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32.文化・芸術
現在の世界では、文化あるいは文学・芸術はすべて、一定の階級、一定の政治路線にぞくしている。芸術のための芸術、超階級的な芸術、政治と並行するか相互に独立した芸術というものは、実際には存在しない。プロレタリアートの文学・芸術は「プロレタリアートの革命事業全体の一部であり、レーニンがのべているように、革命という機械全体のなかの「歯車とねじくぎ」である。
「延安の文学・芸術座談会における講話」(1942年5月)、『毛沢東選集』第3巻
革命文化は、人民大衆にとっては革命の有力な武器である。革命文化は、革命のまえにあっては革命の思想的準備であり、革命のさなかにあっては革命の全戦線での必要なまた重要な戦線である。
「新民主主義論」(1940年1月)、『毛沢東選集』第2巻
われわれの文学・芸術は、いずれも人民大衆のためのもの、なによりもまず、労働者、農民、兵士のためのものであり、労働者、農民、兵士のために創作され、労働者、農民、兵士によって利用されるものである。
「延安の文学・芸術座談会における講話」(1942年5月)、『毛沢東選集』第3巻
わが文学・芸術活動家は、かならずこの任務をなしとげ、立脚点をうつしかえねばならず、また、労働者、農民、兵士大衆のなかに深くはいり、実際闘争に深くはいる過程で、マルクス主義を学習し、社会を学習する過程で、この立脚点を労働者、農民、兵士の側、プロレタリアートの側にしだいにうつしかえなければならない。このようにしてこそ、われわれは真の労働者、農民、兵士のための文学・芸術、真のプロレタリアートの文学・芸術をもつことができるのである。
「延安の文学・芸術座談会における講話」(1942年5月)、『毛沢東選集』第3巻
人民が一心同体となって敵とたたかうのをたすけるため、人民を結集し、人民を教育し、敵に打撃をあたえ、敵を消滅する有力な武器として、文学・芸術を適切に革命という機械全体の中の一構成部分たらしめるのである。
「延安の文学・芸術座談会における講話」(一九四二年五月)、『毛沢東選集』第三巻
文芸批評には、政治的基準と芸術的基準の2つの基準がある……
政治的基準といい、芸術的基準というが、この両者の関係はどのようなものか。政治は芸術そのものではなく、一般的な世界観も、芸術創作や芸術批評の方法そのものではない。われわれは、抽象的な絶対不変の政治的基準を否定するばかりでなく、抽象的な絶対不変の芸術的基準をも否定するのであって、それぞれの階級社会のそれぞれの階級には、すべて異なった政治的基準と芸術的基準がある。だが、いかなる階級社会のいかなる階級も、つねに、政治的基準を第1の地位におき、芸術的基準を第2の地位におく。……われわれが要求するのは、政治と芸術の統一、内容と形式の統一、革命的な政治的内容と可能なかぎり完全な芸術的な形式との統一である。芸術性のとぼしい芸術作品は、政治的にいかに進歩したものでも、無力である。したがって、われわれは、政治的観点があやまっている芸術作品にも反対するし、また、正しい政治的観点をもつだけで芸術的な力をもたないいわゆる「スローガン式」の傾向にも反対する。われわれは文学・芸術問題における二つの戦線の闘争をおこなうべきである。
「延安の文学・芸術座談会における講話」(1942年5月)、『毛沢東選集』第3巻
百花斉放・百家争鳴の方針は、芸術の発展と科学の進歩をうながす方針であり、わが国の社会主義文化の繁栄をうながす方針である。芸術上の異なった形式や風格は自由に発展させてよいし、科学上の異なった学派は自由に論争させてよい。行政的な力を利用して、強制的に一種類の風格や一種類の学派をおしひろめ、他の種類の風格や他の種類の学派を禁止することは、芸術と科学の発展にとって有害である、とわれわれは考える。芸術と科学における是非の問題は、芸術界と科学界の自由な討論によって解決し、芸術と科学の実践をつうじて解決すべきであって、単純な方法によって解決すべきでない。
「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」(1957年2月27日)
文化をもたない軍隊はおろかな軍隊であり、おろかな軍隊では敵にうち勝つことはできない。
「文化活動における統一戦線」(1944年10月30日)、『毛沢東選集』第3巻