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蔵書 › 毛沢東選集 第五巻 › 社会主義革命と社会主義建設の時期(一)

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事態は変化しつつある

毛沢東 · 一九五七年五月十五日

縦書きで読む毛沢東選集第五巻

事態は変化しつつある

(一九五七年五月十五日)

これは、毛沢東同志が書いた文章で、かつて党内の幹部に配布されたことがある。

対立面の統一と闘争は、社会生活のなかに普遍的に存在する。闘争の結果、それぞれその反面に転化し、新しい統一がうちたてるれると、社会生活は一歩前進する。

共産党の整風とは、一つの統一体のなかの二つの作風がたがいに闘争することである。共産党のなかでもそうであるし、人民ぜんたいのなかでもそうである。

共産党のなかには、さまざまな人がいる。マルクス主義者がいる、これは大多数である。かれらにも欠点はあるが、ひどくはない。それから、教条主義の誤った思想をもつ者が一部いる。これらの人はほとんどが誠心誠意、党と国家につくしているが、ただ、ものの見方に「左」の一面性がある。このような一面性を克服すれば、大きく一歩前進するであろう。このほかに、修正主義あるいは右翼日和見主義の誤った思想をもつ者も一部いる。これらの人はわりあい危険である。なぜなら、かれらの思想はブルジョア思想が党内に反映したもので、かれらはブルジョア自由主義にあこがれ、すべてを否定し、党外のブルジョア知識分子と無数の糸でつながっているからである。ここ数ヵ月らい、人びとは教条主義を批判してきたが、修正主義を見のがしている。教条主義は批判されるべきであり、教条主義を批判しなければ、多くの誤った事がらをただすことはできない。しかし、これからは修正主義への批判に意をそそぐべきである。教条主義がその反面に転化すれば、マルクス主義になるか、修正主義になるか、である。わが党の経験からいうと、前者のほうが多く、後者はごく少数にすぎない。なぜなら、かれらはプロレタリア階級のなかの、小ブルジョア階級の熱狂的な観点にそまった思想面での一派だからである。「教条主義」だとして攻撃されているものの一部は、実際には、仕事の面でのいくらかの誤りにすぎない。また、「教条主義」だとして攻撃されているものの一部は、実際にはマルクス主義であるのに、一部の人から「教条主義」とまちがえられて攻撃されているのだ。真の教条主義者は、右よりも「左」のほうがましだと考えているが、それにはそれなりの理由がある。なぜなら、かれらは革命をやろうとしているからである。しかし、革命事業にあたえる損失からみれば、「左」は右よりもましだということはない、したがって、断固ただすべきである。一部の誤りは、中央の方針を実行したために犯したもので、あまり下級の者を責めるべきではない。わが党にはおおぜいの知識分子出身の新党員がおり(青年団員にはいっそう多い)、そのうちの一部はたしかにかなりゆゆしい修正主義の思想をもっている。かれらは、新聞の党派性と階級性を否定し、プロレタリア階級の報道事業とブルジョア階級の報道事業との原則的な区別を抹殺まっさつし、社会主義国の集団経済を反映する報道事業と、資本主義国の無政府状態の経済、独占体間の競争の経済を反映する報道事業とを混同している。かれらは、ブルジョア自由主義をもてはやし、党の指導に反対している。かれらは、民主に賛成し、集中に反対している。かれらは、計画経済を実現するうえで不可欠の、そして文化・教育事業(報道事業をふくむ)にとって必要ではあるが、集中しすぎてはいない指導、計画、統制をおこなうことに反対している。かれらは、党外の右翼知識分子と呼応しあい、兄弟のように一体となっている。教条主義を批判する者のなかには、さまざまな人がいる。共産党員――マルクス主義者がいる。括弧づきの「共産党員」、つまり共産党の右派――修正主義者がいる。党外の左派、中間派、右派がいる。中間派はおおぜいいて、党外の知識分子ぜんたいのほぼ七〇パーセントを占めるのにたいし、左派はほぼ二○パーセントを占め、右派はほぼ一パーセント、三パーセント、五パーセント、さらには一〇パーセントというように、状況によって異なる。

