるべきである。』たしかに貴党は中国の領土の最大部分を支配している政党であり、従来おこなわれた政治のすべての責任は、貴党がおわなければならない。一党独裁の国民党政府のもとでは、自民党はその責任からけっしてのがれることはできない。とくに、九・一八事変以来、貴党は、全国の人民の意思にそむき、全民族の利益にそむいて、完全にあやまった政策を実行し、中国のほとんど半分を喪失する結果をまねいた。この責任はぜったいに他のいかなる人にもおしつけることのできないものである。われわれおよび全国の人民からみれば、中国の半分が貴党によってうしなわれているので、どうしても領土主権回復の責任を貴党に課すとともに、それを督促しないではおれない。同時に、貴党のなかの多くの良心的な人びとも、いまでは亡国のおそろしさと民意の侮るべからざることをはっきりさとって、あらたな転換をしはじめ、自分の党内にいる、党と国家に災いをもたらす連中にたいして、怒りと不満をいだきはじめている。中国共産党は、このようなあらたな転換に完全に共鳴し、愛国心をもつ良心的な中国国民党員の意志と覚醒を心から歓迎し、民族の危機をまえにして、献身的にたたかい、勇敢に革新をはかろうとするその精神を歓迎するものである。貴党の中央執行委員会や各省の党部のなかにも、中央政府や各省政府のなかにも、また教育界、科学界、芸術界、新聞界、実業界、婦人界、宗教界、医薬界、警察方面、各種の大衆団体にも、とくに広範な軍隊、国民党の新旧党員および各級の指導者のなかにも、覚醒した、愛国的な人びとが、実際に多くおり、しかも日ごとにふえつつあることを、われわれは知っており、これは非常によろこばしい現象である。中国共産党は、いつでも、これらの国民党員と手をたすさえ、強固な民族統一戦線を組織して、全民族の最大の敵――日本帝国主義とたたかう用意がある。われわれは、これらの国民党員が国民党内で急速に支配的な勢力を形成していって、民族の利益をかえりみす、実際には日本帝国主義の代理人となり親日的民族裏切り者となりさがった、もっとも悪質な、もっとも恥すべき国民党員、孫中山先生を侮辱するあの国民党員どもを圧倒して、孫中山先生の革命的三民主義の精神をとりもどし、孫中山先生の、連ソ、連共、農労援助という三大政策をふたたびふるいおこし、『終始』、自己の『全知全能をかたむけて』、革命的三民主義とその三大政策を『一貫』させ、孫中山先生の革命の遺言を『一貫』させることを希望する。われわれは、かれらが全国の各党、各派、各界の愛国的指導者や愛国的人民とともに、断固として、孫中山先生の革命事業をうけつぐ責任をおい、断固として日本帝国主義を追いだし、中国を滅亡の危機から救うためにたたかい、全国人民の民主主義の権利のためにたたかい、中国の国民経済を発展させて最大多数の人民の苦痛を除くためにたたかい、中華民主共和国およびその民主的国会、民主的政府を実現するためにたたかうよう希望する。中国共産党はすべての中国国民党員につぎのように宣言する。もしも、諸君がほんとうにそうするならば、われわれは断固として諸君をたすける。われわれは、一九二四年から一九二七年までの中国の偉大な革命の時期に、両党が民族的抑圧と封建的抑圧に反対する偉大な統一戦線を結成したのとおなじように、諸君と強固な革命的な統一戦線を結成することを望んでいる。これこそがこんにち、国を滅亡から救い、民族の生存をはかるただ一つの正しい道だからである。」

抗日の時期における中国共産党の任務

(一九三七年五月三日)

これは、毛沢東同志が一九三七年五月、延安でひらかれた中国共産党全国代表者会議でおこなった報告である。

民族的矛盾および国内的矛盾の当面の発展段階

(一)中国と日本との矛盾が主要な矛盾になり、国内的矛盾が副次的、従属的な地位にさがったことによってうまれた国際関係と国内の階級関係の変化が、当面の情勢の新しい発展段階を形成している。

(二)中国は、ずっとまえから、ニつのはげしい基本的な矛盾――帝国主義と中国とのあいだの矛盾、封建制度と人民大衆とのあいだの矛盾のなかにおかれてきた。一九二七年に、国民党を代表とするブルジョア階級が革命を裏切り、民族の利益を帝国主義に売りわたしたことによって、労農政権は国民党政権と鋭く対立し、また民族民主主義革命の任務は中国共産党がひとりでになわなければならない情勢がつくりだされた。

(三)一九三一年の九・一八事変、とくに一九三五年の華北事変〔1〕いらいの情勢は、これらの矛盾につぎのような変化をおこさせた。

(1)帝国主義一般と中国との矛盾は、日本帝国主義と中国との、とくにきわだった、とくに鋭い矛盾に変わった。日本帝国主義は、中国を完全に征服する政策を実行している。このため、他の一部の帝国主義と中国との矛盾は、副次的な地位におしやられ、そしてそれらの帝国主義と日本帝国主義とのあいだでは、矛盾の裂け目がいっそう拡大した。このため、中国共産党と中国人民のまえには、中国の抗日民族統一戦線と世界の平和戦線とをむすびつける任務が提起されている。すなわち、中国は、中国人民の終始変わらぬよき友であるソ連と連合しなければならないばかりでなく、いまのところ、新しい侵略戦争に反対し、平和を保つことをのぞんでいる一部の帝国主義国とも、その可能性に応じて、ともに日本帝国主義に反対する関係をうちたてなければならないということである。われわれの統一戦線は、すべての帝国主義に同時に反対するのではなくて、抗日を目的とすべきである。

(2)中国と日本との矛盾は、国内の階級関係に変化をおこさせ、ブルジョア階級、さらに軍閥にさえも、存亡の問題につきあたらせており、かれらとその政党の内部には、しだいにその政治的態度を変える過程がうまれた。このことが、中国共産党と中国人民のまえに、抗日民族統一戦線をうちたてる任務を提起した。われわれの統一戦線は、ブルジョア階級および祖国の防衛に賛成するすべての人びとをふくみ、挙国一致して外にあたるものである。この任務は、やりとげねばならないだけでなく、やりとげることのできるものである。

(3)中国と日本との矛盾は、全国の人民大衆(プロレタリア階級、農民および都市小ブルジョア階級)と共産党の状態および政策に変化をおこさせた。人民はいっそう大きな規模で、救国のたたかいに立ちあがっている。共産党は、三つの条件(革命根拠地にたいする進攻を停止すること、人民の自由の権利を保障すること、人民を武装すること)のもとで、われわれと協力して抗日することをのぞむ国民党内の一部の人びとと抗日協定をむすぶという「九・一八」以後の政策を、全民族の抗日統一戦線をうちたてる政策に発展させた。これが、わが党の一九三五年八月の宣言〔2〕、十二月の決議〔3〕、一九三六年五月の「反蒋」スローガンの放棄〔4〕、八月の国民党への書簡〔5〕、九月の民主共和国についての決議〔6〕、十二月の西安シーアン事変にたいする平和的解決の堅持、一九三七年二月の自民党中央執行委員会第三回全体会議への電報〔7〕などの措置をとってきた理由である。

(4)帝国主義の勢力範囲をつくる政策と中国の半植民地的経済状態からうまれた、中国における軍閥の割拠や軍閥間の内戦にも、中国と日本との矛盾をまえにして、変化がおきている。日本帝国主義は、中国を独占するのに都合のよいように、そうした割拠と内戦を支持している。他の一部の帝国主義は、かれら自身の利益から、一時的に中国の統一と平和を支持している。中国共産党と中国人民は、内戦と分裂に反対し、平和と統一をたたかいとるのに、非常に大きな努力をはらっている。

(5)中国と日本との民族的矛盾の発展は、政治的比重のうえで、国内各階級間の矛盾と政治集団間の矛盾の地位を引きさげ、それらを副次的な、従属的なものに変えた。しかし、国内の各階級間の矛盾と政治集団間の矛盾そのものは、べつに減少したのでも消滅したのでもなく、依然として存在している。中国と日本以外の他の帝国主義諸国とのあいだの矛盾もまたそのとおりである。したがって、中国共産党と中国人民のまえにはつぎのような任務が提起された。すなわち、いま調整することができ、また調整しなければならない国内的、国際的な矛盾を、団結して抗日するという全般的任務に適合させるよう、適切に調整することである。これが、中国共産党の平和と統一、民主的政治、生活改善、および日本に反対する外国との交渉などを要求する、さまざまな方針をとってきた理由である。

(四)一九三五年十二月九日からはじまった中国革命の新しい時期の第一段階は、一九三七年二月の国民党中央執行委員会第三回全体会議のときをもって、一段落をつげた。この段階での重要なできごとは、学生、文化人、言論界の救国運動、赤軍の西北地方への到達、共産党の抗日民族統一戦線政策の宣伝と組織活動、上海シャンハイと青島チンタオの反日ストライキ〔8〕、イギリスの対日政策の比較的強硬化の傾向〔9〕、広東コヮントン・広西コヮンシーの事変〔10〕、綏遠スイユァン戦争と綏遠援助運動〔11〕、中日交渉における南京ナンチンの比較的強硬な態度〔12〕、西安事変、そして最後に、南京の国民党中央執行委員会第三回全体会議〔13〕である。これらのできごとは、すべて中国と日本の対立という基本的矛盾を中心としており、いずれも直接に抗日民族統一戦線の結成という歴史的要求を中心としている。この段階での革命の基本的任務は、一致団結して、ともに抗日するために、国内の平和をたたかいとり、国内の武装衝突を停止させることである。共産党はこの段階で、「内戦を停止し、一致して抗日せよ」というよびかけをだした。このよびかけは基本的に実現された。こうして、抗日民族統一戦線を実際に組織していくうえでの第一の必要な条件ができあがった。

(五)国民党中央執行委員会第三回全体会議は、その内部に親日派が存在していることから、政策の明確な、徹底した転換をしめさなかったし、問題を具体的に解決しなかった。ところが、人民からの圧力と国民党内部の変動によって、国民党は過去十年間のあやまった政策を転換しはじめなければならなくなった。すなわち、内戦と独裁と対日無抵抗政策から、平和と民主と抗日の方向への転換であり、抗日民族統一戦線政策をうけいれはじめたことである。このような初歩的な転換が、国民党中央執行委員会第三回全体会議にあらわれてきたのである。今後の要求は、国民党の政策の徹底的な転換である。こうした目的をたっするには、われわれおよび全国の人民が、国民党にたいする批判、推進、督促をさらにつよめ、国民党内の平和と民主と抗日を主張する人びとと団結し、動揺しためらっている人びとを前におしすすめ、親日分子を排除し、抗日と民主主義の運動をいっそう大きく発展させることが必要である。

(六)当面の段階は、新しい時期の第二の段階である。まえの段階もこの段階も、全国的な対日武力抗戦へとすすむ過渡的段階である。まえの段階の任務が主として平和をたたかいとることであったとすれば、この段階の任務は主として民主主義をたたかいとることである。ほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたてるには、国内の平和がなければならないことはもちろんであるが、国内の民主主義もなければならないことを知るべきである。したがって、民主主義をたたかいとることは、当面の発展段階での革命の任務の中心的な環である。民主主義的任務の重要性をはっきり見てとらず、民主主義をたたかいとる努力をゆるめるならば、われわれは、ほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたてることはできないであろう。

民主と自由のためのたたかい

(七)日本帝国主義は、いま中国中心部にたいする侵略準備に、拍車をかけている。ヒトラーやムッソリーニが西方で準備に拍車をかけている強盗戦争に呼応して、日本は東方で、既定の段どりにしたがって、中国を一挙に滅ぼす条件――国内の軍事的、政治的、経済的、思想的条件、国際上の外交的条件、中国での親日勢力の育成――をあらゆる精力をかたむけて準備している。「中日提携」なるものの宣伝や、一部の外交的措置の緩和は、まさに戦争前夜における日本の侵略政策の戦術的必要からでている。中国はその存亡をきめる瀬戸ぎわにおいこまれている。中国の救国抗戦は、駆け足で準備されなければならない。われわれは、準備に反対するものではないが、長期準備論には反対であり、また官吏や軍人の安楽をむさぼり、飽食して日をすごす亡国的現象には反対する。こうしたことは、実際には敵をたすけるもので、すみやかに一掃しなければならない。

(八)政治、軍事、経済、教育のうえで国防の準備をすることは、救国抗戦にとって欠くことのできない条件であり、一刻も猶予してはならないものである。そして、政治上の民主と自由をかちとることは、抗戦の勝利を保障する中心的な環である。抗戦には、全国的な平和と団結が必要であり、民主と自由がなければ、すでにかちとった平和をかためることもできなければ、国内の団結をつよめることもできない。抗戦には人民の動員が必要であるが、民主と自由がなければ、動員をするにもしようがない。強固な平和と団結がなく、人民の動員がなければ、抗戦の前途はエチオピアの二の舞いをふむことになる。エチオピアが敗北したのは、おもに内部の団結をかためることができず、人民の積極性を発揮させることのできない封建制度の支配によるものである。中国がほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたて、またその任務を達成するには、民主主義がなければだめである。

(九)中国は、ただちに、つぎの二つの面で民主的改革を実行しはじめなければならない。第一の面は、政治制度のうえで国民党による一政党、一階級だけの反動的独裁的政体を、各政党、各階級の協力による民主的政体にあらためることである。この面です、まず国民大会の選挙とその招集上の反民主的なやり方をあらためて、民主的な選挙を実行し、入会の自由な開催を保障することから、ほんとうの民主的憲法を制定し、ほんとうの民主的国会を招集し、ほんとうの民主的政府を選出し、ほんとうの民主的政策を実施することまでやらなければならない。そうしないかぎり、挙国一致して外敵に抵抗するために、ほんとうに国内の平和をかため、国内の武力による対立をやめさせ、国内の団結をつよめることはできない。しかし、われわれの改革が終わらないうちに、日本帝国主義が進攻してくるという事態がおこる可能性もある。したがって、日本の進攻にいつでも抵抗でき、それに徹底的にうち勝つためには、われわれはすみやかに改革をすすめなければならず、また抗戦の過程で徹底的改革にまですすむ心構えをすることである。全国人民および各政党の愛国的な人びとは、国民大会や憲法制定の問題にたいするこれまでの冷淡な態度をすて、国防的意義をもつこの具体的な国民大会運動と憲法運動に力を集中し、政権をにぎっている国民党をきびしく批判し、国民党がその一政党、一階級の独裁をすてて人民の意見を実行するように推進し督促しなければならない。ことしの数ヵ月のあいだに、全国で広範な民主主義運動をおこさなければならない。この運動の当面の目標は、国民大会と憲法の民主化の達成におくべきである。第二の面は、人民の言論、集会、結社の自由である。このような自由がなければ、政治制度の民主的改革を実現することもできず、祖国防衛と失地回復の勝利をかちとるよう人民を抗戦に動員することもできない。ここ数ヵ月のうちに、全国人民の民主主義運動は、政治犯の釈放、政党禁止の解除などをふくむこの任務の最低限度の達成をたたかいとらなければならない。政治制度の民主的改革と、人民の自由の権利は、抗日民族統一戦線の綱領の重要な部分であり、同時にそれは、ほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたてるための必要な条件でもある。

(一〇)われわれの敵――日本帝国主義、中国の民族裏切り者、親日派、トロツキストは、全力をあげて中国の平和と統一、民主と自由、および対日抗戦の一つ一つの段どりを破壊している。これまで、われわれが平和と統一のためにたたかっていたとき、かれらは、内戦と分裂を挑発することに全力をつくした。現在および近い将来、われわれが、民主と自由のためにたたかうとき、かれらはまたこれを破壊しようとするにちがいない。かれらの総目標は、祖国を防衛するわれわれの抗戦任務を成功させないようにし、中国を滅亡させようとするかれらの侵略計画の目的を達成することにある。今後、民主と自由をたたかいとる闘争では、国民党の頑迷派や人民内部のおくれた層にたいする宣伝、扇動および批判の活動に力をいれるだけでなく、日本帝国主義および日本の中国侵略の手先をつとめる親日派とトロツキストの陰謀にたちむかい、あますところなくこれを暴露し、断固としてこれとたたかわなければならない。

(一一)平和と民主と抗戦のために、また抗日の民族統一戦線をうちたてるために、中国共産党は、すでに国民党中央執行委員会第三回全体会議にあてた電報のなかで、つぎの四項目を保証している。(イ)共産党の指導する陝西シャンシー・甘粛カンスー・寧夏ニンシァ革命根拠地の政府は、中華民国特別地区政府と改称し、赤軍は国民革命軍と改称して、南京中央政府および軍事委員会の指示をうけること。(ロ)特別地区政府の地域内では、徹底的な民主制度を実行すること。(ハ)国民党を武力によってうちたおす方針をとりやめること。(ニ)地主の土地の没収をとりやめること。これらの保証は、必要なことであり、またゆるされることである。なぜなら、そうしないかぎり、民族的矛盾と国内的矛盾の政治的比重のうえでの変化にもとづいて、国内の二つの政権の敵対状態をあらため、一致団結し、ともに敵にあたることはできないからである。これは、原則性のある条件つきの譲歩であり、このような譲歩をするのは、そのかわりとして全民族が必要としている平和、民主、抗戦を手にいれるためである。だが、譲歩には限度がある。特別地区と赤軍のなかでの共産党の指導の確保、国民党と共産党の両党の関係における共産党の独立性と批判の自由の確保、これが譲歩の限度であり、この限度をこえることはゆるされない。譲歩は両党の譲歩である。国民党は内戦、独裁および対外無抵抗政策を放棄し、共産党は二つの政権の敵対という政策を放棄することである。われわれは、後者によって前者を手にいれ、あらためて国民党と協力し、救国のためにたたかうのである。これを共産党の降伏だというならば、それは阿Q主義〔14〕と悪意にみちた中傷でしかない。

(一二)共産党は三民主義に賛成するのか。賛成するとわれわれは答える〔15〕。三民主義には歴史上変化があった。孫中山スンチョンシャン先生の革命的三民主義は、かつて孫中山先生が共産党と協力し、それを断固として実行したことによって人民の信頼をかちとり、一九二四年から一九二七年までの勝利にかがやく革命の旗じるしとなった。ところが、一九二七年に国民党は共産党を排斥し(清党運動〔16〕と反共戦争)、まったく反対の政策をとって、革命を失敗させ、民族を危険な状態におとしいれたので、三民主義も人民から信頼をうしなった。現在、民族の危機はきわめて重大で、国民党は、もはやいままでどおりの支配をつづけられなくなったので、全国の人民や国民党内の愛国的な人びとは、両党が協力することをふたたび切実に要求している。したがって、三民主義の精神をたてなおし、対外的には独立と解放をたたかいとる民族主義、対内的には民主と自由を実現する民権主義および人民の幸福を増進する民生主義のもとで、両党がふたたび協力し、また断固それを実行するよう人民を指導することは、中国革命の歴史的要求に完全に合致するものであって、共産党員はだれでもこれをはっきりと認識していなければならない。共産党員は、けっして社会主義と共産主義の理想をすてるものではなく、ブルジョア民主主義革命の段階をへて社会主義と共産主義の段階に到達しようとするものである。中国共産党は自分の政治経済綱領をもっている。その最高の綱領は社会主義および共産主義であって、それは三民主義とはちがっている。その民主主義革命の時期における綱領もまた、国内のどの政党のものよりも徹底している。しかし、共産党の民主主義革命の綱領は、国民党の第一回全国代表大会で宣言された三民主義の綱領と、基本的には衝突しない。だから、われわれは、三民主義を拒否しないばかりか、三民主義を断固実行する考えであり、しかも、国民党にわれわれとともに三民主義を実行するよう要求し、また全国の人民に三民主義を実行するようよびかけるものである。共産党、国民党、全国の人民は一致協力して、民族の独立、民権の自由、民生の幸福という、この三大目標のために奮闘しなければならないものとわれわれは考える。

(一三)われわれのこれまでの労農民主共和国のスローガンは、まちがっていたであろうか。まちがってはいなかった。ブルジョア階級、とくに大ブルジョア階級が、革命から脱落し、しかも帝国主義と封建勢力に身を投じ、人民の敵となった以上、革命の原動力は、ただプロレタリア階級、農民および都市の小ブルジョア階級だけとなり、革命の政党は、ただ共産党だけとなり、革命を組織する責務は、唯一の革命政党としての共産党の肩にかかってこざるをえなかった。共産党だけが、革命の旗を高くかかげつづけ、革命の伝統をまもり、労農民主共和国のスローガンをかかげ、しかも、そのスローガンのために長い年月のあいだ困難にめげず奮闘してきた。労農民主共和国のスローガンは、ブルジョア民主主義革命の任務にそむくものではなくて、ブルジョア民主主義革命の任務を断固として実行するものである。実際のたたかいにおいてわれわれの政策はなに一つとしてこの任務に反するものはなかった。地主の土地の没収と八時間労働制の実施をふくむわれわれの政策は、資本主義的範疇はんちゅうでの私有財産制の限界をこえるものではなかったし、社会主義を実行するものでもなかった。新しい民主共和国にふくまれる階級的要素とはどのようなものか。それにふくまれるものは、プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級、ブルジョア階級および民族民主主義革命に賛成する国内のすべての人びとであり、それは、これらの階級の民族民主主義革命の同盟である。ここでの特徴はブルジョア階級がふくまれることであり、それは、こんにちの環境のもとで、ブルジョア階級にふたたび抗日に参加する可能性がでてきたので、プロレタリア階級の政党としては、かれらを拒否すべきではなく、中国革命の前進に役立てるために、かれらをひきいれ、かれらとともにたたかう同盟を復活しなければならないからである。国内の武力衝突を停止させるために、共産党は、地主の土地を暴力によって没収する政策をとりやめるつもりであり、土地問題は、新しい民主共和国を建設する過程で、立法的な方法や別の適切な方法で解決する用意がある。中国の土地は、日本人のものか、それとも中国人のものか。これがまず解決されなければならない問題である。中国を防衛するという大前提のもとで、農民の土地問題を解決するからには、暴力によって没収する方法から新しい適切な方法に転換することは、ぜひとも必要なことである。

労農民主共和国のスローガンが以前提起されたことも、こんにち放棄されたことも、どちらも正しい。

(一四)民族統一戦線をうちたて、ともに敵にあたるためには、国内の一部の矛盾を適切に解決しなければならない。それは、抗日民族統一戦線をよわめたり、せばめたりすることではなく、その強化と拡大に役立つことを原則とすべきである。民主主義革命の段階では、国内の各階級間、各政党間、各政治集団間の矛盾と闘争は、さげられないものである。だが、団結して抗日することにとって不利な闘争(国内戦争、政党間の敵対、地方的割拠、一方における封建的な政治的抑圧および経済的抑圧、他方における暴動政策および抗日に不利な過大な経済的要求など)は停止できるし、また停止しなければならず、団結して抗日することにとって有利な闘争(批判の自由、政党の独立性、人民の政治的条件および経済的条件の改善など)は持続していく。

(一五)抗日民族統一戦線と統一的な民主共和国のためにたたかうという全般的任務のもとでの、赤軍と抗日根拠地の任務はつぎのとおりである。(1)赤軍を抗日戦争という状況に適応させるよう、ただちに国民革命軍に編成がえするとともに、軍事的、政治的、文化的教育をよりいっそうたかめて、抗日戦争における模範兵団につくりあげる。(2)根拠地を国家の一構成部分にかえ、新しい条件のもとでの民主制度を実行し、保安部隊を編成しなおし、民族裏切り者や攪乱かくらん分子を一掃して、抗日と民主の模範地域につくりあげる。(3)この地域内で必要な経済建設をおこない、人民の生活状態を改善する。(4)必要な文化建設をおこなう。

