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蔵書 › 毛沢東選集 第五巻 › 社会主義革命と社会主義建設の時期(一)

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中華人民共和国憲法草案について

毛沢東 · 一九五四年六月十四日

縦書きで読む毛沢東選集第五巻

中華人民共和国憲法草案について

(一九五四年六月十四日)

これは、毛沢東同志が中央人民政府委員会第三十回会議でおこなった演説である。

この憲法草案は、どうやら人心を得ているようである。北京の五百余人の討議でも、各省・市の各分野の積極分子の討議でも、言いかえれば全国の代表的な八千余の人びとの幅広い討議をつうじて、この憲法草案の初稿は比較的よいこと、みなの賛同と支持を得ていることが、あきらかとなった。きょうも多くの人が発言したが、やはりみなそのように言っている。

なぜ、これほど幅広い討議を組織する必要があったのか。それにはいくつかの利点があるからである。まず、少数の人の討議でつくられたものが、はたして広範な人びとの賛成を得られるかどうかということである。討議の結果、憲法草案の初稿の基本条文、基本原則にはみなが賛成していることが立証された。草案の初稿のうち、正しいものは全部のこされた。少数の指導者の意見が数千人の賛成を得たこと、これからみても、それは理にかなった、実際に役立つ、実施可能なものであることがわかる。こうして、われわれは確信を得た。つぎには、討議をつうじて五千九百ヵ条あまりの意見(質疑は含まない)をあつめることができた。これらの意見は三つの部分にわけるれる。そのうち、一部は正しくないものである。もう一部はひじょうに正しくないというわけではないが、不適当であり、採用しないほうがよいものである。採用もしないのに、なぜあつめたのか。こうした意見をあつめて、なにか利点があるのか。利点はある。八千余人の頭のなかには、憲法についてこうした考え方のあることがわかり、比較することができるのである。第三の部分は採用した意見である。これは言うまでもなく、ひじょうによい意見、ひじょうに必要な意見である。憲法草案の初稿は基本的に正しいとはいえ、もしもこれらの意見がなければ、やはり不完全な、欠点のある、周到さを欠くものであった。現在の草案もまだ欠点があろうし、まだ不完全であるかもしれないが、これについては全国人民から意見を求めることにする。だが、いまの時点からみれば、この草案は比較的完全なものだ。それは合理的な意見を探りいれたからである。

この憲法草案が人心を得ているのは、どういうわけだろうか。わたしの見るところ、その理由の一つは、憲法の起草にあたって指導機関の意見と広範な大衆の意見とを結びつける方法をとったことである。この憲法草案は、少数の指導者の意見と八千余人の意見とを結びつけたものだが、公布後はさらに全国人民の討議にかけて、中央の意見と全国人民の意見とを結びつけることにする。これが、指導部と大衆とを結びつけ、指導部と広範な積極分子とを結びつける方法である。これまで、われわれはこの方法をとってきたが、これからもそうしなければならない。重要な立法には、すべて、この方法を採用すべきである。こんど、われわれはこの方法をとったので、比較的よい、比較的完全な憲法草案をつくることができた。

在席のみなさんと広範な積極分子がこの憲法草案を支持するのはなぜだろうか。これをよいものだと考えるのはなぜだろうか。それは主として、一つは経験を総括していること、もう一つは原則性と弾力性とを結びつけていること、というこの二点にある。