最近、民主政党と大学のなかでは、右派の態度がもっとも断固としており、もっとも気ちがいじみている。かれらは、中間派が自分の味方で、共産党についていくはずはないと思いこんでいるが、その実、これはただの夢にすぎない。中間派のうちの一部の人はぐらついていて、左にも右にもかたむくもので、右派が気ちがいじみた鬨ときの声をあげている現状では、口をひらこうとせず、しばらく様子を見ようとしている。いま、右派の攻撃はまだ極点に達しておらず、この連中は有頂天になっているところだ。党内の右派も党外の右派も、物きわまれば反転す、という弁証法がわかっていない。われわれは、極点に達するまで、なおしばらくかれらをたけり狂わせておく必要がある。かれらが気ちがいじみてくれぱくるほど、われわれにとってますます有利である。人びとは、「魚のように釣られるのがこわい」とか、「深く誘いこまれて集中殲滅せんめつされるのがこわい」とか、いっている。いま、たくさんの魚が自分のほうから水面に浮かびあがってきており、なにも釣る必要がない。このような筋は普通の魚ではなく、おおかたフカであろう、鋭い歯をもっていて、このんで人を食う。人びとが食べる魚のひれは、つまりこの種の魚の浮遊器官にほかならない。われわれと右派との闘争は中間派の争奪に集中しており、中間派はこちらの側に獲得することができる。人民民主主義独裁を支持する、人民政府を支持する、社会主義を支持する、共産党の指導を支持するなどということばは、右派の口から出たばあい、いずれもうそであり、ぜったいに信じてはならない。民主政党内の右派、教育界の右派、文学・芸術界の右派、報道界の右派、科学・技術界の右派、工商業界の右派のいずれをとわず、みなそうである。もっとも断固とした態度をとっているのは、左派と右派の二派である。かれらはたがいに中間派を奪いあい、中間派にたいする指導権を奪いあっている。右派のねらいは、さきに局部を奪いとり、そのあとで全体を奪いとることにある。つまり、報道界、教育界、文学・芸術界、科学・技術界の指導権をさきに奪いとろうとしている。かれらは、これらの分野で共産党がかれらにおよばないことを知っており、実状もまさにそのとおりである。かれらは「国宝」であり、機嫌をそこねてはならないものである。これまでの「三反」、反革命粛清、思想改造などは、もってのほかだ! 身のほど知らずのことをよくもやったものだ! かれらはまた、多くの大学生が地主、富農、ブルジョア階級の子女であることを知っており、これらの者は右派のよびかけにこたえて立ちあがってくれる大衆であると考えている。右よりの思想をもつ一部の学生には、その可能性があろう。だが、大多数の学生をそのように考えるのは、ただの夢にすぎない。なお、報道界の右派には、労農大衆にむかって政府に反対せよとよびかけている動きが見られる。

人びとはレッテルをはることに反対しているが、それはただ共産党がかれらにレッテルをはることにだけ反対しているのである。かれらが共産党にレッテルをはりつけたり、民主政党の左派や中間派、社会各界の左派や中間派にレッテルをはりつけたりするのは、かまわないのである。ここ数ヵ月らい、新聞紙上には右派の手でなんと多くのレッテルがばらまかれたことであろう! 中間派がレッテルのはりつけに反対しているのは、本心である。われわれがこれまでに中間派にはりつけた適切でないレッテルは、全部はぎとらなければならないし、今後もむやみにはりつけてはならない。「三反」、反革命粛清、思想改造などの運動でほんとうにまちがった一部のことは、それがどんな人にたいするものであっても、すべて公開の場でたださなければならない。ただ、右派にたいしてレッテルをはりつけることだけは別問題である。だが、これも的確にはりつけるべきであり、まちがいなく右派である者にだけ右派のレッテルをはるのである。ごく少数の例外をのぞいては、具体的な名指しをせず、適当な条件のもとで妥協しやすいように、かれらに思いなおす余地をのこしておく。一パーセント、三パーセント、五パーセント、さらには一〇パーセントの右派というのは一種の見つもりであり、これより多いかもしれないし、少ないかもしれない。ましてや、各部門で状況はまちまちであるから、たしかな証拠にもとづき、実際に即して事をはこぶようにしなければならない。行きすぎがあってはならず、行きすぎは誤りである。