われわれの指導責務

(一六)一定の歴史的環境のもとでは、帝国主義や封建制度とのたたかいに参加しうる中国のブルジョア階級は、その経済的、政治的軟弱性から、他の歴史的環境のもとでは、動揺し変節する。この法則は、中国の歴史においてすでに証明されている。したがって、中国の反帝・反封建のブルジョア民主主義革命の任務を達成するには、ブルジョア階級の指導によるのではなくて、プロレタリア階級の指導によらなければならないことは、すでに歴史によって判定されている。しかも、ブルジョア階級のもつあの先天的な動揺性と不徹底性を克服して、革命を流産させないようにするには、民主主義革命のなかで、プロレタリア階級がその強靱きょうじん性と徹底性を十分に発揮する以外にない。プロレタリア階級をブルジョア階級に追随させるか、それともブルジョア階級をプロレタリア階級に追随させるか。中国革命を指導する責務というこの問題は、革命が成功するか失敗するかの鍵かぎである。一九二四年から一九二七年までの経験は、ブルジョア階級がプロレタリア階級の政治的指導にしたがったとき、革命がどんなに前進したか、プロレタリア階級(共産党が責任を負う)が政治的にブルジョア階級に追随してしまったとき〔17〕、革命はまたどんなに失敗をなめたかを、あきらかにしている。このような歴史を二度とくりかえしてはならない。いまの状況からいうならば、プロレタリア階級とその政党の政治的指導をはなれては、抗日民族統一戦線をうちたてることも、平和と民主と抗戦の目的を実現することも、祖国を防衛することも、統一的な民主共和国を実現することもできない。こんにちでも、国民党に代表されるブルジョア階級は、まだ多くの受動性と保守性をもっており、共産党が提唱した抗日民族統一戦線を長いあいだうけいれようとしなかったことが、その証拠である。このような状況が、プロレタリア階級とその政党の政治的指導の責務をさらに重くしている。抗日救国の参謀本部としての職責は、共産党にとって他に転嫁することも、また辞退することもできないものである。

(一七)プロレタリア階級は、その政党をつうじて、全国の革命的諸階級にたいして、どのように政治的指導を実現するか。第一に、歴史の発展過程にもとづいた基本的な政治的スローガンを提起し、またこのスローガンを実現するために、一つ一つの発展段階、一つ一つの重要なできごとについて、動員のスローガンを提起する。たとえば、われわれは「抗日民族統一戦線」と「統一的な民主共和国」という基本的なスローガンを提起し、さらに全国人民が一致して行動する具体的目標として「内戦を停止せよ」「民主主義をたたかいとろう」「抗戦を実行せよ」というスローガンを提起したが、このような具体的目標がなければ、政治的指導といったものはありえない。第二に、このような具体的目標にもとづいて全国的に行動に立ちあがったとき、プロレタリア階級、とくにその前衛――共産党は、これちの具体的目標を実現するうえでの模範となるよう自己のかぎりない積極性と忠実さをしめすべきである。抗日民族統一戦線と民主共和国についてのすべての任務のためにたたかうにあたって、共産党員は、もっとも遠い見通しをもち、もっとも犠牲的精神に富み、もっとも確固としており、またもっとも虚心に状況を把握はあくすることができ、大衆の多数に依拠し、大衆の支持をかちとるようにしなければならない。第三に、確定した政治目標をみうしなわないという原則のもとに、同盟者と適切な関係をうちたて、この同盟を発展、強化させる。第四に、共産党の隊列の拡大と思想の統一、規律の厳格さである。全国の人民にたいする共産党の政治的指導は、以上のべたこれらの条件を実行することによって実現される。これらの条件は自己の政治的指導を保障する基礎であり、また革命が同盟者の動揺性によって破壊されることなく、徹底的な勝利をかちとる基礎でもある。

(一八)平和が実現し、両党の協力関係が成立したのちには、いままで二つの政権が敵対していたときの路線のもとでの闘争方式や組織方式や活動方式には、なんらかの変更がなされなければならない。それは主として、武力的なものから平和的なものにうつり、非合法的なものから合法的なものにうつることである。このような転換は、たやすいものではなく、あらためて学習する必要がある。幹部をあらためて訓練することがその主要な環になる。

(一九)民主共和国の性格と前途の問題については、多くの同志からすでに提起された。われわれの答えはつぎのとおりである。その階級的性格は革命的諸階級の同盟であり、その前途は社会主義にすすむ可能性をもっている。われわれの民主共和国は、民族的抗戦の任務を遂行する過程で樹立されるものであり、プロレタリア階級の指導のもとで樹立されるものであり、新しい国際環境(ソ連における社会主義の勝利、世界革命の新しい時期の前夜)のもとで樹立されるものである。したがって、社会的、経済的条件からすれば、それはやはりブルジョア民主主義的性格の国家ではあるが、具体的な政治的条件からすれば、一般的なブルジョア共和国とは異なるもので、労働者、農民、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の同盟による国家でなければならない。したがって、その前途はやはり資本主義の方向にすすむ可能性をもってはいるが、同時にまた社会主義の方向に転ずる可能性をももっている。中国のプロレタリア政党はこの後者の前途をたたかいとるようつとめなければならない。

(二〇)閉鎖主義と冒険主義にたいする、同時にまた追随主義にたいするたたかいは、党の任務を遂行するための必要な条件である。わが党は、民衆運動において、ひどい閉鎖主義、高慢なセクト主義および冒険主義という伝統的傾向をもっている。これは党が抗日民族統一戦線をうちたて、多数の大衆を獲得することをさまたげる悪い傾向である。一つ一つの具体的な活動のなかでこのような傾向を一掃していくことは、ぜひとも必要である。われわれが要求することは、多数にたより、全局面に気をくばることである。陳独秀的追随主義の復活はゆるされない。これはプロレタリア階級の隊列におけるブルジョア改良主義の反映である。党の立場をひきさげ、党の姿をあいまいにし、労働者、農民の利益を犠牲にして、ブルジョア改良主義の要求に迎合することは、かならず革命を失敗にみちびくものである。われわれが要求することは、断固たる革命政策を実行し、ブルジョア民主主義革命の徹底的勝利をたたかいとることである。以上のべたような悪い傾向を克服する目的を果たすためには、全党的にマルクス・レーニン主義の理論的水準をたかめることがぜひとも必要である。なぜなら中国革命を勝利にみちびく指針としては、そうした理論しかないからである。

注

〔1〕 華北事変とは、一九三五年、日本侵略者が華北を侵略し、蒋介石をかしらとする国民党政府が華北で主権を売りわたした一連の事件をさす。同年五月、日本侵略者は、華北における支配権を国民党政府に要求し、華北における国民党政府代表何応欽は、六月に日本侵略者の華北駐屯軍司令官梅津美治郎と協定を結び、この要求をうけいれた。これがいわゆる「何応欽・梅津協定」である。この協定によって、中圏は河北省と察哈爾省の王権の大部分をうしなってしまった。日本侵略者はまた十月に河北省の香河県で民族裏切り者をさしずして、暴動をおこさせ、県部を占領させた。さらに十一月には、民族裏切り者をあやつって、「華北五省自治運動」なるものをおこすとともに、河北省東部の民族裏切り者の「防共自治政府」をつくった。国民党政府は日本侵略者の「華北政権特殊化」の要求に応ずるため、宋哲元らに命じて、「冀察政務委員会」をつくらせた。

〔2〕 これは一九三五年八月一日に中国共産党が発表した宣言をさす。この宣言の要点はつぎのとおりである。「わが国家、民族の滅亡の危機が目前にせまっているこのとき、共産党はかさねて、全国同胞によびかける。あらゆる国力(人力、物力、財力、武装力など)を集中して抗日救国の神聖な事業につくすために、各政党間に、過去および現在、政見や利害のうえでいかなるちかいがあろうと、また各界の同胞のあいだに、主張や利害のうえでいかなる相違があろうと、各軍隊間に、過去および現在、いかなる敵対行為があろうと、すべてのものが『兄弟牆かきに鬩せめげど、外その侮りを禦ふせぐ』という真の自覚をもつべきであり、まずすべてのものが内戦を停止すべきである。共産党はとくにかさねて厳粛に宣言する。国民党軍隊が赤軍攻撃の行動をやめさえすれば、またいかなる部隊であろうと対日抗戦を実行しさえすれば、過去および現在、かれらが赤軍とのあいだにいかなる宿怨を有しようと、また赤軍とのあいだに国内問題でいかなる相違があろうと、赤軍は、ただちに敵対行為を停止するばかりでなく、かれらとかたく手をむすび、ともに救国にあたりたいとのぞむものである。」「共産党はこのような国防政府樹立の発起人になる用意があり、また共産党は抗日救国事業への参加をねがう中国のあらゆる政党、団体(労働組合、農会、学生会、商業会議所、教育会、新聞記者連合会、教職員連合会、同郷会、致公堂、民族武装自衛会、反日会、救国会など)、知名人、学者、政治家、およびすべての地方軍政機関と共同して国防政府を樹立する問題についてただちに話しあいをする用意がある。話しあいによって樹立される国防政府は、国家、民族を滅亡から救う臨時指導機関となるべきである。この国防政府は抗日救国にかんするさまざまの問題をいっそう具体的に討議するために、真に全同胞を代表する(労働者、農民、軍人、官公吏、商工業者.知識層など各界の人びと、抗日救国をねがうすべての政党や団体、および国外の華僑や中国国内の各民族によって、民主的条件のもとで選出された代表)代表機関を招集する措置を講ずべきである。共産党は、このような全人民を代表する機関の招集をあくまでも支持するとともに、この機関の決議をあくまでも実行するものである。」「抗日連合軍は、抗日をねがうすべての部隊によって組織されるべきである。そして、国防政府の指導のもとに統一的な抗日連合軍総司令部がつくられる。この総司令部が、各軍の抗日をする長官および兵士によって選出された代表からなるか、あるいはその他の形式からなるかは、各方面の代表および全人民の共同の意思によって決定される。赤軍は抗日救国の使命をはたすために、あくまでも率先してこの連合軍にくわわる。国防政府が国防の重任を真ににないうるようにするために、また抗日連合軍が抗日の重責を真にはたしうるようにするために、共産党は全同胞につぎのようによびかける。わが全同胞を総動員し、新旧あらゆる武器をもって何百何千万の民衆を武装するために、金あるものは金を、武器あるものは武器を、食糧あるものは食糧を、力あるものは力を、専門技術あるものは専門技術を提供しよう。」

〔3〕 これは一九三五年十二月二十五日、陝西省北部の瓦窰堡でひらかれた中国共産党中央政治局会議で採択された「当面の政治情勢と党の任務についての決議」をさす。この決議は、当時の中国の内外情勢と階級関係の変化を全面的に分析して、党の政策を決定した。以下はこの決議の一部である。「当面の情勢は、日本帝国主義の中国併呑の行動が全中国と全世界に衝動をあたえたことをわれわれに教えている。中国の政治生活における各階級、階層、政党および武装勢力間の相互関係はあらたに変化したか、あるいは、変化しつつある。民族革命戦線と民族反革命戦線は再編されつつある。したがって、党の戦術路線は、全中国、全民族のすべての革命勢力を動員し、結集し、組織して、当面する主要な敵――日本帝国主義と売国奴の頭目蒋介石に反対することである。いかなる人、いかなる党派、いかなる武装部隊、いかなる階級でも、日本帝国主義と売国奴蒋介石に反対するものならば、すべて連合して、神聖な民族革命戦争を展開し、日本帝国主義を中国から追いだし、日本帝国主義の手先どもの中国における支配をくつがえし、中華民族の徹底的な解放をたたかいとり、中国の独立と領土の保全をはかるべきである。日本帝国主義とその手先蒋介石にうち勝ちうるのは、もっとも広範な反日民族統一戦線(下部のものと上部のもの)だけである。もちろんそれぞれの個人、団体、社会階級、社会階層、武装部隊が、反日の民族革命に参加するのには、それぞれ異なった動機や立場がある。あるものはかれらの従来の地位を保持するためであり、あるものはこの運動が自分たちのゆるす範囲をでないように運動の指導権をうばうためであり、またあるものは真に中華民族の徹底的な解放をはかるためである。それぞれの動機と立場が異なっているからこそ、闘争がはじまるとすぐに動揺して裏切るものがいたり、中途で消極的になるか、あるいは戦線から脱落するものがいたり、最後までたたかいぬこうとするものがいたりするのである。しかし、われわれの任務はあらゆる可能な反日の基本勢力を結集するだけではなくて、あらゆる可能な反日の同盟者をも結集することであり、愛国的な中国人なら、だれひとり反日戦線に参加しないものがないよう、全国の人民に、力あるものは力を、金あるものは金を、武器あるものは武器を、知識あるものは知識をださせることである。これが、党のもっとも広範な民族統一戦線戦術の総路線である。われわれが全国の人民の力を動員して、全国人民の共同の敵である日本帝国主義と売国奴蒋介石に対処しうるには、ただこの路線にもとづく以外にない。中国の労働者階級と農民は、依然として中国革命の基本的な原動力である。広範な小ブルジョア大衆、革命的な知識層は、民族革命のなかでもっともたよりになる同盟者である。労働者、農民、小ブルジョア階級のかたい同盟は、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴にうち勝つ基本的な力である。一部の民族ブルジョア階級と軍閥は、土地革命と赤色政権にいかに不賛成であっても、かれらが日本に反対し、民族裏切り者、売国奴に反対する闘争にたいして、共鳴する態度をとるか、あるいは善意の中立をたもつか、あるいはこれに直接参加するばあいは、反日戦線の展開にとって有利である。なぜならば、このことは、かれらを反革命勢力全体からひきはなして、革命勢力全体を拡大させるからである。この目的を達成するために、党はこれらの勢力を反日戦線にたたかいとるようさまざまな適切な方法と方式をとるべきである。そればかりでなく、地主買弁階級の陣営内部も、完全に統一しているわけではなく、中国ではいままで多くの帝国主義がたがいに競争してきた結果、各帝国主義国のために中国でたがいに競争しあう売国奴集団がうまれており、かれらのあいだには矛盾と衝突があるので、党はまた、一部の反革命勢力を、一時的にせよ反日戦線に積極的に反対しない立場にたたせるようさまざまな方法を講ずべきである。日本帝国主義以外の他の帝国主義にたいする戦術もまたこれとおなじである。党は、全中国人民の共同の敵にあたるため、全中国人民の力を動員し、結集し、組織するばあい、反日統一戦線内部のあらゆる動揺、妥協、投降および裏切りの傾向にたいしては、動揺することなく断固として闘争をおこなうべきである。中国人民の反日運動を破壊するものは、すべて民族裏切り者、売国奴であって、こぞってこれを攻撃すべきである。共産党は日本反対、民族裏切り者、売国奴反対の徹底した正しい言論と行動とをもって、反日戦線における自己の指導権を獲得すべきである。また、反日運動は、共産党の指導によってのみ徹底的な勝利をかちとることができる。反日戦争に参加する広範な大衆にたいしては、その基本的利益についての要求(農民の土地にたいする要求、労働者、兵士、貧民、知識層などの生活と待遇改善の要求)をみたすべきである。かれらの要求をみたしてのみ、より広範な大衆を反日の戦列に動員することができ、反日運動を持久性のあるものにすることができ、運動を徹底的な勝利にみちびくことかできるのである。またこうしてのみ、反日戦争における党の指導権を獲得することができるのである。」『日本帝国主義に反対する戦術について』という論文を参照。

〔4〕 一九三六年五月五日、南京政府に停戦・講和および一致抗日を要求した赤軍の通告電にみられる。この通告電の全文はつぎのとおりである。「南京国民政府軍事委員会、陸海空全軍、全国各党、各派、各団体、各新聞社、および亡国奴となることをのぞまないすべての同胞諸君。中国赤軍革命軍事委員会が中国人民赤軍抗日先鋒軍を組織して黄河を渡って東征していらい、行くさきざきで勝利し、全国がこれに呼応している。ところが、抗日先鋒軍が同蒲鉄道(大同―蒲州)を占領して、河北省へ東進し日本帝国主義と直接戦おうと積極的に準備していたとき、蒋介石氏はこともあろうに十コ師団以上の兵力を山西省におくり、閻錫山氏と協力して、赤軍の抗日への進路をさえぎるとともに、張学良、楊虎城の両氏および陝西省北部の軍隊に、陝西、甘粛の赤色地域に挺進し、わが抗日の後方を攪乱するよう命令した。中国人民赤軍抗日先鋒軍は、日本と直接戦う目的をたっするためには、本来ならば、全力を集中して、抗日への進路をはばむ蒋氏の部隊を消滅すべきである。しかし、赤軍革命軍事委員会は再三考慮の結果、国難をまえにして双方が決戦すれば、勝敗がどうきまろうとも、中国の国防力にとっては損失であり、それをよろこぶものは、日本帝国主義であると考えた。しかも、蒋介石、閻錫山両氏の部隊には、内戦停止、一致抗日をねがう愛国的軍人もすくなくなく、かれらがいま、両氏の命令をうけて、赤軍の抗日への進路をさえざるのは、実際には自分の良心にそむく行動となるのである。したがって、赤軍革命軍事委員会は、抗日戦争を早急におこなえるよう国防の実力を保持するために、またわれわれが、幾度となく国民にたいして宣言してきた内戦停止と一致抗日の主張を断固として実行するために、蒋介石氏およびその部下の愛国的軍人たちの最後の覚醒をうながすために、山西省で数多くの勝利をえたにもかかわらず、人民抗日先鋒軍を黄河の西岸に撤退させた。われわれはこの行動によって、南京政府、全国の陸海空軍および全国の人民にたいし、停戦抗日の目的を達成するために、抗日する赤軍を攻撃しているすべての武装部隊と一ヵ月以内に、停戦・講和をおこないたいという誠意をしめした。赤軍革命軍事委員会は、南京政府の諸公にとくに丁重に進言する。国家、民族の滅亡がせまっているこの緊急な瀬戸ぎわには、当然、翻然として悔いあらため、『兄弟牆に鬩げど、外その侮りを禦ぐ』の精神をもって、全国的範囲において、まず陝西省、甘粛省、山西省において内戦を停止し、双方から代表をだして抗日救国の具体的方法について協議すべきである。これは、諸公の幸であるのみか、じつに民族、国家の福でもある。もし、依然として頑迷にしてさとらず、甘んじて民族裏切り者、売国奴となるならば、諸公の支配はかならず最後には瓦解し、かならず全国の人民から見すてられ、くつがえされるであろう。ことわざにも『千人の指さすところ、病なくして死す』といわれ、『凶刃をすてて、善人になる』ともいわれている。諸公の熟慮をのぞむ。赤軍革命軍事委員会は、亡国奴となることをのそまない全国のすべての団体、政党、人民に、われわれの停戦・講和と一致抗日の主張を支持し、内戦停止促進会を組織し、代表を派遣して双方の火線を隔離し、この主張の完全な実現を督促し監視するよう、さらによびかけるものである。」

〔5〕 本巻の『蒋介石の声明についての声明』の注〔7〕にみられる。

〔6〕 一九三五年十二月、中国共産党中央政治局会議で採択された「当面の政治情勢と党の任務についての決議」と毛沢東同志の『日本帝国主義に反対する戦術について』という報告で、人民共和国のスローガンが提起された。その後情勢の必要にもとづいて、中国共産党は蒋介石に抗日をせまる政策をとり、人民共和国というこのスローガンは蒋介石集団にはうけいれられないと推定して、一九三六年八月、国民党にあてた書簡で、民主共和国というスローガンにあらためた。つづいて、同年九月、中国共産党中央が採択した「抗日救国運動の新しい情勢と民主共和国についての決議」で、さらに民主共和国のスローガンについて具体的な説明をおこなった。この二つのスローガンは、形式のうえではちがっているが、実質は一致している。以下は、一九三六年九月、中国共産党中央で採択された決議の民主共和国の問題にかんする部分の二節である。「党中央は、当面の情勢のもとで民主共和国樹立のスローガンを提起する必要があると考える。なぜなら、これはあらゆる抗日勢力を結集して、中国領土の保全を保障し、中国人民を国家、民族の滅亡の惨禍からふせぐもっともよい方法であり、しかも、広範な人民の民主主義的要求からうまれた、もっとも適切な統一戦線のスローガンでもあるからである。民主共和国は、一部の領土にうちたてられた労農民主主義独裁の制度よりも、いっそう、地域的にひろげられた民主主義であり、全中国の主要な地域での国民党の一党独裁よりも、大いにすすんだ政治制度であり、したがって、抗日戦争をひろくまきおこし、徹底的勝利をかちとることをいっそう保障しうるのである。同時に、民主共和国は、全中国のもっとも広範な人民大衆を政治生活に参加させ、その自覚の度合いと組織の力をたかめることができるばかりでなく、さらに、中国のプロレタリア階級とその指導者共産党にも、将来の社会主義の勝利のためのたたかいに自由な活動の舞台をあたえるものである。したがって、中国共産党は、民主共和国の運動を積極的に支持することを宣言する。さらに、民主共和国が全中国において樹立され、普通選挙にもとづいた国会が招集されるときには、赤色地域はその一構成部分となり、赤色地域の人民は代表を選出して国会におくり、赤色地域内で同様な民主主義制度を完成することを宣言する。」「党中央はつぎのことを強調する。われわれが、国民党南京政府を抗日の方向にすすませるためには、また民主共和国を実現する前提条件をつくるためには、全中国人民の抗日救国運動をひきつづき展開し、各党・各派、各界・各軍の抗日民族統一戦線を拡大し、民族統一戦線における中国共産党の政治的情導の役割をつよめ、赤色政権と赤軍を極力強化する以外になく、国の主権を売りわたし、民族統一戦線の力をよわめるようなあらゆる言論と行動にたいして、断固としてたたかう以外にない。苦難な長期にわたる闘争がなければ、全中国人民のたちあがりと革命のたかまりがなければ、民主共和国の実現は不可能である。中国共産党は、民主共和国のためにたたかう過程において、この民主共和国を、わが党の提起した抗日救国十六綱領の実行にはじまって、中国のブルジョア民主主義革命の基本的任務の徹底的完成にまですすませるべきである。」

〔7〕 この電報は、一九三七年二月十日に発したもので、原文はつぎのとおりである。「中国国民党中央執行委員会第三回全体会議の諸先生。西安問題の平和的解決は、国をあげてのよろこびであり、平和と統一、団結によって外敵にあたるという方針がこれより実現しうることは、じつに国家、民族の幸である。日本侵略者が横暴をきわめ、中華民族の存亡が危機一髪にあるとき、貴党の中央執行委員会第三回全体会議が、この方針にもとづき、つぎの各項を国策として決定されることをわが党は切望するものである。すなわち、(一)すべての内戦を停止し、国力を結集し、一致して外敵にあたる、(二)言論、集会、結社の自由を保障し、すべての政治犯を釈放する、(三)各党、各派、各界、各軍の代表者会議を招集し、全国の人材を結集して、ともに救国にあたる、(四)対日抗戦のあらゆる準備を早急に完了する、(五)人民の生活を改善する、ことである。もし貴党の中央執行委員会第三回全体会議が、決然として、これを国策として確定されるならば、わが党は、団結によって外敵にあたる誠意をしめすために、貴党の中央執行委員会第三回全体会議に、つぎの点を保証したい。(一)国民政府をくつがえそうとする武装暴動の方針を全国的範囲でとりやめる、(二)労農民主政府は中華民国特別地区政府と改称し、赤軍は国民革命軍と改称し、直接、南京中央政府と軍事委員会の指示をうける、(三)特別地区政府の地域内では、普通選挙による徹底的な民主制度を実行する、(四)地主の土地を没収する政策をとりやめ、抗日民族統一戦線の共同綱領を断固実行する。」