第一に、この憲法草案は、歴史的経験、とくにここ五年らいの革命と建設の経験を総括している。それは、プロレタリア階級の指導する、帝国主義反対、封建主義反対、官僚資本主義反対の人民革命の経験を総括し、ここ数年らいの社会改革、経済建設、文化建設、政府活動の経験を総括している。この憲法草案はまた、清朝末期いらいの憲法問題についての経験、つまり清朝末期の『十九ヵ条の信条』〔1〕から、民国元年の『中華民国臨時約法』〔2〕、北洋軍閥政府のいくつかの憲法と憲法草案〔3〕、蒋介石反動政府の『中華民国訓政時期約法』、さらに蒋介石のニセ憲法にいたるまでの経験をも総括している。このなかには、積極的なものもあれば、消極的なものもある。たとえば、民国元年の『中華民国臨時約法』は、当時としては比較的よいものであった。もちろん、不完全な、欠点のある、ブルジョア的なものではあったが、革命的、民主的な性格ももっていた。この約法はきわめて簡単であって、起草のさいも非常にあわただしく、起草から採択までわずか一ヵ月であったとったえられる。そのほかのいくつかの憲法と憲法草案は、総じて反動的なものである。われわれのこの憲法草案は、主としてわが国の革命と建設の経験を総括したものであるが、同時に自国の経験と国際的な経験とを結びつけたものでもある。われわれの憲法は、社会主義の憲法の型にはいるものである。われわれは、自分の経験を主体とし、またソ連と人民民主主義諸国の憲法のよい点をも参考にした。憲法といえば、ブルジョア階級が先につくったものである。イギリスにせよ、フランスにせよ、アメリカにせよ、ブルジョア階級にはみな革命の時期があり、憲法はかれるがその当時につくりはじめたものである。かれらの憲法には史上に占める位置がないなどと言って、ブルジョア民主主義をあたまから否定するわけにはいかない。しかし、現在のブルジョア階級の憲法はまったくいいところがなく、悪いものであって、わけても帝国主義諸国の憲法は多数の人をあざむき、抑圧するためのものである。われわれの憲法は、ブルジョア型のものとは異なり、新しい社会主義の型のものである。われわれの憲法は、かれらの革命期の憲法にくらべてもはるかに進歩的である。われわれは、かれらにまさっている。

第二に、われわれの憲法草案は、原則性と弾力性とを結びつけている。原則というのは基本的には二つで、民主主義の原則と社会主義の原則である。われわれの民主主義は、ブルジョア民主主義ではなく、人民民主主義である。つまり、プロレタリア階級の指導する、労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁である。人民民主主義の原則はわれわれの憲法ぜんたいをつらぬいている。もう一つは社会主義の原則である。現在、わが国にはすでに社会主義が生まれている。憲法には、かならず社会主義的改造をなしとげ、国の社会主義的工業化を実現しなければならない、と規定されている。これは原則性である。だが、社会主義の原則を実行するとは、全国的な範囲で、ある朝なにもかも一挙に社会主義を実行することなのだろうか。これは、形式的にはたいへん革命的だが、弾力性に欠けているので、うまくいくものではなく、反対にあい、失敗する。だから、いますぐにやれないことは、逐次実行していくのを許すべきである。たとえば国家資本主義だが、これは逐次実行していくものである。国家資本主義には、公私合営という一つの形態しかないのではなくて、各種の形態がある。一つは「逐次」であり、一つは「各種」である。これが、各種の形態の国家資本主義を逐次実行して、社会主義的全人民所有制に到達するということである。社会主義的全人民所有制は原則である。この原則に到達するには、弾力性との結びつきがなくてはならない。弾力性は国家資本主義である。しかも、その形態は一つではなくて「各種」なのであり、その実現も一日ではなくて「逐次」なされるのである。これで、弾力性をもつことになる。いま実行可能なものは書きいれ、実行不可能なものは書きいれない。たとえば、公民の権利の物的裏付けは、いずれ生産の発展にともなって、いまより拡大されることはまちがいない。だが、いまのところはやはり、「逐次拡大する」と書いておく。これも弾力性である。また、統一戦線であるが、これは共同綱領に書いてあるし、こんどの憲法草案の前文にも書いてある。「各民主階級、各民主政党、各人民団体の広範な人民民主統一戦線」というものが必要である。それによって、各階層を安定させ、民族ブルジョア階級と各民主政党を安定させ、農民と都市の小ブルジョア階級を安定させることができる。このほかに少数民族の問題もあるが、それには共通性もあれば、特殊性もある。共通のものには共通の条文を適用し、特殊のものには特殊の条文を適用する。少数民族はみな政治、経済、文化の面でそれぞれの特徴をもっている。少数民族の経済的特徴はなにか。たとえば第五条で、中華人民共和国の生産手段所有制には現在四種類のものがあるとのべているが、実のところ、われわれの少数民族地区では、いままだ別の所有制がおこなわれている。いま、原始共産制はまだあるだろうか。一部の少数民族のあいだには、おそらくあるだろう。わが国にはまだ奴隷主の所有制もあれば、封建領主の所有制もある。いまからみれば、奴隷制度、封建制度、資本主義制度はどれもよくないが、その実、これらの制度はみな歴史のうえでは原始共産制よりも進歩的であった。これらの制度は、はじめ進歩的であったが、のちにだめになり、このため、他の制度にとって代わられたのである。憲法草案第七十条には、少数民族地区は、「その地方の民族の政治、経済および文化の特徴にしたがって、自治条例と単行条例を制定することができる」と規定されている。これらはすべて、原則性と弾力性とを結びつけたものである。