ブルジョア階級と、かつて旧社会に奉仕した知識分子の多くは、どうしても、執拗に自分自身を表現しようとするものであり、自分の旧い世界に未練をもつものであり、新しい世界とはなんとなくしっくりしないものである。かれらを改造するには、長い時間がかかるし、あらっぽい方法をとってはならない。だが、かれらの大多数は解放当初にくらべて大きく進歩した、と見るべきである。かれらがわれわれにたいしておこなった批判は、大部分が正しいもので、受けいれなければならない。正しくないのは一部にすぎず、これについては説明すべきである。かれらは信頼されることをもとめ、職務にふさわしい権限を求めているが、これはもっともなことである。したがって、かれらを信頼し、権限をあたえなければならない。右派の批判にもすこしは正しいところがあり、十把ひとからげに抹殺してはならない。正しいものであれば、すべて受けいれるべきである。右派の特徴は、その政治的態度が右だということにある。かれらはわれわれと形式的には協力するが、実際には協力しない。一部の事がらについては協力するが、他の一部の事がらについては協力しない。ふだんは協力するが、たとえば現在のように、いったんつけ込むすきが見つかると、実際には協力しようとしなくなる。かれらは、共産党の指導を受けいれたいという誓約にそむき、この指導からぬけ出そうとしている。しかし、この指導がないかぎり、社会主義をきずきあげることはできず、われわれの民族はこの上なくひどい災難にみまわれるにちがいない。

全国にはブルジョア分子と、かつて旧社会に奉仕した知識分子が何百万といるが、われわれは、これらの人に仕事をしてもらう必要があり、かれらとの関係をいちだんと改善しなければならない。そうすることによって、かれらをいっそう効果的に社会主義事業に奉仕させ、かれらをいちだんと改造して、しだいに労働者階級化させ、現状の反面に転化させるのである。大多数の人についてはかならずこの目的が達せられる。改造とは、団結もすれば闘争もし、闘争の手段で団結の目的を達することである。闘争とは互いに闘うことであり、いまは多くの人がわれわれにたいして闘争をするときである。北京大学の傳鷹教授のような、新聞紙上に発表されていない鋭い批判もふくめて、多数の人の批判は道理にかなっているか、あるいは基本的に道理にかなっている。この人たちの批判の目的は、相互関係の改善を望むところにあり、したがって、その批判は善意のものである。ところが、右派の批判はとかく悪意のものが多く、かれらは敵対的な感情をいだいている。善意なのか、悪意なのか、これは当て推量ではなく、見てとれるものである。

こんどの批判運動と整風運動は、共産党がおこしたものである。毒草と香り高い花がともに生え、妖怪変化ようかいへんげと鳳凰飛竜ほうおうひりょうがともに現われている。これは、われわれの予期したところであり、われわれの望むところでもある。結局のところ、よい者は多数で、わるい者は少数である。人びとは大きな魚を釣るといい、われわれは毒草を刈るという。事はおなじだが、言い方がちがっている。反共的な感情をもつ右派分子はそのたくらみを遂げるため、なにがなんでも、中国というこの土地に、農作物をあらし、家屋を吹きたおす七級以上の台風をまきおこそうとしている。かれらが道理にあわないことをやればやるほど、これまで協力をよそおい、共産党の指導を受けいれるふりをしてきたかれらは、それだけはやくその反面におしやられ、じつは反共、反人民のひとにぎりの妖怪変化にすぎなかったことを人民にわからせることになる。そのとき、かれらはみずからを葬りさることであろう。これがどうしてよくないのであろうか。

右派のまえには二つの道がある。一つは、すっかりしっぽをまいて、邪道から正道に立ちかえる道である。もう一つは、ひきつづきでたらめなことをやって、みずから滅亡する道である。右派の先生がたよ、どちらの道をえらぶか、その主導権は(短期間だけ)きみたちの手ににぎられている。