〔8〕 一九三六年十一月から十二月にかけて、上海にある日本の紡績工場と中国の紡績工場あわせて二十六工場の労働者四万五干余人が、大ストライキをおこなった。十二月には、青島にある日本の各紡績工場の労働者も、上海の労働者に呼応して、いっせいにストライキをおこなった。上海の労働者は、十一月分から五パーセントの賃上げを獲得し、工場側が労働者を不当に解雇したり、殴打し、侮辱したりすることを許さないという勝利をおさめた。青島の労働者は、日本の海軍陸戦隊の弾圧にあった。

〔9〕 一九三三年に日本侵略者が山海関を占領して華北に侵入してから、とくに一九三五年の「何応欽・梅津協定」が締結されてから、イギリス、アメリカ帝国主義の華北、華中における利益は、日本帝国主義の直接の打撃をうけるようになった。そのため、イギリス、アメリカは、日本にたいする態度を変えはじめるとともに、蒋介石政府の対日政策にも影響をあたえた。一九三六年、西安事変がおきたとき、イギリスはその在華利益にとって不利な日本の要求を拒否することを主張したばかりでなく、蒋介石政府がひきつづき中国人民を支配することができさえすれば、日本の侵略政策に打撃をあたえるため、「共産党とのなんらかの形での提携」をしてもよいという態度さえしめした。

〔10〕 広西省軍閥の李宗仁、白崇禧、広東省軍閥の陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]らは、一九三六年六月、「抗日救国」に名をかりて、連合して蒋介石に反対した。同年八月、このできごとは、蒋介石の離間、買収などの手段によって、つぶされた。

〔11〕 一九三六年八月、日本侵略軍とかいらい軍が綏遠省にたいする侵略をはじめた。十一月、綏遠省駐屯の中国軍はこれに抵抗し、全国人民は、綏遠援助運動をくりひろげた。

〔12〕 一九三五年の「何応欽・海津協定」締結後、中国人民の抗日の波におされ、また、イギリス、アメリカ帝国主義の対日政策がわりあい強硬化したことに影響されて、南京国民党政府は、日本にたいし、わりあい強硬な態度をとるようになった。一九三六年九月から十二月にかけての交渉で、国民党政府はひきのはしの方法をとり、交渉を結果がえられないままに中断させた。

〔13〕 西安事変が平和的に解決されたあと、一九三七年二月十五日南京でひらかれた国民党中央執行委員会の会議をさす。

〔14〕 阿Qとは、中国の偉大な作家魯迅の有名な小説「阿Q正伝」の主人公である。魯迅はこの人物をつうじて、自分で自分をなぐさめることか習性になり、どんな状況のもとでも自分では勝利者、すなわち「精神的勝利」者と思いこんでいるものの典型を描きだしている。

〔15〕 ここでいう孫中山の三民主義とは、かれが提起した民族、民権、民生の三つの問題についての原則と綱領をさし、かれの世界観あるいは理論体系をさすのではない。共産党員は、ブルジョア民主主義革命の段階では、孫中山の綱領の基本的な面に賛成し、かれと協力するが、しかし、かれに代表されるブルジョア的、小ブルジョア的な世界観あるいは理論体系には賛成していない。世界観あるいは理論体系のうえでは、また民族問題その他の問題の理論的観点のうえでは、中国プロレタリア階級の前衛としての共産党員は、孫中山とは完全にちがっている。毛沢東同志の『新民主主義論』を参照。

〔16〕 国民党は、一九二四年、孫中山によって改組されてから、諸階級の革命的同盟体に変わり、当時、中国共産党員は個人の資格で国民党に参加していた。一九三七年、国民党は、革命を裏切ったのち、全国各地で共産党員と、国民党内における孫中山の三大政策の真の支持者である左派の人びとを多数殺害し、これを「清党運動」と称した。国民党はこのときから大地主、大ブルジョア階級の反革命政党に変わってしまった。

〔17〕ここでは、一九二七年の上半期、共産党中央の日和見主義的指導によってもたらされた状態をさしている。

何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう

(一九三七年九月七日)

これは、毛沢東同志が一九三七年五月の中国共産党全国代表者会議でおこなった結語である。

同志諸君! わたしの報告――『抗日の時期における中国共産党の任務』にたいして、この数日間にわたる討議で、ごく少数の同志がちがった意見をだしたほかは、みなすでに賛意を表明した。かれらのちがった意見は、かなり重要性をもっているので、わたしの結語ではまずこれらの意見を検討し、そのうえで、ほかのいくつかの問題にふれよう。

平和の問題

わが党が国内の平和のためのたたかいをはじめてから、ほぼ二年の月日がたった。国民党中央執行委員会第三回全体会議のあとで、われわれは、平和はすでにかちとった、「平和をかちとる」段階はすでにすぎた、新しい任務は「平和をかためる」ことである、というとともに、これは「民主をかちとる」こととつながっている――民主をかちとることによって平和をかためるのだ、と指摘した。ところが、われわれのこうした意見は、何人かの同志にいわせるとなりたたないことになる。かれらの結論は、どうしても反対のものになるか、あるいは両者のあいだを動揺するものになるのである。なぜなら、かれらは、「日本は後退した〔1〕、南京ナンチンはいっそう動揺してきた、民族的矛盾が低下し、国内的矛盾が上昇した」といっているからである。このような評価にしたがえば、もちろん新しい段階とか、新しい任務とかいうものはなくなり、状況はもとの段階にかえったか、あるいはそれよりも悪いことになる。わたしは、このような意見はまちがっているとおもう。

われわれは、平和をかちとったとはいっているが、それは平和がかためられたといっているのではなく、逆に、平和はかためられていないといっているのである。平和が実現することと平和がかためられることとは別問題である。歴史が一時的に逆もどりすることはありうるし、平和には曲折もありうる。その原因は、日本帝国主義と民族裏切り者、親日派がいることである。しかし、西安シーアン事変ののち、平和が実現したことは事実であり、この状況は多方面(日本がとっている進攻という基本方針、ソ連と英米仏諸国の平和への支持、中国人民の圧力、西安事変における中国共産党の平和の方針と二つの政権の敵対を停止させる政策、ブルジョア階級の分化、国民党の分化など)からつくりだされたものであって、蒋介石がひとりで決定したり、くつがえしたりすることのできるものではない。平和をくつがえそうとするには、多方面の勢力とたたかわなければならないし、また日本帝国主義や親日派に近づいていかなければ、なしとげられるものではない。日本帝国主義や親日派が中国に内戦をつづけさせようといまなおたくらんでいることは、いうまでもない。平和がかためられていないのは、まさにこのためである。こうした状況のもとでのわれわれの結論は、「内戦をやめよう」とか「平和をかちとろう」とかいった古いスローガンにもどるのではなくて、一歩前進して、「民主をかちとろう」という新しいスローガンをかかげることである。そうしなければ、平和をかためることもできないし、また抗戦を実現することもできない。なぜ、「平和をかためよう」「民主をかちとろう」「抗戦を実現しよう」という三位一体のスローガンをかかげるのか。それは、われわれの革命の車輪を一歩前進させるためであり、また状況がすでにわれわれに一歩前進をゆるしているからである。もし、新しい段階と新しい任務を否定し、国民党が「転換しはじめた」ことを否定し、しかも、その論理的結論として、平和をかちとるためにたたかってきた各派勢力のこの一年半の努力のすべての成果をも否定せざるをえないとしたら、それは、一歩の前進もなく、自分をもとの位置にとどまらせているにすぎない。

これらの同志は、なぜこのような適切でない評価をくだすのか。その原因は、かれらが時局を観察するばあいに根本的な点から出発しないで、多くの局部的な、また一時的な現象(佐藤外交、蘇州スーチョウ裁判〔2〕、ストライキ強圧、東北軍の東部への移動〔3〕、楊虎城ヤンホーチョンの外遊〔4〕など)から出発するからであり、それで暗い画面がえがきだされるのである。われわれは、国民党がすでに転換しはじめたといったが、同時に、国民党は敵底的に転換してはいないともいう。われわれおよび人民の新しいより多くの、またより大きな努力なしに、国民党の十年にわたる反動政策を、徹底的に転換させることは考えられないことである。みずからを「左」翼だと豪語している多くの人は、平素から国民党をひどくののしり、西安事変では、蒋を殺し、「潼関トンコヮンからうって出よ」〔5〕と主張しておりながら、平和が実現したばかりのときに蘇州裁判などの事件がおこると、おどろいたような口ぶりで、「なぜ蒋介石はまたこんなことをやったんだ」といっている。これらの人びとは、共産党員も蒋介石も仙人ではなく、また孤立した個人でもなくて、一つの政党、一つの階級のなかにいる人間だということを知らなければならない。共産党は革命を一歩一歩前進させる能力をもってはいるが、全国の悪事を、一朝のうちにきれいに取りのぞいてしまうような能力はもっていない。蒋介石や国民党はすでに転換しはじめているが、全国人民のさらに大きな努力がなければ、けっして一朝のうちに、かれらの十年間のよごれをきれいに洗いさられるものではない。われわれは、運動の方向が平和、民主、抗戦にむかっている、といっているが、努力もしないで内戦、独裁、無抵抗というこれまでの毒素を一掃できるといっているのではない。これまでの毒素、よごれ、革命の進展過程でのなんらかの曲折やおこりうる逆もどりを克服することができるのは、たたかいと努力だけであって、しかも長期にわたるたたかいと努力を必要とするのである。

「かれらはひたすらわれわれを破壊しようとしている」。そのとおりである。かれらはいつもわれわれを破壊しようとたくらんでおり、わたしはこのような評価の正しさを完全にみとめる。この点を評価しないなら、眠っているのとおなじである。だが、問題は、破壊の仕方に変化があったかどうかにある。わたしは変化があったとおもう。戦争と虐殺の政策から改良と欺瞞の政策に変わり、強硬な政策から柔軟な政策に変わり、軍事的政策から政治的政策に変わったのである。なぜこのような変化があったのか。それは、日本帝国主義を前にして、われわれが同盟軍をブルジョア階級にもとめるのとおなじように、ブルジョア階級と国民党も一時的に同盟軍をプロレタリア階級にもとめざるをえなくなったからである。問題をみるには、この点から出発しなければならない。国際関係において、フランス政府がソ連敵視からソ連との連合に変わった〔6〕のも、これとおなじ理由である。圏内におけるわれわれの任務もまた、軍事的なものから政治的なものに変わったのである。われわれは陰謀や詭計きけいを必要としない。われわれの目的は、ブルジョア階級と国民党内の抗日に共鳴するすべての人びとを結集して、ともに日本帝国主義をうちやぶることにある。

民主の問題

「民主を強調するのはあやまりで、ただ抗日だけを強調すべきである。抗日の直接行動がなければ、民主運動はありえない。多くの人は、抗日だけを要求して、民主は要求していない。『一二・九』①がもういちどあれば、それでよいのだ」。

まず、問題をすこしだそう。まえの段階(一九三五年の一二・九運動から一九三七年二月の国民党中央執行委員会第三回全体会議まで)では、多くの人が抗日だけを要求して、平和は要求していなかったといえるだろうか。まえに平和を強調したのはまちがっていただろうか。抗日の直接行動がなければ、平和運動はありえないだろうか(西安事変や国民党中央執行委員会第三回全体会議は綏遠スイユァン抗戦が終わったのちのことであり、現在でもまだ綏遠抗戦や「一二・九」のようなものはない)。抗日には平和が必要であり、平和がなければ抗日はできず、平和が抗日の条件であることを、知らないものはない。まえの段階でのあらゆる直接、間接の抗日行動(「一二・九」から国民党中央執行委員会第三回全体会議まで)は、すべて平和をかちとることをめぐっておこなわれ、平和はまえの段階での中心的な環であり、まえの段階での抗日運動のもっとも本質的なものであった。

抗日の任務にとって、民主もまた新しい段階におけるもっとも本質的なものであり、民主のためとは、抗日のためということである。抗日と平和、民主と平和がたがいに条件となっているのとおなじように、抗日と民主はたがいに条件となっているのである。民主は抗日の保障であり、抗日は民主運動の発展に有利な条件をあたえることができる。

新しい段階で、直接的、間接的な多くの反日闘争のおこることをわれわれはのぞむし、またおこるにちがいない。それらが対日抗戦をおしすすめるであろうし、また大いに民主運動の助けともなる。しかし、歴史がわれわれにあたえている革命の任務の中心的な本質的なものは、民主をかちとることである。「民主」、この「民主」はまちがっているだろうか。 わたしはまちがっていないとおもう。

「日本は後退した、イギリスと日本は均衡がとれはじめている、南京はいっそう動揺してきた」。これは歴史の発展法則を理解しないことからうまれた的はずれの心配である。日本がもし国内革命によって根本的に後退したのなら、中国革命にとって有利であり、われわれののぞむところであり、世界侵略戦線の崩壊の始まりであるのに、どうしてまた心配することがあるのだろうか。しかし、本当は、まだそうなっていない。佐藤外交は大戦の準備であり、大戦はわれわれの前にせまっている。イギリスの動揺政策も無結果に終わるほかない。これはイギリスと日本との利害が異なることによって決定づけられている。南京が長期にわたって動揺しつづけるなら、かれらは全国人民の敵となってしまうので、それも南京の利益がゆるさない。一時的な後退現象が全般的な歴史の法則にとってかわることはできない。したがって、新しい段階を否定することはできないし、また民主の任務の提起を否定することもできない。しかも、状況がどうあっても、民主のスローガンはすべて適応できるものであり、民主は、中国人にとってありあまっているものではなくて、欠けているものである。これはだれにもあきらかである。まして、実際の状況がしめしているように、新しい段階を指摘し、民主の任務を提起したことは、抗戦に一歩近づいたものである。時局はすでに前進した。それをあとにひきもどしてはならない。

「なぜ国民大会を強調するのか」。それは、国民大会が、生活のすべての面と関連する可能性をもつものであり、反動的独裁から民主へのかけ橋であり、国防的な性質をおびており、合法的なものだからである。同志諸君が提起しているように、河北ホーペイ省東部と察哈爾チャーハール省北部の奪回、密輸入反対、「経済提携」反対などは、いずれも正しい。だが、このことは民主の任務や国民大会と、たがいに補いあっていて、少しも矛盾するものではない。しかし、中心的なものは国民大会と人民の自由である。

日常的な反日闘争および人民の生活のための闘争が、民主運動と呼応しなければならないということは、まったく正しいし、またなんら論議の余地もない。だが、現段階での中心的なそして本質的なものは、民主と自由である。

革命の前途の問題

何人かの同志がこの問題をだしているが、わたしは簡単に答えることにする。

上下二編からなる論文は、前編をうまく書かないと、後編もうまく書けない。民主主義革命を断固として指導することは、社会主義の勝利をかちとる条件である。われわれは社会主義のためにたたかうものであって、この点はいかなる革命的な三民主義者とも異なっている。現在の努力は将来の大きな目標にむけられており、この大きな目標をみうしなっては、共産党員ではなくなる。しかし、こんにちの努力をゆるめても、やはり、共産党員ではなくなる。

われわれは革命の転化論〔7〕者であり、民主主義革命を社会主義の方向に転化させていくことを主張する。民主主義革命には、いくつかの発展段階があるが、それらはみな民主共和国のスローガンのもとですすめられる。ブルジョア階級の優位からプロレタリア階級の優位へ、これは、闘争の長い過程であり、指導権をかちとる過程であって、それは共産党がプロレタリア階級の意識水準、組織水準をたかめ、農民と都市小ブルジョア階級の意識水準、組織水準を高めることにかかっている。

プロレタリア階級のかたい同盟者は農民であり、そのつぎは都市の小ブルジョア階級である。われわれと指導権を争うものはブルジョア階級である。

ブルジョア階級の動揺と不徹底性を克服するには、大衆の力と正しい政策に依拠しなければならない。そうしなければ、ブルジョア階級が逆にプロレタリア階級を制圧するであろう。

血を流さない転化はわれわれの希望するものであり、われわれはそうなるように努力すべきであるが、できるかどうかは大衆の力いかんにかかっている。

われわれはトロツキー主義の「永久革命」論者〔8〕ではなく、革命の転化論者である。われわれは、民主共和国のあらゆる必要な段階をへて、社会主義に到達することを主張する。われわれは追随主義に反対するが、また冒険主義やせっかち病にも反対する。

ブルジョア階級の革命への参加の一時性を理由にして、ブルジョア階級はいらないといい、ブルジョア階級の抗日派(半植民地での)との連合を投降主義だというのは、トロツキー主義者のいい方であって、われわれはこれには同意できない。こんにちのブルジョア階級の抗日派との連合こそ、社会主義へすすむためにとおらなければならないかけ橋である。

幹部の問題

偉大な革命を指導するには、偉大な党がなければならないし、多くのもっとも優秀な幹部がなければならない。四億五千万の人口をもつ中国で、歴史上空前の大革命をおこなうには、指導するものがせまい小集団であってはならないし、またささいなことにこだわって大局をみず、遠い見通しをもたない、能力のない指導者や幹部しか党内にいないようであってもならない。中国共産党ははやくから大政党であったし、反動期に損失をうけながらも、依然として大政党であり、多くの優秀な指導者と幹部をもっている。だが、まだ十分ではない。わが党の組織は全国に発展しなければならず、何万もの幹部を意識的に養成し、何百人ものもっとも優秀な大衆の指導者をもたなければならない。これらの幹部と指導者は、マルクス・レーニン主義を身につけ、政治的に遠い見通しをもち、活動能力をもち、献身的精神に富み、独自で問題を解決することができ、困難のなかにあっても動揺せず、民族のため、階級のため、党のために誠心誠意活動するものでなければならない。党は、これらの人びとに依拠して、党員や大衆とむすびつき、これらの人びとの大衆にたいするしっかりした指導に依拠して、敵を打倒する目的を達成するのである。これらの人びとは、私利私欲のない、個人英雄主義や売名主義のない、怠惰や消極性のない、尊大なセクト主義のない、大公無私の民族の英雄、階級の英雄であって、これこそ、共産党員、党の幹部、党の指導者のもつべき性格であり、作風である。命をささげたわが何万人の党員、何千人の幹部、何十人のもっとも優秀な指導者がわれわれに残してくれた精神もまた、こうしたものである。いうまでもなくわれわれは、これらのものをまなんで、自己をよりよく改造し、より高い革命的水準に高めなければならない。だが、それだけではまだ十分ではない。さらに、全党および全国において多くの新しい幹部と指導者を発見するということをも、一つの任務にしなければならない。「幹部がすべてを決定する」〔9〕とスターリンがいったように、われわれの革命は幹部にかかっている。

党内民主の問題

このような目的をたっするには、党内の民主が必要である。党に力をもたせるには、党の民主集中制の実行によって全党の積極性を発揮させなければならない。反動期と内戦の時期には、集中制の方がやや多くあらわれていた。新しい時期には、集中制は民主制と緊密にむすびつかなければならない。民主制を実行することによって全党の積極性を発揮させるのである。全党の積極性の発揮によって、大量の幹部をきたえあげ、セクト的観念の残りかすを一掃し、全党をはがねのように固く団結させよう。

大会の団結と全党の団結

大会における政治問題についての異なった意見は、説明をつうじてすでに一致をみるにいたった。党中央の路線とごく少数の同志の指導する退却的な路線とのあいだにかつてあった相違も、すでに解決され〔10〕、わが党がすでに非常にかたく団結していることをしめしている。このような団結は当面の民族民主主義革命のもっとも重要な基礎である。なぜなら、共産党の団結があってはじめて、全階級と全民族の団結を実現することができ、全階級と全民族の団結があってはじめて、敵にうち勝ち、民族民主主義革命の任務を達成することができるからである。

何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう

われわれの正しい政治方針とかたい団結は、何百何干方の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させることが、その目的である。プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級の広範な大衆にたいして、われわれは宣伝、扇動および組織の活動をする必要がある。ブルジョア階級の抗日派とわれわれが同盟をむすぶことでも、やはりわれわれはいっそうの活動をする必要がある。党の方針を大衆のものにするためには、われわれの長期にわたって堅持する、どんな失敗にもくじけない、あらゆる苦難にたえる、辛抱づよい、めんどうをいとわない努力がなければならない。このような努力なしには、なにごともなしとげられない。抗日民族統一戦線の結成と強化、およびその任務の達成、中国における民主共和国の実現には、この大衆をかちとる努力をすこしでもゆるがせにすることはできない。このような努力によって、何百何千万の大衆をわれわれの指導のもとにかちとったならば、われわれの革命の任務は急速に達成できるのである。われわれの努力によって、日本帝国主義は確実にうちたおされ、民族の解放と社会の解放は完全に実現されるにちがいない。

注

〔1〕 西安事変ののち、日本帝国主義者は国民党当局にはたらきかけ、当時すでに実現しはじめていた中国国内の平和と、しだいに形成されつつあった抗日民族統一戦線を破壊させようとして、表面的には一時おだやかな速度をとった。一九三六年十二月と一九三七年三月、日本侵略者は、二度にわたって、かいらい内蒙古自治政府をそそのかして、南京の国民党政府を支持するという通告電をうたせた。そのうえ日本の外棺佐藤は、これまでの中国にたいする関係をあらため、中国の統一と復興に協力するなどといつわりのことばをならべて、蒋介石の篭絡にのりだした。他方、日本の財閥の児玉謙次らは、また中国が「近代国家の組織を完成する」ことに協力すると称して、「経済視察団」なるものを組織して中国にやってきた。いわゆる「佐藤外交」および日本帝国主義のこうしたうわべだけの現象にまどわされた一部の人たちのいう「日本の後退」とは、こうした一連の侵略的陰謀をさしている。

〔2〕 一九三六年十一月、国民党政府は、当時、上海で抗日救国運動を指導していた沈鈞儒ら七人の指導者を逮捕した。一九三七年四月、蘇州の国民党高等法院の検察官は、沈鈞儒らを「公訴」した。国民党当局は、すべての愛国運動のことを「民国をあやうくする」ものだという、これまでの反動的なきまり文句をとなえつづけ、沈鈞儒らにたいしても「民国をあやうくする」という「罪状」をかぶせた。

〔3〕 西安事変前、東北軍は、陝西省、甘粛省の境界地区に駐屯し、陝西省北部の赤軍と直接接触していたので、赤軍の影響をふかくうけ、それで西安事変をおこすにいたった。一九三七年三月、国民党反動派は、赤軍と東北車との関係をひきはなし、またその機会に乗じて、東北軍の内部を分裂させようとして、東北軍に東の河南省と安徽省への移動を強硬に命令した。

〔4〕 楊虎城は、西安事変をおこした西北地方の軍事指導者で、張学良とならんで名声をはせ、当時「張楊」とよばれていた。張学良は蒋介石を釈放したのち、蒋を南京までおくりとどけると、ただちに抑留された。一九三七年四月、楊虎城も国民党反動派から、辞職して外遊することを強制された。楊虎城は抗日戦争勃発後、抗日活動に参加しようとして帰国したが、これも蒋介石のために長期監禁され、一九四九年九月、人民解放軍か重慶にせまったとき、ついに強制収容所で殺害された。

〔5〕 潼関は、陝西、河南、山西の省境にある軍事的要地である。西安事変のとき、国民党の部隊は主として潼関以東に駐屯していた。当時、「左」翼と豪語していた一部の人(張国燾はそのひとりである)は「潼関からうって出よ」、つまり国民党部隊にむかって進攻せよ、と主張した。このような主張は、西安事変を平和的に解決しようとする党中央の方針と相反するものであった。