この憲法草案がみなから支持され、よいものだと言われるのには、二つ理由がある。一つは経験を正しく適切に総括していること、もう一つは原則性と弾力性とを正しく適切に結びつけていることである。そうでなければ、みなが賛成するはずはないし、よいと言うはずもないと思う。

この憲法草案は、完全に施行できるものであり、施行しなければならないものである。もちろん、いまはまだ草案にすぎないが、数ヵ月後、全国人民代表大会で採択されれば、正式な憲法となる。われわれはいまから施行の準備にとりかからなくてはならない。採択後は、全国人民の一人びとりが遵守しなければならないが、とくに国家機関の公職要員が率先して遵守しなければならず、まず第一に在席のみなさんが遵守しなければならない。遵守しなければ憲法違反である。

われわれの憲法草案が公布されたあかつきには、全国人民の一致した支持をうけ、全国人民の積極性を高めることになろう。団体には規約がなければならず、国家にも規約がなければならない。憲法とは全般的な規約であり、根本法である。憲法というこうした根本法の形で、人民民主主義と社会主義の原則を条文化し、これによって、全国人民にはっきりした軌道をもたせ、全国人民にはっきりした、明確な、正しい道があると惑じさせるなら、全国人民の積極性を高めることができる。

この憲法草案が公布されたあと、国際的な反響をよぶだろうか。民主陣営でも、資本主義諸国でも、反響をよぶだろう。民主陣営では、われわれにはっきりした、明確な、正しい道があるのをみて、喜ぶだろう。中国人が喜べば、かれらも喜ぶのである。資本主義諸国では、抑圧と搾取をうけている人民がこれをみれば、やはり喜ぶだろう。もちろん喜ばない者もおり、帝国主義や蒋介石が喜ぶはずはない。蒋介石が喜ぶだろうか。かれが喜ばないであろうことは、かれの意見を求めるまでもないと思う。蒋介石については、われわれがよく知っている。かれは断じて賛成するはずがない。アイゼンハワー大統領も喜ばず、やはり、この憲法はよくないと言うにちがいない。かれらはわれわれのこの憲法のことを、はっきりした、明確なものではあるが、きわめて悪い道であり、誤った道であると言い、なにが社会主義、人民民主主義だ、誤りを犯したのだと言うだろう。かれらは弾力性にも賛成しない。かれらがもっとも望んでいるのは、われわれがある朝とつぜん社会主義に切りかえることだ。それで天下が大いに乱れれば、かれらは喜ぶだろう。中国が統一戦線をつくることにもかれらは賛成せず、われわれが「なにもかも一色に塗りつぶす」のを望んでいる。われわれの憲法は民族的特色をもっているが、国際性をもおびており、民族的現象であるとともに、国際的現象の一種でもある。われわれと同じように帝国主義、封建主義の抑圧をうけている国はひじょうに多く、その人口は世界で多数を占めている。われわれが革命的な憲法、人民民主主義の憲法をもち、はっきりした、明確な、正しい道をもつことは、これら諸国の人民にとっても助けとなるであろう。