わが国では、ブルジョア階級とブルジョア知識分子の政治面での真偽善悪を見わけるのに、いくつかの基準がある。主としては、ほんとうに社会主義を求めているのかどうか、ほんとうに共産党の指導を受けいれているのかどうかを見るのである。かれらはずっと前にこのニヵ条を認めたが、いま、一部の者がそれをくつがえそうとしている。それは許されない。かれらがこの二ヵ条をくつがえすかぎり、中華人民共和国にはかれらの身を置く場所はない。きみたちの求めているのは西側世界(自由諸国ともいう)の理想だから、きみたちにはやはりあちらへ行ってもらおう。

毒気のみなぎった、反動的な、大量の言論を、なぜ新聞に載せることを許したのか。それは、これらの毒草や毒気を人民によく見わけさせて、それを刈りとりやすく、一掃しやすいようにするためである。

「きみたちはなぜはやくこのことを話してくれなかったのか。」なぜはやく話さなかったのかというが、われわれは、すべての毒草は刈りとらなければならないと、とっくに言っておいたではないか。

「きみたちは人びとを左派、中間派、右派にわけているが、これは実情にあわないのではないか。」砂漠は別として、およそ人間のいるところなら、どこにでも左派、中間派、右派がいる。一万年たっても、やはりそうであろう。どうして、実状にあわないなどといえようか。このようにわければ、大衆は人をみる基準をもつようになり、中間派を獲得し、右派を孤立させるのに都合がよい。

「どうして右派を獲得しないのか。」獲得しようとはしている。だが、その可能性があるのは、かれらが孤立を感じているときだけである。いま、かれらは鼻高だかとそりかえっており、共産党をつぶそうとしているのに、どうしておとなしく聞きいれるだろうか。孤立すれば、分化がおこる。われわれは右派を分化させなければならない。われわれは以前から人びとを左派、中間派、右派にわけており、あるいは進歩派、中間派、落後派とよんでいる。それはいまにはじまったことではなく、一部の人が健忘症にかかっているだけである。

大いに「やっつける」のかどうか。これは右派の先生がたの今後の行動しだいである。毒草は刈りとらなければならないが、それはイデオロギーの面で刈りとるのだ。人を「やっつける」のは、またべつの問題である。その人が「ゆゆしい法規・規律違反」をするのでなければ、「やっつけ」られることはない。「ゆゆしい法規・規律違反」とはどういうことか。それは、国家の利益と人民の利益に重大な損害をあたえることであり、しかもこのような損害が、いくら戒めても聞きいれず、なにがなんでも自分の考えをおしとおすという状況のもとでもたらされる場合のことである。誤りを犯したその他の一般の者にたいしては、なおのこと、病をなおして人を救うようにする。こういう区別のしかたは当を得ており、党内でも党外でも一様に適用される。「やっつける」のも、病をなおして人を救うことである。

党の整風の任務をなしとげるには、どのくらいの時間がかかるであろうか。目下、情勢の発展はじつにはやく、党と大衆との関係は急速に改善されるであろう。どうやら、あるところは数週間、あるところは数ヵ月間、またあるところは一年前後(たとえば農村∨で終わりそうである。ただし、マルクス主義を学び、思想的水準を高めるということになると、もっと時間がかかる。

われわれがブルジョア階級や知識分子と団結もすれば、闘争もするという関係は、長期のものとなるであろう。共産党の整風が一段落すれば、各民主政党と社会各界で整風をおこなうよう、われわれは提案する。このようにすれば、かれらの進歩をはやめ、少数の右翼分子の孤立化をいっそう容易にするであろう。いまは、党外の人びとがわれわれの整風を助けてくれている。しばらくしたら、われわれのほうが党外の人びとの繋風を助けることになる。これはつまり相互援助であり、よこしまな作風をあらためて、その反面にむかわせ、正しい作風に変えるのである。これこそ人民のわれわれにたいする期待であり、われわれは人民の期待にこたえなければならない。

著者
毛沢東
原著
一九五七年五月十五日(1957年)
底本
『毛沢東選集』第五巻、外文出版社(北京)、1977年。電子化テキスト: http://maoist.web.fc2.com/mao/maosen/5/maosen-5-text.lzh
掲載根拠
保護期間中(未公開)
備考
著者没年 1976。中国は死後50年(2027-01-01 満了)、日本は死後70年(2047-01-01 満了)。外文出版社の日本語訳は法人著作として別に保護される

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