〔6〕 フランス帝国主義は、ロシア十月革命後、長いあいだソ連を敵視する政策をとってきた。十月革命後まもなく、フランス政府は、一九一八年から一九二〇年にかけてのソ連にたいする十四ヵ国の武力干渉に積極的に参加した。そしてこの干渉が失敗したのちも、依然としてソ連を孤立させる反動政策をとりつづけた。一九三五年五月になって、ソ連平和外交政策のフランス人民にたいする影響、ファシスト・ドイツのフランスにたいする脅威によって、フランスはようやく、ソ連と相互援助条約を結ぶにいたった。だが、フランスの反動政府は、のちになるとこの条約を忠実に実行しなかった。

〔7〕 マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の第四の部分、レーニンの『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』の第十二と第十三の部分、『ソ連共産党(ボリシェピキ)歴史小教程』の第三章第三節を参照。

〔8〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第三の部分、『十月革命とロシア共産主義者の戦術』の第二の部分、『レーニン主義の諸問題によせて』の第三の部分を参照。

〔9〕 一九三五年五月、赤軍大学卒業式におけるスターリンの演説にみられる。原文はつぎのとおりである。「世界にあるすべての貴重な資本のうちで、もっとも貴重で、もっとも決定的な意義をもつ資本は、人材であり、幹部である。われわれの現在の条件のもとでは、『幹部がすべてを決定する』ということを理解すべきである。」

〔10〕 一九三五年から一九三六年までのあいだの党中央の路線と張国燾の退却路線との相違をさしている。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔22〕を参照。毛沢東同志がここで「相違も、すでに解決され」たといっているのは、赤軍第四方面軍と中央赤軍が合流したことをさしている。その後の張国燾の党にたいする公然たる裏切り、反革命への転落は、もはや指導路線上の問題ではなくて、個人の裏切り行為でしかない。

訳注

① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔8〕を参照。

実践論

認識と実践の関係――知と行の関係について

(一九三七年七月)

わが党内では、かつて、一部の教条主義的な同志が、長いあいだ中国革命の経験をうけいれることを拒み、「マルクス主義は教条ではなく行動の指針である」という真理をみとめず、ただマルクス主義文献のなかの字句のきれはしをぬきとり、それで人びとをおどかすだけであった。また、一部の経験主義的な同志は、長いあいだ自分の断片的な経験にしがみついて、革命の実践にとっての理論の重要性を理解せず、革命の全局が見えなかったので、苦労して活動したが、盲目的であった。この二種類の同志たちのあやまった思想、とくに教条主義の思想は、一九三一年から一九三四年にかけて、中国革命にきわめて大きな損失をあたえたのに、教条主義者は、マルクス主義のころもをまとって、多くの同志をまどわしていた。毛沢東同志の『実践論』は、マルクス主義的認識論の観点から、党内の教条主義と経験主義――とくに教条主義――という主観主義のあやまちを暴露するために書いたものである。その重点が、実践を軽視する教条主義という主観主義の暴露にあったので、『実践論』という題名がつけられた。毛沢東同志は、かつてこの論文の観点について、延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。

マルクス以前の唯物論は、人間の社会性からはなれ、人間の歴史的発展からはなれて、認識の問題を考察したので、社会的実践にたいする認識の依存関係、すなわち生産および階級闘争にたいする認識の依存関係を理解できなかった。

まず第一に、マルクス主義者は、人類の生産活動がもっとも基本的な実践活動であり、他のすべての活動を決定するものであると考える。人間の認識は、主として物質の生産活動に依存して、しだいに自然界の現象、自然界の性質、自然界の法則性、人間と自然界との関係を理解するようになる。しかも、生産活動をつうじて、人と人との一定の相互関係をもしだいにさまざまな程度で認識するようになる。これらの知識は、生産活動をはなれてはなにひとつえられない。階級のない社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、それぞれの人が社会の一員として、社会の他の構成員と協力し、一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。また、それぞれの階級社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、各階級の社会の構成員が、さまざまのちがった様式で一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。これが人間の認識の発展の基本的な源である。

人間の社会的実践は、生産活動という一つの形態にかぎられるものではなく、そのほかにも、階級闘争、政治生活、科学活動、芸術活動など多くの形態がある。要するに、社会の実際生活のすべての領域には社会的人間が参加しているのである。したがって、人間の認識は、物質生活のほかに、政治生活、文化生活(物質生活と密接につながっている)からも、人と人とのいろいろな関係をさまざまな程度で知るようになる。そのうちでも、とくにさまざまな形態の階級闘争は、人間の認識の発展に深い影響をあたえる。階級社会では、だれでも一定の階級的地位において生活しており、どんな思想でも階級の烙印らくいんのおされていないものはない。

マルクス主義者は、人類社会の生産活動は低い段階から高い段階へと一歩一歩発展していくのであり、したがって、人間の認識もまた、自然界にたいしてであろうと、社会にたいしてであろうと、やはり低い段階から高い段階へ、すなわち浅いところから深いところへ、一面から多面へと一歩一歩発展していくものであると考える。歴史上長いあいだ、社会の歴史についての人びとの理解は、ただ一面的なものにかぎられるほかはなかった。それは、一方では搾取階級の偏見がつねに社会の歴史をゆがめていたからであり、他方では、生産規模が小さかったために、人びとの視野がかぎられていたからである。巨大な生産力――大工業にともなって、近代プロレタリア階級が出現したときになってはじめて、人びとは、社会の歴史の発展について全面的、歴史的に理解することができるようになり、社会についての認識を科学にかえた。これがマルクス主義の科学である。

マルクス主義者は、人びとの社会的実践だけが外界にたいする人びとの認識の真理性をはかる基準であると考える。実際の状況はつぎのようである。社会的実践の過程において(物質生産の過程、階級闘争の過程、科学実験の過程において)、人びとが頭のなかで予想していた結果に到達したばあいにだけ、その認識は実証される。人びとが仕事に成功しようとおもうなら、つまり予想した結果をえようとするなら、かならず自分の思想を客観的外界の法則性に合致させなければならない。合致させなければ、実践において失敗する。失敗したあとで、失敗から教訓をくみとり、自分の思想を外界の法則性に合致するようにあらためると、失敗を成功に変えることができる。「失敗は成功のもと」とか、「いちどつまずけば、それだけ利口になる」とかいうのは、この道理をいっているのである。弁証法的唯物論の認識論は、実践を第一の地位にひきあげ、人間の認識は実践から少しでもはなれることができないと考えており、実践の重要性をみとめず認識を実践から切りはなすすべてのあやまった理論をしりぞける。レーニンはつぎのようにいっている。「実践は(理論的)認識よりも高い。なぜなら、実践はたんに普遍性という長所をもつだけでなく、直接的な現実性という長所をももっているからである。」〔1〕マルクス主義の哲学、つまり弁証法的唯物論にはもっともいちじるしい特徴が二つある。一つはその階級性で、弁証法的唯物論はプロレタリア階級に奉仕するものであることを公然と言明していること、もう一つはその実践性で、実践にたいする理論の依存関係、すなわち理論の基礎は実践であり、理論はまた転じて実践に奉仕するものであることを強調していることである。認識あるいは理論が真理であるかどうかは、主観的にどう感じるかによって判定するのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによって判定するのである。真理の基準となりうるものは、社会的実践だけである。実践の観点は、弁証法的唯物論の認識論の第一の、そして基本的な観点である〔2〕。

だが、人間の認識は、いったいどのようにして実践からうまれ、また実践に奉仕するのか。これは認識の発展過程を見ればわかる。

もともと人間は、実践過程において、はじめのうちは、過程のなかのそれぞれの事物の現象の面、それぞれの事物の一面、それぞれの事物のあいだの外部的なつながりしか見ることができない。たとえば、よその人たちが延安に視察にきたとする。最初の一両日は、延安の地形、街路、家屋などをながめたり、多くの人に会ったり、宴会や交歓会や大衆集会に出席したり、いろいろな話を聞いたり、さまざまな文献を読んだりする。これらは事物の現象であり、事物のそれぞれの一面であり、また、これらの事物の外部的なつながりである。これを認識の感性的段階、すなわち感覚と印象の段階という。つまり延安のこれらの個々の事物が、視察団の諸氏の感覚器官に作用して、かれらの感覚をひきおこし、かれらの頭脳に多くの印象と、それらの印象のあいだの大まかな外部的なつながりを生じさせたのである。これが認識の第一の段階である。この段階では、人びとは、まだ深い概念をつくりあげることも、論理にあった(すなわちロジカルな)結論をひきだすこともできない。

社会的実践の継続によって、人びとに実践のなかで感覚と印象をひきおこさせるものが何回となくくりかえされると、人びとの頭脳のなかで、認識過程における質的激変(すなわち飛躍)がおこり、概念がうまれる。概念というものは、もはや事物の現象でもなく、事物のそれぞれの一面でもなく、それらの外部的なつながりでもなくて、事物の本質、事物の全体、事物の内部的なつながりをとらえたものである。概念と感覚とは、たんに量的にちがいがあるばかりでなく、質的にもちがいがある。このような順序ですすみ、判断と推理の方法をつかっていけば、論理にあった結論をうみだすことができる。『三国演義』に「ちょっと眉根をよせれば、名案がうかぶ」といわれているのも、またわれわれが日常「ちょっと考えさせてくれ」といったりするのも、つまりは、人間が頭脳のなかで、概念をつかって判断や推理をする作業のことをいっているのである。これが認識の第二の段階である。よそからきた視察団の諸氏が、いろいろの材料をあつめて、さらに「よく考える」と、「共産党の抗日民族統一戦線政策は徹底しており、誠意があり、ほんものである」という判断をくだすことができる。こうした判断をくだしたのちに、もしかれらの団結救国もほんものであるならば、かれらは一歩すすんで「抗日民族統一戦線は成功する」という結論をくだすことができるようになる。この概念、判断および推理の段階は、ある事物にたいする人びとの認識過程全体のなかでは、より重要な段階、つまり理性的認識の段階である。認識の真の任務は、感覚をつうじて思惟しいにたっすること、一歩一歩客観的事物の内部矛盾、その法則性、一つの過程と他の過程とのあいだの内部的なつながりを理解するようになること、つまり論理的認識にたっすることにある。くりかえしていえば、論理的認識が感性的認識と異なるのは、感性的認識が事物の一面的なもの、現象的なもの、外部的なつながりのものに属するのにたいして、論理的認識は、大きく一歩前進して、事物の全体的なもの、本質的なもの、内部的なつながりのものにまでたっし、周囲の世界の内在的矛盾をあばきだすところまでたっし、したがって、周囲の世界の発展を、周囲の世界の全体において、周囲の世界のすべての側面の内部的なつながりにおいて、把握はあくすることができるからである。

実践をもとにした、浅いところから深いところへすすむ認識の発展過程についての弁証法的唯物論の理論を、マルクス主義以前にはこのように解決したものが一人もいなかった。マルクス主義の唯物論が、はじめてこの問題を正しく解決し、唯物論的に、しかも弁証法的に認識の深化する運動を指摘し、社会的な人間がかれらの生産と階級闘争の複雑な、つねにくりかえされる実践のなかで、感性的認識から論理的認識へと推移していく運動を指摘した。レーニンはいっている。「物質という抽象、自然法則という抽象、価値という抽象など、一言でいえば、すべての科学的な(正しい、まじめな、でたらめでない)抽象は、自然をより深く、より正確に、より完全に反映する。」〔3〕マルクス・レーニン主義はつぎのように考える。認識過程における二つの段階の特質は、低い段階では認識が感性的なものとしてあらわれ、高い段階では認識が論理的なものとしてあらわれるが、どの段階も統一的な認識過程のなかでの段階である。感性と理性という二つのものは、性質はちがうが、たがいに切りはなされるものではなく、実践という基礎のうえで統一されているのである。われわれの実践はつぎのことを証明している。感覚されたものはすぐには理解できず、理解したものだけがより深く感覚されるということである。感覚は現象の問題を解決するだけであって、理論こそが本質の問題を解決するのである。これらの問題の解決は、少しでも実践からはなれることはできない。だれでも、ある事物を認識しようとすれば、その事物にふれること、つまりその事物の環境のなかで生活すること(実践すること)よりほかには、解決の方法がない。封建社会にいて、資本主義社会の法則をまえもって認識することはできない。なぜなら、資本主義はまだあらわれておらず、まだその実践がないからである。マルクス主義は資本主義社会の産物でしかありえない。マルクスは資本主義の自由競争時代にまえもって帝国主義時代のいくつかの特殊な法則を具体的に認識することができなかった。なぜなら、帝国主義という資本主義の最後の段階がまだきておらず、そのような実践がまだなかったからであって、レーニンとスターリンだけがこの任務をになうことができたのである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンがその理論をつくりあげることのできたのは、かれらが天才であったという条件のほかに、主としてみずから当時の階級闘争と科学実験という実践に参加したからであり、後者の条件がなければ、どんな天才でも成功できるものではない。「秀才は門を出いでずして、ことごとく天下のことを知る」ということばは、技術の発達していなかった昔では、たんなる空言にすぎなかった。技術の発達した現代では、このことばを実現することもできるが、ほんとうに身をもって知っているのは世の中で実践している人たちであって、こうした人がその実践のなかで「知」をえ、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」につたわり、そこで秀才が間接に「天下のことを知る」ことができるのである。ある事物、もしくはあるいくつかの事物を直接に認識しようとするには、現実を変革し、ある事物もしくはあるいくつかの事物を変革する実践的闘争にみずから参加しないかぎり、その事物もしくはそれらの事物の現象にふれることができないし、また、現実を変革する実践的闘争にみずから参加しないかぎり、その事物もしくはそれらの事物の本質をあばきだし、それらを理解することができない。これはだれもが実際に歩んでいる認識の道すじであって、ただ一部の人が故意にそれをゆがめて反対のことをいっているにすぎない。世の中でいちばんこっけいなのは、「もの知り屋」たちが、ききかじりのなまはんかな知識をもって、「天下第一」だと自認していることであり、これこそ身のほどを知らないことのよいあらわれである。知識の問題は科学の問題であって、少しの虚偽も傲慢ごうまんさもあってはならない。決定的に必要なのは、まさにその反対のこと――誠実さと謙虚な態度である。知識をえようとすれば、現実を変革する実践に参加することである。梨の味を知りたければ、梨を変革すること、すなわち自分でそれを食べてみることである。原子の構造と性質を知りたければ、物理学や化学の実験をおこない、原子の状態を変革することである。革命の理論と方法を知りたければ、革命に参加することである。ほんとうの知識はすべて直接の経験がその源になっている。しかし、人間はなにもかも直接に経験できるものではなく、じじつ、知識の多くは間接に経験されたものであり、昔のことや外国のことについてのすべての知識がそれである。それらの知識は、昔の人や外国の人にとっては直接に経験したもので、もし昔の人や外国の人が直接に経験したさい、それがレーニンの指摘した条件、つまり「科学的な抽象」に合致しており、客観的な事物を科学的に反映していたならば、それらの知識は信頼できるが、そうでないものは信頼できない。だから、一人の人間の知識は、直接に経験したものと、間接に経験したものとの二つの部分以外にはない。しかも、自分にとっては間接に経験したものでも、ほかの人にとっては直接に経験したものである。したがって、知識全体についていうと、どのような知識も直接の経験から切りはなせるものではない。どんな知識も、客観的な外界にたいする人間の肉体的感覚器官の感覚にその源がある。この感覚をみとめず、直接の経験をみとめず、現実を変革する実践にみずから参加することをみとめないものは、唯物論者ではない。「もの知り屋」がこっけいなわけは、ここにある。中国には、「虎穴こけつに入らずんば、虎児こじを得ず」ということわざがある。このことばは、人びとの実践にとっても真理であるし、認識論にとっても真理である。実践をはなれた認識というものはありえない。

現実を変革する実践にもとづいてうまれる弁証法的唯物論の認識運動――認識のしだいに深化する運動をあきちかにするために、さらにいくつかの具体的な例をあげよう。

資本主義社会にたいするプロレタリア階級の認識は、その実践の初期――機械の破壊や自然発生的闘争の時期には、まだ感性的認識の段階にとどまっていて、資本主義のそれぞれの現象の一面およびその外部的なつながりを認識したにすぎなかった。当時、かれらは、まだいわゆる「即自的階級」であった。しかし、かれらの実践の第二の時期――意識的、組織的な経済闘争および政治闘争の時期になると、実践によって、また長期にわたる闘争の経験、これらのさまざまな経験をマルクスとエンゲルスが科学的な方法で総括し、マルクス主義の理論をつくりだして、プロレタリア階級を教育したことによって、プロレタリア階級は資本主義社会の本質を理解し、社会階級間の搾取関係を理解し、プロレタリア階級の歴史的任務を理解するようになった。この時、かれらは「対自的階級」に変わったのである。

帝国主義にたいする中国人民の認識もまたこのとおりである。第一段階は、表面的な感性的な認識の段階であり、それは太平天国運動①や義和団運動②などのばく然とした排外主義的な闘争にあらわれている。第二段階で、はじめて理性的な認識の段階にすすみ、帝国主義の内部と外部のさまざまな矛盾を見ぬくとともに、帝国主義が中国の買弁階級および封建階級とむすんで、中国の人民大衆を抑圧し搾取している本質を見ぬいたのであって、このような認識は、一九一九年の五・四運動前後になってやっとうまれはじめたのである。

つぎに戦争について見てみよう。戦争の指導者たちが、もし戦争に経験のない人びとであるならば、はじめの段階ではある具体的な戦争(たとえば、われわれの過去十年にわたる土地革命戦争)の深い指導法則がわからない。はじめの段階では、かれらは身をもって多くの戦いを経験するだけであって、しかもなんどとなく負けいくさをやる。しかし、これらの経験(勝ちいくさの経験、とくに負けいくさの経験)によって、戦争全体をつらぬいている内部的なもの、すなわちその具体的な戦争の法則性が理解でき、戦略と戦術がわかるようになり、したがって確信をもって戦争を指導できるようになる。この時に、もし経験のない別の人にかえて戦争を指導させることになると、戦争の正しい法則を会得するまでには、また何回か負けいくさにあわなければ(経験をつまなければ)ならない。

一部の同志が活動の任務を引きうけるのにしりごみするとき、自信がないということばを口にするのをよくきく。どうして自信がないのか。これは、その人がその活動の内容と環境について法則性にかなった理解をしていないからである。つまりこれまでそういう活動に接したことがないか、あるいはあまり接することがなかったので、そういう活動の法則性については知りようもなかったからである。活動の状況と環境をくわしく分析してやると、その人はわりあい自信がついたように感じて、その活動をやろうという気になる。もしその人がその活動にある期間たずさわって、活動の経験をつんだなら、そしてまた、かれが問題を主観的、一面的、表面的にみるのでなく、状況を虚心に考察する人であるなら、その活動をどのようにすすめるべきかについての結論を自分で引きだすことができ、活動にたいする勇気も大いに高まるであろう。問題を主観的、一面的、表面的に見る人にかぎって、どこへいっても周囲の状況をかえりみず、ことがらの全体(ことがらの歴史と現状の全体)を見ようとせず、ことがらの本質(ことがらの性質およびこのことがらとほかのことがらとの内部的なつながり)にはふれようともしないで、ひとりよがりにさしずしはじめる。こういう人間はつまずかないはずはない。

以上のことからわかるように、認識の過程は、第一歩が外界のことがらにふれはじめることで、これが感覚の段階である。第二歩が感覚された材料を総合して、それを整理し改造することで、これが概念、判断および推理の段階である。感覚された材料が十分豊富で(断片的な不完全なものでなく)、実際にあって(錯覚ではなくて)いなければ、それらの材料にもとづいて正しい概念と論理をつくりだすことはできない。

ここでとくに指摘しておかなければならない重要な点が二つある。第一の点は、前にものべたが、ここでくりかえしていえば、つまり理性的認識は、感性的認識に依存するという問題である。もし、理性的認識が感性的認識からでなくてもえられると考えるなら、その人は観念論者である。哲学史上には「合理論」といわれる学派があって、理性の実在性だけをみとめて、経験の実在性をみとめず、理性だけが信頼できて、感覚的な経験は信頼できないと考えているが、この一派のあやまりは、事実を転倒しているところにある。理性的なものが信頼できるのは、まさにそれが感性を源にしているからであって、そうでなければ、理性的なものは源のない流れ、根のない木となり、ただ主観的にうみだされた、信頼できないものとなる。認識過程の順序からいえば、感覚的経験がさいしょのものである。われわれが認識過程における社会的実践の意義を強調するのは、社会的実践だけが、人間に認識を発生させはじめ、客観的外界から感覚的経験をえさせはじめることができるからである。目をとじ耳をふさいで、客観的外界とまったく絶縁している人には、認識などありえない。認識は経験にはじまる――これが認識論の唯物論である。

第二の点は、認識は深化させていくべきであり、認識の感性的段階は理性的段階に発展させていくべきである――これが認識論の弁証法である〔4〕。認識は低い感性的段階にとどまっていてもよいと考え、感性的認識だけが信頼できるもので、理性的認識は信頼できないものだと考えるなら、それは歴史上の「経験論」のあやまりをくりかえすことになる。この理論のあやまりは、感覚的材料はもちろん客観的外界の一部の真実性を反映したものではあるが(わたしはここでは、経験をいわゆる内省的体験としてしか考えない観念論的経験論についてはのべない)、それらは、一面的な表面的なものにすぎず、このような反映は不完全で、事物の本質を反映したものではない、ということを知らない点にある。完全に事物の全体を反映し、事物の本質を反映し、事物の内部的法則性を反映するには、感覚された豊富な材料に、思考のはたらきをつうじて、滓かすをすてて粋すいをとり、偽をすてて員をのこし、これからあれへ、表面から内面へという改造と製作の作業をくわえて、概念および理論の体系をつくりあげなければならないし、感性的認識から理性的認識へ躍進しなければならない。改造されたこのような認識は、より空虚な、より信頼できない認識になるのではなく、反対に、もしそれが認識過程で、実践という基礎にもとづいて科学的に改造されたものでありさえすれば、まさにレーニンがいっているように、より深く、より正しく、より完全に客観的事物を反映したものである。俗流の事務主義者はそうではない。かれらは経験を尊重するが理論を軽視するので、客観的過程の全体をみわたすことができず、明確な方針をもたず、遠大な見通しがなく、ちょっとした成功やわずかばかりの見識で得意になる。このような人間が革命を指導したなら、革命は壁にうちあたるところまで引きずられていくことになる。

理性的認識は感性的認識に依存するし、感性的認識は理性的認識にまで発展させるべきである。これが弁証法的唯物論の認識論である。哲学における「合理論」と「経験論」は、いずれも認識の歴史的性質や弁証法的性質を理解することができず、それぞれ一面の真理をもってはいるが(これは唯物的な合理論と経験論についていうのであって、観念的な合理論と経験論についていうのではない)、認識論の全体からいえば、どちらもあやまりである。感性から理性にすすむ弁証法的唯物論の認識運動は、小さな認識過程(たとえばある事物、あるいはある活動についての認識)においてもそのとおりであり、大きな認識過程(たとえばある社会、あるいはある革命についての認識)においてもそのとおりである。

