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西北地方の大勝利を評し、あわせて解放軍の新しい型の整軍運動を論ず
(一九四八年三月七日)
これは、毛沢東同志が中国人民解放軍総司令部スポークスマンにかわって起草した論評である。このときには、西北戦場の敵軍の進攻はすでに粉砕され、わが軍が進攻に転じていた。この論評は、西北戦場の情勢を分析し、また全国の他の戦場の概況をも要約して紹介している。この論評のいっそう重要な点は、「訴苦」と「三査」の方法ですすめた、新しい型の整軍運動の偉大な意義を強調して説明していることである。この新しい型の整軍運動は、人民解放軍の政治工作と民主運動の重要な発展であり、当時の全解放区におけるあらしのような土地改革運動と整党運動か軍隊のなかに反映したものであった。この運動は、全軍の将兵の政治的自覚、規律性、戦闘力を大いに高めたし、同時に、捕虜となったおびただしい国民党軍の兵士を解放軍の戦士に改造する過程をはやめるという大きな効果をあげ、人民解放軍の強化拡大と作戦の勝利に大きな役割をはたした。この新しい型の整軍運動の意義については、本巻の『軍隊内の民主運動』『山西・綏遠解放区幹部会議での演説』『九月会議にかんしての中国共産党中央の通達』などを参照。
人民解放軍総司令部スポークスマンは、西北人民解放軍の最近の大勝利を評し、つぎのように指摘する。こんどの勝利は、すでに西北地方の情勢を変え、さらに中原の情勢にも影響をおよばすであろう。こんどの勝利は、人民解放軍が、訴苦と三否の方法で新しい型の雑用運動をおこなったことによって、天下無敵となるであろうことを立証している。
スポークスマンはつぎのように指摘する。こんど、西北人民解放軍が突如、宜川の敵軍一コ旅団を包囲したので、胡宗南はその第二十九軍団長劉戡にたいし、改編師団ニコ師団の四コ旅団、すなわち改編第二十七師団の第三十一旅団、第四十七旅団、改編第九十師団の第五十三旅団、第六十一旅団、合計二万四千余人をひきいて、洛川・宜君の線から宜川の救援にはせつけるよう命じ、同部隊は二十八日に亘川の西南地区に到達した。西北人民解放軍は殲滅戦を展開し、二十九日から三月一日にかけての三十時間にわたる戦闘をへて、この増援部隊を一人ものがさず全部殲滅した。捕虜は一万八千余人、死傷者は五千余人にたっし、劉戡自身および厳明第九十師団長らも戦死した。つづいて三日には、宜川を攻略し、またも守備の敵改編第七十六師団の第二十四旅団五千余人を殲滅した。この戦役では、敵の軍団司令部一つ、師団司令部二つと五コ旅団、合計三万人を殲滅した。これは西北戦場での最初の大勝利である。
スポークスマンは、西北戦場の情勢を分析し、つぎのように指摘する。胡宗南の直接指揮するいわゆる「中央軍」二十八コ旅団のうち八コ旅団は、三つの主力師団、すなわち改編第一師団、改編第三十六師団、改編第九十師団にぞくしており、そのうち改編第一師団の第一旅団は、一昨年九月に山西省南部の浮山でわが軍に一度殲滅され、同第百六十七旅団の主力は昨年五月に陝西省北部の蟠竜鎮でわが軍に一度殲滅された。改編第三十六師団の第百二十三旅団、第百六十五旅団は、昨年八月に陝西省北部の米脂県沙家店でわが更に一度殲滅された。こんど、改編第九十師団も完全に殲滅されたので、胡宗南軍ののこる主力のなかでまだ一度も殲滅されたことのないのは、改編第一師団の第七十八旅団と改編第三十六師団の第二十八旅団だけである。したがって、胡宗南軍全体をつうじて精鋭な骨幹部隊などはもうなくなったといえる。こんどの宜川の殲滅戦の結果、胡宗南がこれまで直接指揮していた正規軍ニ十八コ旅団はいま二十三コ旅団をのこすだけとなり、この二十三コ旅団は、つぎの地区に分散している。