われわれの奮闘の総目標は、偉大な社会主義国を建設することである。われわれは六億の人口をもつ大国であるが、社会主義的工業化を実現し、農業の社会主義化、機械化を実現し、偉大な社会主義国を建設するには、いったい、どのくらいの年月を要するだろうか。いま断定的な言い方はしないが、およそ三回にわたる五ヵ年計画、つまり十五年前後で、一応の土台をつくることができるだろう。そのときになれば、ひじょうに偉大だと言えるだろうか。そうとは限らない。わたしの見るところ、偉大な社会主義国をきずきあげるには、およそ五十年、つまり十回にわたる五ヵ年計画があればまずまずで、なんとか格好がつくようになり、いまとは大いにちがってくるだろう。いま、われわれになにがつくれるのか。机や椅子がつくれるし、茶碗や土瓶がつくれる、米や麦もつくれる、それに粉をひき、紙をつくることもできる、だが、自動車、航空機、戦車、トラクターは一台もつくることができない。あまりホラを吹いてはいけないし、鼻を高くしてもいけない。もちろん、一台つくれたらちょっと鼻を高くし、十台つくれたらもっと鼻を高くし、台数の増加につれてますます鼻を高くしてもよい、などと言っているのではない。それではいけない。たとえ五十年後になんとか格好がつくようになっても、いまと同じように謙虚でなければならない。そのときになって、おごり高ぶり、他人を見くだすようなことがあるなら、それはよくない。百年たっても、やはりおごり高ぶってはならない。永遠に、鼻を高くするようなことがあってはならない。

われわれのこの憲法は、社会主義の型の憲法であるが、まだ完全な社会主義の憲法ではなく、過渡期の憲法である。われわれは、現在、全国人民と団結しなければならず、団結できるし、団結すべきでもあるすべての勢力と団結して、偉大な社会主義国を建設するために奮闘しなければならない。この憲法は、こうした目的のために書かれたものである。

おしまいに、一つ説明しておきたい問題がある。憲法草案からごく少数の条文が削られたのは一部の人がひじょうに謙虚なためである、と言う人がいる。このように解釈すべきではない。これは、謙虚だからではなくて、あのように書くのが適当でなく、合理的でなく、科学的でないからである。わが国のような人民民主主義国では、あのような不適当な条文を設けるべきではない。もともと、書きいれるべきなのに、謙虚だから書きいれなかった、というものではない。科学には、謙虚であるかどうかというような問題は存在しない。憲法をつくるのは、科学をすることである。われわれは、科学以外のなにものをも信じてはいけない。つまり、迷信を信じてはいけない。中国人でも外国人でも、また死んだ人でも生きている人でも、正しいものは正しく、正しくないものは正しくないのであって、そうでなければ迷信である。迷信はうち破られなければならない。古代であると現代であるとをとわず、正しいものはこれを信じ、正しくないものはこれを信ぜず、信じないだけでなく、これを批判しなければならない。それでこそ科学的な態度である。

注

〔1〕 清朝政府が一九一一年十一月に発布した『十九ヵ条の重要信条』をさす。

〔2〕 『中華民国臨時約法』は、辛亥革命のあと、孫中山が中華民国臨時大統領の職にあったときに公布したものである。

〔3〕 袁世凱政府のつくった一九一二年の天壇憲法草案と一九一四年の約法、曹[金+昆]政府のつくった一九二三年の憲法、段祺瑞執政府のつくった一九二五年の憲法草案をさす。

著者
毛沢東
原著
一九五四年六月十四日(1954年)
底本
『毛沢東選集』第五巻、外文出版社(北京)、1977年。電子化テキスト: http://maoist.web.fc2.com/mao/maosen/5/maosen-5-text.lzh
掲載根拠
保護期間中(未公開)
備考
著者没年 1976。中国は死後50年(2027-01-01 満了)、日本は死後70年(2047-01-01 満了)。外文出版社の日本語訳は法人著作として別に保護される

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