しかし、認識運動はここで終わるのではない。弁証法的唯物論の認識運動を、もし理性的認識のところでとどめるならば、まだ問題の半分にふれたにすぎない。しかも、マルクス主義の哲学からいえば、それはあまり重要だとはいえない半分にふれたにすぎない。マルクス主義の哲学が非常に重要だと考えている問題は、客観世界の法則性を理解することによって、世界を説明できるという点にあるのではなく、この客観的法則性にたいする認識をつかって、能動的に世界を改造する点にある。マルクス主義からみれば、理論は重要であり、その重要性は「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」〔5〕というレーニンのことばに十分あらわされている。しかし、マルクス主義が理論を重視するのは、まさにそれが行動を指導できるからであり、またその点だけからである。たとえ、正しい理論があっても、ただそれについておしゃべりするだけで、たな上げしてしまって、実行しないならば、その理論がどんなによくても、なんの意義もない。認識は実践にはじまり、実践をつうじて理論的認識にたっしてから、ふたたび実践にもどらなけれはならない。認識の能動的作用は、たんに感性的認識から理性的認識への能動的飛躍にあらわれるだけではなく、もっと重要なのは、理性的認識から革命の実践へという飛躍にもあらわれなければならないことである。世界の法則性についての認識をつかんだならば、それをふたたび世界を改造する実践にもちかえる、つまり、ふたたび生産の実践、革命的な階級闘争と民族闘争の実践、および科学実験の実践に応用しなければならない。これが理論を検証し、理論を発展させる過程であり、全認識過程の継続である。理論的なものが客観的真理性に合致するかどうかという問題は、まえにのべた感性から理性への認識運動のなかでは、まだ完全には解決されていないし、また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには、理性的認識をふたたび社会的実践のなかにもちかえり、理論を実践に応用して、それが予想した目的を達成できるかどうかを見るほかはない。多くの自然科学の理論が真理だといわれるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりだしたときだけでなく、さらにその後の科学的実践によってそれが実証されたときである。マルクス・レーニン主義が真理だといわれるのも、やはりマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンなどが、これらの学説を科学的につくりあげたときだけでなく、さらにその後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践によってそれが実証されたときである。弁証法的唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人が実践しても、その範囲からでることができないからである。人類の認識の歴史は、つぎのことをわれわれに教えている。すなわち多くの理論は真理性において不完全なものであり、その不完全さは実践の検証をつうじてただされること、多くの理論はあやまっており、そのあやまりは実践の検証をつうじてただされることである。実践は真理の基準であるとか、「生活、実践の観点は認識論の第一の、そして基本的な観点でなければならない」〔6〕とかいわれる理由はここにある。スターリンがつぎのようにいっているのは正しい。「理論は、革命の実践と結びつかなければ対象のない理論となる。同様に実践は、革命の理論を指針としなければ、盲目的な実践となる。」〔7〕

ここまでくると、認識運動は完成したといえるであろうか。完成もしたし、まだ完成してもいないというのがわれわれの答えである。社会の人びとが、ある発展段階におけるある客観的過程を変革する実践(それが、ある自然界の過程を変革する実践であろうと、ある社会の過程を変革する実践であろうと)に身を投じて、客観的過程の反映と主観的能動性の作用によって人びとの認識を感性的なものから理性的なものへと推移させ、その客観的過程の法則性にほぼ照応する思想、理論、計画あるいは成案をつくりあげ、さらに、この思想、理論、計画あるいは成案をそのおなじ客観的過程の実践に応用してみて、もし予想した目的を実現することができたならば、つまりあらかじめもっていた思想、理論、計画、成案を、そのおなじ過程の実践のなかで事実に変えるか、あるいはだいたいにおいて事実に変えるならば、この具体的な過程についての認識運動は完成したことになる。たとえば、自然を変革する過程では、ある工事計画が実現され、ある科学上の仮説が実証され、ある器物がつくりあげられ、ある農作物がとりいれられたこと、また社会を変革する過程では、あるストライキが勝利し、ある戦争が勝利し、ある教育計画が実現したことは、いずれも予想した目的を実現したものといえる。しかし、一般的にいって、自然を変革する実践においても、社会を変革する実践においても、人びとがあらかじめもっていた思想、理論、計画、成案が、なんの変更もなしに実現されることはきわめてすくない。これは、現実の変革にたずさわる人びとが、たえず多くの制約を受けていること、たんに科学的条件および技術的条件の制約をたえず受けているだけでなく、客観的過程の発展とそのあらわれる度合いの制約(客観的過程の側面および本質がまだ十分に露呈していない)をも受けていることによるのである。このような状況のもとでは、まえもって予想できなかった事情を実践のなかで見いだしたことによって、思想、理論、計画、成案が部分的に改められることがよくあるし、全面的に改められることもある。つまり、あらかじめもっていた思想、理論、計画、成案が部分的に、あるいは全面的に実際にあわなかったり、部分的にあるいは全面的にあやまっていたりすることは、どちらもあることである。多くのばあい、何回も失敗をくりかえしてはじめて、あやまった認識を改めることができ、客観的過程の法則性に合致させることができ、したがって主観的なものを客観的なものに変えることができる。つまり、実践のなかで予想した結果がえられるのである。しかし、いずれにしても、ここまでくると、ある発展段階におけるある客観的過程についての人びとの認識運動は、完成したといえる。

しかし、過程の推移という点からいえば、人びとの認識運動は完成していないのである。どのような過程も、それが自然界のものであろうと、社会のものであろうと、すべて内部の矛盾と闘争によって、さきへさきへと推移し発展するものであって、人びとの認識運動も、またそれにつれて推移し発展すべきである。社会運動についていえば、革命の真の指導者は、自分の思想、理論、計画、成案にあやまりがあったばあいには、前にのべたように、それを改めることに上手でなければならないばかりでなく、ある客観的過程が一つの発展段階から他の発展段階に推移、転化したときには、自分をはじめ革命に参加しているすべての人びとを主観的認識のうえでも、それにつれて推移、転化させることに上手でなければならない。すなわち新しい状況の変化に適応するように、新しい革命の任務と新しい活動の成案を提起しなければならない。革命の時期の情勢の変化はきわめて急速である。もし革命党員の認識がそれに応じて急速に変化することができなければ、革命を勝利にみちびくことはできない。

しかし、思想が実際より立ちおくれることはよくある。これは人間の認識が多くの社会的条件によって制約されているからである。われわれは革命陣営内の頑迷分子に反対する。かれらの思想は変化した客観的状況にしたがって前進することができず、歴史のうえでは右翼日和見主義としてあらわれる。これらの人びとには矛盾の闘争がすでに客砲的過程を前へおしすすめたことが見ぬけず、かれらの認識は、あいかわらずふるい段階に立ちどまっているのである。すべての頑迷派の思想はこのような特徴をもっている。かれらの思想は社会的実践から遊離しており、かれらは社会という車の前にたって、その導き手をつとめることができず、ただ車のうしろについて、車がはやくすすみすぎると愚痴をこぼし、車をうしろにひっぱって、逆もどりさせようとすることしか知らない。

われわれはまた「左」翼空論主義にも反対する。かれらの思想は客観的過程の一定の発展段階をとびこえており、かれらのうちのあるものは幻想を真理だとみなし、またあるものは将来にしか実現の可能性のない理想を、いまむりやりに実現しようとし、当面の大多数の人びとの実践から遊離し、当面の現実性から遊離して、行動のうえでは冒険主義としてあらわれる。

観念論と機械的唯物論、日和見主義と冒険主義は、いずれも主観と客観との分裂、認識と実践との分離を特徴としている。科学的な社会的実践を特徴とするマルクス・レーニン主義の認識論は、これらのあやまった思想に断固として反対しないではおれない。マルクス主義者は、宇宙の絶対的な、総体的な発展過程のなかで、それぞれの具体的な過程の発展はすべて相対的なものであるから、絶対的真理の大きな流れのなかでは、それぞれ一定の発展段階にある具体的な過程についての人びとの認識には相対的真理性しかないと考える。無数の相対的真理の総和が絶対的真理である〔8〕。客観的過程の発展は矛盾と闘争にみちた発展であり、人間の認識運動の発展もまた矛盾と闘争にみちた発展である。客観的世界のあらゆる弁証法的な運動は、おそかれはやかれみな人間の認識に反映されうるものである。社会的実践における発生、発展、消滅の過程は無限につづき、人間の認識の発生、発展、消滅の過程もまた無限につづく。一定の思想、理論、計画、成案にもとづいて、客観的現実の変革にとりくむ実践が、一回一回と前進すれば、客観的現実についての人びとの認識もそれにともなって、一回一回と深化していく。客観的現実世界の変化する運動は、永遠に完結することがなく、実践のなかでの真理にたいする人間の認識も永遠に完結することがない。マルクス・レーニン主義は、真理に終止符をうつものではなく、実践のなかでたえず真理を認識する道をきりひらいていくのである。われわれの結論は、主観と客観、理論と実践、知と行との具体的な歴史的な統一であり、具体的な歴史から遊離した、あらゆる「左」の、あるいは右のあやまった思想に反対することである。

社会がいまのような時代にまで発展してくると、世界を正しく認識し、改造する責務は、すでに歴史的にプロレタリア階級とその政党の肩にかかっている。このような、科学的認識にもとづいて定められた世界改造の実践過程は、世界においても、中国においても、すでに一つの歴史的な時期――有史いらいかつてなかった重大な時期にきている。それは、世界と中国の暗黒面を全面的にくつがえして、これまでになかったような光明の世界にかえることである。プロレタリア階級と革命的人民の世界改造の闘争には、つぎのような任務の実現がふくまれている。すなわち、客観的世界を改造し、また自己の主観的世界をも改造する――自己の認識能力を改造し、主観的世界と客観的世界との関係を改造することである。地球上の一部では、すでにこのような改造がおこなわれている。それがソ連である。ソ連の人民は、いまもこのような改造の過程をおしすすめている。中国の人民も世界の人民も、すべてこのような改造の過程をいま経過しているか、あるいは将来経過するであろう。改造される客観的世界というもののなかには、改造に反対するあらゆる人びとがふくまれており、かれらが改造されるには、強制の段階をへなければならず、そののちにはじめて自覚的段階にすすむことができるのである。全人類がすべて自覚的に自己を改造し、世界を改造するときがくれば、それは全世界の共産主義時代である。

実践をつうじて真理を発見し、さらに実践をつうじて真理を実証し、真理を発展させる。感性的認識から能動的に理性的認識に発展し、さらに理性的認識によって能動的に革命的実践を指導し、主観的世界と客観的世界を改造する。実践、認識、再実践、再認識というこの形態が循環往復して無限にくりかえされ、実践と認識の内容は一循環ごとに、より一段と高い段階にすすんでいく。これが弁証法的唯物論の認識論の全体であり、これが弁証法的唯物論の別と行の統一観である。

注

〔1〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。

〔2〕 マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』とレーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第六節を参照。

〔3〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。

〔4〕 レーニンが『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』のなかで、「理解するためには、経験の上から理解し研究しはじめ、経験から一般へとのぼっていかなければならない」といっている個所を参照。

〔5〕 レーニンの『なにをなすべきか?』第一章第四節から引用。

〔6〕 レーニンの『唯物論と経験批判論』から引用。その第二章第六節を参照。

〔7〕 スターリンの『レーニン主義の基礎』から引用。その第三の部分を参照。

〔8〕 レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第五節を参照。

訳注

① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔33〕を参照。

② 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔34〕を参照。

矛盾論

(一九三七年八月)

この哲学論文は、毛沢東同志が『実践論』についで、それとおなじ目的のために、つまり党内に存在するゆゆしい教条主義思想を克服するために書いたもので、かつて延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。『毛沢東選集』におさめるにあたって、著者は部分的な補足、削除、訂正をおこなった。

事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンはいっている。「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」〔1〕レーニンはつねにこの法則を弁証法の本質とよび、また弁証法の核心〔2〕ともよんでいる。したがって、この法則を研究するばあい、どうしてもひろい面にわたり、多くの哲学問題にふれないわけにはいかない。これらの問題をはっきりさせれば、われわれは唯物弁証法を根本的に理解することになる。これらの問題とは、二つの世界観、矛盾の普遍性、矛盾の特殊性、主要な矛盾と矛盾の主要な側面、矛盾の諸側面の同一性と闘争性、矛盾における敵対の地位である。

ソ連の哲学界では、この数年間、デボーリン学派の観念論が批判されてきた。このことは、われわれの非常に大きな興味をよんでいる。デボーリンの観念論は、中国共産党内にも非常にわるい影響をおよぼしており、わが党内の教条主義思想は、この学派の作風と関係がないとはいえない。したがって、われわれの現在の哲学研究活動は、教条主義思想の一掃をおもな目標にしなければならない。

一 二つの世界観

人類の認識史には、宇宙の発展法則についてこれまで二つの見解が存在してきた。一つは形而上けいじじょう学的な見解、他の一つは弁証法的な見解であって、それらはたがいに対立しあう二つの世界観を形成している。レーニンはいっている。「発展(進化)についての二つの基本的な(あるいは二つの可能な? あるいは二つの歴史上よくみられる?)観点は、つぎのとおりである。すなわち、発展とは減少および増大であり、反復であるとみること、発展とは対立面の統一(統一物がたがいに排斥しあう二つの対立面にわかれ、そしてこの二つの対立面がたがいに関連しあっている)であるとみることである。」〔3〕レーニンがいっているのはつまり、この二つの異なった世界観のことである。

形而上学は、玄学ともよばれている。この思想は、中国でもヨーロッパでも、歴史上非常に長いあいだ、観念論的な世界観にぞくし、人びとの思想のなかで支配的な地位をしめていた。ヨーロッパでは、ブルジョア階級の初期の唯物論も形而上学的であった。ヨーロッパの多くの国の社会経済が資本主義の高度に発達した段階にすすみ、生産力、階級闘争および科学がいずれも歴史上かつてない水準に発展し、工業プロレタリア階級が歴史を発展させるもっとも偉大な原動力になったことによって、マルクス主義の唯物弁証法的世界観がうまれた。そこで、ブルジョア階級のあいだには、公然たる、極度に露骨な、反動的観念論のほかに、また俗流進化論があらわれて、唯物弁証法に対抗するようになった。

形而上学あるいは俗流進化論の世界観というものは、世界を孤立的な、静止的な、一面的な観点でみるものである。こうした世界観は、世界のすべての事物、すべての事物の形態と種類を、永遠にそれぞれ孤立した、永遠に変化することのないものとみなしている。変化があるとしても、それはただ量の増減と場所の変動にすぎない。しかも、その増減と変動の原因は、事物の内部にあるのではなくて事物の外部にある、すなわち外力によって動かされるものだとしている。形而上学者は、世界のさまざまな異なった事物と事物の特性は、それらが存在しはじめたときからそうなっており、その後の変化は量の上での拡大または縮小にすぎないとしている。かれらは、一つの事物は永遠におなじ事物としてくりかえして発生するだけで、異なった別の事物に変化することはない、と考えている。形而上学者からみれば、資本主義の搾取、資本主義の競争、資本主義社会の個人主義思想などは、古代の奴隷社会でも、さらに原始社会でさえ、見いだすことができるし、しかも、永遠に変わることなく存在しつづけるということになる。社会発展の原因ということになると、かれらはそれを地理、気候など社会外部の条件によって説明する。かれらは単純に、発展の原因を事物の外部にもとめ、事物の発展が内部矛盾によってひきおこされると主張する唯物弁証法の学説を否定する。したがって、かれらには事物の質の多様性を説明することができないし、ある質が他の質に変化する現象を説明することができない。こうした思想は、ヨーロッパでは一七世紀と一八世紀には機械的唯物論となってあらわれ、一九世紀末から二〇世紀のはじめには、俗流進化論となってあらわれた。中国には「天は不変であり、道もまた不変である」〔4〕といった形而上学の思想があり、長いあいだ、腐敗した封建的支配階級から支持されてきた。百年このかた、ヨーロッパの機械的唯物論や俗流進化論が持ちこまれて、これがブルジョア階級から支持されている。

形而上学の世界観とは反対に、唯物弁証法の世界観は、事物の発展を事物の内部から、またある事物の他の事物にたいする関係から研究するよう主張する。すなわち事物の発展を事物の内部の、必然的な自己運動とみなし、また一つ一つの事物の運動は、すべてその周囲の他の事物とたがいに連係しあい、影響しあっているものとみる。事物の発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなくて事物の内部にあり、事物の内部の矛盾性にある。どんな事物の内部にもこうした矛盾性があり、そのために事物の運動と発展がひきおこされる。事物の内部のこの矛盾性は、事物の発展の根本原因であり、ある事物と他の事物がたがいに連係しあい、影響しあうことは、事物の発展の第二義的な原因である。このように、唯物弁証法は、形而上学の機械的唯物論や俗流進化論の、外因論または受動論に、力づよく反対してきた。たんなる外部的原因は、事物の機械的運動、すなわち範囲の大小、量の増減をひきおこすだけで、事物はなぜその性質が千差万別であり、また、なぜたがいに変化しあうかを説明することができないのはあきらかである。事実は、たとえ外力によって動かされる機械的運動でも、やはり事物の内部の矛盾性をつうじなければならないのである。植物や動物の単純な成長、その量的な発展も、主としてその内部の矛盾によってひきおこされる。同様に、社会の発展は、主として、外因によるのではなくて内因によるのである。多くの国はほとんどおなじような地理的、気候的条件のもとにあるが、その発展の相違性と不均等性は非常に大きい。一つの国についてみても、地理や気候に変化がないという状況のもとで、社会には大きな変化がみられる。帝国主義のロシアは社会主義のソ連に変わり、封建的な鎖国日本は帝国主義の日本に変わったが、これらの国の地理や気候には別に変化がなかった。長いあいだ封建制度によって支配されてきた中国には、この百年来、大きな変化がおこり、いま、自由・解放の新中国にむかって変化しつつあるが、中国の地理や気候には別に変化がなかった。地球全体および地球の各部分の地理や気候も変化はしているが、社会の変化にくらべると、ごくわずかな変化しかみられない。前者は、何万年かを単位として変化があらわれるが、後者は、何千年、何百年、何十年、ときには何年あるいは何ヵ月(革命の時期には)のあいだにさえ変化があらわれるのである。唯物弁証法の観点によれば、自然界の変化は、主として自然界の内部矛盾の発展によるものである。社会の変化は、主としで社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、諸階級のあいだの矛盾、新しいものとふるいものとのあいだの矛盾によるものであり、これらの矛盾の発展によって社会の前進がうながされ、新旧社会の新陳代謝がうながされる。では、唯物弁証法は外部的原因を排除するものだろうか。排除はしない。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は適当な温度をあたえられると、ひよこに変化するが、石ころは温度をくわえてもひよこにはならない。それは両者の根拠がちがうからである。各国人民のあいだの相互影響はつねに存在する。資本主義時代、とくに帝国主義とプロレタリア革命の時代には、各国のあいだの政治的、経済的、文化的な相互影響と相互衝撃はきわめて大きい。十月社会主義革命は、ロシアの歴史に新紀元をひらいたばかりでなく、世界の歴史にも新紀元をひらき、世界各国の内部の変化に影響をおよぼし、同様にしかもとくに深刻に、中国の内部の変化に影響をおよぼした。しかし、このような変化は、各国の内部そのもの、中国内部そのもののもつ法則性をつうじておこった。二つの軍隊が戦うばあい、一方が勝ち、他方が負けるが、勝つのも負けるのも、みな内因によってきまる。勝つ方は、強いか、あるいはその指揮にまちがいがないからであり、負ける方は、弱いか、あるいはその指揮にまちがいがあるからで、外因が内因をつうじて作用するのである。一九二七年に、中国の大ブルジョア階級がプロレタリア階級をうちまかしたのは、中国プロレタリア階級内部の(中国共産党内部の)日和見主義をつうじて作用をおこしたのである。われわれがこの日和見主義を清算すると、中国革命はあらたに発展した。その後、中国革命はまた敵からひどい打撃をうけたが、それは、われわれの党内に冒険主義があらわれたからである。われわれがこの冒険主義を清算すると、われわれの事業はまたあらたに発展した。こうしたことからみて、ある政党が革命を勝利にみちびくには、どうしても自己の政治路線の正しさと組織の強固さに依存しなければならない。

弁証法的な世界観は、中国でも、ヨーロッパでも、古代にすでにうまれていた。しかし、古代の弁証法は、自然発生的な、素朴な性質をおびていて、当時の社会的、歴史的条件から、完備した理論をもつことができなかった。したがって、宇宙を完全に説明することができず、やがて、形而上学にとって代わられてしまった。一八世紀の後期から一九世紀の初期にかけてのドイツの有名な哲学者へーゲルは、弁証法にたいして重要な貢献をしたが、かれの弁証法は観念論的弁証法であった。プロレタリア運動の偉大な活動家であったマルクスとエンゲルスが、人類の認識史の積極的な成果を総合し、とくにへーゲルの弁証法の合理的な部分を批判的にとりいれて、弁証法的唯物論と史的唯物論という偉大な理論を創造するようになってはじめて、人類の認識史には空前の大革命がおこった。その後、レーニンとスターリンによって、この偉大な理論はさらに発展させられた。この理論がひとたび中国につたわると、中国の思想界に非常に大きな変化がおこった。

この弁証法的世界観は主として、さまざまな事物の矛盾の運動の観察と分析に熟達すると同時に、その分析にもとづいて矛盾の解決方法を見いだすよう、人びとに教えている。したがって、事物の矛盾という法則を具体的に理解することは、われわれにとって非常に重要なことである。

二 矛盾の普遍性

叙述の便宜上、わたしはここで、まず矛盾の普遍性についてのべ、それから矛盾の特殊性についてのべることにする。それは、マルクス主義の偉大な創始者および継承者であるマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが、唯物弁証法の世界観を発見し、すでに唯物弁証法を人類の歴史の分析と自然界の歴史の分析の多くの面に応用し、また社会の変革と自然界の変革(たとえばソ連におけるように)の多くの面に応用して、きわめて偉大な成功をおさめており、矛盾の普遍性はすでに多くの人によってみとめられているので、この問題は簡単にのべるだけではっきりさせることができるからである。しかし、矛盾の特殊性の問題については、多くの同志たち、とくに教条主義者たちは、まだわかっていない。かれらは矛盾の普遍性が矛盾の特殊性のなかにこそやどっていることを理解していない。かれらはまた、当面する具体的な事物の矛盾の特殊性を研究することが、われわれが革命の実践の発展をみちびいていくうえでどれほど重要な意義をもっているかということを理解していない。したがって、矛盾の特殊性の問題はとくに力をいれて研究し、また十分紙面をさいて説明しなければならない。こうした理由から、事物の矛盾の法則を分析するにあたって、われわれはまず矛盾の普遍性の問題を分析し、そのあとで矛盾の特殊性の問題について力をいれて分析し、最後にふたたび矛盾の普遍性の問題にたちかえることにする。

矛盾の普遍性または絶対性という問題には、二つの意味がある。その一つは、矛盾があらゆる事物の発展の過程に存在するということであり、他の一つは、どの事物の発展の過程にも始めから終わりまで矛盾の運動が存在するということである。

エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」〔5〕といっている。レーニンが対立面の統一の法則にたいしてくだした定義によると、それは「自然界(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程における矛盾した、排斥しあう、対立した諸傾向をみとめること(発見すること)」〔6〕である。こうした見解は正しいだろうか。正しい。すべての事物のなかにふくまれている矛盾する側面の相互依存と相互闘争は、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展を推進する。矛盾をふくまない事物は一つもなく、矛盾がなければ世界はない。