山西省南部の臨汾には一コ旅団いて、すでに死石となっており、陝西・河南の省境と洛陽・潼関の線には九コ旅団いて、わが方の陳[”庚”の下に”貝”]・謝富治の野戦軍に対抗しており、陝西省南部には一コ旅団いて、漢中①一帯の守備にあたっている。このほか、潼関から宝鶏、咸陽から延安にいたる「丁」字形の交通線上に、十二コ旅団いる。そのうち、三コ旅団は「後方補充旅団」②で、全部新兵であり、二コ旅団はわが軍に完全に殲滅されて最近新しく補充してできたもの、一一コ旅団はわが軍からかって殲滅的な打撃をうけたもの、五コ旅団はわが軍から比較的軽い打撃をうけたものである。これでわかるように、これらの部隊はきわめて弱体であるばかりでなく、そのほとんどが分散して守備にあたっている。胡宗南軍のほかに、鄧宝珊のニコ旅団が楡林を守備しており、寧夏省の馬鴻逵と青海省の馬歩芳の九コ旅団が三辺と隴東③に分散している。以上、胡宗南、鄧宝珊、馬鴻逵、馬歩芳の各部隊の正規軍は、かつて一度ないし二度殲滅されてから補充しなおした部隊をもふくめて、現在あわせて三十四コ旅団である。
以上は、西北地方の敵軍の態勢についてのべたものである。なお、いわゆる「丁」字形の交通線上にいて、わが軍からの打撃の比較的軽かった五コ旅団についていえば、そのうち二コ旅団は延安にとじこめられており、三コ旅団は大関中④にいる。その他は、多くが新しく補充された部隊であり、少数が殲滅的な打撃をうけたことのある部隊である。つまり、大関中ぜんたい、とりわけ甘粛省方面の敵軍はひどく手薄で、人民解放軍の攻勢を阻止するすべがない。こうした情勢はかならず、蒋介石軍の南部戦線の一部の配置にひびくことになり、なによりもまず、河南・陝西省境でわが陳[”庚”の下に”貝”]・謝富治の野戦軍に対抗しているその配置にひびくことになる。わが西北人民解放軍は、こんどの南方への進攻で、戦いをはじめるやいなや勝利をかちとり、声威をとどろかせ、西北地方における敵味方の力関係を変えた。今後は、これまでよりいっそう効果的に南部戦線の各戦場の人民解放軍とあい呼応して戦えるであろう。
スポークスマンはつぎのように指摘する。わが劉伯承・鄧小平、陳毅・粟裕、陳[”庚”の下に”貝”]・謝富治の三路の大野戦軍は、昨年の夏から秋にかけて黄河を渡って南進し、長江、淮河、黄河、漢水のあいだを縦横無尽にかけめぐって大量の敵を殲滅し、蒋介石軍の南部戦線の総兵力百六十余コ旅団のうち九十コ旅団前後を自分の周囲に移動させ、ひきつけ、蒋介石軍を受け身の立場に追いこんで、決定的な戦略的役割をはたし、全国人民の賞賛を博している〔1〕。わが東北野戦軍は、冬季攻勢にさいし、零下三十度の酷寒をおかして大量の敵を殲滅し、つぎつぎと著名な都市を攻略し、全国にその名をとどろかせている〔2〕。わが山西・察哈爾・河北解放区、山東解放区、江蘇省北部解放区、山西・河北・山東・河南解放区の各路の野戦軍はいずれも昨年、勇敢に戦って大量の敵を殲滅〔3〕したのち、冬季の整備・訓練を終えて、さらに春季攻勢作戦〔4〕をまもなく展開しようとしている。全局を観察すると、ひとつの真理がしめされている。すなわち、断固として保守主義に反対し、敵をおそれることに反対し、困難をおそれることに反対し、そして党中央の戦略船方針とその十大軍事原則の指示〔5〕にしたがうかぎり、われわれは、攻勢をくりひろげて敵を大量に殲滅することができるし、蒋介石匪賊一味を、一時は受け太刀できても反撃する力のなくなるか、または受け太刀さえできないでわが方から一つ一つきれいに殲滅されるまでにたたきのめすことができる、ということである。