矛盾は、単純な運動形態(たとえば機械的運動)の基礎であり、それ以上に、複雑な運動形態の基礎である。

エンゲルスは、矛盾の普遍性について、つぎのように説明している。「すでに単純な機械的な場所の移動でさえも、矛盾をふくんでいるとすれば、物質のより高度な運動の諸形態、とくに、有機的生命とその発展とはなおさらそうである。生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおのの瞬間にそれ自身でありながら、また別のものである、という点にある……。したがって、生命もまた、諸事物と諸過程そのもののなかに存在する、たえず自己を樹立し、かつ自己を解決する矛盾である。そして、この矛盾がやむやいなや、生命もやみ、死が到来する。同様に、思惟の領域でも、われわれが諸矛盾をさけることができないということ、たとえば、人間の内的に限界をもたない認識能力と、外的に局限された、しかも認識上でも局限された人間の認識能力の実際のありかたとのあいだの矛盾が、われわれにとっては少なくとも実際上かぎりのない世代の連続のうちで、無限の進行のなかで、解決されるということを、われわれは見てきたのである。」

「高等数学は、……矛盾をそのおもな基礎の一つにしている。」

「初等数学でさえも、矛盾にみちている。……。」〔7〕

レーニンもまた矛盾の普遍性をつぎのように説明している。「数学では、+プラスと-マイナス、微分と積分。

力学では、作用と反作用。

物理学では、陽電気と陰電気。

化学では、原子の化合と分解。

社会科学では、階級闘争。」〔8〕

戦争における攻撃と防御、前進と後退、勝利と敗北は、みな矛盾した現象である。一方がなくなれば、他方も存在しなくなる。双方はたたかいながらまた結びついて、戦争の全体を形づくり、戦争の発展をうながし、戦争の問題を解決する。

人間のもっている概念の一つ一つの差異は、すべて、客観的矛盾の反映とみなさなければならない。客観的矛盾が、主観的な思想に反映して、概念の矛盾運動を形づくり、思想の発展をうながし、人びとの思想問題をたえず解決していくのである。

党内における異なった思想の対立と闘争は、つねに発生するものである。それは社会の階級的矛盾と新旧事物の矛盾が党内に反映したものである。もし、党内に矛盾と、矛盾を解決する思想闘争がなくなれば、党の生命もとまってしまう。

以上からみて、単純な運動形態であろうと複雑な運動形態であろうと、また客観的現象であろうと思想現象であろうと、矛盾が普遍的に存在し、矛盾がすべての過程に存在している点は、すでにあきらかになった。だが、どの過程のはじめの段階にも、矛盾は存在するだろうか。どの事物の発展過程にも、始めから終わりまで矛盾の運動があるだろうか。

ソ連の哲学界でデボーリン学派を批判した論文によると、デボーリン学派はつぎのような見解をもっていることがわかる。すなわち、かれらは、矛盾は過程の始めからあらわれるのではなくて、その過程が一定の段階に発展したときにはじめてあらわれるのだ、と考えている。もしそうだとすると、そのときまでは、過程の発展は、内部的な原因によるのではなくて、外部的な原因によることになる。このように、デボーリンは、形而上学の外因論と機械論にもどってしまった。そして、このような見解をもって、具体的な問題を分析したため、かれらはソ連の条件のもとでは、富農と一般農民のあいだには差異があるだけで矛盾はないとみ、ブハーリンの意見に完全に賛成したのである。フランス革命の分析にあたっても、かれらは、革命前の労働者、農民、ブルジョア階級からなる第三身分のなかには、差異があるだけで矛盾はないと考えた。デボーリン学派のこうした見解は反マルクス主義的なものである。かれらは、世界の一つ一つの差異にはすでに矛盾がふくまれており、その差異とは矛盾であるということを知らなかった。労働者と資本家とは、この二つの階級がうまれたそのときからたがいに矛盾していたが、ただ激化していなかったにすぎない。労働者と農民のあいだには、たとえソ連の社会的条件のもとでも、やはり差異はあり、かれらの差異はすなわち矛盾である。ただ、それは労資間の矛盾とはちがい、階級闘争の形態をとらず、敵対となるほど激化しないだけのことである。かれらは、社会主義建設の過程で強固な同盟を形成するとともに、社会主義から共産主義への発展過程でしだいにこの矛盾を解決していくのである。これは、矛盾の差異性の問題であって、矛盾があるかないかの問題ではない。矛盾は普遍的な、絶対的なものであり、事物の発展のすべての過程に存在し、また、すべての過程を始めから終わりまでつらぬいている。

新しい過程の発生とはなにか。それは、ふるい統一とその統一を構成する対立的要素とが、新しい統一とその統一を構成する対立的要素に席をゆずり、そこで、新しい過程がふるい過程にとって代わって発生することである。ふるい過程が終わって、新しい過程が発生する。新しい過程はまた、新しい矛盾をふくんでいて、それ自身の矛盾の発展史がはじまる。

事物の発展過程の始めから終わりまでの矛盾の運動について、マルクスが『資本論』のなかで模範的な分析をしていることを、レーニンは指摘している。これはどんな事物の発展過程を研究するにも応用しなければならない方法である。レーニン自身もそれを正しく応用し、かれの全著作のなかにつらぬいている。

「マルクスの『資本論』では、まず最初に、ブルジョア(商品)社会のもっとも単純な、もっとも普通な、もっとも根本的な、もっとも大量にみられる、もっとも日常的な、何億回となくでくわす関係、すなわち商品交換が分析されている。その分析は、このもっとも単純な現象をつうじて(ブルジョア社会のこの「細胞」をつうじて)現代社会のすべての矛盾(あるいはすべての矛盾の胚芽はいが)をあばきだす。それから先の叙述は、これらの矛盾の発展と、この社会の、この社会の個々の部分の総和における、この社会の始めから終わりまでにおける発展とを(成長をも運動をも)、われわれにしめしている。」

レーニンはこうのべたあとで、つづいてつぎのようにいっている。「弁証法一般の叙述(および研究)の方法も、またこのようなものでなければならない。」〔9〕

中国共産党員は、中国革命の歴史と現状を正しく分析し、革命の将来を予測するには、かならずこの方法を身につけなければならない。

三 矛盾の特殊性

矛盾はあらゆる事物の発展の過程に存在しており、矛盾は一つ一つの事物の発展過程を始めから終わりまでつらぬいている。これが矛盾の普遍性と絶対性で、これについては、すでに前にのべた。これから矛盾の特殊性と相対性についてのべよう。

この問題は、いくつかの状況をつうじて研究しなければならない。

まず、物質のさまざまな運動形態のなかの矛盾は、いずれも特殊性をもっている。人間が物質を認識するというのは、物質の運動形態を認識するのである。なぜなら、世界には運動する物質のほかになにものもなく、物質の運動はかならず一定の形態をとるからである。物質の一つ一つの運動形態については、それとその他のさまざまな運動形態との共通点に注意しなければならない。しかし、とくに重要なことで、われわれが事物を認識する基礎となるものは、その特殊点に注意しなければならないということ、つまり、それとその他の運動形態との質的なちがいに注意しなければならないということである。この点に注意してはじめて、事物を区別することができるようになる。いかなる運動形態にも、その内部にそれ自身の特殊な矛盾がふくまれている。この特殊な矛盾が、ある事物を他の事物から区別する特殊な本質を構成している。これが、世界のさまざまな事物が千差万別であることの内在的な原因であり、根拠といわれるものでもある。自然界には、たくさんの運動形態が存在しており、機械的運動、音、光、熱、電流、分解、化合など、みなそれである。これらの物質の運動形態は、みなたがいに依存しあい、また本質的にたがいに区別しあっている。物質のそれぞれの運動形態がもっている特殊な本質は、その運動形態自身の特殊な矛盾によって規定される。このような状況は、自然界のなかに存在しているばかりでなく、社会現象および思想現象のなかにも、おなじように存在している。一つ一つの社会形態と思想形態は、みなその特殊な矛盾と特殊な本質をもっている。

科学研究の区分は、科学の対象がもっている特殊な矛盾性にもとづいている。したがって、ある現象の領域に特有なある矛盾についての研究が、その部門の科学の対象を構成する。たとえば、数学における正数と負数、力学における作用と反作用、物理学における陰電気と陽電気、化学における分解と化合、社会科学における生産力と生産関係、階級と階級との相互闘争、軍事学における攻撃と防御、哲学における観念論と唯物論、形而上学と弁証法など、みな特殊な矛盾と特殊な本質をもっているからこそ、異なった科学研究の対象を構成しているのである。もちろん、矛盾の普遍性を認識しなければ、事物が運動し発展する普遍的な原因、つまり普遍的な根拠を発見するすべもなくなる。しかし、矛盾の特殊性を研究しなければ、ある事物が他の事物と異なる特殊な本質を確定するすべもなく、事物が運動し発展する特殊な原因、つまり特殊な根拠を発見するすべもなく、また、事物を識別し、科学研究の領域を区分するすべもない。

人類の認識運動の順序についていうと、それはつねに、個々の、また特殊の事物の認識から、しだいに一般的な事物の認識へと拡大していくものである。人びとは、つねに、まず多くの異なった事物の特殊な本質を認識し、そののちはじめてさらに一歩すすんで概括作業をおこない、さまざまな事物の共通の本質を認識することができるのである。すでにこの共通の本質を認識したならば、この共通の認識を手びきとして、ひきつづき、まだ研究されたことのない、あるいはまだふかく研究されたことのない、さまざまな具体的な事物にたいする研究をすすめ、その特殊な本質をさがしだす。そうしてはじめて、この共通の本質の認識がひからびた、硬直したものにならないように、この共通の本質の認識を補足し、豊富にし、発展させることができるのである。これは、一つは特殊から一般へ、一つは一般から特殊へという、認識の二つの過程である。人類の認識は、つねにこのように循環し、往復しながらすすむのであって、その一循環ごとに(厳格に科学的方法にしたがうかぎり)人類の認識を一歩高め、たえずふかめていくことができる。われわれの教条主義者たちの、この問題についてのあやまりは、すなわち、一方では、矛盾の普遍性を十分認識し、さまざまな事物の共通の本質を十分に認識するには、矛盾の特殊性を研究し、それぞれの事物の特殊な本質を認識しなければならないということがわかっていないこと、他方では、われわれが事物の共通の本質を認識したあとでも、まだふかく研究されていないか、あるいは新しくあらわれてきた具体的な事物について、ひきつづき研究しなければならないということがわかっていないことにある。われわれの教条主義者たちはなまけものである。かれらは具体的な事物について、骨のおれるどんな研究活動もこばみ、真理一般がなんのよりどころもなくあらわれてくるものとみなし、それをとらえることのできない純抽象的な公式にしてしまい、人類が真理を認識するというこの正常な順序を完全に否定し、しかもそれを転倒するのである。かれらはまた、特殊から一般へそして一般から特殊へという、人類の認識の二つの過程の相互の結びつきがわからず、マルクス主義の認識論がまったくわからないのである。

物質の一つ一つの大きな体系としての運動形態がもつ特殊な矛盾性と、それによって規定される本質を研究しなければならないばかりでなく、物質の一つ一つの運動形態の、長い発展の途上での一つ一つの過程の特殊な矛盾とその本質をも研究しなければならない。あらゆる運動形態の、憶測でなくて実在する一つ一つの発展過程は、すべて質を異にしている。われわれの研究活動はこの点に力をいれ、またこの点からはじめなければならない。

質の異なる矛盾は、質の異なる方法でしか解決できない。たとえば、プロレタリア階級とブルジョア階級との矛盾は社会主義革命の方法によって解決され、人民大衆と封建制度との矛盾は民主主義革命の方法によって解決され、植民地と帝国主義との矛盾は民族革命戦争の方法によって解決され、社会主義社会における労働者階級と農民階級との矛盾は農業の集団化と農業の機械化の方法によって解決され、共産党内の矛盾は批判と自己批判の方法によって解決され、社会と自然との矛盾は生産力を発展させる方法によって解決される。過程が変化し、ふるい過程とふるい矛盾がなくなり、新しい過程と新しい矛盾がうまれ、それによって、矛盾を解決する方法もまたちがってくる。ロシアの二月革命と十月革命とでは、解決された矛盾およびその矛盾の解決にもちいられた方法が根本的に異なっていた。異なる方法によって異なる矛盾を解決すること、これはマルクス・レーニン主義者の厳格にまもらなければならない原則である。教条主義者はこの原則をまもらない。かれらは、さまざまな革命の状況のちがいを理解せず、したがって、異なる方法によって異なる矛盾を解決しなければならないということも理解しないで、動かすことのできないものとおもいこんでいるある公式を千篇せんぺん一律に、どこにでもむりやりあてはめるだけである。これでは、革命を失敗させるか、もともとうまくいくことをめちゃくちゃにするばかりである。

事物の発展過程における矛盾がその全体のうえで、相互の結びつきのうえでもっている特殊性をあばきだすには、つまり、事物の発展過程の本質をあばきだすには、過程における矛盾の、それぞれの側面の特殊性をあばきださなければならない。そうしなければ、過程の本質はあばきだせない。この点もまた、われわれが研究活動をするにあたって十分注意しなければならないことである。

大きな事物には、その発展過程に多くの矛盾がふくまれている。たとえば,中国のブルジョア民主主義革命の過程には、中国社会の被抑圧諸階級と帝国主義との矛盾があり、人民大衆と封建制度との矛盾があり、プロレタリア階級とブルジョア階級との矛盾があり、農民および都市小ブルジョア階級とブルジョア階級との矛盾があり、それぞれの反動的支配者集団のあいだの矛盾があるなど、その状況は非常に複雑である。これらの矛盾にはそれぞれ特殊性があって、これを一律にみてはならないばかりでなく、一つ一つの矛盾の二つの側面にもそれぞれ特徴があるので、これも一律にみてはならない。われわれ中国革命にたずさわるものは、それぞれの矛盾の全体のうえで、すなわち矛盾の相互の結びつきのうえでその特殊性を理解しなければならないばかりでなく、矛盾のそれぞれの側面から研究していくことによってはじめて、その全体を理解することができる。矛盾のそれぞれの側面を理解するということは、その一つ一つの側面がどんな特定の地位をしめているか、それぞれどんな具体的なかたちで相手かたとたがいに依存しあいながらたがいに矛盾しあう関係をもつか、また、たがいに依存しあいながらたがいに矛盾しあうなかで、そして依存がやぶれたのちに、それぞれどんな具体的な方法で相手かたと闘争するかを理解することである。これらの問題の研究はきわめて重要なことである。レーニンが、マルクス主義のもっとも本質的なもの、マルクス主義の生きた魂は、具体的状況にたいする具体的分析にある〔10〕、といっているのはつまりこういう意味である。われわれの教条主義者たちは、レーニンの指示にそむいて、どんな事物についてもこれまで頭をつかって具体的に分析したことはなく、文章を書いたり演説をしたりすると、いつも中味のない紋切り型のものになってしまい、わが党内に非常にわるい作風をつくりだした。

問題を研究するには、主観性、一面性および表面性をおびることは禁物である。主観性とは、問題を客観的に見ることを知らないこと、つまり唯物論的観点から問題を見ることを知らないことである。この点については、わたしはすでに『実践論』のなかでのべた。一面性とは、問題を全面的に見ることを知らないことである。たとえば、中国の方について知っているだけで日本の方を知らない、共産党の方について知っているだけで国民党の方を知らない、プロレタリア階級の方について知っているだけでブルジョア階級の方を知らない、農民の方について知っているだけで地主の方を知らない、順調な状況の方について知っているだけで困難な状況の方を知らない、過去の方について知っているだけで将来の方を知らない、個体の方について知っているだけで全体の方を知らない、欠点の方について知っているだけで成果の方を知らない、原告の方について知っているだけで被告の方を知らない、革命の秘密活動の方について知っているだけで革命の公然活動の方を知らない、といったことなどである。一口にいえば、矛盾の各側面の特徴を知らないのである。こういうのを、問題を一面的に見るというのである。あるいは、局部だけを見て全体を見ない、木だけを見て森を見ないともいう。これでは、矛盾を解決する方法を見いだすことはできず、革命の任務を達成することはできず、うけもった仕事をりっぱにやりとげることはできず、党内の思想闘争を正しく発展させることはできない。孫子は軍事を論じて、「かれを知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」〔11〕といっている。かれは戦争をする双方についていっているのである。唐代の人、魏徴は「兼あわせ聴けば明るく、偏かたより信ずれば暗し」〔12〕といっているが、やはり一面性はまちがいであることがわかっていたのである。ところが、われわれの同志は、問題をみるばあい、とかく一面性をおびがちであるが、こういう人はしばしば痛い目にあう。『水滸すいこ伝』では、宋江が三回祝家荘チュチャチョワンを攻撃する〔13〕が、はじめの2回は状況がわからず、やり方もまちがっていたので敗北した。そののち、やり方をかえて、状況の調査からはじめた。そこで迷路に明るくなり、李家荘リーチャチョワン、扈家荘ホーチャチョワンと祝家荘との同盟をきりくずし、また敵の陣営内に伏兵をはいりこませ、外国の物語にでてくる木馬の計に似た方法をとって、三回目の戦いに勝利した。『水滸伝』には、唯物弁証法の事例がたくさんあるが、この3回の祝家荘攻撃は、そのなかで、もっともよい例だといえる。レーニンはいっている。「対象をほんとうに知るためには、そのすべての側面、すべての連関と『媒介』を把握はあくし、研究しなければならない。われわれは、けっして完全にそこまでたっすることはないだろうが、全面性を要求することは、われわれをあやまりや硬直に陥らないよう用心させてくれる。」〔14〕われわれは、このことばを銘記しなければならない。表面性とは、矛盾の全体も矛盾のそれぞれの側面の特徴もみず、事物に深くはいって矛盾の特徴をこまかく研究する必要を否定し、ただ遠くからながめて、矛盾のちょっとした姿を大ざっぱにみただけで、すぐ矛盾の解決(問題の解答、紛争の解決、仕事の処理、戦争の指揮にとりかかろうとすることである。こんなやり方では、まちがいをしでかさないはずがない。中国の教条主義者や経験主義者があやまりをおかしたのは、事物を見る方法が主観的であり、一面的であり、表面的だったからである。一面性も表面性も主観性である。なぜなら、すべての客観的事物はもともとたがいに連係しあったもの、内部法則をもったものであるのに、人びとがこの状況をありのままに反映しないで、ただ一面的に、あるいは表面的にそれらを見る、つまり事物の相互連係を認識せず、事物の内部法則を認識していないからである。したがって、このような方法は主観主義的である。

われわれは、事物の発展の全過程における矛盾の運動にたいして、その相互の結びつきとそれぞれの側面の状況において、その特徴に注意しなければならないばかりでなく、過程の発展のそれぞれの段階にもやはりその特徴があり、それにも注意しなければならない。

事物の発展過程における根本的矛盾と、この根本的矛盾によって規定される過程の本質は、その過程が完了するときでなければ消滅しない。しかし、事物の発展する長い過程のなかのそれぞれの発展段階は、その状況がたがいにちがうことがよくある。これは事物の発展過程における根本的矛盾の性質と過程の本質には変化がなくても、長い過程でのそれぞれの発展段階で、根本的矛盾がしだいに激化する形式をとるからである。しかも、根本的矛盾によって規定されるか、あるいは影響される大小さまざまな多くの矛盾のうち、一部のものは激化し、一部のものは一時的にあるいは局部的に解決されたり緩和したりし、さらに一部のものは発生するので、過程に段階性があらわれるのである。もし、人びとが事物の発展過程のなかの段階性に注意しないとしたら、事物の矛盾を適切に処理することはできない。

たとえば、自由競争時代の資本主義は発展して帝国主義となるが、このときにも、プロレタリア階級とブルジョア階級という根本的に矛盾する二つの階級の性質およびこの社会の資本主義的本質は変化していない。だが、二つの階級の矛盾が激化し、独占資本と非独占資本とのあいだの矛盾が発生し、宗主国と植民地との矛盾が激化し、資本主義諸国間の矛盾、すなわち各国の発展の不均等状態によってひきおこされた矛盾がとくにするどくなってきたので、資本主義の特殊な段階、すなわち帝国主義の段階が形成されたのである。レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義となったのは、レーニンとスターリンが、これらの矛盾を正しく解明するとともに、これらの矛盾を解決するためのプロレタリア革命の理論と戦術を正しくつくりだしたからである。

辛亥シンハイ革命①からはじまった中国のブルジョア民主主義革命の過程の状況について見ても、いくつかの特殊な段階がある。とくに、ブルジョア階級が指導した時期の革命とプロレタリア階級が指導する時期の革命とは、大きなちがいのある二つの歴史的段階として区別される。すなわち、プロレタリア階級の指導によって、革命の様相が根本的に変わり、階級関係の新しい配置、農民革命の大きなもりあがり、反帝国主義、反封建主義革命の徹底性、民主主義革命から社会主義革命への転化の可能性などがでてきた。これらすべては、ブルジョア階級が革命を指導していた時期には、あらわれることのできなかったものである。過程全体をつらぬく根本的矛盾の性質、すなわち、過程の反帝・反封建の民主主義革命という性質(その反面は半植民地的、半封建的な性質)には、変化がないにもかかわらず、この長い時間のあいだには、辛亥革命の失敗と北洋軍閥②の支配、第1次民族統一戦線の樹立と一九二四年から一九二七年までの革命、統一戦線の分裂とブルジョア階級の反革命への転移、新しい軍閥の戦争、土地革命戦争、第二次民族統一戦線の樹立と抗日戦争などの大きなできごとを経過し、この二〇余年のあいだにいくつかの発展段階を経過した。それらの段階には、一部の矛盾の激化(たとえば土地革命戦争と日本帝国主義の東北四省への侵略)、一部の矛盾の部分的あるいは一時的な解決(たとえば、北洋軍閥が消滅されたこととか、われわれが地主の土地を没収したこととか)、一部の矛盾のあらたな発生(たとえば、新しい軍閥のあいだのあらそいとか、南方の各地の革命根拠地がうしなわれたのち、地主がふたたび土地をとりかえしたこととか)などの特殊な状況がふくまれている。

事物の発展過程の、それぞれの発展段階における矛盾の特殊性を研究するには、その結びつきのうえで、その全体のうえでそれを見なければならないばかりでなく、それぞれの段階における矛盾のそれぞれの側面からも見なければならない。

国民党と共産党の両党に例をとろう。国民党の側についていうと、第一次統一戦線の時期には、連ソ、連共、労農援助という孫中山スンチョンシャンの三大政策を実行したので、それは革命的で生気にあふれ、諸階級の民主主義革命の同盟体であった。一九二七年以後、国民党はこれと正反対の側に変わり、地主と大ブルジョア階級の反動的集団になった。一九三六年一二月の西安シーアン事変以後は、また、内戦を停止し共産党と連合してともに日本帝国主義に反対するという側に転じはじめた。これが三つの段階における国民党の特徴である。これらの特徴が形成されたのには、もちろんさまざまな原因がある。中国共産党の側についていえば、第一次統一戦線の時期には幼年の党であったが、一九二四年から一九二七年までの革命を勇敢に指導した。しかし、革命の性質、任務、方法についての認識の面では、その幼稚さがあらわれ、そのため、この革命の後期に発生した陳独秀チェントウシウ主義③が作用をおこし、この革命を失敗させてしまった。一九二七年以後、中国共産党はまた、土地革命戦争を勇敢に指導し、革命の軍隊と革命の根拠地をつくりあげた。しかし、また冒険主義のあやまりをおかして、軍隊と根拠地に大きな損失をこうむらせた。一九三五年以後は、ふたたび、冒険主義のあやまりを是正して、新しい、抗日の統一戦線を指導するようになり、この偉大な闘争はいま発展しつつある。この段階では、共産党は二回の革命の試練をへた、豊富な経験をもった党となっている。これらが三つの段階における中国共産党の特徴である。これらの特徴が形成されたのには、やはりさまざまな原因がある。両党のこれらの特徴を研究しなければ、それぞれの発展段階での国共両党の特殊な相互関係、すなわち統一戦線の樹立、統一戦線の分裂および統一戦線の再樹立を理解することはできない。そして、両党のさまざまな特徴を研究するためにより根本的なことは、この両党の階級的基礎と、それによってそれぞれの時期に形成された、両党と他の方面とのあいだの矛盾の対立とを研究しなければならないということである。たとえば、国民党が共産党と一回目に連合した時期には、国民党は、一方では外国帝国主義とのあいだに矛盾があったので、帝国主義には反対したが、他方では国内の人民大衆とのあいだに矛盾があったので、口先では勤労人民に多くの利益をあたえると約束しながら、実際には、ごくわずかの利益しかあたえなかったか、ぜんぜんなにもあたえなかった。そして、反共戦争をすすめた時期には、帝国主義、封建主義と協力して人民大衆に反対し、人民大衆が革命のなかでたたかいとったすべての利益をいっさいがっさい奪いとり、人民大衆とのあいだの矛盾を激化させた。現在の抗日の時期には、国民党は、日本帝国主義とのあいだに矛盾があるので、一方では共産党と連合する必要にせまられているが、同時に共産党や国内の人民大衆にたいしては闘争と圧迫をゆるめていない。ところが共産党は、どんな時期にも、つねに人民大衆といっしょになって、帝国主義と封建主義に反対してきた。だが、現在の抗日の時期には、国民党が抗日を表明しているので、共産党は、国民党および国内の封建勢力にたいする政策を緩和した。これらの状況から、両党の連合あるいは両党の闘争が形成されたのであるが、たとえ両党が連合している時期でも、連合もし闘争もするという複雑な状況が存在するのである。もしわれわれが矛盾のこれらの側面の特徴を研究しないならば、われわれは、この両党がそれぞれその他の方面とのあいだにもっている関係を理解できないばかりか、両党のあいだの相互の関係も理解できない。

こうした点からみて、どんな矛盾の特性を研究するにも、つまり物質のそれぞれの運動形態がもつ矛盾、それぞれの運動形態がそれぞれの発展過程でもつ矛盾、それぞれの発展過程でもつ矛盾のそれぞれの側面、それぞれの発展過程がそれぞれの発展段階でもつ矛盾、およびそれぞれの発展段階の矛盾のそれぞれの側面など、これらすべての矛盾の特性を研究するには、主観的任意性をおびてはならず、それらにたいして、具体的な分析をしなければならない。具体的な分析をはなれては、どんな矛盾の特性も認識できない。われわれはつねに、具体的な事物について具体的な分析をせよというレーニンのことばを銘記しておかなければならない。

このような具体的な分析については、マルクス、エンゲルスが最初にわれわれにりっぱな手本をしめしてくれた。

マルクス、エンゲルスは、事物の矛盾の法則を社会の歴史的過程の研究に応用したとき、生産力と生産関係とのあいだの矛盾を見いだし、搾取階級と被搾取階級とのあいだの矛盾、およびこれらの矛盾によってうまれる経済的土台と政治、思想などの上部構造とのあいだの矛盾を見いだし、そしてこれらの矛盾が、それぞれ異なった階級社会で、どのように不可避的に、それぞれ異なった社会革命をひきおこすかを見いだした。

マルクスは、この法則を資本主義社会の経済構造の研究に応用したとき、この社会の基本的矛盾が生産の社会性と占有の個人性のあいだの矛盾であることを見いだした。この矛盾はそれぞれの企業における生産の組織性と、社会全体における生産の無組織性とのあいだの矛盾としてあらわれる。この矛盾の階級的なあらわれがブルジョア階級とプロレタリア階級のあいだの矛盾である。

事物の範囲はきわめて広く、その発展は無限であるから、あるばあいには普遍性であったものが、他のばあいには特殊性に変わる。それとは逆に、あるばあいには特殊性であったものが、他のばあいには普遍性に変わる。資本主義制度にふくまれる生産の社会化と生産手段の私的所有制との矛盾は、資本主義が存在しまたは発展しているすべての国に共通するものであって、これは資本主義にとっては、矛盾の普遍性である。しかし、資本主義のこの矛盾は、階級社会一般が一定の歴史的段階に発展したときのものであって、階級社会一般での生産力と生産関係との矛盾からいえば、これは矛盾の特殊性である。しかし、マルクスが資本主義社会のこれらすべての矛盾の特殊性を解剖した結果、階級社会一般における生産力と生産関係との矛盾の普遍性は、よりいっそう、より十分に、より完全に、あきらかにされた。

特殊な事物は普遍的な事物と結びついているので、また、一つ一つの事物の内部には矛盾の特殊性ばかりか、矛盾の普遍性もふくまれており、普遍性は特殊性のなかにこそ存在しているので、われわれが一定の事物を研究するばあいには、この二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物の内部にある特殊性と普遍性という二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物とそれ以外の多くの事物との相互の結びつきを発見しなければならない。スターリンはその名著『レーニン主義の基礎について』のなかで、レーニン主義の歴史的根源を説明するにあたって、レーニン主義のうまれた国際的環境を分析し、帝国主義という条件のもとですでに極点にまで発展した資本主義の諸矛盾と、これらの諸矛盾によってプロレタリア革命が直接的実践の課題になり、資本主義に直接突撃をくわえるよい条件がつくりだされたこととを分析している。そればかりでなく、かれはさらに、どうしてロシアがレーニン主義の発祥地になったかを分析し、帝政ロシアがその当時帝国主義のあらゆる矛盾の集中点となり、またロシアのプロレタリア階級が世界の革命的プロレタリア階級の前衛となることができた原因を分析した。このように、スターリンは帝国主義の矛盾の普遍性を分析して、レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義であることを解明し、また帝政ロシアの帝国主義がこの一般的な矛盾のなかでもっていた特殊性を分析して、ロシアがプロレタリア革命の理論と戦術の誕生地となったこと、そして、この特殊性のなかに矛盾の普遍性がふくまれていることを解明している。スターリンのこの分析は、われわれに、矛盾の特殊性と普遍性、およびその相互の結びつきを認識する手本をしめしている。

マルクスとエンゲルス、おなじくレーニンとスターリンは、弁証法を客観的現象の研究に応用するばあい、主観的任意性をいささかもおびてはならず、かならず客観的な実際の運動にふくまれている具体的な条件から、これらの現象のなかの具体的な矛盾、矛盾のそれぞれの側面の具体的な地位および矛盾の具体的な相互関係を見いださなければならないことを、いつも教えている。われわれの教条主義者たちは、このような研究態度がないので、正しいことは何一つやれなかった。われわれは教条主義の失敗をいましめとして、このような研究態度を身につけなければならない。これ以外にはどんな研究方法もないのである。

矛盾の普遍性と矛盾の特殊性との関係は、矛盾の通性と個性との関係である。通性とは、矛盾があらゆる過程に存在するとともに、あらゆる過程を始めから終わりまでつらぬいているということであり、矛盾とは、運動であり、事物であり、過程であり、また思想でもある。事物の矛盾を否定することは、すべてを否定することである。これは共通の道理であって、古今東西をつうじて例外はない。したがって、それは通性であり、絶対性である。しかしながら、この通性はあらゆる個性のなかにふくまれており、個性がなければ通性はない。あらゆる個性をとりさったら、通性などあるだろうか。矛盾はそれぞれ特殊であるから、個性がうまれるのである。すべての個性は条件的、一時的に存在するものであり、したがって相対的である。

この通性と個性、絶対と相対との道理は、事物の矛盾の問題の真髄であって、これを理解しなかったら、弁証法を捨てたにひとしい。

四 主要な矛盾と矛盾の主要な側面

矛盾の特殊性という問題のなかには、とくにとりあげて分析する必要のある状況がまだ二つある。それは主要な矛盾と矛盾の主要な側面である。

複雑な事物の発展過程には、多くの矛盾が存在しているが、そのなかではかならず一つが主要な矛盾であり、その存在と発展によって、その他の矛盾の存在と発展が規定され、あるいは影響される。

たとえば、資本主義社会では、プロレタリア階級とブルジョア階級という二つの矛盾する力が主要な矛盾をなしており、それ以外の矛盾する力、たとえば、残存する封建階級とブルジョア階級との矛盾、小ブルジョア階級、農民とブルジョア階級との矛盾、プロレタリア階級と小ブルジョア階級、農民との矛盾、非独占ブルジョア階級と独占ブルジョア階級との矛盾、ブルジョア民主主義とブルジョア・ファシズムとの矛盾、資本主義国相互間の矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、およびその他の矛盾はいずれも、この主要な矛盾する力によって規定され、影響される。

半植民地国では、たとえば中国のように、その主要な矛盾と主要でない矛盾との関係が、複雑な状況を呈している。

帝国主義がこのような国にたいして侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の各階級は、一部の売国分子をのぞいて、帝国主義に反対するために、一時的に団結して民族戦争をすすめることができる。そのときには、帝国主義とこのような国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、このような国の内部の各階級のあいだのあらゆる矛盾(封建制度と人民大衆とのあいだの矛盾というこの主要な矛盾をもふくめて)は、いずれも一時的には副次的な、また従属的な地位にさがる。中国では、一八四〇年のアヘン戦争、一八九四年の中日戦争、一九〇〇年の義和団戦争および現在の中日戦争に、いずれもこのような状況がみられる。

しかし、別の状況のもとでは、矛盾の地位に変化がおこる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなくて、政治、経済、文化など比較的温和な形式をとって圧迫するばあいには、半植民地国の支配階級は帝国主義に投降するようになり、両者は同盟をむすんで、いっしょになって人民大衆を圧迫する。こうしたばあい、人民大衆はしばしば国内戦争の形式をとって帝国主義と封建階級の同盟に反対するが、帝国主義はしばしば、直接行動をとらずに間接的な方式で半植民地国の反動派の人民大衆への圧迫を援助する。そのため内部矛盾がとくにするどくあらわれてくる。中国の辛亥革命戦争、一九二四年から一九二七年までの革命戦争、一九二七年以後一〇年にわたる土地革命戦争には、いずれもこのような状況がみられる。また、たとえば中国の軍閥戦争のような、半植民地国のそれぞれの反動支配者集団のあいだの内戦も、こうした部類にぞくする。

国内革命戦争が発展して、帝国主義とその手先である国内反動派の存在を根本からおびやかすようになると、帝国主義はしばしば上述の方法以外の方法をとって、その支配を維持しようとする。つまり、革命陣営の内部を分裂させたり、直接軍隊を派遣して国内反動派を援助したりする。こうしたとき、外国帝国主義と国内反動派とはまったく公然と一方の極にたち、人民大衆は他方の極にたって、主要な矛盾を形成し、これがその他の矛盾の発展状態を規定するか、あるいはそれに影響をあたえる。十月革命後、資本主義諸国がロシアの反動派をたすけたのは、武力干渉の例である。一九二七年の蒋介石シァンチェシーの裏切りは、革命陣営を分裂させた例である。

しかし、いずれにしても、過程の発展のそれぞれの段階で指導的な作用をおこすのは、主要な矛盾だけである。これはまったく疑いのないところである。

こうしたことからわかるように、どんな過程にも、もし多くの矛盾が存在しているとすれば、そのなかの一つはかならず主要なものであって、指導的な、決定的な作用をおこし、その他は副次的、従属的地位におかれる。したがって、どんな過程を研究するにも、それが二つ以上の矛盾の存在する複雑な過程であるならば、全力をあげてその主要な矛盾を見いださなければならない。この主要な矛盾をつかめば、すべての問題はたやすく解決できる。これは、マルクスが資本主義社会を研究するさいわれわれに教えている方法である。また、レーニンとスターリンが帝国主義と資本主義の全般的危機を研究するさいにも、ソ連の経済を研究するさいにも、こういう方法を教えている。ところが、何千何万という学者や実行家は、こういう方法がわからないために、五里霧中におちいり、核心がみつからず、したがって矛盾を解決する方法もみつからない。

うえにのべたとおり、過程のなかのすべての矛盾を同等にあつかってはならず、それらを主要なものと副次的なものとの二つの種類にわけ、主要な矛盾をつかむことに重点をおかなければならない。だが、さまざまな矛盾のなかで、主要なものであろうと、あるいは副次的なものであろうと、矛盾する二つの側面は、また同等にあつかってよいだろうか。やはりいけない。どんな矛盾であろうと、矛盾の諸側面は、その発展が不平衡である。あるばあいには、力が伯仲しているかのようにみえるが、それは一時的な相対的なものにすぎず、基本的な状態は不平衡である。矛盾する二つの側面のうち、かならずその一方が主要な側面で、他方が副次的な側面である。その主要な側面とは、矛盾のなかで主導的な作用をおこす側面のことである。事物の性質は、主として支配的地位をしめる矛盾の主要な側面によって規定される。

しかし、このような状況は固定したものではなく、矛盾の主要な側面と主要でない側面とはたがいに転化しあい、事物の性質もそれにつれて変化する。矛盾の発展する一定の過程あるいは一定の段階では、主要な側面がAの側にあり、主要でない側面がBの側にあるが、別の発展段階あるいは別の発展過程にうつると、その位置はいれかわる。これは、事物の発展のなかで矛盾する両側面の闘争している力の増減の度合いによって決定される。

われわれは「新陳代謝」ということばをよく口にする。新陳代謝は宇宙における普遍的な、永遠にさからうことのできない法則である。事物自身の性質と条件によって、異なった飛躍の形式をつうじて、ある事物が他の事物に転化するのが新陳代謝の過程である。どんな事物の内部にも新旧両側面の矛盾があって、一連の曲折した闘争が形づくられている。闘争の結果、新しい側面は小から大に変わって支配的なものに上昇し、ふるい側面は大から小に変わってしだいに滅亡していくものになってしまう。新しい側面がふるい側面にたいして支配的地位をうると、すぐ、ふるい事物の性質は新しい事物の性質に変わる。このことからわかるように、事物の性質は主として支配的地位をしめている矛盾の主要な側面によって規定される。支配的地位をしめている矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する。

資本主義社会では、資本主義がふるい、封建主義社会の時代におかれていた従属的地位から、すでに支配的地位をしめる勢力に転化しており、社会の性質もまた、封建主義的なものから資本主義的なものに変わっている。新しい、資本主義社会の時代には、封建的勢力はそれまで支配的地位におかれていた勢力から従属的勢力に転化し、そしてしだいに消滅していく。たとえば、イギリス、フランスなどの諸国ではそうであった。生産力の発展にともなって、ブルジョア階級は新しい、進歩的な役割をはたした階級から、ふるい、反動的な役割をはたす階級に転化し、最後にはプロレタリア階級にうちたおされて、私有の生産手段を収奪され、権力をうしなった階級に転化する。こうして、この階級もまた、しだいに消滅していくのである。人数のうえではブルジョア階級よりはるかに多く、しかも、ブルジョア階級と同時に生長しながら、ブルジョア階級に支配されているプロレタリア階級は、一つの新しい勢力であって、ブルジョア階級に従属していた初期の地位から、しだいに強大になって、独立した、歴史上主導的な役割をはたす階級となり、最後には権力をうばいとって支配階級になる。このとき、社会の性質は、ふるい、資本主義の社会から、新しい、社会主義の社会に転化する。これはソ連がすでにとおってきた道であり、他のすべての国もかならずとおる道である。

中国の状況についていえば、帝国主義は、半植民地を形成しているという矛盾の主要な地位にたって、中国人民を抑圧しており、中国は独立国から半植民地に変わっている。だが、ものごとはかならず変化する。双方がたたかっている情勢のなかで、プロレタリア階級の指導のもとに生長してきた中国人民の力は、かならず中国を半植民地から独立国に変え、帝国主義はうちたおされ、ふるい中国はかならず新しい中国に変わる。

ふるい中国が新しい中国に変わるということのなかには、さらに国内のふるい封建勢力と新しい人民勢力とのあいだの状況の変化ということがふくまれている。ふるい封建的地主階級は、うちたおされ、支配者から被支配者に変わり、この階級もまたしだいに消滅していく。そして人民はプロレタリア階級の指導のもとで、被支配者から支配者に変わる。このとき、中国の社会の性質には変化がおこり、ふるい、半植民地的半封建的な社会から、新しい、民主的な社会に変わる。

このような相互転化は、過去にも経験がある。中国を三〇〇年近く支配してきた清朝帝国は、辛亥革命の時期にうちたおされ、一方、孫中山の指導していた革命同盟会④が一度は勝利をおさめた。一九二四年から一九二七年までの革命戦争では、共産党と国民党との連合による南方革命勢力が弱小なものから強大なものに変わって、北伐の勝利をおさめ、一方、一時権勢をほこった北洋軍閥はうちたおされた。一九二七年には、共産党の指導する人民の力は、国民党反動勢力の打撃をうけて小さくなったが、自己の内部の日和見主義を一掃することによって、またしだいに強大になってきた。共産党の指導する革命根拠地のなかでは、農民は被支配者から支配者に転化し、地主はそれとは逆の転化をとげた。世界では、いつもこのように、新陳代謝がおこなわれ、古い制度が廃されて新しい制度がうちたてられ、古い文化が淘汰されて新しいものをうみだすというように、新しいものが古いものにとって代わるのである。

革命闘争においては、困難な条件の方が順調な条件より大きいときがあり、そのようなときには、困難の方が矛盾の主要な側面で、順調の方が副次的な側面である。しかし、革命党員の努力によって、困難がしだいに克服され、順調な新しい局面がきりひらかれるので、困難な局面は順調な局面におきかえられる。一九二七年の中国革命失敗後の状況や、長征中の中国赤軍の状況などはみなそうである。現在の中日戦争でも、中国はまた困難な地位におかれているが、われわれはこのような状況をあらため、中日双方の状況に根本的な変化をおこさせることができる。逆の状況のもとでは、もし革命党員があやまりをおかせば、順調も困難に転化する。一九二四年から一九二七年までの革命の勝利は失敗に変わってしまった。一九二七年以後南方各省につくられてきた革命の根拠地も、一九三四年になると、みな失敗してしまった。

学問を研究するばあい、無知から知への矛盾もまたそうである。われわれがマルクス主義を研究しはじめたときは、マルクス主義にたいして無知であるか、あるいはあまり知らないという状況と、マルクス主義の知識とは、たがいに矛盾しあっている。しかし、学習にはげむことによって、無知は有知に転化し、あまり知らないという状態は非常によく知っているという状態に転化し、マルクス主義にたいする盲目的状態はマルクス主義を自由に運用できる状態に変わる。

ある人は、一部の矛盾はそうではないと考えている。たとえば、生産力と生産関係との矛盾では生産力が主要なものであり、理論と実践との矛盾では実践が主要なものであり、経済的土台と上部構造との矛盾では経済的土台が主要なものであって、それらの地位は、たがいに転化しあうものではないと考えている。これは弁証法的唯物論の見解ではなくて、機械的唯物論の見解である。たしかに、生産力、実践、経済的土台は、一般的には主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点をみとめないものは唯物論者ではない。しかし、生産関係、理論、上部構造といったこれらの側面も、一定の条件のもとでは、逆に、主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点もまたみとめなければならない。生産関係を変えなければ、生産力が発展できないというばあい、生産関係を変えることが、主要な決定的な作用をおこす。レーニンがいったように「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」〔15〕というばあいには、革命の理論の創造と提唱とが主要な決定的な作用をおこすのである。ある事(どんな事でもおなじであるが)をするにあたって、まだ方針、方法、計画あるいは政策をもたないばあいには、方針、方法、計画あるいは政策を確定することが主要な決定的なものとなる。政治や文化などの上部構造が経済的土台の発展をさまたげているばあいには、政治や文化の革新が主要な決定的なものとなる。われわれがこのようにいうのは唯物論にそむくだろうか。そむかない。なぜなら、われわれは、歴史の発展ぜんたいのなかでは、物質的なものが精神的なものを決定し、社会的存在が社会的意識を決定することをみとめるが、同時に、精神的なものの反作用、社会的意識の社会的存在にたいする反作用、上部構造の経済的土台にたいする反作用もみとめるし、またみとめなければならないからである。このことは唯物論にそむくことではなく、これこそ機械的唯物論におちいらず、弁証法的唯物論を堅持するものである。

矛盾の特殊性の問題を研究するにあたって、もし、過程における主要な矛盾と主要でない矛盾、および矛盾の主要な側面と主要でない側面という、二つの状況を研究しないならば、つまり、矛盾のこの二つの状況の差異性を研究しないならば、抽象的な研究におちいり、矛盾の状況を具体的に理解することはできず、したがって、矛盾を解決する正しい方法を見いだすこともできない。矛盾のこの二つの状況の差異性あるいは特殊性というのは、矛盾する力の不平衡性である。世界には絶対的に平衡に発展するものはなく、われわれは平衡論あるいは均衡論に反対しなければならない。同時に、矛盾のこうした具体的な状態、および発展過程における矛盾の主要な側面と主要でない側面との変化こそ、新しい事物がふるい事物にとってかわる力をあらわしている。矛盾のさまざまな不平衝な状況についての研究、主要な矛盾と主要でない矛盾、矛盾の主要な側面と主要でない側面についての研究は、革命政党が政治上軍事上の戦略戦術方針を正しく決定する重要な方法の一つであって、すべての共産党員が気をくばらなければならないところである。

五 矛盾の諸側面の同一性と闘争性

矛盾の普遍性と特殊性の問題を理解したならば、われわれはさらにすすんで、矛盾の諸側面の同一性と闘争性の問題を研究しなければならない。

同一性、統一性、一致性、相互浸透、相互貫通、相互依頼(あるいは依存)、相互連結、あるいは相互協力などといったこれらの異なったことばは、すべておなじ意味であって、つぎの二つのことをいっている。第一は、事物の発展過程における一つ一つの矛盾のもつ二つの側面は、それぞれ自己と対立する側面を自己の存在の前提としており、双方が一つの統一体のなかに共存しているということ、第二は、矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化していくということである。これらが同一性といわれるものである。

レーニンはいっている。 「弁証法とは、対立面がどのようにして同一であることができ、どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらは、どんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか──なぜ人間の頭脳はこれらの対立面を、死んだ、凝固したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見なければならないのか、ということについての学説である。」〔16〕

レーニンのこのことばは、どういう意味だろうか。

あらゆる過程のなかで、矛盾しているそれぞれの側面は、もともと、たがいに、排斥しあい、闘争しあい、対立しあっている。世界のあらゆる事物の過程および人びとの思想には、すべてこのように矛盾性をおびた側面がふくまれており、それには一つの例外もない。単純な過程には一つの矛盾しかないが、複雑な過程には、一つ以上の矛盾がある。それぞれの矛盾のあいだも、またたがいに矛盾をなしている。このようにして、客観世界のあらゆる事物や人びとの思想が組み立てられ、またそれらに運動をおこさせている。

こういえば、きわめて不同一、きわめて不統一でしかないのに、どうしてまた同一あるいは統一というのか。

矛盾しているそれぞれの側面は、もともと孤立しては存在できないものである。もし、矛盾の一つの側面に、それと対をなす矛盾の側面がなかったら、それ自身も存在の条件をうしなってしまう。あらゆる矛盾している事物、あるいは人びとの心のなかで矛盾している概念の、いずれか一つの側面だけが独立して存在することができるかどうかを考えてみるがよい。生がなければ死はあらわれず、死がなければ生もあらわれない。上がなければ下というものはなく、下がなければ上というものもない。災いがなければ幸いというものはなく、幸いがなければ災いというものもない。順調がなければ困難というものはなく、困難がなければ順調というものもない。地主がなければ小作人はなく、小作人がなければ地主もない。ブルジョア階級がなければプロレタリア階級はなく、プロレタリア階級がなければブルジョア階級もない。帝国主義の民族抑圧がなければ植民地や半植民地はなく、植民地や半植民地がなければ帝国主義の民族抑圧もない。すべての対立的要素はみなこうであって、一定の条件によって、一方ではたがいに対立しあいながら、他方ではまたたがいに、連結しあい、貫通しあい、浸透しあい、依頼しあっている。このような性質が同一性とよばれるものである。すべての矛盾している側面は、一定の条件によって、不同一性をそなえているので、矛盾とよばれる。しかし、また同一性をそなえているので、たがいに連結しあっている。レーニンが弁証法とは「対立面がどのようにして同一であることができるか」を研究するものだといっているのは、つまりこのような状況についていったのである。どうしてそれができるか。たがいに存在の条件となっているからである。これが同一性の第一の意義である。