スポークスマンはつぎのことを強く指摘する。西北野戦用の戦闘力は、昨年にくらべると、かつてないまでに高まっている〔6〕。西北野戦軍は、昨年の戦いでは、まだ、一度に多くて二コ旅団の敵を殲滅できたにすぎなかったが、こんどの宜川戦役では、一度に敵五コ旅団を殲滅することができた。こんどの勝利がこれほどきわだっているのには、多くの原因がある。前線の指導的同志たちの断固とした、弾力性のある指摘、後方の指導的同志たちと広範な人民の懸命の支援、および敵軍が比較的孤立していたこと、地形がわが方に有利だったことなどはいずれも指摘すべき点である。しかし、もっとも注目すべき点は、冬の二ヵ月あまりのあいだに、訴苦と三査の方法で、新しい型の整軍運動をおこなったことである。訴苦(旧社会と反動派が勤労人民にあたえた苦しみを訴えること)と三査(出身階級を点検し、活動を点検し、闘志を点検すること)の運動を正しくすすめたことによって、搾取されている勤労大衆の解放のため、全国の土地改革のため、人民の共同の敵蒋介石匪賊一味の消滅のために戦うという全軍の指揮員、戦闘員の自覚が大いに高まるとともに、共産党の指導のもとでの全指摘員、戦闘員のゆるぎない団結が大いに強まった。これを基礎として、部隊の純潔性が高まり、規律がととのえられ、大衆的な訓練運動が展開され、完全に指導と秩序をもって部隊内で実行されている政治、経済、軍事の三つの面での民主がさらに発揚された。こうして、部隊は、全員の心が一つになり、みんなで知恵をしぼり、みんなが力をだし、犠牲をおそれず、困難な物質的条件を克服し、集団の威力と気魄を発揮して勇敢に敵と戦うことができるようになった。このような軍隊は天下無敵となるであろう。
スポークスマンはつぎのように指摘する。こうした新しい型の整軍運動は、西北地方で実施されたばかりでなく、全国の人民解放軍のあいだでもすでに実施されたか、あるいは実施されつつある。この整軍運動は、戦闘のあいまにおこなわれるもので、戦闘のさまたげにはならない。この整軍運動は、わが党が正しくすすめている整党運動、土地改革運動と結びつき、わが党の正しい方針、すなわち打撃面を小さくして、帝国主義、封建主義、官僚資本主義にだけ反対し、やたらに殴ったり殺したりすることを厳禁し(殺すのは少なければ少ないほどよい)、全国の九〇パーセント以上の人民大衆とあくまで団結するという方針と結びつき、またわが党の実施する正しい都市政策、民族商工業をあくまで保護し発展させるという方針と結びつくことによって、かならず人民解放軍の威力を天下無敵のものとするであろう。蒋介石匪賊一味とその主人アメリカ帝国主義が、中国の人民民主主義革命の偉大な闘争をまえにして、どんなに必死になってあがいても、勝利はかならずわれわれのものである。
注
〔1〕 劉伯承、鄧小平らの同芯の指導する山西・河北・山東・河南野戦軍の七コ縦隊は、一九四七年六月三十日から黄河の強行渡河をはじめ、大別山をめざして進撃し、これによって人民解放軍の戦略的進攻の幕を切っておとした。そして、一九四八年三月末までに、あわせて十万余の敵を殲滅し、湖北・河南地区、安徽省西部地区、桐柏山地区、長江・漢水地区などに根拠地をつちたてた。陳毅、粟裕らの同志のひきいる華東野戦軍の八コ縦隊は、一九四七年八月、山東省にたいする敵の重点進攻をつち被ったのち、山東省四南部へ挺進し、河南・安徽・江蘇辺区に進軍し、あわせて十万余の敵を殲滅し、河南・安徽・江蘇解放区を拡大し、敵の戦略上の要地である開封、鄭州を孤立させた。山西・河北・山東・河南地区では、陳[”庚”の下に”貝”]、謝富治らの同志の指導する太岳兵団の二コ縦隊と一コ軍団が、一九四七年八月、山西省南部から黄河を強行渡河して河南省西部へ挺進し、あわせて敵四万余を殲滅し、河南・陝西・湖北地区、陝西省南部地区などに根拠地をうちたて、河南省西部における敵の重要都市洛陽を完全に孤立させ、また潼関をおびやかした。