しかしながら、矛盾する双方がたがいに存在の条件となり、双方のあいだに同一性があり、したがって一つの統一体のなかに共存することができるといっただけで、十分だろうか。まだ十分ではない。問題は矛盾する双方がたがいに依存しあうことで終わるのではなく、いっそう重要なことは、矛盾している事物がたがいに転化しあうことにある。つまり、事物の内部の矛盾する両側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化していき、自己と対立する側面のおかれていた地位に転化していくのである。これが矛盾の同一性の第二の意義である。

どうしてここにも同一性があるのか。見たまえ。被支配者であったプロレタリア階級は革命をつうじて支配者に転化し、もと支配者であったブルジョア階級は被支配者に転化していくというように、相手がたがもとしめていた地位に転化していく。ソ連はすでにそうしたし、全世界もそうするにちがいない。もしそのあいだに、一定の条件のもとでの連係と同一性がなかったら、どうしてこのような変化がおこりえようか。

中国近代史の一定の段階で、かつてある種の積極的役割をはたした国民党は、その固有の階級性と帝国主義からの誘惑(これらが条件である)によって、一九二七年以後、反革命に転化したが、中国と日本との矛盾がするどくなったことと、共産党の統一戦線政策(これらが条件である)によって、また抗日にやむなく賛成している。矛盾するものは一方から他方に変わっていき、そのあいだには一定の同一性がふくまれている。

われわれの実行した土地革命は、土地を持っていた地主階級が土地を失った階級に転化し、土地を失っていた農民が、逆に、土地を手に入れて小所有者に転化する過程であったし、これからもそのような過程をふむだろう。持つことと持たないこと、また、得ることと失うことは、一定の条件によって、たがいに連結しあい、両者は同一性をもっている。農民の私有制は、社会主義という条件のもとでは、さらに社会主義的農業の公有制に転化する。ソ連はすでにそうしたし、全世界も将来はそうするにちがいない。私有財産と公有財産のあいだには、こちらからむこうに通ずる橋があり、哲学ではこれを同一性あるいは相互転化、相互浸透といっている。

プロレタリア独裁あるいは人民の独裁を強化することは、まさに、こういう独裁を解消し、どんな国家制度も消滅させた、より高い段階にたっするための条件を準備することである。共産党を結成し、それを発展させることは、まさに、共産党およびすべての政党制度を消滅させる条件を準備することである。共産党の指導する革命軍を創設して革命戦争をすすめることは、まさに、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することである。これら多くのたがいに反しあうものは、同時にたがいに成りたたせあっているのである。

周知のように、戦争と平和はたがいに転化しあうものである。たとえば、第一次世界大戦は戦後の平和に転化し、中国の内戦もいまはやんで、国内の平和があらわれているように、戦争は平和に転化する。また、たとえば、一九二七年の国共合作は戦争に転化したし、現在の世界平和の局面も第二次世界大戦へ転化する可能性があるように、平和は戦争に転化する。どうしてそうなのか。階級社会では、戦争と平和というこの矛盾している事物が、一定の条件のもとで同一性をそなえているからである。

矛盾しているすべてのものは、たがいに連係しあっており、一定の条件のもとで一つの統一体のなかに共存していること、また一定の条件のもとではたがいに転化しあうこと、これが矛盾の同一性のもつ意義のすべてである。レーニンが「どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらはどんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか」といっているのは、つまりこういう意味である。

「なぜ人間の頭脳はこれらの対立面を、死んだ、凝固したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見なければならないのか。」それは客観的事物が、もともとそうなっているからである。客観的事物のなかの矛盾している諸側面の統一あるいは同一性というものは、もともと死んだものでも、凝固したものでもなくて、生きた、条件的な、可動的な、一時的な、相対的なものであり、すべての矛盾は、一定の条件によって、自己と反対の側面に転化するものである。このような状況が、人間の思想に反映してマルクス主義の唯物弁証法的世界観となった。現在の、また歴史上の反動的な支配階級およびかれらに奉仕する形而上学だけが、対立した事物を、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見ずに、死んだ、凝固したものとして見、しかも、このようなあやまった見方をいたるところで宣伝し、人民大衆をまどわしている。これはかれらの支配をつづけるという目的を達成するためである。共産党員の任務は、反動派や形而上学のあやまった思想を暴露し、事物本来の弁証法を宣伝し、事物の転化をうながし、革命の目的をたっすることにある。

一定の条件のもとでの矛盾の同一性とは、つまり、われわれのいう矛盾が、現実的な矛盾、具体的な矛盾であり、しかも、矛盾の相互転化も現実的、異体的であるということである。神話のなかの多くの変化、たとえば『山海経せんがいきょう』のなかの「夸父かほが太陽を追いかけた」話〔17〕、『淮南子えなんじ』のなかの[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]げいが九つの太陽を射た」話〔18〕、『西遊記』のなかの孫悟空の七十二変化へんげ〔19〕、また、『聊斎志異りょうさいしい』〔20〕のなかにでてくる多くの幽霊やきつねが人にばける話など、こういう神話のなかでいわれている矛盾の相互変化は、無数の複雑な現実的矛盾の相互変化が、人びとに引きおこさせた一種の幼稚な、想像の、主観的幻想の変化であって、具体的矛盾があらわした具体的変化ではない。マルクスはいっている。「すべての神話は、想像のなかで、かつ想像をつうじて、自然力を征服し支配し形象化する。したがって、それらは、自然力が実際に支配されていくにつれて消失する。」〔21〕このような神話のなかの(さらに童話のなかの)千変万化の物語は、人間が自然力を征服することなどを想像しているので、人びとをよろこばせることができるし、しかも、もっともよい神話は「永遠の魅力」(マルクス)さえもっているが、神話は、具体的矛盾をかたちづくる一定の条件にもとづいて構成されたものではないから、科学的に現実を反映したものではない。つまり、神話あるいは童話のなかの矛盾を構成する諸側面は、具体的な同一性ではなく、幻想的な同一性にすぎない。現実の変化の同一性を科学的に反映したもの、それがマルクス主義の弁証法である。

なぜ、鶏の卵はひよこに転化できるのに、石ころはひよこに転化できないのか。なぜ戦争と平和は同一性をもっているのに、戦争と石ころは同一性をもっていないのか。なぜ人間は人間を生めるだけで、ほかのものを生むことができないのか。それはほかでもなく、矛盾の同一性の存在は、一定の必要な条件のもとでなければならないからである。一定の必要な条件がなければ、どんな同一性も存在しない。

なぜ、ロシアでは一九一七年二月のブルジョア民主主義革命が同年一〇月のプロレタリア社会主義革命に直接つながっていたのに、フランスのブルジョア革命は社会主義革命に直接つながることがなく、一八七一年のパリ・コミューンは失敗に終わったのか。なぜ、モンゴルや中央アジアの遊牧制度が社会主義に直接つながったのか。なぜ、中国の革命は、西洋諸国のとおった歴史的なふるい道をとおる必要がなく、ブルジョア独裁の時期をへる必要がなく、資本主義の前途をさけることができ、社会主義に直接つながることができるのか。ほかでもなく、これらはすべてそのときの具体的な条件によるのである。一定の必要な条件がそなわっていれば、事物発展の過程には、一定の矛盾がうまれ、しかも、この、あるいはこれらの矛盾は、たがいに依存しあうし、またたがいに転化しあうのであって、それがないとしたら、すべては不可能である。

同一性の問題は以上のとおりである。では闘争性とはなにか。同一性と闘争性との関係はどんなものだろうか。

レーニンはいっている。「対立面の統一(一致、同一、同等作用)は条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排斥しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」〔22〕

レーニンのこのことばは、どういう意味だろうか。

すべての過程には始めと終わりがある。すべての過程は自己の対立物に転化する。すべての過程の常住性は相対的であるが、ある過程が他の過程に転化するという変動性は絶対的である。

どんな事物の運動も、みな二つの状態、すなわち相対的に静止している状態と著しく変動している状態をとる。二つの状態の運動は、いずれも、事物の内部にふくまれる二つの矛盾する要素の相互の闘争によって引きおこされる。事物の運動が第一の状態にあるときは、量的変化があるだけで、質的変化はないので、あたかも静止しているような様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときは、それはすでに、第一の状態での量的変化がある最高点にたっし、統一物の分解を引きおこして、質的な変化が発生したので、著しく変化している様相を呈するのである。われわれの日常生活に見られる統一、団結、連合、調和、均勢、対峙たいじ、膠着こうちゃく、静止、恒常,平衡、凝集、吸引などはすべて事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、恒常、平衡、凝集、吸引などといった状態がやぶれて反対の状態に変わるのは、みな事物が質的変化をしている状態のなかで、一つの過程から他の過程に移行する変化のなかで呈する様相である。事物は第一の状態から第二の状態にたえず転化するものであり、矛盾の闘争は、この二つの状態のなかに存在するとともに、第二の状態をへて矛盾の解決にたっするものである。したがって、対立面の統一は条件的な、一時的な、相対的なものであるが、対立面がたがいに排除しあう闘争は絶対的であるというのである。

われわれはさきに、たがいに反しあう二つのもののあいだには同一性があり、したがって、二つのものは一つの統一体のなかに共存することができるし、またたがいに転化しあうことができるといったが、これは条件性のことで、つまり一定の条件のもとでは矛盾するものは統一することができるし、またたがいに転化しあうことができるが、この一定の条件がなければ、矛盾となることができず、共存することができず、転化することもできないということである。一定の条件によって矛盾の同一性が構成されるので、同一性は条件的であり、相対的であるというのである。われわれはまた、矛盾の闘争は、過程の始めから終わりまでをつらぬいていると同時に、一つの過程を他の過程に転化させており、矛盾の闘争の存在しないところはないといっている。したがって、矛盾の闘争性は無条件的であり、絶対的である。

条件的な、相対的な同一性と、無条件的な、絶対的な闘争性とが結合して、あらゆる事物の矛盾の運動を構成する。

われわれ中国人がつねにいう「たがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあう」〔23〕とは、たがいに反しあうものが同一性をもっているという意味である。このことばは、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反しあう」とは、矛盾する二つの側面がたがいに排斥しあい、あるいはたがいに闘争しあうことをいう。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側面が、一定の条件のもとで、たがいに連結しあって同一牲を獲得することをいう。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。

同一性のなかには闘争性が存在し、特殊性のなかには普遍性が存在し、個性のなかには通性が存在している。レーニンのことばをかりていえば、「相対的なもののなかに絶対的なものがある」〔24〕のである。

六 矛盾における敵対の地位

矛盾の闘争性という問題には、敵対とはなにかという問題がふくまれている。われわれの答えは、敵対とは、矛盾の闘争形態のすべてではなく、矛盾の闘争形態の一つにすぎない、ということである。

人類の歴史には階級的な敵対が存在する。これは矛盾の闘争の特殊なあらわれである。搾取階級と被搾取階級のあいだの矛盾についていうと、奴隷社会でも、封建社会でも、資本主義社会でも、たがいに矛盾しあう二つの階級は、長期にわたって一つの社会のなかに並存し、たがいに闘争しあっているが、二つの階級の矛盾が一定の段階に発展したとき、はじめて双方は外面的な敵対の形態をとり、革命になるのである。階級社会では、平和から戦争への転化も、やはりこうである。

爆弾がまだ爆発しないうちは、この矛盾物が一定の条件によって一つの統一休のなかで共存しているときである。新しい条件(発火)があらわれたとき、はじめて爆発をおこす。最後に外面的な衝突の形態をとって、ふるい矛盾を解決し、新しい事物をうみだす自然界の現象には、すべてこれと似た状況がある。

このような状況を認識することは、きわめて重要である。それはわれわれに、階級社会では、革命と革命戦争が不可避であり、それなしには、社会発展の飛躍を達成することもできなければ、反動的支配階級をうちたおして人民に政権を獲得させることもできない、ということを理解させるものである。共産党員は、反動派のいっている、社会革命は不必要だとか不可能だとかいう欺瞞ぎまん的な宣伝を暴露し、マルクス・レーニン主義の社会革命の理論を堅持しなければならず、人民に、社会革命はぜひ必要であるばかりでなく、まったく可能であり、全人類の歴史とソ連の勝利がこの科学的な真理を証明していることを理解させなければならない。

だが、われわれは、さきにのべた公式をすべての事物にむりやりにあてはめてはならず、矛盾のさまざまな闘争の状況について具体的に研究しなければならない。矛盾と闘争とは普遍的であり、絶対的であるが、矛盾を解決する方法、すなわち闘争の形態は、矛盾の性質のちがいによって異なる。一部の矛盾は公然たる敵対性をもつが、一部の矛盾はそうではない。事物の具体的発展にもとづいて、一部の矛盾は、もともと非敵対性であったものから敵対性のものに発展し、また、一部の矛盾は、もともと敵対性であったものから非敵対性のものに発展する。

まえにのべたように、共産党内の正しい思想とあやまった思想との矛盾は、階級が存在しているときには、階級的矛盾の党内への反映である。この矛盾は、はじめのうちとか、あるいは個々の問題では、すぐに敵対性のものとしてあらわれるとはかぎらない。だが、階級闘争が発展するにつれて、この矛盾も敵対性のものに発展する可能性がある。ソ連共産党の歴史は、われわれに、レーニンやスターリンの正しい思想とトロツキーやブハーリンなどのあやまった思想との矛盾が、はじめのころはまだ敵対的な形態となってあらわれはしなかったが、のちには敵対的なものに発展したことを教えている。中国共産党の歴史にも、こうした状況があった。わが党内の多くの同志の正しい思想と陳独秀、張国燾チャンクォタオらのあやまった思想との矛盾は、はじめのころは、やはり、敵対的な形態となってあらわれはしなかったが、のちには、敵対的なものに発展した。現在わが党内の正しい思想とあやまった思想との矛盾は、敵対的な形態となってあらわれてはおらず、もし、あやまりをおかした同志が自分のあやまりをあらためることができるならば、それは敵対性のものにまで発展することはない。したがって、党は、一方ではあやまった思想にたいして、きびしい闘争をすすめなければならないが、他方ではまた、あやまりをおかした同志に目ざめる機会を十分あたえるようにしなければならない。このようなばあいに、いきすぎの闘争はあきらかに不適当である。しかし、あやまりをおかした人がそのあやまりを固執し、さらに拡大させていくならば、この矛盾は、敵対性のものに発展する可能性がある。

経済面での都市と農村との矛盾は、資本主義社会においては(そこではブルジョア階級の支配する都市が農村を残酷に収奪している)、また中国の国民党支配地区においては(そこでは外国の帝国主義と自国の買弁的大ブルジョア階級の支配している都市が農村にたいして野蛮きわまる収奪をしている)、きわめて敵対的なものである。だが、社会主義国では、またわれわれの革命根拠地では、このような敵対的矛盾が非敵対的矛盾に変わっており、そして、共産主義の社会になったときには、このような矛盾は消滅する。

レーニンはいっている。「敵対と矛盾とは、まったく異なったものである。社会主義のもとでは、前者は消失するだろうが、後者は存続するだろう。」〔25〕これはつまり、敵対とは矛盾の闘争形態のすべてではなく、その形態の一つにすぎないから、この公式をどこにでもあてはめてはならないということである。

七 結論

ここで、われわれはつぎのようにまとめることができる。事物の矛盾の法則すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって思惟の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論の観点からみると、矛盾は客観的事物および主観的思惟のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでをつらぬいている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つ一つの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって同一性をもっており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、またたがいに反対の側面に転化していくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、それらが共存しているときでもたがいに転化しあうときでも、闘争が存在しており、矛盾の闘争は絶えることがない。とくにたがいに転化しあうときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。これもまた矛盾の普遍性と絶対性である。われわれが矛盾の特殊性と相対性を研究するばあいには、矛盾および矛盾の側面の、主要なものと主要でないものとのちがいに注意しなければならず、矛盾の普遍性と闘争性を研究するばあいには、矛盾のさまざまな異なった闘争形態のちがいに注意しなければならない。そうしなければ、あやまりをおかすだろう。もし、われわれが研究をつうじて、うえにのべた諸要点をほんとうに理解したならば、われわれは、マルクス・レーニン主義の基本原則にそむいた、われわれの革命事業にとって不利な教条主義諸思想をうちやぶることができるし、また、経験をもっている同志たちに、その経験を原則性をもつように整理させて、経験主義のあやまりをくりかえさせないようにすることもできる。これらのことが矛盾の法則を研究して得たわれわれの簡単な結論である。

注

〔1〕 レーニンの『哲学ノート』のなかの『ヘーゲルの著書「哲学史講義」の摘要』の「哲学史第一巻」の「エレア学派」から引用。

〔2〕 レーニンの『弁証法の問題について』(一九一五年著)のなかの「統一物が二つにわかれること、そして、その矛盾したそれぞれの部分を認識することは、弁証法の本質である」というところにみられる。またレーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要も のなかの「弁証法は簡単に対立面の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるだろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」というところにみられる。

〔3〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。

〔4〕 漢代における孔子学派の有名な代表的人物董仲舒(西紀前一七九~前一〇四年)は、漢の武帝にたいして「道の大もとは天より出いで、天は不変であり、道もまた不変である」とのべた。「道」とは中国古代の哲学者の適用語で、その意味は「道路」または「道理」ということであり、「法則」と解してよい。

〔5〕 エンゲルスの『反デューリンク論』第一編第十二章「弁証法。量と質」にみられる。

〔6〕 レーニンの『弁証法の問題について』にみられる。

〔7〕 エンゲルスの『反デューリング論』第一編第十二章「弁証法。量と質」から引用。

〔8〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。

〔9〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。

〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。本巻の『中国革命戦争の戦略問題』の注〔10〕を参照。

〔11〕 『孫子』巻三「謀攻」編にみられる。

〔12〕 魏徴(西紀五八〇~六四三年)は唐代初期の政治家であり歴史家であった。本文に引用されていることばは『資治通鑑しじつがん』巻一九二にみられる。

〔13〕『水滸伝』は、北宋末期の農民戦争を描いた小説で、宋江はその小説の主要人物である。祝家荘はその農民戦争の根拠地梁山伯の付近にあり、この荘の支配者は祝朝奉という大極悪地主であった。

〔14〕 レーニンの『ふたたび、労働組合について、現在の情勢について、トロツキーとブハーリンのあやまりについて』から引用。

〔15〕 レーニンの『なにをなすべきか?』第一章第四節にみられる。

〔16〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。

〔17〕 『山海経』は、中国の戦国時代(西紀前四〇三~前二二一年)の著作である。夸父とは『山海経』にでてくる神人である。それによれば「夸父が太陽と駆けくらべをした。太陽がしずみ、のどがかわくあまり、黄河と渭水の水を飲んだ。黄河と渭水ではたりなかったので、北の大沢にいって飲もうとしたが、いきつかないうちに、途中でのどかかわききって死んでしまった。その杖のすてられたところが森林となった」(「海外北経」)という。

〔18〕 [上は”羽”、下は”にじゅうあし”]は中国古代の伝説にある英雄で、「太陽を射た」というのは、かれが弓の名人であったという有名な物語である。漢朝の人劉安(西紀前二世紀ごろの貴族)が編集した『淮南子』には、つぎのように書かれている。「堯ぎょうの時代に、十個の太陽が一時に出て、作物をこがし、草木を枯らしたので、民にはたべるものがなくなった。[”けものへん”+契][豸+兪]けつゆ、鑿歯さくし、九嬰きゅうえい、大風たいふう、封[豕+希]ほうき、脩蛇しゅうだがことごとく民を害した。堯は[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]をつかわして……天上の十個の太陽を射させ、地上の[”けものへん”+契][豸+兪]を殺させた。……万民はみなよろこんだ。」東漢の人王逸(二世紀ごろの著作家)も屈原の詩「天間」の注釈のなかでつぎのようにいっている。「淮南がいうのに、堯の時代に、十個の太陽が一時に出て、草木はこがされ枯れてしまった。堯は[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]に命じて、仰いで十個の太陽を射させ、そのうちの九つを射とめ、……一つを残した。」

〔19〕 『西遊記』は一六世紀の中国の神話小説である。孫悟空はその中にでてくる主人公の神猿で、七十二変化の方術を身につけ、鳥、けもの、虫、魚、草、木、器物、人間など、どんなものにでも思うままにばけることができる。

〔20〕 『聊斎志異』は、一七世紀の清朝の人蒲松齢が民間の伝説をあつめて書いた小説集で、四百三十一縞の短編小説からなっており、大部分が、神や仙人やきつねや幽霊の物語である。

〔21〕 マルクスの『政治経済学批判序説』から引用。

〔22〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。

〔23〕 このことばは、班固(一世紀ごろの中国の有名な歴史家)があらわした『前漢書』巻三十「芸文志」にはじめてみられ、その後非常に流行した。班固の原文はつぎのとおりである。「諸子十家のうち、見るべきものは九家のみである。これらはみな、王道がおとろえ、諸侯が武力であらそい、時の君主たちがそれぞれ異なる好みをもっていたときにおこった。こうして九家の術がむらがりおこり、おもいおもいの主張をもち、自分がよいとおもうものをかかげ、それをもって遊説し、諸侯にとりいった。かれらのいうところは異なってはいるが、たとえてみれば水と火のように、たがいに滅しあいながら、たがいに生じさせあい、仁は義と、敬は和と、みなたがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあった。」

〔24〕 レーニンの『弁証法の問題について』にみられる。

〔25〕 ブハーリンの著『過渡期の経済』へのレーニンの評注にみられる。

訳注

① 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕を参照。

② 袁世凱がつくった封建的軍閥集団。清朝末、袁世凱が北洋大臣に任命されてのち、かれが新しく編成し、訓練をほどこした陸軍を「北洋軍」とよんだ。辛亥革命(一九一一年)で清朝はたおれたが、革命の成果は表世凱にうばわれ、袁世凱が総統の地位にのしあがって、中央と地方の政権をにぎる軍事集団をつくった。北洋軍閥の支配がこのときからはじまった。袁世凱の死後、北洋軍閥は多くの派閥にわかれ、それぞれちがった帝国主義国に支持されて、たえまなく権力あらそいの混戦をくりびろげた。第一次国内革命戦争の時期に、北洋軍閥政府は人民革命勢力のためにうちたおされた。

③ 本巻の『中国革命戦争の戦略問題』の注〔4〕を参照。

④ 一九〇五年八月、孫中山の指導する興中会は、当時の革命的な小団体である華興会や光復会などと連合して、中国同盟会を結成した。これは当時のブルジョア階級、小ブルジョア階級および清朝に反対する一部の顔役たちの連合戦線組織で、「満州族の駆逐、中華の回復、民国の樹立、地権の平均」というブルジョア革命の政治綱領を提起した。しかし、帝国主義の侵略に反対して民族の独立を実現するというスローガンは、はっきりかかげられなかった。辛亥革命ののち、同盟会は改組されて国民党となった。