〔2〕 林彪、羅栄桓らの同志の指導する東北野戦軍の十コ縦隊と独立師団十二コ師団は、一九四七年十二月十五日から一九四八年三月十五日にかけて、中国長春鉄道の四平街から大石橋にいたる区間の沿線および北平=瀋陽鉄道の山海関から瀋陽にいたる区間の沿線で、かつてない大規模な冬季攻勢をおこし、連続九十日間におよふ戦いで、十五万六千余の敵を殲滅し、敵が堅固な防備をほどこしていた戦略上の要地四平街およびその他十八都市を攻略した。営口市を守備する敵一コ師団が蜂起した。吉林中を守備する敵は同市を放棄して長春へ逃げた。こうして、東北地方における敵軍の占領区は東北地方の面積のわずか一パーセントに縮小され、東北地方の敵軍の巣窟である長春、瀋陽、錦州などをむすぶ線上の都市は孤立してしまった。
〔3〕 聶栄臻らの同志の指導する山西・察哈爾・河北野戦軍の五コ縦隊は、一九四七年九月はじめから十一月中旬にかけ、あい前後して大清河以北地区、清風店地区および石家荘解放などの戦役をおこない、あわせて五万ちかくの敵を殲滅し、山西・察哈爾・河北および山西・河北・山東・河南の両解放区を一つにつないだ。華東野戦軍の山東兵団にぞくする三コ縦隊と地方武装部隊は、一九四七年の九月から十二月にかけて、許世友、譚震林らの同志の指揮のもとに、膠東戦役をおこない、六万三千余の敵を殲滅し、十あまりの県部を奪回し、山東省ぜんたいの局面をかえた。江蘇省北部では、華東野戦軍の一部が、一九四七年八月から十二月にかけて、塩城、李堡などの戦役をおこない、あわせて二万四千余の敵を殲滅し、江蘇省北部の広大な地域を奪回した。徐向前らの同志の指導する川西・河北・山東・河南野戦軍の一部は、一九四七年十二月に、西北野戦軍の一部と協同して運城を攻略し、一万三千余の敵を殲滅した。山西省四南部の敵はわが軍によってすべて一掃され、臨汾を守備する敵は孤立してしまった。
〔4〕 一九四八年の春、人民解放軍の各野戦軍は、冬季の整備・訓練をすませたのち、あいついで春季攻勢をはじめた。山西・察哈爾・河北野戦軍ならびに山西・河北・山東・河南野戦軍および山西・綏遠野戦軍の各一部は、三月から五月にかけて、察哈爾省南部、綏遠省東部、臨汾などの各戦役をおこない、あわせて四万三干余の敵を殲滅し、広大な地域を奪回した。中原野戦軍と華東野戦軍の各一部は、三月八日から五月二十九日にかけて、洛陽戦役、宋河戦役、南陽西部地区戦役、南陽東部地区戦役をおこない、あわせて五万六千余の敵を殲滅し、敵の中原防御体制を粉砕して中原解放区を拡大し、強固にした。華東野戦軍の山東兵団は、三月十一日から五月八日にかけて、青島=済南鉄道西部区間戦役と[シ+維]県戦役をおこない、あわせて八万四千余の敵を殲滅した。こうして山東省は、済南、青島、臨沂、[”なべぶた”の下に”兌”]州などの少数の拠点をのぞいて全部解放された。江蘇省北部兵団は、三月に益林戦役をおこない勝利をおさめた。
〔5〕 十大軍事原則については、本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』第三節にみられる。
〔6〕 彭徳懐、賀竜、習仲勲らの同志の指導する西北野戦軍のうち、一九四七年の夏、陝西省北部の戦闘に参加した主力部隊は、二コ縦隊と二コ旅団、合計二万五千余であった。一九四八年の春には、陝西省北部の戦闘に参加した主力部隊は五コ縦隊、七万五千余にふえた。一年間の戦いによって鍛えられ、また一九四七年の冬におこなわれた新しい型の整軍運動をへて、広範な将兵の政治的自覚と部隊の戦闘力もかつてないほど高まった。こうして、一九四八年三月に西北野戦軍が外線作戦に転じるための必要な条件がつくりだされた。宜川の大勝利につづいて、西北野戦軍は、四月十二日に、西府(西安以西の涇水、渭水の両河の中間地区)・隴東戦役をおこし、涇水と渭水の中間の広大な地域に挺進し、西安・蘭州自動車進路を切断したうえ、四月二十二日には延安を奪回した。
訳注
① 漢中とは陝西省西南部の漢中市一帯の地区をさす。
② 戦場で中国人民解放軍によって大部分を殲滅され、補充のため後方へ移動し、部隊名をもとのままにしている国民党軍隊の旅団をさす。
③ 三辺とは陝西省四北部省境地区をさし、隴東とは甘粛省東部地区をさす。
④ 大関中とは渭水流域一帯をさす。